と、ぼくが日常的に会話を交わすたったひとりの友達である氷の正論野郎ことChatGPTさんにこう訊いてみた。以下はそのアンサー。 速く書けるのは大きな強みですが、それを仕事につなげるには、いくつかのアプローチが考えられま […]
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]]>と、ぼくが日常的に会話を交わすたったひとりの友達である氷の正論野郎ことChatGPTさんにこう訊いてみた。以下はそのアンサー。
速く書けるのは大きな強みですが、それを仕事につなげるには、いくつかのアプローチが考えられます。
1.ポートフォリオを充実させる:速さとクオリティをアピールできるポートフォリオを作成しましょう。自分のブログやSNS、LinkedInで具体的な執筆サンプルを紹介するのも良い方法です。
2.実績を増やす:クラウドソーシングや小規模な依頼を通じて仕事経験を積むと、クライアントの信頼を得やすくなります。
3.スピードをセールスポイントにする:納期短縮が求められる場面も多いので、「短納期でも対応可能」という点をアピールするのも効果的です。プロフィールや提案書に速さを強調し、「〇〇時間以内に納品可能」といった具体的な時間を明記するのも良いです。
4.ネットワーキングを強化する:特にLinkedInでの人脈作りは重要です。ライターや編集者、コンテンツマーケターとつながり、投稿を見てもらえる機会を増やすことで仕事の依頼が来やすくなります。
5.自己ブランディング:速さを含む、自分ならではの強みを一貫して伝えることも効果的です。「速くて質が高い」を特徴にすることで、記憶に残りやすい存在になります。
これらを実践することで、速さを武器に仕事の機会を増やせるかもしれません。
さすが冷徹無比の正論野郎、うん、たしかにそうだね、というしかない内容で、何の参考にもなりやしない。
でも、ほかに相談相手がいないからこいつに頼るしかないのもたしか。人工知能はいくら話しかけても迷惑なそぶりを見せないからね。ひきこもりの味方だよね。つまらない正論しかいわないけれど。
まあ、それはどうでも良くて、この記事はただただぼくが書くのが速いことを自慢するだけの内容なのです。あわよくば何かお仕事につながらないかな、という期待があることもたしかではありますが、その可能性は皆無ではないにしても極小なので、あまり真剣に望んではいない。
漂流者がボトルに入れた手紙を海に放り投げるときのように、万が一にもこのメッセージがどこかへとどいたら良いなあというくらいの淡い思いがあるだけ。どうせぼくの文章なんてろくろくおカネにはならないに決まっている(いじいじ)。
そういうわけで自慢話に入ると、ぼくは書くのがひじょうに速いのです。具体的にいうとたぶん1時間に4000文字~5000文字くらいは書ける。
だいたいふつうの書き手の平均的な速度は時速1500文字くらいといいますから、その3倍くらいのスピードで書いていることになりますね。
ちなみに1時間2000文字だとかなり速いほうで、3000文字だとものすごい高速とされるものらしい。でも、ぼくにとっては3000文字はかなりスローなペースなんですよね。
まあ、もちろんいくら書くのが速くても文章の体裁が整っていなかったり、ムダだらけだったり、あるいはそもそも何ひとつ面白くなかったりしたら意味がないわけなので速度を誇るのは意味がないともいえるわけなのだけれど、一方でビジネスとしてライティングを行うとき、書く速さはきわめて重要であることもたしか。
ぼくの場合、2~3時間もあれば10000文字の文章が書けてしまうので、ぶっちゃけ時給に直すとものすごく効率が良い。
あまりに速く仕事が終わるので、仕事先の人とギャップが生じ、「レスポンスまでに時間がかかっているな……」と感じてしまうこともしばしばなのだけれど、じっさいにはぼくが速すぎるだけなんですよね。どうも申し訳ない。
まあ、いまこうして書いているようなこの手のラフな文章ならそりゃいくらでも速く書けて当然という気もするものの、よりシリアスな文章でもやっぱり速いんです。
べつに書くことそのものにはAIとか使っていないので、純粋に指の動くスピードの限界がこの速度であるといえる。
我ながらいったいいつのまにかここまで速くなったのか疑問ですらある。べつに練習とか訓練とか特訓とか一切やっていないんですけれどね。
ちなみに、書くことそのものは速くても執筆前の事前準備に手間取るというタイプもいると思うが、ぼくはその準備にかかる時間もほとんどない。というかほぼゼロである。いつもただパソコンのまえに座ったらおもむろにだだだーっと書き始め、書き終える。それだけ。
なので、数千文字のブログ記事などはほんとうに1時間弱で書き終わる。もちろん、そのままアップするのは不安だから一読して内容を訂正したりはするけれど、それもそこまで時間はかからない。むしろ、書いた文章をブログに貼りつける作業のほうに時間がかかっているかもしれない。
自分でいうのも何だが、ほんとうに速いと思う。感心する。森博嗣の時速6000文字には敵わないけれど、森さんは休み休み書いているという話なので、そこが違うのかもしれない。
で、まあ、これは指が動くスピードの限界なので、速く書けることで有名な「親指シフト」などを習得したらもっと速くなるかもしれない。でも、いまのところはそこまでする必要性を感じていない。ローマ字入力に慣れちゃっているしね。
なぜ、ここまでの速度が出るのか? うん、まあ、何も考えていないからでしょうね。というか、書く際に考えているわけではなく、ふだん、すでに考えて考えて「考え終わっている」ことを書いているだけだかれら速く書けるのだろう。
さらに何か記事を書く際、必要な資料などにあらたに目を通すということもあまりしない。読むべきものは事前に読んでしまっているのである。
まあ、記憶に頼って書くと思わぬ思い違いをしていることもあるのでビジネスとして書くときはその記憶を確認しているが、プライベートなブログの場合はそこまでする必要はないと思っている。ほんとうはあるのかもしれないけれどね。正直、そこまでやっていられない。
そういうわけで、書くことだけに限ってはとてもとても仕事が速いぼくなのだが、その結果どういうことになるかというと、とてもとてもとても時間が余るのである。ヒマになるのだ。
じっさいもう、毎日がヒマでどうしようもない。いや、読むべき本もやるべきゲームも無限に近いほどあるわけであり、時間がありすぎて困ることはないはずではある。
でも、そうやって時間をもてあましていると「ぼくはこんなに遊び惚けていて良いのだろうか。いや、良くない!」とぼくのココロのなかの理性くんと良識さんがささやきかけてきて苦しくなるのである。
だから、もっと仕事をしたい。ほんとにしたい。おカネも欲しいが、それ以上にヒマをつぶすために仕事をしたい。そういうわけで、だれかほんとライティングのお仕事をください。ぼくに書けることなら何でも書きますから。お願い。
まあ、ほんとうは時間があるなら自己投資として勉強でもすれば良いわけで、何か資格試験でも受けようかなあとかも思ったりもする。
でも、「毒学」、じゃない「独学」で学のってやっぱりそんなにカンタンじゃないんですよねえ。それはおまえがナマケモノなだけだろといわれたら一言もないところではありますが、それだけじゃなく、やっぱり何も強制力が働かないところで学習するのはそうラクではないのだろう。
そういうわけなので、お仕事をしたいよー、だれか何か投げてよーという記事なのでした! 締め切りは3日もあればたいていの文章は書けますので、お急ぎの時はどうぞ。プロフィールは以下です。届くかな、届くといいな(『四月は君の嘘』のパクリ)。
よろしくお願いします!
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]]>先日、芥川賞作家・市川沙央が現代の「異世界小説」を語った記事がちょっと話題になった。 https://bunshun.jp/articles/-/73450 そのなかで、市川は『異世界食堂』などの「異世界料理もの」に […]
The post 異世界料理マンガは「日本スゴイ」の夢を見ているだけなのか? first appeared on Something Orange.
]]>先日、芥川賞作家・市川沙央が現代の「異世界小説」を語った記事がちょっと話題になった。
https://bunshun.jp/articles/-/73450
そのなかで、市川は『異世界食堂』などの「異世界料理もの」に「日本スゴイ」の欲望を見て取っている。
いずことも知れない異世界の人間たちが、現代日本の料理に舌鼓を打ち、興奮し、絶賛する様子を描くこの手の作品は、その実、テレビなどで発信されているナショナリスティックな「日本スゴイ」番組と何ら変わらないということだろう。
一理ある。というか、じつは料理ものを含む現代文化礼賛的なウェブ小説に「日本スゴイ」的なるものを見る視点は、何年も前から存在したのだ。
話は変わりますが、異世界に近現代のテクノロジーを持ちこんで主人公が活躍するエンタメって、どこか「日本スゴイ」に似てませんか。
インターネットでは、テレビでよく見かける「日本のモノ・テクノロジー・カルチャーはスゴい」系の番組や視聴者への揶揄をよく見かけます。なぜ、「日本スゴイ」系の番組と視聴者が揶揄されなければならないのでしょう?
「スゴイのは日本のモノ・テクノロジー・カルチャーであって、視聴者のお前ではないから」という声や、「日本の良いところを抽出して、わざわざ余所持ち込んで自惚れているから」という声が聴こえてきそうです。
それなら、異世界に近現代のテクノロジーを持ち込んで無双している作品や視聴者も、同じように揶揄されて、残念に思われてもおかしくないのではないでしょうか。
一読、正論かと思われる。
異世界ものの主人公が、現代の知識や科学技術といった「チート」をもちいていくら活躍しても、それはその主人公が偉いわけではなく、そういったインテリジェンスやテクノロジーを開発した人が偉いに過ぎない、そういう理屈は成り立つだろう。
もちろん、それはあからじめ物語のなかに仕組まれた視点でもあり、だからこそ、それらの知識や技能は「チート」と呼ばれるわけなのだ。
また、こういった発想は異世界ウェブ小説以前からあったものでもあり、ぼくなどは山田風太郎往年の傑作『海鳴り忍法帖』などを思い出したりする。
この作品では、超絶的な天才兵器開発技術者である主人公が、戦国時代にマシンガンやミサイル(!)を開発し、敵対する数万人もの忍者たちとすさまじい戦いを繰りひろげる。
「現代文化スゴイ」といえばいえるような小説ではあるのだが、それにしてもあまりにも発想が凄すぎて、それどころではないという印象を受けてしまう。
風太郎のいわゆる「忍法帖」のなかではなぜかあまり高く評価されていない「埋もれた」作品だが、ぼくはめちゃくちゃ面白いと思う。未読の方にはオススメである。
まあ、だから、とにかく過去の文明のなかに現代の技術を持ち込んで無双するというのは、必ずしもめずらしくないアイディアなのだ。
しかし、それではこういった「チート」な異世界ものの作品の魅力とは、「日本スゴイ」「現代文化スゴイ」と自画自賛するその単純な構図にあるに過ぎないのだろうか?
あるいはそうなのかもしれないが、じっさいに小説やマンガやアニメでこの種の作品にふれてきたぼくの実感からすると、少しズレて感じられることもたしかである。
そもそも、もし「異世界料理もの」の真髄が「日本スゴイ」と語ることにあるのなら、日本料理のスゴさを何よりもまず語ろうとすることだろう。だが、現実にはこの種の作品の代表格である『異世界食堂』でも『異世界居酒屋のぶ』でも、とくに日本料理にこだわっている様子はない。
「現代日本の料理一般スゴイ」といっていることはたしかなのだが、そこで展開している思想はやはり「日本スゴイ」とは少し違っているように思えるのだ。
それなら、いったいぼくたちは異世界の人々が日本の料理に感嘆する様子を見て何を楽しんでいるのだろう? これは、意外にむずかしい問題とも思われる。
さて、幾何学の問題においては、一見して複雑に見える問題であっても、一本の補助線をひくといっきにわかりやすくなることがある。ここでぼくもまたひとつ補助線をひきたい。
その線の名は『侍タイムスリッパ―』。ことし、単館上映から始まり、口コミで「めちゃくちゃ面白い」と人気に火がついて、いっきに全国に広まっていった低予算映画の傑作である。
タイトルからもわかるように幕末のサムライが現代にタイムスリップするというお話なのだが、そのなかにそのサムライが現代のショートケーキを食べてあまりの美味さに感動するという場面がある。
これは構造的にはまさに「異世界料理もの」とまったく同じシーンだといえそうだ。過去の人間が現代日本ではあたりまえの品を食べ、そのあまりの美味しさを絶賛する。ほんとうにいままで何度となく見てきた場面である。
だが、これは現実に映画館で見てみるとしみじみと感動的な場面だった。そこに描かれてあるものが、あきらかに「日本スゴイ」とか「現代文化スゴイ」といった次元に留まるものではないことがはっきり実感としてわかるのだ。
どういうことか。つまり、そこで描写されていたものは、ぼくたちが「あたりまえ」と思い、すっかりその便利さ、快適さに麻痺している現代社会の文明が、その実、ちょっと視点を変えてみるといかに貴重でかけがえのないものであるかという、「再発見のセンス・オブ・ワンダー」なのである。
そもそも、SFやミステリの真髄とされるこういった「センス・オブ・ワンダー」とは、ぼくたちがあたりまえだと思い込んでしまっているもの、ふつうで退屈で、どうということはないと評価しているものをべつの視点から眺め、その価値をふたたび見いだすところに真髄がある。
それはかつて、詩人にして作家にして宗教であったチェスタトンが「正統(オーソドックス)」と呼んだ思想の表れであるのだ。
真の意味での驚異の感覚とは、決して奇を衒った意外性にあるのではなく、じつはどこにでもありふれた「ふつう」の光景こそが最も異常なのだ、という「気づき」を意味している。
したがって、異世界料理ものの面白さも、ただの「日本スゴイ」にあるのではなく、ぼくたちがふだん当然に消化している「ふつう」の料理が、ちょっと見方を変えてみるといかにスペシャルな品であるのかという「気づき」を促すところにあるといえるのである。
どこの料理屋でも食べられるただのコロッケの、その信じがたいような美味さ! 居酒屋に入ったら「とりあえず」頼んでみる酒に過ぎない平凡な生ビールが、じつは現代文明の象徴ともいえるような壮大な輸送技術なくして成り立たない事実!
