95年エヴァンゲリオン文化圏の終わり−−知的な塹壕としての「ゼロ年代の想像力」スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」完結について

日常の忙しさに忙殺されてしまっていて、ブログの更新が滞ってしまった。とはいえ、この07年5月が終わってしまう前にどうしても書かねばならないことがあるのは、繁雑さに目がくらみつつも、大変喜ばしいことだと思う。
それがSFマガジンでスタートした宇野常寛「ゼロ年代の想像力」連載スタートと、よしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」の完結だ。
乙木個人としては、この二つと進行中のいくつかの事柄を合わせ見て、
「ようやくエヴァンゲリオンに象徴される、95年文化圏の終わりが来たな」
ということを深く感じてしまう。
群像新人賞評論部門でのあの「セカイ系論文」(いや、未熟だけどな)があったのも、ひょっとしたらこの5月という変転の前哨の一つとして言えてしまうのかもしれない(笑)
ま、それはともかくこのエントリでは感想をただ書くというよりは、宇野常寛「ゼロ年代の想像力」とよしながふみ「フラワー・オブ・ライフ」が如何なる所までを射程に収めているかについて語れたら、と思う。
つまり、この一評論と一漫画作品が「潜在的にどの程度の射程距離を含んでいるかを見抜く」ことが、それすなわちこの二作の直接的な評価でもあり、それはこの二作について語る論者の視野と射程距離にも直結してくると思うからだ。
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」を評して、東浩紀はそのブログにおいて

まだ連載第1回目なので、宇野さんの批評家としての実力のほどは判りません。連載の全体計画は示されていますが、僕の経験からすると、連載冒頭のそのような計画はたいてい崩れるものです。しかし、ともかくこの第1回は、刺激的な原稿だと思います。
Page not found | Hiroki Azuma 東浩紀 Portal

と述べている。
その意味に置いて、このエントリは宇野・よしながの射程距離もしくは視野がここまであるんだよとうことを指摘するエントリであると同時に、まだ連載が未完である「ゼロ年代の想像力」については、ここまで視野として及んで欲しいということを語るエントリである。
そう言った観点で、この二つの「知的な塹壕」を知ることは多くの点で意味があるはずだ。この07年の五月に出てきた二つの作品は、これをどう語るかによってオンタイムで論者の立ち位置を露わにしてしまうほどの意義があると私は思っている。
あ、画像は「グレゴリー伯を演じる真島海」を起用したぱふのよしながふみ特集からね。これ買ってないから買わなきゃ。
      ◆       ◆       ◆
まずは、SFマガジン7月号に掲載された宇野の「ゼロ年代の想像力」からだ。

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]


宇野はこの「ゼロ年代の想像力」の嚆矢として、99年の「バトル・ロワイヤル」を挙げている。
そこで私は、「バトル・ロワイヤル」の《裏》でもあり、同時に宇野の指摘する「決断主義的なサバイブ感」が敷衍していった好例の一つとして、01年に角川ホラー小説大賞優秀賞を受賞した桐生祐狩の「夏の滴」を挙げよう。この「バトル・ロワイヤル」「夏の滴」という両者の内容と、ここでの審査過程をみると世紀末の日本を席巻したブームとなったホラー小説もまた、宇野が指摘する趨勢にはからずも影響を受けていたことがよく分かるだろう。
宇野があげた「バトル・ロワイヤル」は、第5回日本ホラー小説大賞の最終候補に残ったものの、中学生が殺し合いを強いられると言うアクの強い内容が一様に審査員から不興を買ったことはよく知られている。

荒俣宏「非常に不愉快」
林真理子「こう言う事を考える作者が嫌い」
高橋克彦「賞の為には絶対マイナス」

はっきりいってボロクソの言われようである。悪評もまた評判の一つであるため、これが逆に興味を引く原因ともなって書籍・映画が大ヒットになったことは有名だ。
ところが「バトル・ロワイヤル」のわずか3年後にホラー小説大賞において優秀賞を受賞した「夏の滴」は、構造的には「夏の滴」は、「バトル・ロワイヤル」と非常に似通っているという点が面白いのである(文章は「夏の滴」の方が圧倒的に上手い)。

夏の滴 (文芸シリーズ)

