「比較歴史制度分析」

比較歴史制度分析 (叢書 制度を考える)

比較歴史制度分析 (叢書 制度を考える)



本書は,制度がどのように成立するのかについてゲーム理論の均衡分析をフレームにして考察し,それを中世経済史から検証してきたことで有名なアブナー・グライフによる,これまでの業績を総合した大著である.


これまでさまざまなところでマグレブ商人の閉鎖的な社会とジェノヴァ商人のオープンな社会がそれぞれどうエージェンシー問題に対応してきたかということがリファーされているのを見聞きしてきたが,グライフの論考はその引用元ということになる.彼は歴史学の訓練を受けた経済学者で中世文書の原典に当たって中世商人がどのようなインセンティブに基づいて行動しているかを明らかにし,それをゲーム理論モデルに組み込んで考察しているのだ.


このようなグライフの取り組みは「制度」というものを個別参加者の自己利益の極大化に向けた行動の集合体として捉えるもので,さらに短期的な均衡,長期的な動学にかかる考察もある.これらは個体,あるいは遺伝子視点での適応度極大化を考察する進化生物学的な取り組みと類似している.また検証として過去に生じた歴史事例を比較するという手法を用いているところも進化生物学の取り組みと似ていて,本書は進化生物学に関心があるものにとっても興味深いものになっているのだ.


最初に取り上げられるのはマグリブ貿易商とエージェンシー問題だ.マグリブ貿易商とは中世イスラム領域下(北アフリカ)で地中海貿易において活躍したユダヤ商人たちであり,同じユダヤ商人を遠隔地における代理人として利用していた.法的な強制力がない中で,代理人が横領背任などの本人への裏切り行為によって利益を得るようなことをしないのはなぜかが問題になる.(これは本人の立場から見ると,一般にエージェンシー問題と呼ばれる.これをそもそもなぜ取引が成り立つかという観点から見ると,代理人が「自分は裏切らない」という約束をどう信用してもらうかというコミットメント問題ということになる)
グライフの解釈は,ユダヤ商人たちは仲間内で「一度でも誰かを裏切った代理人は二度と雇用しない」ということを結託しており,代理人は裏切らないことが,商人は結託を守ることが,それぞれ自分の利益を極大化するようになっていたというものだ.
ここでの理論的に面白いところは,「ユダヤ商人は,自分の代理人が他の商人を裏切ったという告発をされたときに,たとえ彼を個人的には信頼しているとしても解雇する(結託を裏切らない)のはなぜか」というところだ.自発的エージェントによる制度の自然成立というフレームから見るとまさにここがポイントになる.グライフの整理は,「一旦ほかの商人から雇用されないことが明らかになった代理人は,より裏切りの利益が大きく(裏切っても裏切らなくてもどうせ他の商人からは雇用されない),彼が裏切らないようにするための賃金水準が跳ね上がってしまうからだ」というものだ.(継続的な代理人関係は裏切りがなくても確率的に終焉し,代理人は別の雇用先を見つけなければならないということがモデルの前提になっている)いかにもゲーム理論家らしい凝った考察だが,実際のインセンティブとしては仲間内での名声や制裁などの問題の方が大きいのではないかという気もするところだ.
またこのような制度が成立する条件としては,そもそもの商売関係以前の社会的なネットワークが重要だったことを分析している.


次の分析は,ドイツのギルドが,貿易相手の外国政府から収奪されたような場合に禁輸措置で対抗するという報復のコミットメント問題.抜け駆けする商人には大きな利益が生じるのでこれは重要な問題になる.基本的には抜け駆けした商人への懲罰(商人のホームベースドイツにおける不利な取り扱い)が有効であれば機能する.なお後日談として,ギルドは当初外国政府からの収奪に対抗するための組織として成功したが,その後大きな政治単位が成立し禁輸措置の脅しが不要になり,ギルドは寡占利益保証団体に変容したとされており,なかなか興味深い.


ここまでは短期的な均衡の問題だった.グライフはここから動的な問題にも踏み込んでいる.短期的にはあまり変わらないパラメータも長期的には動いていく.グライフは自己実現的な均衡解の範囲が狭くなっていく場合には制度は不安定であり,いずれ何らかの変容につながるのだと議論している.これはまさに動力学系における不安定解という概念に似ているだろう.
この例として説明されるのがジェノヴァのケースだ.ジェノヴァでは有力な氏族により政治支配が行われていたが,2大氏族間の緊張状態が政治を不安定にしていた.それはある程度以上ジェノヴァ経済が繁栄すると,コストのかかる抗争に訴えても政治的な独裁を目指すインセンティブが強くなるという構造になる.グライフによると,ジェノヴァはそのために2大氏族ともに当初一定程度以上の経済発展を望まない形になっており,実際に経済発展が制限されていた.しかし神聖ローマ皇帝の介入により(抗争を起こして得られるネットの利益が減少し)経済拡大のインセンティブが生じ,経済繁栄するようになった.その後神聖ローマ皇帝の介入がなくなると不安定な制度は継続できなくなり,長く続く内部抗争に突入した.その後両氏族にとってより望ましい第3者勢力を作るポデスタ制が導入され,ジェノヴァは一旦安定し,また繁栄の道を歩んだ.もっとも氏族の敵対関係という条件は残り,徐々に安定領域は狭まり,最終的には14世紀以降またも内乱を経験することになる.
見事な分析だが疑問も残る.抗争を起こすことが両氏族ともに有利になるはずはなく,負けそうな氏族は抗争を避けるのではないだろうか?たまたま均衡していて,かつ双方とも自分が勝つ確率の方が高いと考えていたということなのかもしれないが,このような抗争の場合に勝利(単に金銭的利益)と敗北(場合によっては一族の滅亡)では利得が非対称であると思われ,敗北のリスクを避けようとするインセンティブの方が強いのではないだろうか.