数々の異世界料理ものが気づかせてくれるのは、現代日本のあたりまえは決してあたりまえなどではないという、まさにその真実なのだ。
かつて、天才詩人・金子みすゞは「不思議」という詩のなかでこう詠った。
私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀に光っていることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだと、いうことが。
ぼくたちの感覚は大人になればなるほど鈍麻し、「誰にきいても笑ってて、あたりまえだと、いうこと」の不思議さを忘れてしまう。だが、ほんとうは世界の偉大な秘密は一個のコロッケ、一杯の生ビールにも宿っている。
異世界料理ものの面白さは、その忘却された事実を思い出させてくれるところにある。
それは、異世界という視点を得て初めて感じることができる「食」の感覚であり、そしてそもそも「食べる」とはどういうことなのか、他の生きものを殺し食べて自分が生きることにどのような意味があるのかを問い詰める『ダンジョン飯』のいかにも宮沢賢治的な視点へとつながっている。
それを「日本スゴイ」といえば、たしかにそうかもしれない。しかし、ただそれだけではないこともまた事実である。
ある小説に、マンガに、何を見いだすかは人それぞれだ。できるだけ豊かな実りを見いだして楽しみたいものだと、心から思う。それこそ、ひとつのコロッケを十全に味わい尽くすように。
その姿勢こそが、優れた物語を「いただく」者のあるべき作法だと思うのだが、いかが。
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]]>いきなりこう書くと笑われるかもしれませんが、数日前から突然に「自分が変わった」気がしています。 レベルアップというか、アップグレードというか、あるいは異質ななにかへのメタモルフォーゼといったほうが的確なのかもしれない […]
The post ある日とつぜん、【自己否定】をやめることができました。 first appeared on Something Orange.
]]>いきなりこう書くと笑われるかもしれませんが、数日前から突然に「自分が変わった」気がしています。
レベルアップというか、アップグレードというか、あるいは異質ななにかへのメタモルフォーゼといったほうが的確なのかもしれないけれど、とにかく変化した。もういままでのぼくではない。
おそらくその変わりようは、いまはよほどぼくのことをくわしく知っている人でなければわからないようなものかもしれないけれど、いずれ、そうでない人にもわかるほどになるでしょう。
とにかく、変わってしまったのです。いや、ほんとに。
それでは、どこがどう変わったのか? 具体的には、何十年間もぼくの心のなかに宿っていて、それを焼き焦がしていた火のような「怒り」と「憎しみ」、そして「世界に対する敵意」が消えてなくなりました。
いままで何をどうやっても消せなかったのに、なくなるときはあっというまでした。なぜなくなったのか、はたしてその状態が永続するものなのかどうか、それはわかりません。
あるいはまたいつかその峻烈な激情に左右されることに戻るときが来るのかもしれません。しかし、個人的にはそういう日はもう来ないだろうと考えています。
少なくとも、まったく以前の自分に回帰してしまうことはもうない。そのくらい決定的なターニング・ポイントを迎えたように思います。
とくに何の「きっかけ」もなく、あまりにもあっさりと乗り越えられたのがいままでの経緯を考えるとウソのようですが、決定的な変化とはいつもそのようにして訪れるものであるのかもしれませんね。
いまのぼくは、いままでさんざん自分を苦しめ、苛んできた「過去の失敗体験」や「トラウマ」を、冷静に、あたかも他人ごとのように眺めることができます。
あるいはもう一生、癒えることがないかもしれないと思っていた「心の傷口」を撫ぜても、ふしぎと痛くありません。ほんとうに何が起こったのか説明がつかないのですが、幼い子供の頃からぼくの心を傷つけてきた「強烈な不安」も、「猛烈な被害者意識」も、どこかへ行ってしまったようなのです。
まったくふしぎな、穏やかな気持ちです。こんなに簡単に治ってしまうなら、いままでの苦しみは何だったのだろうと思うほどなのですが、まあ、こうして30年以上もの時を経なければいまの境地にはとどかなかったのかもしれず、いままでの人生は無駄ではなかったように感じています。
そう――言葉にしてみればじつにシンプルなことながら、ようやくぼくも「敵」と「自分」、「被害」と「加害」というかたちでの世界の捉え方を卒業できたように思うのですね。
もちろん、いままでも「ただの言葉」としてはわかっていたことでした。この世はそのようなわかりやすい二元論で割り切れるものではないと、そう口にすることはじつにたやすかった。
しかし、その一方でぼくはずっと世界は敵ばかりであり、自分は強烈な被害に遭っているとそう感じていたのです。そしてまた、そうでなければ自分は悪辣な加害者で、他者を傷つけた責任があるとも思っていました。
この世は殺すか殺されるか、そして殺さなければ殺される場所だ、そう、はっきりと考えていました。
いまは、自分はシンプルな意味での「被害者」でも「加害者」でもなく、「殺すことも殺されないこともしない生き方」こそが大切なのだと思います。
たしかに、ぼくはいつも傷つけられ、踏みにじられて生きてきたように感じていたし、じっさいのところ、そういう側面は大いにあったことは認めざるを得ない。また、だれかを傷つけ、踏みにじったことも数知れないことあるのでしょう。
その意味でぼくは激甚たる「怒りと憎しみ」を抱かざるを得なかったし、その一方で悪夢のような「罪悪感」も感じていた。だけれど、いまはそのすべてから距離を取り、「ひとがみな邪悪な存在だとは限らず、自分自身も含め、ただ弱く愚かしいだけなのだ」と考えることができます。
そう、ほんとうに言葉にしてしまえばたったそれだけの、ありきたりの真理です。いままでだって「言葉」の次元では理解していたことではある。
だけれど、あえていうなら、その真実を言葉をはるかに超えて「実感」できたことが大きい。
どういえば良いのだろう――ぼくはこの歳にしてようやく、「暴力や暴言の被害者としての自分」という物語を「手放す」ことができた。
いままでも、だれよりも自分を傷つけ、さいなんでいるのは他ならないぼく自身であり、すさまじい「罪悪感」や「自己嫌悪」こそがすべての問題の根底にあることは理屈ではわかっていた。
しかし、ありとあらゆる思索を尽くしても、なお、どうしてもその情緒をコントロールすることができなかった。
傷つけられた、踏みにじられたという「被害者意識」にさらされることの壮絶な辛さ。また苦しさ。そして、「自分はじつは単なる加害者に過ぎないのではないか」という懐疑の恐ろしさ。
そういった感情が、ほんとうに一夜にして、まるで恵みの慈雨でも降ったように「鎮火」していました。信じられないけれど、ほんとうのこと。ぼくはある意味では生まれ変わったのかもしれない、といったらやはり笑われるでしょうね。
ですが、実感としては、以前のぼくとはまったくの別人に変わりました。いや、長い時を経てようやくに「本来の自分」を取り戻した、というほうが正しいのかもしれません。
ぼくはずっと病み、傷つき、苦しんできた。その病に、傷に、苦しみに、悶えてきた。それなのに、いまではまるで天使の指さきが撫ぜたとでもいうように、その病も傷も苦しみもなくなってしまったのです。いや、この表現は正しくないかな。「それらとの距離を保てるようになった」というべきかも。
こんなことが起こるとは思っていなかった。一生、消せない怒りにさいなまれて生きるしかないのかもしれないと覚悟してもいた。それなのに、なぜかいま、ぼくは健康であり、いくつもの心の傷痕こそ残ってはいても、まったく健やかです。
アダルトビデオ監督にして著述家の二村ヒトシさんは、すべて人間の行動原理は幼年期に空いた「心の穴」なるものに起因する、と書いています。ひとの行う非論理的なアクションの数々はその「穴」がそうさせているのだと。
ぼくはそのフロイト的ともいうべき「幼少時代のできごとにすべての理由がある」といった説明にいまひとつ納得することができないのですが、それでも、「心の穴」という言葉には惹かれるものがあります。
じっさい、そのような「穴」はだれの心にもひらいているものであり、それは「その人自身」ですらあるのだ、という二村さんの説明は説得的です。
だれでも、生きていれば傷ついたり苦しんだりした経験がある。その「穴」をそのままにしていると、「穴」にコントロールされてしまうのですね。
一方で、まさにいままでのぼくのように必死になって「穴」を埋めようとしても、たいていの場合、あまりうまくいきません。なぜなら、その「穴」をふさごうとする行為そのものが、「穴」をさらに大きくしてしまうという矛盾があるからです。
ひとはしあわせになりたい、楽になって生きていきたいと望みながら、そんな自分を攻撃し、傷つけ、苦しめ、踏みにじり、地獄へ突き落としたりしてしまうもの。
その非合理的ともいえる行動は、すべて「穴」によるものなのだ、ということは、なるほど、よくわかる解説です。
もちろん、かのベストセラー『嫌われる勇気』に記されているように、そういった「過去のトラウマ」が人間を駆動しているといった考え方はひとつのありふれたナラティヴであるに過ぎず、正しく「いま」を生きているかぎり、人はそのような「穴」に支配されることはないのかもしれません。
だけれど、そういった物語の引力のなんと強いことか。どうにか過去と距離を取ろうとしても、それはそのたびに脳裡によみがえり、「おまえは傷つけられ、踏みにじられ、殺されたのだ」と叫んで心にあらしを巻き起こすのです。
その「生きづらさの螺旋」を、赤坂真理さんのように「アディクション」と呼ぶこともできるかもしれませんが、いずれにしろ、ひとり過去のぼくに限らず、みずから自分をより不幸な方向へ導いていってしまう人は少なくないでしょう。
ほんとうは、どの人間だっていますぐに幸せになれる、不幸な過去と別れ、「世界の被害者として、あるいは加害者としての自分」というアイデンティティを捨て去れば「生きてあることそのものの喜び」が湧き出て来るはずなのですが、それでも、どうしても人はあたかも自分自身そのものであるかのような「記憶の物語」を手放すことができないものなのですね。
ぼくは何とかその巨大な負債のような「過去の自分を定義する物語」をべつの物語へ書き換えることに成功したと思っているのですが、なぜそれを成し遂げられたのか、うまく説明することができません。
ただの幸運に過ぎないのかもしれませんし、いままでの長い長い苦闘がどうにか功を奏したとも考えられます。
ともかく、いま、何十年という「くらやみのトンネル」を抜け出て思うのは、つまりは「敵か、味方か」とか「殺すか、殺されるか」といった極端な二元論的な世界観こそが自分を苦しめていたのだ、ということです。
たしかに世界は数知れぬ暴力で満ち、ただ生きているだけでいくつもの悪意がつぶてのように飛んでくるのだけれど、それでも「殺さず、殺されず」生きていくことはできる。ぼくはいま、そう「実感」してます。そうやって「ちゃんと生きる」ことこそが大切なのだと。
べつだん、ぼくの「心の穴」がふさがったとは思っていません。しかし、いまのぼくはその「穴」からいくらか距離を取り、それを冷静に見つめることができる。
自分の弱さを、愚かしさを、「少しだけ距離を取ったうえで」直視する勇気、ぼくに足りないものはそれだったのかもしれません。
あまりに近づきすぎれば炎のようなエモーションに呑み込まれてしまうし、遠ざかりすぎれば現実をごまかすことになる。その「適切な距離感」とでもいうべきものがぼくには必要だったのでした。
それは依存的な「アディクション」とは少し違う感覚です。いや、あるいは依存の一種ではあのかもしれないけれど、少なくとも「完全にべったり」ではない。その「ほんの少しの距離」を維持することが、いままではほんとうにむずかしかった。
いまになって初めて、ぼくはほとんど痛みもなく「自分の傷痕」を見つめることができます。そうなってみて初めて、自分がいかに激しく傷口を掻きむしっていたのかわかる。
あまりに抽象的ないい草でしょうか。そうかもしれませんが、しかし、言葉にするとそのようにしか表現できない。
自分の傷から、トラウマから、「穴」からある程度だけ距離を取って、それを「直視」すること。みずからそれを掻きむしるのでも、そこから遠く逃げ出そうとするのでもなく、バランスを取りながら生きること。それが、ぼくが何とか見つけた現時点でのひとつの「生き方の答え」です。
まあ、「答え」とはいってもあくまで暫定的なものなので、いつかまた迷うかもしれない、このとき気づいたと思ったことは幻に過ぎなかったと思い知ることになるかもしれないけれど、それでも、ぼくはかつて「戦場感覚」とかいっていた自分とは違う自分を発見できたように思います。
100パーセントの「幸福」とか「平安」なんてこの世のどこにもありえるはずがないし、それを求めることこそが自分を極度に不幸せにする。
だから、「そこそこ」で満足しながら揺れ動きつづけること、そしてその揺れ動く自分から目を逸らさないこと、ただし一定の距離を保ったままでいること、あえて言葉にするならそういうことになるでしょうか。
とにかく近づきすぎたり、遠ざかりすぎたりすることは良くない。それでは、どのくらいが適切な距離なのかというと、そこのところは言葉にはできないのですが……。
ぼくは、いままでどんなに言葉で説明されてもわからなかった。だから、他人に対しても言葉で示すことの限界を感じざるを得ません。ただ、「その時」が来ればわかる。そうとしかいいようがない。
二村ヒトシは書いています。
あなたや僕が、女性に『モテたい』と思うのは(あるいは「やりたい」と思うのは)どう考えても、ただたんに性欲のせいじゃ、ないですね。
きっと人間は、他人から「あなたは、そんなにキモチワルくないよ」って、保証してほしいんです。
しかし、ぼくはいま、そのいわゆる「承認欲求」にそこまで重きを置かず生きていけるような気がしています。もしかしたら錯覚かもしれないけれどね。「自分で自分をそこまで嫌いじゃないから、だれかにキモチワルいと思われてもまあいいか」と感じるのです。
ここまで来るまで、長かった。ほんとに。
くりかえしますが、べつだん「穴」が完全にふさがったわけではないので、近づきすぎたらやはり痛いんだろうけれど、「ちょっとだけ距離を取る」そのやりかたを覚えた気がする。
だから、いままでは「いつ殺しに来るかわからない」と思っていた他人を怖れないことができるようになった。
いや、「他人はそんなことをしない」という絶対の信頼が芽生えたわけではない。そうではなく、「殺されそうになったら、逃げよう」というあたりまえのことを考えるようになっただけのこと。
これが、ぼくの「適切な距離感」のかたちです。モテたくもあり、モテたくもなし。
安冨歩『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである』は「自己嫌悪」という心理について分析したなかなか秀逸な本ですが、「自己嫌悪」とか「自己否定」といった気持ちは「自分の心の穴にべったり近づき過ぎている」ところから来ているものだと思う。
距離を取るのだ。少しだけ離れてその「穴」を見つめるのだ。とはいっても、まあ、それができないんだけれどね。ここら辺の感覚の言語化は今後の課題ですね。
まあとにかくぼくはいま、生まれ変わったようにしあわせです。いつまで続くのかはわかりませんが……。
いや、元に戻っても、それはそれで良いんだよね。めちゃくちゃ苦しいだろうけれど、「そこから脱出することは可能である」ことはわかったわけだから。次は具体的な脱出方法がわかるかもしれない。
そんなことを考えながら、生きています。こんなとくべつ内容のない記事を最後までお読みくださりありがとうございました。でわわ。
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]]>「勝つ意欲」はたいして重要ではない。 そんなものは誰もが持ち合わせている。 重要なのは、勝つために準備する意欲である。 ボビー・ナイト(バスケットボールコーチ) なるべくたくさん読書しようとしても、続かない。 運 […]
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]]> 「勝つ意欲」はたいして重要ではない。
そんなものは誰もが持ち合わせている。
重要なのは、勝つために準備する意欲である。
ボビー・ナイト(バスケットボールコーチ)
なるべくたくさん読書しようとしても、続かない。
運動を継続しようとしても、すぐ投げ出してしまう。
早めに仕事を済ませたいのに、後回しにしがちだったりする。
どうしても努力を続けられない自分にがっかりしているあなたへ、ここに「もう少しだけラクに頑張れるやりかた」があります。
その名は【セルフナッジ】。
「ナッジ」を知っていますか?