夏の滴 (文芸シリーズ)


ホラー小説「夏の滴」は、田舎の小学校を舞台にしたノスタルジックな雰囲気ではじまる。しかしながら《不自然に優遇される障害者の同級生》と、《理不尽にいじめられる少女》が存在する小学校での「教室政治」が描きはじめられるに従って、物語はノスタルジックという路線を大きく外れはじめる。町おこしの失敗によって破産して町を去る友達が描かれていく内に、大人たちが企む恐るべき金儲けの陰謀が明らかになってくる。
子供の臓器売買をはるかに越えるおぞましい結末へとつながっていくストーリー展開は、乙木的には3年前の「バトル・ロワイヤル」よりもはるかに恐いものに乙木には思えた。
これ以降も桐生祐狩の作風として
「大人が子供に理不尽なゲームを押しつけてくるのは前提だ」
「無垢で無知な者は、より高次からゲームを行う者によって《喰いもの》にされざるをえない」
「闘わない子供は、親によって設計・建設された《失敗した世界》の滋養として殺される」

という作品を描き続けることとなる。
こうした「親の子供への憎悪」というのは、95年文化圏における「子供による親の否定」や「少年犯罪への報道スポットのあたり方の変化」にも並ぶ形で、なんか嫌な世相だなぁと感じた記憶が私自身にもある。
桐生は、子供の生き生きとした生活を描写するのが非常に巧みであり、その上手さは恩田陸・宮部みゆきと並ぶほどと、私は評価している。「夏の滴」が賞に選ばれたのも、多分にその描写力に依っているものの、「親から押し付けられた、子供同士のサバイバルバトル」という同構造を持った「バトル・ロワイヤル」が悪口雑言の限りを尽くすほどに審査員から嫌悪されたのに対して、わずか3年後の「夏の滴」では、それが称揚されるという《審査員側自身の変化》、この二作を対照させた上で非常に興味深かったのを覚えている。
この両者とも、宇野が言うところの「サバイブ感」=「クラスの中でのサバイバル」「親が設計に失敗した世界での生存競争」が大きなテーマとなっているわけだが、これまた面白いことに、この雰囲気がホラー小説に及び、それを審査員が評価するようになったのとほぼ同時に、この桐生祐狩の受賞以後、角川ホラー小説大賞自体が、ホラーとしての力を失っていってしまう。これは賞自体の耐用年数が切れたことともあいまって、ある種、象徴的だった。
それは空想上のホラーよりも、現実での苛酷なサバイバルの方がより恐怖的になってくるのを如実に示しているようだった。こうしたこと自体に私が気が付いたのも、後知恵でしかないけれども、これもまた宇野が書く「ゼロ年代の想像力」の射程に収まるようであり、覚えておくに価する事だと思う。
ちなみにこの後、ホラーという小説ジャンルは、ティーン誌での平山夢明の活躍に見られるように実録怪談モノのさらなる隆盛=ケータイ小説化と、マニアックなサブカルチャーへと二極化していき、時代の最先端の座からは降りてしまう*1。
さて余談であるが、アンテナが極めて高い作家だった桐生祐狩は、出渕裕版エヴァンゲリオンとも言える「ラーゼフォン」に参加した後、「物魂−ものだま−」「小説探偵GEDO」という、これまたまったく別視点から斬り込んでいく新しい小説を書いてゆくこととなる。前者は「オタク第一世代と第二世代の和解*2」、後者は「小説のキャラを救うメタ探偵小説」である。
これらは非常に面白くて、ある種、メタ視点での現代性というのを補強しているのか破壊しているのかすら容易には判じ難いという不思議な小説群になっており、色んな意味で一読をお薦めする。……ま、桐生も天才型の小説家だからなぁー。
まだ宇野の「ゼロ年代の想像力」第一回しか書かれていないため、今後、どのような形で現代のサブカルチャーの現代を語っていくのかというのか、今後の楽しみにしていきたい。
【備忘メモ:「ゼロ年代の想像力」への言及】
人生という憂鬱のためのアーカイヴズ
TonioKの日記
『ゼロ年代の想像力』 - すべてはゼロから始めるために
物魂―ものだま (ハルキ・ホラー文庫)

