もちおさんと集合知の奇妙な冒険

ブコメでも書いたんですが、「エリートが集まって円卓会議で世の中をよくする」、というビジョンはまあいっても古典的ですよね。
もちろん集まって議論するのはいいことだしどんどんやれと思いますが、もちおさんがそもそも打ち上げた「集合知」というのは全然そういうものじゃありません。
優秀な者が集まって世の中を導くという考え方は哲人政治あたりから旧ソ連の計画経済まで根強くありますが、「集合知」というのはその弱点をおぎない、かつ超えるところにこそ凄みがあるし、20世紀の最大の発明とも呼べるわけですよ。
エリート主義の問題点は、彼彼女らが何をやっているかということを考えれば分かりやすいです。
エリートは状況を抽象化、モデル化し、そのモデルに従うように人々を指導、誘導します。
もちろん、うまくいくケースもある。目的が単一かつ明確で、状況に多様性や多面性が少ない時にはこれが大きな威力を発揮するでしょう(エリートがノブレス・オブリージュを持っているのも前提ですが)。
しかしながら、複雑な現実を相手にするとき、状況を抽象化し、モデル化すること自体に問題が出てくるのです。
それは世界の複雑性や多面性をそぎ落とすことですが、相手にしているのはそういう世界そのものなのだから、必ず取りこぼしやゆがみ、無理が生じるわけです。
じゃあ「集合知」とはなにか、それを解決できるのか。
必ずとはいえませんが、解決できる可能性がある、といったところでしょうか。
「集合知」といっても、ただみんなでワイワイガヤガヤやればいいわけではありません、それでは何も生まれず、エリート主義の方がまだましでしょう。
エリート主義の問題点はなんでしたっけ。複雑性や多面性を切り捨てることです。
では集合知はどうやってそれらを受けとめるのか?

1.まず沢山の、多様な立場・分野の人間が、誠実に自分のフィールドから自分の見方や意見を提出することが必要です。

別に天才やカリスマや超一流である必要はありません。普通のレベルで合理的でありさえすればいい。むしろ、強い影響を受けたり与えたりすると失敗します。扇動や嘘はご法度だし、もちろん空気を読むのもダメです。
多様な個々人が自分の足で立ち自分の頭で考えることが必須なのです。このことが、世界の複雑性をつかまえる第一歩になります。

2.次に、多様性をできるだけ反映したクラスターをつくります。

MECEでなくてよいし、入れ子状になっていても構いません。一人がいろいろなクラスターに入っていても構わない。多様性を個人のレベルで全て拾い上げるのはさすがに難しい。ですから、ある程度の集団にわけ、それぞれの場所で意見の集約を行うのです。
ここでは、各クラスターにおけるリーダーが必要になります。ただし、ここでいうリーダーは決してカリスマ的なものではなく、ドラッカーのいうところのリーダーシップに相当します。それはその場においてなにが必要で適切であるか、を集約する能力のことであって、人を煽ったり自分の好きを貫くことではありません。 

3.そして各クラスターにおいて集約された情報を持ち寄り、さらに上部のクラスターをつくっていきます。

この際も、上部のクラスターだから「エライ」わけではありません。そういう「役割」なのです。社会運営に必要なのはエリートでもカリスマでもなく、機能的なリーダー、というわけです。
この辺ですでに分かるように、ドラッカーのいうところの「分権化」とは集合知発動メソッドなんですね。
各クラスターから集約された意見をどのように実装していくかは、それぞれの問題によります。各クラスター内で処理できるものならばそうすればよい。これが自治です。また、複数クラスターの協力が必要な場合は、より大きな単位で対策にとりくむ。クラスター間で対立が起こる場合は、より大きな単位で考えるか、調停を立てる。


集合知とは民主制、市場、そして科学のベースとなるアルゴリズムなわけです。
もちおさんがもし本当にWeb2.0において集合知を実現させたいのであれば、これらの条件を整備する仕事をすべきでした。でも彼の発言を見るに、実際は集合知なんて嫌いなんでしょう。
日本のWebにとってもっとも「残念」なのは、「集合知」というせっかくの叡智が「ドーパミン」とか「動的平衡」のようなバズワードとして消費されてしまったことではないかなあ。