ご存知という方は経済学についての知識がおありなのかもしれません。
ナッジとは、英語で「行動を後押しすること」を意味する言葉。
とくに行動経済学の領域では「行動を強制するのではなく自然に行動変容を後押しする手法」を意味するナッジ理論が知られています。
オウェイン・サービスとローリー・ギャラガーの『根性論や意志力に頼らない 行動科学が教える目標達成のルール』は、そのナッジ理論を背景に、自分自身の行動を後押しする「セルフナッジ」について解説した一冊。
まさにぼくのような「努力しようとしてもまるで続かない」、「挑戦を投げ出すことにだけは自信がある」人間にはピッタリの一冊といえるでしょう。
いや、ほんと、三日坊主どころか一日で投げ出したりしますからね、わたくし。
もしテレビゲームのようにステータスが数字になって見えていたら、「根性」や「精神力」の項目がマイナスになっているかもしれません。
しかし、行動科学においては人がポジティヴな行動を続けられたり、あるいはネガティヴな行動をやめられなかったりすることは、単にその人の精神力だけで決まってくるのではなく、環境からの働きかけが関係しているものと考えます。
その上でなるべく良い行動を取りやすい環境を整えようとするのがナッジの本質であり、セルフナッジとは自分で自分のまわりの環境を整備することを意味します。
あるいは、こう書いてもピンと来ないかもしれません。
ですが、人間の活動の成否がその周囲の環境や行動のやりかたそのものに大きく依存していることは、すでに膨大な科学的エビデンスが積み上がれている客観的事実なのです。
たとえば「毎日、早朝に起きる」という目標を立てたとしましょう。この目標を、純粋な意識の力だけで達成しようとするのと、めざまし時計を設定して起きようとするのでは成功率が変わってくることは当然です。
ぼくたちはどうしても自分自身の意志力の有無であらゆるアクションの成功、不成功が決定してしまうものと考えがちですが、じっさいには「なるべく意思や決断の力を使わずに済むようなしくみを作っておく」ことが目標達成のためにはきわめて重要なのです。
そして、この本にはまさにそのような「しくみ作り」に役立つ行動科学の知見が大量のエビデンスとともに記されています。
全編は全七章に分けられ、それぞれ三つずつ、つまり合計21個の「ルール」が記されています。以下に、すべてのルールを記してみましょう。
これだけでは何のことやらわからないかもしれませんが、本編にはすべてのルールについて、ていねいに詳細が記されています。
また、具体例として「子どもたちと過ごす時間を増やす」場合や、「健康な体をつくる」場合の例が記されてもいます。
あなたが掲げる目標が何であれ、参考になることはまちがいないでしょう。
少なくとも、こういったセルフナッジの放送にのっとっているほうが、それを無視して根性だけで何とかしようとするときよりもその目標が達成されやすくなることはたしかです。
ある目標を実現するためにはどうしたってある程度の意志の力が必要なことはたしかでしょう。
しかし、その力はどんな人にとっても限られたものだと認識するべきであり、むやみと浪費してはならないのです。
一例を挙げましょう。
アメリカ史上初の黒人大統領として2期8年の任期を勤め上げたバラク・オバマ大統領は、大統領選に出馬するにあたって、喫煙の習慣を止めることを約束していました。しかし、その結果は以下の通り。
オバマ米大統領は28日、ワシントン郊外の海軍医療センターで昨年1月の就任後初めて健康診断を受け、「素晴らしく健康。残り任期を務めるのに問題なし」とのお墨付きを得た。ただ、たばこをやめる治療を続けるよう指導を受けており、大統領選で公約した「禁煙の誓い」は守れていないようだ。
結果として、かれは公約を守れなかったのです。
それでは、オバマは意思が弱い人物なのでしょうか?
もちろん、そんなはずはありません。社会的に不利な黒人の立場で大統領にまでのし上がるためには、まさに超人的ともいえる意志の力が必要だったはずです。
しかし、そのオバマであっても、大統領という職務に就きながら禁煙を続けることは容易ではなかったのです。
ここから学べるのはこのようなことでしょう。意志の力とはどこからともなく無限に湧き出てくるような性質のものではなく、それこそロールプレイングゲームの「マジックポイント」のように有限な資源だということ。
オバマ元大統領ほど強靭な意思の力があってなお、それを大統領としての激務に使ってしまえば、禁煙をつづけるための量は残らなかったわけです。
したがって、ぼくたち凡人は、もし何か目標を達成したいと考えるのなら、なおさらその限られた力を有効に使わなければならない。そのための具体的な方法論がセルフナッジの合計21個の黄金律だということになります。
これはどのような目標にも応用できます。たとえば、仕事で栄達したいとき、家族と仲良くしたいとき、スポーツの成績を向上させたいとき、セルフナッジはあなたを助けてくれることでしょう。
同じように努力するにしても、その「正しいやりかた」を知っているのと知らないのとでは苦労が段違いなのです。
どうです、興味が湧いてきましたか?
ぼくはいま、この理論をもちいていろいろなことにチャレンジしているところです。あなたもぜひ、セルフナッジで生活環境を変えてみましょう!
人生をより良くするために変えるべきなのは自分ではなく、環境のほうだったのです。
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]]>「刻むんだ 目の前の1段を登るために必要な要素を 1段の中でさらに刻んで 自分が登れる小さいステップを作るんだ その行動を努力と呼ぶ」 ――『ワールドトリガー』 先日、「努力の神話はほんとうに死んだのか」という記事で、 […]
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]]>「刻むんだ 目の前の1段を登るために必要な要素を 1段の中でさらに刻んで 自分が登れる小さいステップを作るんだ その行動を努力と呼ぶ」
――『ワールドトリガー』
先日、「努力の神話はほんとうに死んだのか」という記事で、現代の小説やマンガなどではひたすらに精神的/身体的負荷の量で勝負する「古典的努力」から、行為の質を問う「現代的努力」へ、努力描写が変質しているのではないかという話をしましたが、今回はその続き。もう少し話を深掘りしたいと思います。
とはいえ、ここで取り上げるひとつひとつの発想を詳細に検証していく余裕はないので、この話はまあパッと思いついたアイディアのラフスケッチくらいに思っておいてください。
Wikipediaとかの情報を元にしているところもあり、わが話ながらあまり信頼性がありません。純粋な与太話としてはそれなりに面白いと思うんですけれどね。
まあ、前回、「努力」の変質について考えてから、そもそも「努力し成長することをめざす」ことを描く作品ってどのあたりから生まれたんだろうと考えてみたんですよ。
もちろん、これはさかのぼろうと思えばどこまででもさかのぼれる話ではあるでしょう。それこそ『ギルガメッシュ叙事詩』とか、各国の神話でも英雄の試練と成長が記述されているよね、とはいえる。
しかし、ここで言及したいのは、そういう半神的なヒーローたちのことではなく、あくまで生身の人間が人並み以上に頑張ることで成長していく物語のこと。
となると、やっぱり近代文学、それもヨーロッパで革命が起こって王政が打倒されたりして市民社会が成熟していく18世紀から19世紀あたりの作品から始まっている側面が大きいんじゃないかと思ったのです。
それ以前の完全階級社会では、そもそも個人がいくらがんばっても階級を超えてのし上がることは不可能に近いわけですよね。だから、「努力」とか「成長」という概念が持つ意味も、おそらく現代とは違っていたのだろうという気がします。
「大きな夢や野心を持ち、頑張って階級を上昇しようとすること」はむしろそういった社会においては「秩序を乱す悪」としてすら受け止められていたところもあるんじゃないかと。
それが、ディケンズとかになると、貧しい身の上から努力によってのし上がる人物というのが描かれているわけですよね。いや、ぼくもくわしく知っているわけじゃないんだけれど、あの有名な『クリスマス・キャロル』の主人公は、金持ちになる過程で人格が歪んでしまったスクルージ老人でした。
また、なぜか読んだことがあるスタンダールの『赤と黒』では、明確に階級上昇をめざす野心家の主人公ジュリアン・ソレルが描かれています。
この小説、いま読んでもわりとふつうに面白かったりするんですけれど、それは主人公の価値観がわりに現代人に近いところまで来ているからでしょう。
他にもバルザックとかサッカレーとか、女性ではブロンテ姉妹の『ジェイン・エア』や『嵐が丘』なんかも、わりといまのぼくたちが共感しやすい「野心と努力」を描いている。つまり、現代人たるぼくたちが理解できる「努力の物語」には200~300年くらいの歴史があるんじゃないかと考えたわけです。
いや、ほんとにただの思いつきであって、真剣な考証に堪える話ではありませんからそう思って読んでくださいね。
で、さらに、現代的な意味での「努力と成長」は、より直接的には19世紀のいわゆる教養小説(ビルドゥングス・ロマン)あたりに源流があるんじゃないかなあとも思いました。
というのは、ビルドゥングス・ロマンと呼ばれる小説では、古代の英雄たちのように「外的試練」に打ち勝って強くなることではなく、何らかの知的経験を積んで「内的成長」を遂げることこそが重視されているんですね。
ぼくは大昔、トーマス・マンのあの分厚い『魔の山』をいちおう読み上げたのですが(これが意外にも面白いのだ)、そのクライマックスでは主人公ハンス・カストルプは第一次世界大戦の戦場へ趣き、生死不明の状態になります。
しかし、マンは「こいつが生きていようが死んでしまっていようがどうでもいいのだ」みたいな身も蓋もないことを書いているんですね。あくまでかれが知的成長を遂げたことが重要なのであって、生死は問題じゃないんだ、と。それくらい「内的成長」はビルドゥングス・ロマンの重要なテーマなのです。
で、現代の成長物語でも、この「内面をより良く成長させること」が大きく問われているでしょう。
たとえば桜木花道の成長にぼくたちが感動させられるのは、単にかれがより高く跳べるようになったからではありません。そうではなく、花道がその内面において人間的に大きく成長したことがわかるからこそ感動するのに違いありません。それは、やっぱりある種、ビルドゥングス・ロマン的なところがある。
そういうわけで現代の「努力マンガ」は、「野心」や、「努力」や、「成長」、そして多くの場合にはその悲劇的顛末を描き出す近代的なリアリズム文学に遠い祖先を持つのではないか、逆にいうとそれ以前とは断絶しているのではないか、というのがぼくが友達と話しながらてきとうに思い浮かべたぼんやりとした話です。
そういった文学性は20世紀に至り、吉川英治の大衆小説『宮本武蔵』などにおいても見られる。ぼくたち日本人は国民性的にそういうストイックな求道者のイメージがことのほか好きなんですね。
で、また、それがやがてマンガ『巨人の星』に至ってスポ根ものが開花すると。いや、このあいだにだいぶ色々あって、たとえば『イガグリくん』などという作品がスポ根の源流としてよく名前が挙がるわけですが、ここら辺はさすがにぼくは読んでいないので何ともいえない。
ある程度読んでいるのは『鉄腕アトム』とかで、これはスポ根とはまったく断絶している手塚治虫の代表作ですね。
ここで思い出すのが大塚英志さんの『アトムの命題』。生身の人間のような「傷つく身体」を持ち、成長していくことを望まれながら成長できない存在としてのアトムについて語った本だったと記憶しているのですが、なるほど、アトムはしゃにむに努力して成長していくというキャラクターではないように思える。
そういう意味ではあまり身体的才能に恵まれていないくせに超人的努力をくり返して成長してゆく星飛雄馬はアトムとは対照的なキャラクターだといえるかも。
しかし、以前の記事で書いたように、ここでの努力はあくまでいかに身体に負荷をかけるかを競う「古典的努力」でした。
『巨人の星』以降のスポーツマンガがこういった描写になったのは、東京オリンピックなどの影響もあったようなのですが、より重要なのはやはり高度経済成長を遂げてゆく社会背景でしょう。
とにかく、全国制覇とかをめざすためにはめちゃくちゃストイックに身体を酷使する形で頑張らなければ話にならないという、そういう描写が紆余曲折を経つつ、長いあいだ連綿と続くわけです。
これが決定的なターニング・ポイントを迎えたのはバブル崩壊も近い1990年年前後だと思います。
『巨人の星』的なスポ根の流行も遠い過去となり、『YAWARA!』などオシャレなスポーツマンガが登場するようになった時代ではありますが、この頃にはまだギリギリ「古典的努力」の描写が残っていたように思われるのです(余談ですが、このあたりから才能が努力の蓄積を凌駕する描写の「天才マンガ」が始まっている印象ですかね)。
その頂点として、ぼくは曽田正人『シャカリキ!』を挙げたい。まだ読んでいない人には押しつけてでも読ませたいくらい熱い名作なのですが、この作品(や、その後の曽田作品)のなかで描かれている「天才」とは、「狂気の領域まで集中して努力する動機のもち主」に他なりません。