グライフは,以上のような血縁グループ抗争の解決がいかに難しいかを見ながら,ヨーロッパとイスラムの勢力の逆転について,ヨーロッパは血縁グループが機能する社会から,都市やコミューンなどの利害共同体がより機能するような社会に移行したことを重要視している.そしてそれはキリスト教教会が組織利益の観点から血縁的社会組織を弱体化させようとしてきたのに対し,イスラムはむしろ強化してきたという歴史的な偶然,初期条件に依存しているのだという議論をしている.
またグライフは初期条件の重要性に絡んで奴隷制の歴史についてもコメントしている.ヨーロッパではローマ法以来の伝統により,法は人が作るものという文化があり,それが奴隷制廃止を容易にした.イスラムでは法は神からもたらされたという観念が強く法制度の変更は容易ではなく,現在でも一部地域に奴隷制は非公式に存続しているのだと述べている.このあたりはヨーロッパの興隆原因の大きな歴史学上の議論にも絡むものなのだろう.ちょっと面白い.


グライフは続いてインセンティブ構造に大きな影響を与える要素として,「文化に根ざした予想」という問題を扱っている.マグリブはイスラムやユダヤの文化に乗っており,血縁集団による相互監視・報復が機能すると予想し,ジェノヴァ商人は個人を重視する文化から,あくまで個人間の取引履歴だけを問題にする商慣習以外の制度が実行可能とは予想しなかったという趣旨だ.そしてこのことが,マグリブでは裕福な商人同士のみネットワークに入れるという資産格差の大きな社会の原因となり,ジェノヴァでは誰でも成功の機会があるオープンな社会が実現できた.また個人主義的な商慣習は船荷証券や複式簿記などを作り出し,経済発展につながったとコメントしている.
このあたりのグライフの記述は,初期条件のわずかな差が大きな結果を作り出すという流れを強調している.これは現代的な視点で生物進化史を眺めているとある意味当たり前ということだが,歴史学においては「歴史的必然」というものを巡ってなおホットトピックなのかもしれない.


全体として,制度をヒトのインセンティブから説明しようというスタンスが貫かれていて大変面白い書物に仕上がっている.実際に政治でもビジネスでも,端から見て驚くほどお馬鹿な意思決定がなされることがあり,よく見ていくと,それぞれの関係者のインセンティブからは合理的な決定だったりすることが多い.これはまさに制度デザインの欠陥ということだが,同時に各参加者のインセンティブから制度を考えることの重要性を示しているものでもあるだろう.
中世ではそれが人為的なデザインであることはまれで自然発生的にできあがっていったわけだろう.数多くのうまくいった事例,行かなかった事例が歴史にはあるはずで,それをゲーム理論のフレームワークで捉え,歴史事実で実証していくのは知的取り組みとして興味深いものだと思う.日本でも江戸時代の様々な分析ができれば面白いだろう.(コミットメント問題に関しては,銭屋五兵衛のような商人と大名とのビジネスの問題などがすぐに頭に浮かぶ)


グライフの分析の難点は,商業的な利益の問題と,ルールの正統性のあいだが整合的に解決されていない点だ.グライフのフレームでは基本的に商人は金銭的なインセンティブに反応するが,それとは別にルールの正統性(正義か邪悪か,道徳的か)にも反応するという2元的なものに止まっている.これは結局ヒトのインセンティブが究極的に理解されていないところだと思う.実際には複雑なので多元的に整理しておくしかないかもしれないが,フレームとしては進化心理的に整理したいところだ.


大判でなかなか取り回しがやっかいな本であり,ところどころ冗長で難解な表現も混じっているが,歴史を見るフレームワークにぶれがなく,実証に取り上げられる実例も興味深い.数式やらモデルやらの表記は難しそうに見えるが,実は単に単調増加か単調減少かを議論しているような部分が大半でそれほど難解ではない.中世商人の世界に思いをはせながら制度デザインの議論の本を少しずつ読んでいくのはなかなか楽しい経験だった.


関連書籍

マグレブ商人とジェノヴァ商人の話が出てくる本としては例えばこのような本がある.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091030

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