物魂―ものだま (ハルキ・ホラー文庫)


小説探偵 GEDO (SFシリーズ Jコレクション)

小説探偵 GEDO (SFシリーズ Jコレクション)


      ◆       ◆       ◆
そしておそらくは、「ゼロ年代の想像力」において、最も重要な作家として語られることになるのが、よしながふみであるのは間違いない。
現時点におけるよしながふみの最高傑作が、この「フラワー・オブ・ライフ」である。
「大奥」ほか、よしながが今まで描いてきた作品には珠玉の傑作が多いが、その中においてもっとも現代的なテーマを描いたコミックスとして無視できないのが本作である。
ここで描かれたストーリーとテーマは、おそらくは最低でも3年間は、これからのゼロ年代の作品が目指すべく頂(いただき)として君臨するのは間違いないし、もし何らかの形で優れた形でドラマ化されればより一層の幅広さを持っていくに違いない。
……いや、本当にベタ褒めするしかないのだけれども、ここに扱われているストーリーに内在された問題意識の射程距離は本当に長く広い。
まだ消化しきれていない私が本作のテーマを一言で述べることは難しいが、それでもあえて一言で言うのであれば、
《セカイ系や特別な自分》を包含し癒し包み込む、『日常の豊かさ』を見つめ直そう
というのが大きなテーマだ。……いや、この一言ではあまりにこぼれてしまう物が多すぎて、自分の語彙と時間の少なさを痛感する。
たとえばそれは、
優越感ゲームに陥りがちなメタ視点・メタ批評ではなく、多視点・群像劇的な視野こそが閉塞感を打ち破る
と言っても良いかもしれない。
正直なところ、脇役キャラクター一人一人に配分されている物語の奥深さを見ていくだけでも、よしながが到達している頂(いただき)の高さに目がくらむほどである。
このキャラクター毎に述べられている命題を一つ一つあげることは後に譲りたいと思っているが、ここで主要登場人物の一人である、《オタクの完成形・真島 海》を語ることには意味があるかもしれない。それは「本田透」というオタク評論家の有り様に対する一つの解決法の提示ともなってしまうからだ。
真島 海は、老け顔ではあるが、いかにも生徒会役員をやっていそうな美形。小学校までは難しい本を読んで学校の生成も良かったのだが、中学時代にアニメ・コミックに嵌ったことによって完全にオタク化。三次元にはまったく興味のないアホで傍若無人かつ鬼畜なオタクとなっている。実際問題として、他のキャラクター紹介の欄には長所・短所がキチンと記されているものの、真島においてだけは、

長所……むずかしい……………

と記されている放置っぷりである。
しかしながら、ちゃんとストーリーを読み込んでいれば判るとおり、真島は明らかに変人ではあるのだけれども、キチンとした長所をよしながふみは描いている。それは