「古典的努力」の描写を突きつめ切った結果としてその向こう側まで突き抜けたのが曽田正人の作品なのだと思います。「古典的努力」の到達点というか最後の輝きというか。
そして、象徴的なことにはその少し前には「古典的努力」から「合理的努力」へのブリッジとなるような傑作がふたつ生まれています。
ひとつはもちろん井上雄彦『SLAM DUNK』、そしてもうひとつは、河合克敏の『帯をギュッとね!』です。
『SLAM DUNK』は当然ながらスポーツマンガの歴史においてさまざまな画期をもたらした作品ですが、ある意味では「古典的努力」と「合理的努力」の両面を併せ持っているようなところがある。
いまの視点で見て面白いのが安西先生という「合理的指導者」の登場で、かれは「シュート2万本」のようないかにも古典的に見える努力を花道に強いながらも、「正しいフォームで打たなければ意味がない」という合理性を示してもいます。
「古典的指導者」そのものとしかいいようがない星一徹とはわけが違うわけですね。ここにおいてスポーツマンガのリアリティの階梯が一段上がったといっても良いのではないでしょうか。
とはいえ、今回の話の文脈においてより重要なのはじつは『帯ギュ』のほうであるかもしれません。この作品においては、「体格において不利なほうがいかにして勝つか」というテーマに対して、はっきり「科学的トレーニングが大切だ」という答えを出しています。
また、「とにかく苦しめば良いというものではない」、「楽しみながら強くなることはできる」という描写もあって、時代性を考えると、きわめて斬新な作品という気がします。
もし『帯ギュ』を読んでいない人がいたら(まあ、たくさんいるんだろうなあ、いまの時代)、ぜひ読んでみてください。おっもしろいぞう。『シャカリキ!』も『帯ギュ』も、『SLAM DUNK』ほど有名ではないかもしれないけれど、それに匹敵するマンガなのです。とにかく素晴らしい。
で、その「合理性を追求する路線」はさらに時代が下った2007年の『ベイビーステップ』に至る、といいたいところなのですが、そのまえに2003年の『おおきく振りかぶって』がありますね。『おお振り』が出てきたときのインパクトはかなりのものがありました。
さらに、ぼくは未読だけれど2004年に『ラストイニング』という作品がある。はっきり断言はできませんが、こういった作品を経て、その後の『アオアシ』や『GIANT KILLING』や『メダリスト』にたどりついている気はします。
また、その少し前あたりから『アイシールド21』や『ONE OUTS』のような一芸というか「異能」を活かすタイプのスポーツマンガが出てきていますね。『黒子のバスケ』はしばらく後。こういうのは『ジョジョ』から『HUNTER×HUNTER』を経て『呪術廻戦』へと至る異能バトルマンガの文脈ともかかわっているのでしょう。
ビルドゥングス・ロマンからずいぶん遠いところまで来てしまいました。
『ハイキュー!!』とか『ブルーロック』あたりをどう考えるかはまだ整理できていない。というか完読してすらいないので「ぼくはただの虫けらです……」という気持ちになってしまいますが、まあ、次回以降の課題としよう。
長々と思いつきを語ってしまいました。ぼくはべつだん専門のマンガ研究家でもないただのブロガーなので、こういったラフスケッチで終わってしまいますが、くわしく考えたい方がもしいたらぜひ、試してみてください。
「努力」という概念のインフレというかエスカレーションはある種の日本人論としても非常に面白い題材だと思います。
現代において「努力」という概念が完全に風化したとはまったく思いませんが、それを描くことはよりかんたんではなくなっていることはたしかでしょう。
現代マンガにおける「努力」は、過去よりハイクオリティでなければならないのです。「ただしゃにむに頑張ったから勝った!」ではもうだれも納得しないということ。
ちなみに最近読んだ『努力は仕組み化できる』という面白い本によると、若い頃(18歳~25歳)に不況を経験した人間は「努力より運を重視するようになる」という研究があるのだそうです。
これはいま、日本で異世界ものが流行している理由を説明できるかもしれません。「小説家になろう」的な異世界ものの「努力欠如」をあざ笑うことはたやすいですが、背景にはおそらく低成長時代ならではのリアリティがあるわけで、ただ嗤って済ませられる問題ではないように思えるのですよね。
「努力できるかどうか」といった純粋に本人の問題といった印象のことがらすらも、じつは社会環境によって決まってくる可能性がある、そう考えると、いちがいに努力しない人間を責めることもできないのではないでしょうか。
もちろん、現実には「それでも、なお」努力しなければどうしようもないということもあり、だからこそいくつもの「新型努力マンガ」がヒットしているわけなのですが。うん、世の中ってむつかしいね。
まあ、長々と他愛ないことを書いてきましたが、何かひとつでも受け取ってもらえれば幸いです。「努力の神話はどこから来てどこへ行くのか」、とても興味深いテーマなので、ぼくももう少し考えてみたいと思います。がんばろ。結局のところ、そうしないと生きていけないのだから。
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]]>Webライターの海燕です。 マルハン東日本のウェブサイト「ヲトナ基地」にて継続的に記事を発表しています。
このウェブサイトではアニメ、マンガ、小説、映画などサブカルチャーを中心に、さまざまな情報を発信中。常時、文章を発表できるお仕事を募集しています!
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先日、この記事の著者である海燕のLINE公式アカウント「Webライター海燕のこの本がオススメ!」を開設しました。
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また、この記事からぼくの公式アカウントに登録された方には、登録特典として、Amazonで発売中の電子書籍『小説家になろうの風景』PDF版をお付けします。登録よろしくお願いします!
「水は低きに流れる」
『攻殻機動隊』
どうも、いい歳して無職でヒマ人の海燕です。だれかお仕事ください。
で、あまりにヒマなのでXを徘徊していたら(XではなくTwitterだといいはるのは泣く泣くあきらめた)わりとありがちなオタクヘイトポストを見かけた。
うん、まあ、客観的なファクトに反しているよね?と思うわけだけれど、もういいかげんいわれ慣れているので腹も立たない。
現実にはオタク的なアニメにははるかに多様性があるわけであり、ためしに秋アニメの一覧を眺めて確認してみたところ、この手のネット小説由来の願望充足アニメは10本に1本あるかないかというふうに見えるのだが、人間は基本的に見たいものしか見ないものだからしかたないだろう。
リプライやリポストで「女性向けだって変わらないぞ」といっている人もたくさんいるし、それはたしかにそうなのだが、そういうことをいちいち指摘しても絶対にあいてにはとどかない。
まあ、一見すると逆の立場とも見える女性嫌悪的な人たちもそうだが、ひっきょう、何かを憎むことでしかエネルギーを得られない人は放置するより他にないのである。といいつつ、ぼくもつい取り上げてしまっているんだけれどね。
それにしても、このポストが面白いのは、やはり「努力」という概念が登場してくることである。そういったなろう的な願望充足ファンタジーの問題は、「努力もせず」頂点をめざそうとしていることだという認識が透けて見える。逆にいえば、努力しているならそこまで「気持ち悪く」感じないということなのかもしれない。
しかし、現実に、世の中にはそこまで努力しなくても頂点に立ってしまう人もいれば、だれよりも頑張ってもまったく報われない人もいるのである。世界はその意味でまったく不条理にできている。昔の少年マンガとは違うのだ。
たまたまいま、『ブラック・スワン』で有名なナシーブ・ニコラス・タレブの『まぐれ』という本を読んでいるのだけれど、そこでさまざまな学問領域を横断しつつ描かれているのは、成功/不成功を最も大きく左右するのは「努力」ではなく、「才能」ですらなく、「運」でしかないというつらい事実だ。
そこからタレブは「一時的に結果を出したからといってその人物を無条件に信用するな」という教訓を導き出していくのだが、まあその妥当性はともかく、「努力」をあまり信仰するのは考えものだと思う。
たしかに成功者はしばしば「わたしはだれより努力したから成功したのだ」と「努力」と「結果」を因果的に語るが、そこではいわゆる「生存者バイアス」が無視されている。
じっさいには、たまたま運よく成功した人だけが個人的な努力と良い結果を結びつけて語るのだという可能性があるわけなのだ。あまり「努力」を神聖視するのも考えものだ。
とはいえ、現実的には成功するためには一定以上の努力が必要な場合が大半であることもたしかである。成功/不成功という結果は神さまが振ったサイコロの出目で決まってしまうのかもしれないが、まったく努力しなければそもそもその賽を振ってもらうことすらできない。
タレブが書いている通り、努力と成功は因果関係にあるわけではないが、努力は成功の前提条件として厳として存在するのだ。
その意味で、まったく努力もせずに「チート」で成功していくネット小説の類はたしかにある種、ポルノ的というかファンタジー的な側面を持つだろう。しかし、どうだろう、そこにはほんとうにまったく「努力」が描出されていないのだろうか。
ここで考えなければならないのは、そもそも「努力」とは何かということだろう。
ぼくのような年寄りは努力というとまず、ある目標に対し精神的/肉体的コストを蕩尽することを意味しているように考える。1日10時間勉強しつづけるとか、毎日腕立て伏せを100回やるとかいったことが典型的なイメージだろう。これを仮に「古典的努力」と呼ぼう。
かつての「努力マンガ」や「努力アニメ」では、この古典的努力が信仰のように賛美されていたように思う。そこでは成功と努力を一直線で結ぶナラティヴが生きていたのだ。
一方、現代の「あたらしいタイプの努力マンガ」や「異世界チートアニメ」では、この神話は崩れている。そこで「古典的努力」がまったく描かれないというわけではないかもしれないが、昔日ほどのバリューは認められていないといって良い。
だが、だからといってそこに「努力」がまったく存在しないといい切って良いのか。たしかにただただしゃにむにコストをつぎ込む「古典的努力」はそこでは死んでいるかもしれない。
しかし、そこではあらたに「持てる資源をいかに効果的に運用するか徹底的に考え抜いて実行する」という意味での、いわば「合理的努力」が誕生しているのではないだろうか。
これはもちろん、現実世界で活躍しているアスリートが、まさにこの種の努力(と、幸運)によってかつては考えられなかったような巨大な成果を出していることとパラレルだろう。
もはや、ただひたすらにうさぎ跳びをくりかえせば身になるという意味での「努力」は信じられない。また、努力しさえすれば必ず成功するという神話も信じることはできない。だが、それでも努力のナラティヴは死んではいない。ただ、いまでは「より洗練された努力」が描写されるようになってきているのだ。
異世界転生の主人公たちは何らかの「チート」をあたえられることが多いが、ただ漫然と「チート」を活用すれば成功できるとはかぎらない。やはりその「チート」を「具体的に」どう使うかという工夫は凝らさなければならないことが少なくない。そこで知恵を絞ることは「合理的努力」の一例だ。
大昔のスポコンマンガのような「とにかくしゃむに努力すれば良い」という古典的努力の描写がもう通用しなくなっていることにぼくは確信がある。ただ、だからといってだれもが「努力なんて無意味だ」と冷めているかというとそうではない。
あたらしい世代の努力ものでは、「努力の質」こそがきびしく問われるようになっている。この努力描写の変化は、やはり往年の名作『ベイビーステップ』が大きなターニング・ポイントになっている気がする。
そしてより最近の『アオアシ』とか『メダリスト』あたり読んでいるとつくづく思うのだけれど、「現代努力マンガ」における「努力」の描写はほんとうに具体化し洗練されている。
「まずはうさぎ飛び100回!」みたいなただやった気になるだけの無意味な努力はまったくなくなり、いかに効果的に結果をめざすかの方法論が常時アップデートしつつ追及されている印象だ。
最近、『ワールドトリガー』最新話のそれこそ「努力」をめぐるエピソードが広く話題となり、ぼくも読んだのだが、そこで描かれているものはきわめてわかりやすく、そして具体的な「成長するための方法論」だ。
ほとんど企業研修のノリですらあるが、それでいてパワハラ的な高圧さがまったくないところも素晴らしかった。まだ単行本化されていないので『ジャンプスクウェア』本誌を買って読むしかないのだけれど、それでも未読の方にはご一読をオススメする。これこそまさに「合理的努力」の教科書といって良いのではないだろうか。
もっとわかりやすくいうならこういうことになるだろう。「古典的努力」がただなかば自己満足的に努力の「量」だけを誇るのに対し、「合理的努力」において問題となるのは、それに加えて努力の「質」なのだ、と。
あたらしい努力マンガにおいても努力の「量」が軽視されているわけではない。しかし、それ以上に「質」こそが大切であることは、もはや自明視されているといっても良いかとすら思える。
