プロパガンダに長けたオウム真理教
オウム真理教は、写真、書籍、雑誌、音楽、アニメ、テレビ、ラジオ、インターネットなどあらゆるメディアを積極的に活用し、きわめて先進的なプロパガンダを繰り広げていた。そういうと驚かれるかもしれない。
だが、今日政治宣伝を意味するプロパガンダは、かつて布教を意味する言葉だった。この歴史に照らせば、省庁制を取り入れ、宗教国家さえ夢想したオウムほど、プロパガンダという言葉にふさわしい組織もないのである。
オウムの前では、巧みなプロパガンダで注目された過激派組織の「イスラム国」さえ、遅すぎたように思われる。
とはいえ、地下鉄サリン事件などから時間が経ち、オウムについても記憶が徐々に薄らいでいる。ほかの新興宗教、政治団体、テロリストが模倣しないとも限らない。
そこで、麻原らへの死刑執行を機会に、あらためてそのプロパガンダの手法を振り返っておきたい。
「空中浮揚」をうまく活用
そもそも教祖の麻原彰晃は、希代のプロパガンディストだった。
麻原は、1984年にオウム真理教の前身にあたるオウム神仙の会を設立した。そのころより、かれはメディアを強く意識していた。
当時、「ノストラダムスの大予言」のような終末思想や、ユリ・ゲラーのような超能力者が世間を騒がしていた。麻原はそこに着目し、1985年、オカルト雑誌の双璧だった『ムー』と『トワイライトゾーン』への寄稿を開始。みずからの「空中浮揚」の写真を掲載するなどして、会員の獲得に努めた。
『トワイライトゾーン』については、毎号のように広告を出して、連載枠を獲得したという(高山文彦『麻原彰晃の誕生』)。
麻原の活動はとどまるところを知らない。1986年には、週刊誌の『プレイボーイ』にみずからの「空中浮揚」の写真を掲載させることにも成功した。
これは、蓮華座を組んだ麻原が飛び跳ねているのを、カメラマンがそれらしく撮影したものにすぎなかった。ただ麻原は、外部のものによって自身の超能力が証明されたとして、この写真を全面的に利用した。
1987年に刊行された最初の著作『超能力「秘密の開発法」』はその象徴だった。麻原はその同書に『プレイボーイ』に掲載された写真を載せて、みずからの超能力を誇示したのである。
さらに麻原は、同年にはインドのダラムサラに飛んで、ダライ・ラマと接見。そのとき撮影したツーショット写真を本部道場のいたるところに貼らせた。自分は、ダライ・ラマともコネクションがあるという露骨なアピールだった。明らかに麻原は、写真の宣伝効果を知り尽くしていた。
こうしたメディア戦略が奏功して、オウム神仙の会は急成長した。同年半ばにオウム真理教に改称されたときには、会員数が1000人近くに上っていた。
できもしない「空中浮揚」を何度も利用している点からみても、麻原は当初から真摯な宗教者というより狡猾な宣伝マンだったことがわかる。