「迫害を受けている孤独な人に敏感」で、
「そうした人に壁を作ることなく優しく対応し、長所を引き出せる」

という能力だ。
実際にそうした視点で見てみると、「フラワー・オブ・ライフ」内においては、主人公の一人である三国も、少女漫画家としての才能を開くことになる武田も、不倫で苦しんでいた滋も、その救済の切っ掛けとなったのは真島の「侠気?」(むぅ、違和感ばりばりだが)ある最初の行動であったりするからだ。
こういた被迫害者への優しい視線というのは、実は本田透が「電波男」においてブサメンによせるシンパシーと非常に近いものである。こういった視点をかなり前からよしながは持っていたわけで、そこは非常に面白い。
と同時によしながは、真島が持つ欠点をもつよく指摘する。
それは関係を持った途端に《囲い込み》《支配し》《動員する》という、きわめて男オタクにありがちな欠点である。
その結果、いつも相互的な関係を作ることに失敗してしまい、真島は貧乏くじを引いてしまう。「フラワー・オブ・ライフ」においても主役三人組の中では登場シーンの最後の一コマにおいて、他人の気持ちを察するという可能性を示すだけの成長に留まってしまい、結果的にラストシーンで春太郎・三国と一緒に桜吹雪の中を歩くシーンからは省かれてしまう。
「フラワーオブライフ」は1年という短いスパンで描くことで、「リセットの効かない時」を描写したワケだが、1年というスパンでは真島の成長までも書ききることは不可能だったのだろう。
これは連載をもっと長くすれば良かったと言うよりも、逆に「1年では真島の成長を描ききれない」と暴露することによって、真島に象徴される男オタクのもつ病自体の重さを逆説的に描出していることに成功している。これは非常に面白いと思う。
この真島 海=本田透命題と同じように、「明らかによしながの視野に入っているが、むしろそれを放置することで、病の重さを描写しているキャラクター」というのが、もうひとつこの「フラワー・オブ・ライフ」には存在する。
それは「引き籠もり=ニート」として存在を明示されながらも描かれなかった春太郎の同級生・辻の兄である。春太郎の姉も「引き籠もり」であり、その立ち直りと挫折はこの4巻において非常に大きく扱われている。
それが4巻の最終回1回前における驚愕の展開を生み出す引き金になってしまうわけだが、この二人の引き籠もりに対して、よしながは4巻巻頭での春太郎の母でのエピソードにおいて、引きこもり本人と、それを許している親の誤った優しさという問題点を厳しく指摘しながらも、あえてそれを解決まで描こうとはしない。
これはある種、よしながの「引き籠もりやニートに対する厳しい態度」と「ある一定線以上での見放し」を象徴していると私は思う。
これは明らかに計算された距離感の取り方であり、おそらくは現実的・最終的にも「一定ラインでの引きこもりの切り捨て」にいたらざるを得ないといった「引き籠もり問題」に対する、一つの回答への距離感の取り方として上手いなと感心させられる。
くそう……いくら書いても、このよしながふみの現時点における最高傑作を解釈するには時間が足りなすぎる……。
もしまだよしながふみの「フラワー・オブ・ライフ」を読んでいない人がいるならば、ぜひ一読をお薦めしたい。
「フラワー・オブ・ライフ」には今後数年以上に渡って、コンテンツ業界のテーマを引っ張っていくほどの《驚くべき先進性》があるからだ。
「読める人」であればこそ、そこにいくつもの現代的なテーマの解答を見出すことが出来るに違いない。
そしてすばらしいことに
「読めない人」であっても「失敗の多い平凡な日常でさえ、豊かな幸せがあるな」と思わせてしまう圧倒的なストーリーテリングの巧さが本作にはある。
この巧さをどう表現したらいいのだろう? メタファーで語ることが許されるのであればそれは下記の通りである。

「新世紀エヴァンゲリオン」「最終兵器彼女」「イリヤの空 UFOの夏」といった作品は、ポストモダン的な状況下において、セカイvs自分の最終戦争に持ち込んで境界線のアチラ側への不帰の旅を経なければ《純愛》《トラウマの克服》《少年の成長》etc.を描くことが出来なかった。だからこそ「リセット」「ループ」という《補填的・担保的な構造》を、セカイ系に足をおいた評論家が重視しすぎるのはここに理由があると思う。
それに対して、よしながふみは多視点的ストーリー構築と、連続した静の状態でキャラクターの表情を描くコマ運びといった巧緻なテクニックによって、境界のアチラ側へ行かずに踏みとどまっている日常生活においても、《純愛》《トラウマの克服》《少年の成長》etc.を描出できてしまうに至ったのである。勿論、リセットもループも無しで。

宇野の「ゼロ年代の創造力」今後の連載において、いくえみ綾と重なる形でよしなが解釈にも至るようであるが、それがより良い形でよしながの新しい読み方へもつながっていくように願う次第である。

フラワー・オブ・ライフ (1) (ウィングス・コミックス)

フラワー・オブ・ライフ (1) (ウィングス・コミックス)


フラワー・オブ・ライフ (2) (Wings comics)

フラワー・オブ・ライフ (2) (Wings comics)


フラワー・オブ・ライフ (3) (Wings comics)

フラワー・オブ・ライフ (3) (Wings comics)


フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

*1:まるでエヴァンゲリオンがパチンコ遊技台コンテンツになるのと奇妙な相似形を見せる

*2:まぁ桐生祐狩はと学会会員でもあるので、ある種、第一世代にとって都合の良い和解ではあるのだけれども、「オタクイズデッド」をもっとも先行して字義通りに小説化したという点で忘れられない