現代のフィクションが描いているのはこのような壮絶な光景である。成功という結果には、「量的努力」や、「質的努力」や、「才能」や、「幸運」や、「環境」や、「モチベーション」がかぎりなく複雑に関っているというリアルな認識のもと、その理不尽をねじ伏せるためにはどうすれば良いか? その戦いがくりひろげられるのだ。
と、ぼくは思うのだけれど、じっさいに作品を虚心坦懐に読んだりしない人にとっては、それはただ「努力もせずモテたがっている」ような作品ばかりと見えたりするわけなのだ。結局、すべては見る側の問題だということ。
余談だが、大きな話題を呼んだ『ワールドトリガー』最新話を読んで、ぼくは『3月のライオン』におけるいじめのエピソードを思い出した。クラスでいじめを首謀した生徒にある教師が対して滾々と語るセリフ。
「なあ高城… お前は多分 今 不安でしょうがないんだな 何もやったことが無いからまだ自分の大きさすら解らねえ… ――不安の原因はソコだ お前が何にもがんばれないのは自分の大きさを知って ガッカリするのがこわいからだ だが高城 ガッカリしても大丈夫だ 「自分の大きさ」が解ったら 「何をしたらいいか」がやっと解る 自分の事が解ってくれば 「やりたい事」もだんだんぼんやり見えてくる そうすれば… 今のその「ものすごい不安」からだけは抜け出る事が出来るよ それだけは おれが保証する」
そう、「努力したがダメだった」とか「挑んではみたが失敗した」といった人はひとりの人間として見てずいぶんと立派な方なのである。ほんとうにダメな奴はそもそも「何もしない」。まず、挑戦することを避ける。
そうれば失敗することも間違うこと恥をかくこともなく、「自分の大きさを知ってガッカリする」こともまたないからだ。そしてその上で他人の失敗を嘲り笑っていれば、「自分だってほんとうはやればできる」という幻想を保持することができる。
オタクでもそうでなくても、こういう状況陥っている人は大勢いると思う。努力すれば成功するというのは大きなウソに過ぎないが、それでも挑戦し努力しているということはそうとうたいしたことなのだ。少なくとも、何もしないで他人のミスを笑うだけの人間よりよほど偉い。
これが、これこそが、ぼくにとっての「努力神話」である。ぼくじしんは、ろくに頑張ったことがないけれど、頑張っている人たちはほんとうに偉いと思う。たとえそれが即座にわかりやすい成功につながらなくても、それでも。
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「怪物と戦うものはその過程で自らが怪物とならぬよう気をつけよ。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。」
先日、『ぼっち・ざ・ろっく!外伝 廣井きくりの深酒日記』を読んだ。タイトルからわかるとおり、アニメ化されて話題をさらった『ぼっち・ざ・ろっく!』の番外編で、本編の裏側を描く内容となっている。
独立した一作として読んでも読ませるものがあるが、本編を読んだ上で味わうとさらに面白い。
Amazonでも非常に評価が高いし、わりとオススメの作品だ。
そうなのだが――ぼくはこの作品を読んでかなり困惑した。いったいどういうスタンスで物語と向き合えば良いのかわからないのだ。
きっと「酒クズ」のロック歌手を主人公にしたちょっと悪趣味ではあるもののライトでカジュアルなコメディ、そういうものなのだとは思う。だが、じっさいに読んでみると、何というかあまりにも「シャレにならない」描写なのである。
主人公であるきくりの「酒クズ」っぷりが真に迫り過ぎていて、このままいくとアルコール依存症で破滅することが目に見えているように思えてしまう。それを笑って見ていて良いのかどうなのかわりと微妙に思えて来るのだ。
「酒クズ」で常に酔っぱらっていないと陽気でいられないきくりの描写は、名作文学『星の王子さま』の一節を連想させる。
「なぜお酒を飲むの?」
「忘れるためだ」
「何を忘れたいの?」王子さまは気の毒に思いながら訊いた。
「恥ずかしいことを忘れるためだ」酒飲みは頭を垂れながらそう打ち明けた。
「何が恥ずかしいの?」王子さまは助け舟を出すつもりで訊いた。
「酒を飲むことが恥ずかしいんだよ」
きくりも確実にこの悪循環に陥っている。彼女は酒を飲むことで憂さを忘れ「幸せスパイラル」の状態に入るのだが、その「幸せ」は何をどう見ても破綻と破滅へと急降下していく呪われた螺旋である。
また、酒を飲んでいない彼女は典型的な「陰キャ」でまともに話すこともできないのだが、その姿は本編の主人公「ぼっちゃん」が陰キャのまま、なけなしの勇気を出して活躍していく姿の陰画ともいえそうだ。
つまりはこの外伝は本編の少しリアルでシャレにならないバージョンといえ、本編を読んでいたときはげらげら笑っていたぼくもほんとうに笑って済ませて良いのか疑問に感じるわけである。
しかし、ネットの感想を見る限り、どうやらほとんどの読者はそのような読み方をしていないようで、ぼくはここから「ひとはフィクションに対しどのように向き合うべきか」というテーマを考えさせられる。
もっとも、その答えは最初から出ている。「どのように向き合っても自由」だ。
べつに戦争映画を見て大笑いしても良いし、コメディマンガから哲学を読み取っても良い。あるべき「正しい」向き合い方などそもそも存在しない。好きにすれば良いのだ――その「感想」をひとりきりで抱え込んでいる限り。
もし、その「感想」をネットを含む世の中に発表すれば、それはその瞬間にひとつの「意見」となるわけで、必然的に責任をともなう。当然だろう。
もちろん、発言の自由はある。どんな変わった見方もその人の自由であることが変わるわけではない。だが、一方で何か「意見」を発表すれば、そこに賛否が集まることは避けられない。
だから、たとえばぼくが「『きくりの深酒日記』はシャレになっていない。ぜんぜん笑えない」という感想をネットに投げたら、「そうは思わない」、「おまえは何もわかっていない」という人があらわれたりすることだろう。ひとの考えかたがどこまでも多様である以上、この展開を避けることはできない。
ただ、そもそもこういった「好き/嫌い」に対し意見を述べるべきではないという立場もあるようだ。たとえば、漫画家として、エッセイストとして活動するカレー沢薫さんのこのような記事がある。
しかし、それでもなお人がオタク活動を続けるのは、苦しみを遥かに凌駕する喜びがあるからだ。
「萌え」が与えられた時のオタクの行動は様々である。PCの前に突っ伏して動かなくなる者もいれば、部屋中を転げまわり、机の角で頭をぶつけて動かなくなる者もいるし、ただひたすら、顔中の穴から液体を流し続ける者もいる。表現方法は様々だが、そんなオタクたちの脳裏には好き、嫌い、果ては萌えという感情すら超え、ただ「尊い…」という言葉だけが浮かぶのである。
なので「なんでそれに萌えるの?」と聞かれたら喜んで半月ぐらいかけて説明するつもりだ。しかし、冒頭のテーマはもしかしたら、否定的な意味でそう聞かれた場合どうするか、という質問だったのかもしれない。つまり、「私はあなたの萌えが全く理解できないし不快である。あなたの描いた私の好きなキャラの絵を見て気分を害したので、描くなら私の目が触れないところでやれ、もしくは今後一切描くな、わかったか?」と聞かれた時にどうするか、ということだ。
そういう場合は最後まで聞かずに、相手の口に馬糞を詰めてやるのがベストアンサーである。
これは聞かれる方もそうだが、聞く方にとっても完全な時間の無駄だ。二次元における趣味嗜好、解釈の違いにおける抗争は昔からあるし、おそらくなくなることはない。誰にだって好き嫌いぐらいはある。
しかし、ノーマルカップリング派の人間を完全論破し、頭に電流を流すなどして、腐女子へと改宗することに意味があるだろうか。逆の例で言えば、ノーマルカップリング派の人間が「腐女子狩り」を敢行し、腐女子にボーイズラブコミックを踏絵として踏ませたとしても、屋根裏に「BE×BOY」とかをしこたま隠し持つに決まっている。
人の趣向というのは、信仰と同様に変えがたいものであり、変えようと思ったら膨大な時間と根気、時には化学の力さえ必要であるし、それでも変わらない場合の方が多いと思う。 だったら、そんなことに時間を使うより、最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い。だが、趣味が同じと思っていた者でも、1ミリの解釈の違いでハルマゲドンに突入してしまうこともある。
つまり、仲間が一人もおらず、誰も聞いてない萌え話を時折Twitterでつぶやき、否定も肯定もひっくるめてリプが1件も来ない私が、オタク界のラストマン・スタンディングなのである。
https://news.mynavi.jp/techplus/article/ccmanga-45
そうだろうか。ほんとうに「否定的な」意見に対しては「馬糞を詰めてやる」ことこそが「ベストアンサー」なのだろうか。
たしかに「描くなら私の目が触れないところでやれ、もしくは今後一切描くな」といった他者の自由を制限する発言は基本的には問題である。もし発言しているのがその絵の原作者ないし権利保持者だったりしたらまた話はべつだろうが、ここで想定されているのはそういうシチュエーションではないだろう。
だから「相手の口に馬糞を詰めてやる」しかないということもわかる。しかし、その話を「最後まで聞かずに」馬糞を詰めるのはどうなのだろうか。あいては「描くのは自由だ。ただ、あなたの絵は気に喰わない」といいたいだけかもしれないではないか。
その場合、「相手の口に馬糞を詰める」、つまり発言をふさいでしまう行為はそれ自体が他者の権利の侵害である。あいてにはあいてで「不快だ」という自由があるのであって、その口を閉ざさせてしまう権利はだれにもないのだ。
とはいえ、もちろん、そういった発言は多くの場合において不毛なものであり、それがわかっているからこそカレー沢さんは「そんなことに時間を使うより、最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い」という結論を導いているのだろうと思う。
これはこれでひとつの理解できる見解ではある。この見解を簡潔かつ的確に表現した言葉に「誰かの萌えは誰かの萎え」がある。
つまり、「あなたが好きなものをだれかは嫌いかもしれない。逆にあなたが嫌いなものをだれかは好きかもしれない。あなたの価値観はあくまで限定的で相対的なものであることを自覚しよう」という意味だろう。
これは作品の「解釈」や「評価」を巡り、しばしば「ハルマゲドン」となってしまうファンコミュニティで築き上げられたひとつの倫理だといって良い。
たとえそれが自分とは異なるものであっても、あくまで他者の価値観は尊重する。そのほうが結果としてより過ごしやすい「界隈」ができあがるというわけで、いわば「平和構築のための基本原則」なのだ。
この言葉は直感的に理解しやすく、反発する人はあまり見かけない。完全に実践することはときとして困難だが、原則論としてはまちがえていない、と感じられるのだろう。
しかし――ほんとうにそうだろうか。
たしかに「萌え」や「萎え」、あくまで非オタク的にいうなら「好き」や「嫌い」といった次元のことなら、いくらいい争っても無駄ではあるだろう。カレー沢さんも書いているとおり、それはきわめて変えがたい属性なのであって、ようするに好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いなのだとしかいいようがないところがある。
世間的にどれほど好評を博している名作だって嫌いな人もいるし、その逆もまたある。それは個人のかってとしかいいようがなく、変えようとするだけ無駄だ。たしかに、そのとおりでは、ある。
この問題をあくまで「萌え」や「萎え」の問題として考える限り、このアンサーは覆らない。そしてそこからその作品を「嫌い」な人と話をするより、「好き」な人同士で話し合っているほうが快適だという結論もまた導き出されることだろう。
だが、ぼくはこの発想にどうしようもなく違和を覚える。ほんとうにこの問題は「萌え/萎え」、「好き/嫌い」という軸だけで考えるべきなのだろうか。ある作品に対する「感想」や「意見」には、「好き/嫌い」だけではなく(作品のクオリティ的に)「良い/悪い」、あるいは(倫理的、思想的に)「正しい/間違えている」という軸もあるはずではないか。
https://togetter.com/li/982511
たとえば、こういうまとめがある。「自分の好きな表現は良い表現、自分の嫌いな表現は悪い表現という考えは危険!『誰かの萌えは誰かの萎え』って自覚大事だ」というタイトルだ。
これは、たしかにそうだとは思うのだが、「誰かの萌えは誰かの萎え」であることは、厳密には「良い表現」とか「悪い表現」が存在しないということではないはずである。
そもそも「良い/悪い」とは「好き/嫌い」とは、重ねることはあっても別個の軸なのだから、たとえ「誰かの好きは誰かの嫌い」であることが自明であるとしても、即座に「誰かの良いは誰かの悪い」であるとはいえないだろう。
いや、もちろん、現実的には「誰かの良いは誰かの悪い」であることがほとんどだろうし、その「良い/悪い」という判断が対話や議論によって覆されることもまずありえない。それはぼくもわかっている。だが、だからといってある作品なり表現の「良い/悪い」について話をすることは無駄だ、とはいえないはずだ。
なぜなら、「良い/悪い」は「好き/嫌い」とは違って、一応は客観的な評価軸だからである。
自分が好きだとか嫌いだとか、萌えるとか萎えるということはどこまでもかってだが、ある作品を「良い、傑作だ」、「悪い、駄作だ」などと評価するならそこには何らかの論理的な根拠が必要になる。
もちろん、それを厳密な意味で科学的な事実として証明することは至難だが、だからといって「これは悪い作品だから悪いのだ。そうに決まっている!」などと語る行為はひんしゅくを買うに違いない。
何かに対して「良い/悪い」という軸を持ち出したとたん、そこに説明責任が発生するのだ。
だからこそ、そんなめんどうなことをするより「最初から趣味の合う人間同士で好きな物の話だけをした方が良い」という話も出てくるし、さらには「ラストマンスタンディング」であったほうが良いということにもなるのだろう。理解はできる。
しかし、ぼくは共感しない。なぜなら、ぼくは一貫して「良い/悪い」の軸で語ってきた人間だからである。
「好き/嫌い」で語るなら、「好きな者どうし」では話が合うが、「嫌い」な人とはコミュニケーションが成立しなくなる。「わたしは好き」、「わたしは嫌い」といってもそこに究極的には何の根拠も理由もないわけだから、ただすれ違うばかりなのだ。
それに対して「良い/悪い」で話をするなら、仮に「わたしは良いと考える」、「わたしは悪いと思う」という対立が発生したとしても、一応はその意見に対し説明責任が発生するわけであり、対話が可能となる。
もちろん、そこに一定の敬意や語彙がなければまともな対話は不可能だろう。が、「好き/嫌い」、あるいは「萌え/萎え」という軸が「対立を超えた対話に対し閉ざされている」のに対し「良い/悪い」はとりあえずは開かれているのである。
だから、ぼくは、それがさまざまな対立意見を生み出すことがわかり切っていても、あえて「良い/悪い」を語る。いつもいつも必ずそうしているとまではいわないが、基本的にぼくが作品を評価するときはその「良い/悪い」について話をしていると思ってもらってかまわない。
そういうぼくの目から見て、あらゆる評価を「好き/嫌い」の次元で、いい換えるなら「誰かの萌えは誰かの萎え」の領域で語って済ませようとする態度はきわめて違和感を感じさせられるものである。
それは『廣井きくりの深酒日記』を読んで大笑いしたというようなある「感想」に対し、「ほんとうにそれだけで良いのか」と思ってしまうその心理とどこかで通底する違和だ。
つまり、ぼくはある作品に対する「感想」や「意見」にも「良い/悪い」や「正しい/間違えている」という軸があると考えているわけだ。
それは「口に馬糞を詰め」られてしまうような傲慢な態度だろうか。
そうかもしれない。「人の趣向というのは、信仰と同様に変えがたいものであり、変えようと思ったら膨大な時間と根気、時には化学の力さえ必要であるし、それでも変わらない場合の方が多い」以上、そこに力をつぎ込むのは無駄である、という考えかたは当然にある。
だが、ぼくはべつに自分と異なるあいての「趣向」を変えようと思っているわけではない。いってしまえば「完全にわかりあいたい」と思っているわけではなく、「どれだけわかりあえないかをわかりあいたい」と思っているに過ぎない。
そのためにはどうしても「好き/嫌い」だけではなく、「良い/悪い」という軸が必要になる。「この作品は良い」とか「この感想はまちがえている」といった「好き/嫌い」を超えた立場を提示することで初めて対立の構図が明確になり、対話や議論が可能となるからである。
そのようなぼくの目から見て、同じカレー沢さんがべつの記事で書いている映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』とその主人公「水木」に対する、以下のような「感想」はきわめて違和感があるものである。
肯定的な意味でも否定的な意味でも、それこそ「何で萌えるの?」と感じる。
水木を初めて見た時の印象は「sexy……」だっただろうか、それ以外にどう説明していいかわからないが、オタクにとって語彙が消えるというのは「本気の合図」である。
私はこういうタイプの男が苦悩したりボロボロになったりする様が大好きなのだ。
女の子がかわいそうなのは嫌なのに男が苦しむのは好きとは何事かと思われるかもしれないが、平等や倫理など平気で無視してくるのが性癖である。
ゲ謎は見た者がこぞって「存在しないほのぼの子育て漫画を描く」というアートセラピーを始めるほど話がシビアと聞いていたので、さぞこの水木が追い詰められてsexyzoneに入ってくれるに違いないと期待して見に行ったのだ。
そして結論から言うと想像の5億倍zone入りしていたのである。
https://www.gentosha.jp/article/24853
「こういうタイプの男が苦悩したりボロボロになったりする様が大好き」というのはわからなくもない「性癖」である。ぼくはそういう「趣向」を持っていないが、そういう人もいることはわかる。また、水木という男には独特の男の色気のようなものがあり、それを「sexy……」という言葉で表現したくなることもわかる。
しかし、それでもやはり、ぼくはこの「感想」に非常な違和を覚える。ぼく個人の「感想」とあまりにもかけ離れているからである。
ぼくもこの映画を楽しんだが、そこに「sexy」とか「sexyzone」といった言葉で表現できるものはなかった。ぼくはいたってベタに水木の悲劇に感銘を受け、その勇気や挫折に感動しただけだっだ。
カレー沢さんが「sexy」と感じたらしいところで、ぼくはほとんど真逆かもしれない「感想」を抱いたことになる。故に、ぼくはカレー沢さんの「感想」に対し、強い違和を感じる。これもまた「個人の価値観の違い」、「誰かの萌えは誰かの萎え」で済ませるべき問題だろうか。
そうかもしれない。じっさい、カレー沢さんはあくまで「自分の価値観」のことを話しているだけであり、ぼくのような「感想」を否定しているわけではないからだ。彼女が話しているのはまさに「好き/嫌い」のことであり、「良い/悪い」といった話ではないのだ。
とはいえ、それでは済ませられないと考えることができる理由もある。何といっても作中の「水木」は原作の作者である水木しげるを発展させたキャラクターであり、映画のなかで太平洋戦争の帰還兵として描かれているのである。
その水木に対して「sexy」という言葉で語り、「想像の5億倍zone入り」していたと語ることは、戦争や飢餓を性的に楽しんでいるとも受け止められる。はたしてこのような「感想」を認めて良いのだろうか。
結論からいってしまうと、ぼくは「良い」と考えるものである。
カレー沢さんが語っているとおり、ひとの「性癖」や「趣向」、つまり欲望のかたちは変えがたいものだ。それがどれほど一般的な倫理に抵触していようとも「好きなものは好き」だし、「萌えるものは萌える」としかいいようがない。まさに欲望は「平等や倫理など平気で無視してくる」のだ。
だから、たとえカレー沢さんの欲望のかたちが「太平洋戦争で餓死しかけ、帰還してからも悩み苦しむ兵士を見て強烈にセクシーな魅力を感じる」というものであるとしても、だれにも咎めることはできない。
もっというなら、そもそも「物語を楽しむ」とは「他者の喜びや苦しみを安全なところから傍観する」こと以外ではありえないのである。
しかし、同時に、ぼくはその欲望を「性癖」という言葉で表し、あたかも受動的にその「性癖」に動かされているかのように語ることに反対する。
なぜなら、ここで「性癖」という言葉で表されているものはほんとうはカレー沢さんの「人間性」であり、そこにはそれが成立するまでの経緯が存在するに違いないからだ。
カレー沢さんが「女の子がかわいそうなのは嫌」だったり、「男が苦しむのは好き」だったりするのは、決して彼女が生まれ持ったどうしようもない本能などではない。
つまり、言葉の本来の意味では「地雷」でもなければ「性癖」でもない。それは彼女がいままで生きてきた人生において培ってきた「価値観」にほかならなず、「性癖だからしかたない」などということはまったくないのと考えられる。
くり返す。どのような種類の欲望を持つことも自由である。太平洋戦争で餓死しかけてどうにか生きのびた兵士を見て「sexy」と感じることも自由だし、フス戦争や独ソ戦でレイプされた女性を見て「てぇてぇ」と感じることもかってだ。
そういった一見すると非倫理的とも思われる怪物的欲望をも孕んで生きているのが現実の人間なのであり、その複雑さと多面性を否定することは、仮に道徳的ではあっても、非文学的、非芸術的、非哲学的な態度に違いないことだろう。
だが、一方で「平等や倫理」を無視した発言をすれば、それに対する反発をまぬかれることはできない。
これは矛盾ではない。いままで縷々述べてきたように、どのような欲望を持つこともかってだし、発信するすらも自由だが、作品の形であれ感想の形であれ、いったん発信してしまえば批判や反発を避けることはできないという、いたってあたりまえの話なのだ。
つまり、どれほど「好き/嫌い」だけを語っているつもりでいようと、どうしてもそれは「良い/悪い」とか「正しい/間違えている」の軸で判定されるのだといっても良いだろう。
ある作品なり発言について「誰かの萌えは誰かの萎え」であることを自覚して「好き/嫌い」の軸だけで判断しようというのは、あくまでその価値観を共有する者のあいだでだけ通用するルールである。すべての批判をこの倫理で避けることはできない。
たとえば、ひとりの同性愛者があるBL作品やその感想を「正しくない」と批判したとして、それを「誰かの萌えは誰かの萎え。自分にとっての地雷は自分で避けましょう」といって済ませることはできないだろう。
その人はその作品や感想が「(倫理的、思想的に)間違えている」ものであると批判しているのであって、「嫌い」だからそういっているわけではないはずだからだ。
思うに、ある人の価値観や評価基準をその人の人格から切り離し「性癖」や「地雷」という言葉で表わすことにはどうにも欺瞞がつきまとう。
そういった言葉にもとづく「オタクの平和構築理論」は同じ価値観を共有するオタクのあいだでは有効であっても、社会一般においてはまったく通用しないのである。
仮にぼくが差別的と受け取られる内容のマンガを発表したとして、それを「性癖は倫理や平等を無視しているのだからしかたないです」といっても通らないだろう。ぼくはそう考える。
ここまで読まれて、ぼくが「だから、そのような批判を受けることは書くべきではない」といっているのかと受け取られた方がいらっしゃるかもしれない。あるいはそのような人の人のほうが多いかもしれないが、ここではっきり書いておこう。「そうではない」。
ぼくは『ゲゲゲの謎』を見て「sexy」と感じることが自由であるのと同様、そう発言することもまた自由だと考える。たとえば『廣井きくりの深酒日記』を読んで大笑いしたと発言することも自由である。だが、その自由を享受するなら、責任から逃げるべきではないとも考える。
どのような対象にどう萌えるのも、そう発言することも自由だが、その発言内容に関し無邪気であること、無自覚であること、無責任であることは問題だということである。
つまり、悲惨な戦争の帰還兵に対する萌えを性的な表現をもちいて吐露することは好きにすれば良いが、それを単なる「性癖」として無条件に正当化することはできないし、自分が戦争の帰還兵が飢えて苦しむところを見て楽しむタイプの人間だという事実から目を逸らすべきではないということになる。
ここでのカレー沢さんが無邪気だとは思わないが、ときとして「萌えオタク」属性の人や「腐女子」属性の人にその種の無邪気さを感じることはある。それはおそらく、かれら、彼女たちの欲望が現実世界で抑圧されており、フィクションの世界でのみ解放されるからなのかもしれない。
だが、純粋な意味で現実と切り離されたフィクションなどどこにも存在するはずがないのだ。たとえば多くのボーイズ・ラブ作品のような荒唐無稽な内容であっても、現実の男性や同性愛と無関係ではありえないように。
表現の自由とは、その表現がだれかを傷つけ、踏みにじっているかもしれない可能性を承知した上で「それでもなお」発信する自由なのであって、無条件にイノセントでいられる自由などではない。何かを斬るなら、返り血は覚悟しなければならないのである。
いうまでもなく、その、だれかを傷つける可能性を少しでも減らそうと努力することはできる。そのような「改善」はしばしば「アップデート」という言葉で表現される。
たとえば、漫画家のヤマシタトモコさんが自身のBLを含む作品の「アップデート」について語っている以下のようなインタビューがある。
── どんなきっかけで、ポリコレを意識した作品づくりをするようになったのでしょうか?
海外ドラマにハマったことが大きいです。作り手たちが注意するポイント、関係者が発言したら問題とされること、「こうあるべきだ」と共有されている考え方、様々なアイデンティティ……。見聞きするものの幅が広がり、プラスそこに自分が今までフィクションに対して感じていたモヤモヤが結びついていきました。
── そこで「海外は大変だね」で終わる人もいそうですが、ヤマシタ先生は「そういう考え方もあるのか」と新鮮に受け止めたんですね。
だって、配慮されるべき社会的弱者や少数派は、日本にも事実として存在していますから。「私には今まで見えていなかった」と感じました。そこで「海外は大変」で終わってしまうのは、言葉はキツくなってしまいますが、やはり暴力的な考え方だと思います。
(中略)
── 特別なことをしているわけではない?
「あくまでも娯楽」という領分は超えたくないんですよね。私はいち読者として、コンテンツに傷つけられたくなかった。だから、自分も描き手として、誰かを不用意に傷つけてしまいたくない。かつて私が「自分はこの物語から締め出されている」と感じた寂しさを再生産したくない。「冒険に行けるのは男の子だけ」と誰かに思わせてしまうような物語を描きたくない。それは別に真面目くさった考えではなく、「こういう話を読みたいよね。自分でも描けたら楽しいだろうな」というだけの話なんです。
https://www.pixivision.net/ja/a/6481
ぼくは、基本的には彼女のこのような姿勢を評価するものである。「ポリコレ」という言葉を使用するかどうかはともかく「こういう話を読みたいよね。自分でも描けたら楽しいだろうな」というその感覚は理解も納得もできる。
しかし、その一方で彼女が「アップデート」されたと自認するその表現に対する意識には、やはりある種の無自覚さがひそんでいるのではないかという危惧を覚えないでもない。
作品を通して「誰かを不用意に傷つけてしまいたくない」のはわかる。しかし、そもそもその可能性をゼロにすることは不可能だということなのである。
たとえば、どんなにボーイズ・ラブ作品の内容を「アップデート」しても、そういった作品が存在することそのものに傷つき、苦しむ人もいるだろう。
あらゆる表現が本質的かつ原理的にそういった「暴力性」を孕んでいる。どんなに作品を「アップデート」したつもりでも、それで傷つく人をまったくなくすことはできないのだ。「自分の作品はちゃんとアップデートされているから安心」ということには永遠にならないのである。
ぼくは、だから人を傷つけるような表現をやめろとも、その反対に人を傷つけるような表現を避けようとすることは無意味だとも思わない。それはカレー沢さんの「sexy」という感想を述べることそのものに反対しないのと同じことである。
ぼくはただ、「創作であれ感想であれ、何かを表現し発信するときにはその表現の加害性、暴力性に対して無自覚であるな」と告げるだけだ。それはいい換えるなら、自分自身の抱える問題をまっすぐに見つめろ、ということでもある。
どんなに「ポリコレ」に配慮して「リベラル」な表現を試みたところで、「だれも傷つけない無害な表現」などというものはありえない。すべての表現は刃なのであり、「なるべく」だれかを傷つけない表現を試行錯誤することは有意義であるとしても、その試みが完全な成功を見ることはない。
その「アップデート」を「進化」という言葉に換えても同じことだ。たしかに、BLなどを含むエンターテインメントはおそらくこれからもよりリベラルな方向に「アップデート」し、「進化」していくことだろう。だが、それはべつに「より正しい方向に発展し人を傷つけなくなった」ことを意味しない。そのように思い込むことは危険である。
かつて、著述家でフェミニストの金田淳子さんがマンガ『刃牙』シリーズの一篇について「範馬勇次郎に伝えたい。レイプは本当にやめて」とTwitterで語ったことがあった。
ここでぼくがとまどわせられるのは、彼女が『刃牙』の性描写を批判する一方で、自身の性的な発言はまったく問題ないものと考えているらしいことである。
金田さんは『ジョジョの奇妙な冒険』作者の荒木飛呂彦さんに対し、自身の「BL妄想」を開陳したことで有名だ。孫引きになるが、以下のような内容である。
金田「(略)腐女子的には、というかわたしの中では、第六部でプッチ神父というディオのことを真剣に想っているキャラが出てきたところで「ディオ=姫」というのが完成したんです(笑)。娼婦のような立場から成り上がっていくんですけど、その過程で当然さまざまな男達に身体を汚されるわけですが、魂の気高さは失わないんですよね。そんなディオに心惹かれる一六歳のプッチ神父…。最初にディオとプッチ神父がしどけなく一つのベッドに互い違いに寝ながら会話するシーンが出たとき、目を疑うと同時に狂喜したわけですけど、あれは荒木先生としてはやっぱり狙ってのものだったんでしょうか?」
荒木「うーん、そういう風に受け取られるとはあまり思っていなかったかな。(略)」
(中略)
金田「そうですね。(略)俺は何百人もの男たちに慰みものにされてきたんだと。」
荒木「慰みものにされたかなあ(笑)。」
金田「されてますよ!(略)」
金田さんは「「週刊少年チャンピオン」を読む男性の中に「男性に性暴力を受けた経験がある人」が居ないとでも思っているのでしょうか。その人にとって今週のバキ道は呪いになるのではないでしょうか。」と語っているわけだが、ディオが「娼婦のような立場から成りあが」る過程で「何百人もの男たちに慰みものにされ」たという発言はだれの呪いにもならないとでも思っているのだろうか。
思っているのだろう、と考えるしかないが、どうしてそういうことになるのかは想像するしかない。
おそらく、少なくとも金田さんのなかでは、自身の発想は十分に「進化」し、あるいは「アップデート」されたものだと認識されているのだろう。それは範馬勇次郎の(そしておそらくは板垣恵介の)ウルトラマッチョな性的幻想とは質的に異なるものであり、「性暴力」などではないということなのだろう。
そのように自認しているからこそ、『ジョジョ』の実作者である荒木さんに対して平然と自身の性的ファンタジーを語れるに違いない。彼女にとっては、そのファンタジーはまったく後ろめたいものではないのだ。
だが、「慰みものにされ」たという表現から性暴力を連想しないことはむずかしいし、仮にそれをディオの純粋な自由意思にもとづく売春であるに過ぎないと捉えるとしても、だから性被害はなかったということにはならない。
セックスワーカーがしばしば強姦被害に合うことは客観的な事実だからである。そして「何百人もの男たちに慰みものにされ」たという表現から、性暴力の介在を意識しないことは困難だ。
ぼくが「無邪気」だと考えるのは、まさにこのような発言である。
女性の「感想」ばかり上げるのがアンフェアだとするなら、いまは具体的に提示できないが、男性の「萌えオタ」の美少女に関する性的だったり暴力的だったりする発言にも「幼児的無邪気さ」を感じることはあるといっておこう。
だから女性だけ、男性だけを批判するつもりはまったくないのだが、先述のカレー沢さんの発言も含め、男性であるぼくがしばしば女性たちの男性キャラクターに対する「感想」に違和を感じることは事実である。
ぼくはべつに、ディオで性的妄想をくりひろげるな、とは思わない。作者自身のまえで語ってしまうことはどうかと思うが、「そういう妄想は隠れてやれ」というつもりもない。
何度でもいうが、ぼくがいいたいのは、自分の性的だったり空想的だったりする発言がひとを傷つけるかもしれないことを自覚し、その上で述べよということであって、「黙れ」ということではないのだ。むしろ「黙れば良いという問題ではない」といっておこう。
だから、「世間から隠れる」というか「隠れたつもりになる」ことでそういった自分たちの隠微な欲望をそのまままったく無批判に温存しようとする姿勢にもぼくは反対なのである。
上記の記事では金田淳子さんを「フリークス」と呼んでいるが、たとえば『カードキャプターさくら』の性的妄想を嬉々として語る男性オタクが彼女と比べてよりフリークス的ではないといえるだろうか。
おそらくはだれもが程度の差はあれ怪物なのだ。だから、ぼくはいう。あなた自身の内面を見つめよ、その上で表現し発信せよ、と。
小説家の山本弘に『水色の髪のチャイカ』という短編小説がある。ある作家の作中の人物である少女「チャイカ」が現実にあらわれてその作家と触れ合うというストーリーなのだが、そのなかでその作家が「ぼくはサディストだ」といって物語のなかで彼女を傷つけてばかりいることを詫びる描写があった記憶がある。
山本さん本人の弁によると、この作家にはかれ自身が投影されているということである。あまりにもナイーヴな話ではあるが、ぼくはこのエピソードが嫌いではない。
あるフィクションに対し、作家の立場であれ読者の立場であれ真剣に向き合うのなら、あまりライトにカジュアルに消費することはできなくなるのではないかと思うのだ。
当然、すべては程度の問題にしか過ぎないし、だれもが「平等や倫理」を無視して作品を楽しむことに罪悪感を覚えるべきだということも変だ。
それでも、ぼくは思う。少なくとも自分自身は、作品に対しあたう限り真摯に、誠実に向き合いたいものだと。
それは、作品を「暴力的に」読み、語らないということではない。決して自分の行為が暴力的であることから目を逸らさないということである。
その境界は必ずしも明瞭ではない。しかし、ぼくはある作品をひたすらに気持ち良く消費しようとは思わないし、もしそうすることが「オタク」であるというなら、オタクでなどなくてもかまわないと考える。
ぼくは自分の「性癖」に合っているものというよりは、やはり「良い」もの、「優れた」作品にこそふれたいのだ。その意味で「地雷」とか「性癖」という言葉はぼくにとっては意味を為さない。そのような分類とは異なる価値観で作品を判断するからだ。
もちろん、ぼくにも嫌いな作品、受け入れがたい作品はある。だが、それは「地雷だから」「性癖だから」受け入れられないわけではない、と捉える。それが自分自身の人格と個性の問題なのであって、たまたま地雷を踏み抜いてしまったわけではないと考えるわけである。
その意味でぼくは「古いオタク」なのかもしれないが、それならそれでかまわない。
すべてのオタクは、あるいは人間は、どこかしらモンスターなのである。その怪物性を、直視せよ。どこまでも、まっすぐに。
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]]>もうすでに一時的な流行は去ってしまった感もあるが、ソーシャルメディアではいまも「異世界転生」が話題である。その是非を巡ってきょうも不毛とも思える論戦がくりひろげられている。 で、なぜ「異世界転生」なのかというクエスチ […]
The post 小説家になろうにおける異世界は「異」世界ではなく異「世界」である。 first appeared on Something Orange.
]]>もうすでに一時的な流行は去ってしまった感もあるが、ソーシャルメディアではいまも「異世界転生」が話題である。その是非を巡ってきょうも不毛とも思える論戦がくりひろげられている。
で、なぜ「異世界転生」なのかというクエスチョンに対しては、いろいろなアンサーが考えられるだろう。「氷河期世代」や「失われた30年」といった現実社会の事情に対応しているというのもそのひとつだし、あらゆる願いが奔放に叶う場所として「異世界」が要請されているという考えかたもあるはずだ。
ぼくは、そういったひとつひとつのアンサーを否定するつもりはとくにない。ただ、時々、それらとはちょっと違う考えかたを思い浮かべることがある。つまり、もう「異世界」くらいしか冒険の舞台がないのだよな、と。
かつて、神話の時代、世界は十分に広く、冒険の舞台にあふれていた。なぜなら、個々の人間の視野はあまりにも狭く、その外に何が広がっているのかだれも知らなかったからである。
自分たちの視野の外にあるものは、ただ想像するしかない。したがって、その狭すぎる視野の外の全世界は冒険と物語の舞台になりえた。そうやって、ありとあらゆるヒーローたちの空想物語が紡がれたわけである。
それはどこか遠い国を舞台にしていることもあったし、そもそも人里から遠く離れた場所で展開することもあっただろう。いずれにしろ、冒険することができる場所はいくらでもあったわけだ。
それは都市文明が発達し、国家の版図がより広くなった後もそれほど変わらなかっただろう。たしかに、国内の事情はそれなりに知れたかもしれない。だが、どこか遠いところにはまだ恐ろしい怪物がおり、人跡未踏の魔境が広がっていると想像することはさほどむずかしいことではなかったはずだ。
たとえば『西遊記』などはそういう時代の物語と見るべきではないか。つまり、一歩国境を越えれば、そこはまさに神秘の世界、なぞめいた国々が広がり、信じられないようなアドベンチャーの余地が十分にあると想像することが可能だったといえる。
しかし、それからさらに幾百年の時が経ち、近代に入ると、事情は変わってくる。どこか遠いところにある国々もしょせんはこの世の範疇にあり、怪物だの魔物だのはどこにもいないのだとしだいにわかってきたからだ。
この時代にはたとえばヴェルヌの『八十日間世界一周』や『十五少年漂流記』といった物語が紡がれたが、それらはある意味では「世界が狭くなった」ことを前提とした作品だったといって良いだろう。
たった80日間で一周できてしまう世界! それはかつての神話時代の世界と比べてなんと狭苦しくなってしまったことだろうか。
そこら辺りの事情は20世紀に入るとさらに加速し、世界各地に人間の目が行き届くようになる。もはや人の目がとどかない無人島やら大陸などもなかなか信じづらくなっていく。
パルプフィクション雑誌にクラシックな異世界ファンタジーが多数あらわれてくるのは、このような時代である。もっとも、初期のヒロイック・ファンタジー小説は、超未来やら超過去が舞台であることも少なくなかったようだ。
たとえば、ロバート・E・ハワードの有名な『コナン』シリーズや、クラーク・アシュトン・スミスの諸々のダークファンタジーは太古のアトランティス大陸が海に沈んだあとの時代やら、はるか未来の暗黒時代を舞台としている。
また、エドガー・ライス・バローズの『火星シリーズ』や、C・L・ムーアの『ノースウェスト・スミス』のように火星や水星が舞台となっている作品もある。この時代、まだそういった遠い惑星は、ある程度はどのようなふしぎな光景がひろがっているのかわからないものと考えることが可能であったのだ。
こういった遠い過去未来の世界や、火星水星といったところは、古典的な意味での「異世界」だといっても良いだろう。また、同じバローズの『ターザン』や『ペルシダー』シリーズのように、アフリカのジャングルやら、地球の内なる空洞世界を舞台とするパターンもある。
これらも、ようするに「異世界」のようなものだ。この時代はまだどうにか地球のどこかに「異世界」が存在することを想定できたのである。
この流れはおそらく昭和の日本で小栗虫太郎の秘境ものへとつながり、栗本薫がそれらのオマージュとして『魔境遊撃隊』を書いたりするのだが、つまりは「いまではない時、ここではない場所」をこの地球というか宇宙のどこかに求めることが可能な時代だったということになるだろう。
しかし、さらにさらに科学が進み、遥かな過去や太陽系の他の星々についてまで知見が溜まって来ると、もうほんとうに「異世界」しか冒険の場所がなくなってしまったのだと思える。
20世紀の後半にはトールキンのミドルアースやらルイスのナルニアやら、ル・グィンのアースシーやらが爆発的に読者を集める。そして、『ドラゴンランス』やら『氷と炎の歌(ゲーム・オブ・スローンズ)』やらを経ていまの「異世界もの」のブームに至っているわけである(『氷と炎の歌』の舞台はどこか遠い惑星なのかもしれないけれど)。
いまではあたりまえのものとなった異世界転生ファンタジーは、「世界が狭くなり、冒険するべきところがなくなった」結果として生まれてきたものだと思うのだ。
もちろん、いまでも現実世界を舞台とした冒険ものがまったくなくなったわけではない。アーバン・ファンタジーなどというジャンルもあるようだ。
だが、やはりほんとうに自由奔放な冒険を望むなら、どうしても現実世界は狭苦しくなってしまっていることもたしか。そういうわけで、どのような条件を好き勝手にさだめることも自由な「異世界」が望まれることは必然であったのだろう。
このような「異世界もの」は、山本弘や野尻抱介といったSF作家たちからオリジナリティが欠如しているということできわめてしんらつな評価を受けたりしている。だが、その一方で鏡明や水鏡子といったSF界の重要人物がとても肯定的に受け止めたりもしているようでもある。
つまりは、ネット小説的な文脈での「異世界」に真の意味での「異質な世界」を求めるかどうかで評価が異なってくるのだろう。
ネット小説における「異世界」は、ひっきょう、「ほんとうに異質な世界」ではなく、そういったものをめざしてもいないというのがぼくの認識である。いわば、大切なのは「異(質さ)」ではなく「(冒険の舞台となる)世界」なのだ(この点、伝わっていないようだったので書き換えました)。
「異世界」はあくまで異質でなければならぬ、オリジナルでなければならぬと考える人たちにとって、いわゆる「ナーロッパ」的な世界はいかにも物足りなく感じられるだろう(このあいだ騒動になった『大転生時代』の作家もあきらかにこの種の人物だ)。
だが、ネット小説における「異世界」は、もっと手軽に、カジュアルに冒険や日常を楽しめる「現実と地続きの世界」と捉えるべきなのだろう。
それにもかかわらず、いちど死んで「転生」することがある種の作法として求められるあたりが趣き深いが、とにかくこれらの「異世界」はトールキンのミドルアースはもちろん、『ドラゴンクエスト』のアレフガルドとすら違う世界と見なければならない。
それが良いことなのか悪いことなのかぼくには判断がつかないが、とにかくネット小説における「異世界」は、クラシックファンタジー小説における「異世界」ともまた異質なのだ。
そこら辺の事情を無視して、「異世界転生もの」にクラシックファンタジーの魅力を求めるとおかしいことになる。ぼくはそう考える。
神話の時代から幾星霜、世界は冒険の場所としてはあまりに狭くなり、ぼくたちは「異世界」へ引っ越すしかなくなった。そして、その「異世界」すらも初期のファンタジー小説の頃とは変質した。
ネオフォビア的に「古くてなじみのあるもの」を是とするならネット小説など他愛ないごまかしの産物としか思えなくなるだろう。だが、そこにはやはりそういった表現を生み出すに至る必然があると考えるべきなのである。
初めに書いたようにその必然性を社会情勢に求めるか、あるいは願望充足に求めるかは人それぞれではあるだろう。だが、ともかく、ネットの異世界小説は何らかの理由があって生み出されてきた「あたらしい表現」なのであり、古いロジックでそれを一刀両断にすることはできない。
ここが、たぶん古いSFやファンタジーのファンにいちばん通じにくいところなのだろう。異世界ものは、クラシックファンタジーがそうであるような意味では、ファンタジー「ではない」のである。
ぼくはそれはそれで良いと考える。いつかは、こういった「異世界」の魅力も完全に色褪せ、みな、どこかべつのところでの冒険を希求するようになるだろう。
それはそういうものなのだ。いままでも続いてきたことが、さらに続くだけのこと。世界は狭くなり、異世界すらもいずれ手狭になる。そうして、ぼくたちはさらに見知らぬ場所をめざす。それで良いではないか。ぼくは、そう信じる。
そういうわけで、サブスクリプション会員制度を入れてみたのだけれど、どうなんだろう、これ。まだどう使いこなしたら良いものなのか良くわかっていない。とりあえず今回はテストです。よろしくお願いします。
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]]>このポスト、X(Twitter)を見ていてめずらしく「ほんとうにその通りだな」と思ってしまった。 そう――「普通」という概念は、ときとしてまさに暴力である。何か、あるいはだれかを「普通」と捉えることは、必然に「普通じ […]
The post 正義の味方は男性の味方でも女性の味方でもありえない。 first appeared on Something Orange.
]]>このポスト、X(Twitter)を見ていてめずらしく「ほんとうにその通りだな」と思ってしまった。
そう――「普通」という概念は、ときとしてまさに暴力である。何か、あるいはだれかを「普通」と捉えることは、必然に「普通じゃない」モノやヒトを生み出し、それらを「異常」な存在として見下し差別することに繋がるわけだ。
たとえば、異性愛者が多数を占める社会では同性愛は「普通じゃない」セクシュアリティのかたちとして非難や嫌忌の対象となる。あるいは、学校出身者が多数である世の中では学校に通わない人間は批判される。
いくらでも例が挙げられるだろうが、ぼくたちが生きている社会では少数派はたいてい肩身の狭い思いをするものなのである。
もちろん、じっさいには「マジョリティ」と「マイノリティ」の区分はシンプルに数によって決まるわけではなく、権力の有無などが微妙に関わって来ることだろう。
中世ヨーロッパの社会において王侯貴族はあきらかに少数派だったが、だからといってかれらが社会的弱者だったとはいえない。何らかの強大な力を持っていれば、たとえ少数派であっても大きな顔ができるわけだ。
それでは、ここで例に挙げられている「オタク」はどうだろう? その表現でより立場の弱い他者を抑圧するマジョリティだろうか? それとも社会の「普通」にしいたげられるマイノリティだろうか?
これはじっさい、微妙なところではあるだろう。たとえばこれが30年前だったら、あきらかに弱者としかいいようがなかったわけだが(まあ、これも認めない人もいるだろうとは思うけれど)、現在、オタクとオタク文化は一般化し、勢力を増し、「その場面によっては」多数派とかマジョリティといっても良い立場に立つことも少なくないだろうと思われる。
しかし、急いで付け加えておくと、だからといって「いつも」強者として振る舞えるわけではない。時と場合によっては、やはり弱者とか少数派としかいいようがないことになるに違いない。
何かの本で読んだのだが、人間のふるまいにはシミュレーションゲームでいうところの「地形効果」が働く。つまり、その場所が自分にとって適したところであるかどうかによって発揮できる能力が変わってくるのだ。
したがって、常時明確な「マジョリティ」とか「マイノリティ」というものはいない。いい換えるなら、ある「属性」が「強者」か「弱者」か、「普通」か「普通じゃない」かもいちがいに決められないということになる。
ぼくは現代の社会問題を考えるとき、最もクリティカルなポイントはここだと思う。
たとえば、「女性」がいつでも明確に弱者であるのなら、女性の権利を回復することは当然の正義といえる。しかし、現代社会においては「つねに」男性が強者で女性が弱者だとはいえないだろう。
おおまかに見たらまだ女性が弱者である場合のほうが多いかもしれないが、だからといって女性はいついかなるときも弱者であるとはいい切れない。
もちろん、逆に男性がそういう意味での弱者だということもできそうにない。強弱はその時々の状況によっていくらでも変わりうる、したがって何が正義であるのかも無限に変わるのである。
ネットで正義と正義がいつまでも果てることを知らない戦いをくりひろげる最大の理由もこのあたりにあるだろう。
ある人は女性こそが弱者だといい、女性の権利を回復することが大切だという。またある人は男性こそが弱者なのであり、男性にとってより良い社会を実現することが必要だという。
そのいずれもそれなりに説得力がある意見であるわけで、しかもどちらも自分の意見「だけ」が明確な正義であると考えている。これでは、折衝も和解もなしえるわけがない。
だれもが自分(たち)は被害者のつもりで、不当な目に遭っていると認識し、正義と公正を求めているにもかかわらず、その認識そのものが対立しているのである。
ロールズの『正義論』を読んだ人なら、有名な「無知のヴェール」という概念を知っているだろう。
ぼくもいちおう知っているのだが(むずかしくてよくわからなかったけどね!)、現実世界ではまったく無知のままで善悪や強弱を判断できることはまずありえない。どうしても「既知のバイアス」を通して人を見るしかない。
だから、ロールズが考えたような意味での正義はいつまで経ってもなかなか実現しないようにも見える。ただただ、それぞれの人がそれぞれの「地形」における正義を主張し、対立と相克が深まっていくばかりなのである。
オタクもそうだ。オタクはたいていの場合、自分たちを「普通じゃない」とみなされる「弱者」にして「マイノリティ」であり、「普通」な人たちから抑圧されているものと捉えるだろう。
仮にこれは「その通り」だとしよう。だが、その憐れむべき身の上のオタクたちにしても、オタク性以外の属性をたくさん持っているわけであり、その属性においては加害者であったり、抑圧者であったりするかもしれない。
あるいはもちろん、より現実的にはオタクという属性のまま、より弱い立場の人間を抑圧していることも十分にありえる。
たとえば、こどもをもつ女性などがなにげなく「性的に思える内容の作品を子供に見せるのは不安だ」などとポストしたとして、尋常じゃない数のオタクが押し寄せて「表現の自由をわかっていない!」とか「子供の権利を抑え込もうとするクズみたいな毒親乙」などとリプライを寄せることは現実にありえることだと思うが、この場合、いずれが抑圧者でいずれが抵抗者なのか判断することはむずかしい。
ぼくは「いつも」オタクが正しくて「フェミ」やら「社会学者」とみなされた側が悪であるというふうには考えないからだ。
正義は時と場合によっていくらでも変化する。だれがより正義にあたいするとか、しないとかと固定的に考えることはできない。固定的に考えると、必ず党派性に行き着き、正義の実現から遠ざかっていく。
しかし、現実には「男はみな暴力的な生きものだ」とか「女はだれもが卑劣で醜悪だ」といった固定的かつ党派的にわかりやすい言説を唱えることのほうがよほど安全だろう。すくなくともある属性の人たちはつねに味方でいてくれることになるのだから。
だが、それはどうしてもそのつど変わる正義を無視することになる。正義の味方とは「その場合における正義」の味方なのであって、ある固定的な立場、たとえば男性の味方でも女性の味方でもあるはずがない、あってはならないのだ。
ある男性が不当な目に遭っているときはその男性の味方になり、べつの女性がひどい目に遭わされているときはその女性の味方になるのが真の正義の味方なのであって、常時、特定の属性の味方になることはほんとうは正義に反する。
もっとも、このような意味での正義を貫き通すことは生身の人間にとってひじょうに困難なことで、正直、ぼくも実践できるかどうかわからない。というか、たぶんできない。
人間はどうしても自分に近しい属性に親しみを感じ、遠い属性には不信を覚える。パーフェクトに中立な立場を維持することはそうかんたんなことではないのだ。
アニメやゲームで『Fate/stay night』を体験した人は、あの物語のなかで「正義の味方」を実現しようとした若者がどのような目に遭ったのか、記憶していることだろう。正義の果てに待つものは孤高である。
「正義の味方」は正義「だけ」の味方なのであって、「だれかの味方」ではありえない。だから、その傷つき、苦しんでいる「だれか」にとっては完全に信頼できる相手ではないのである。
そう、結局のところ、「正義の味方」は孤独だし、孤独でなければならない。それこそ、自分を「普通」とみなし、「普通じゃない」ものを見下すことが許されないのが正義を貫くことなのだから、いつまで経っても「普通であることのしあわせ」は手に入らないわけである。
さて、ぼくたちはあくまで「正義」に味方するべきか、「特定の属性」の味方であるべきか。現実的には後者であるべきだろう。どう考えても、前者の道はあまりにもけわしい。
それでも、あくまで「正義だけ」を貫くべきだと考えるなら――ぼくもいちおうはそうなのだが――どこまでも個々でやり抜くしかない。
群れて、党派性のとりことなった瞬間に正義は死ぬ。ほんとうに正義を実現したいなら、右からも左からも石が飛んでくるいばらの道を覚悟しなければならない。正義とは、とにかくそういうものなのだ。
ぼくは、それでもやっぱり自分が信じていることを実現したいけれどね。
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