『ニセ札つかいの手記 - 武田泰淳異色短篇集』(武田泰淳/中公文庫)

 本書は、昭和24年〜38年の間に発表された短編集です。”異色”と銘打たれているだけあって、確かに不思議な読み味の作品ばかりが集められています。

めがね

 相手の本当の姿を見るためには眼鏡を掛けねばなりませんが、そうすることで自分自身は素顔ではなくなる、つまりは本当の姿ではなくなります。「眼鏡」というアイテムを通じて語られる男女の微妙な関係。さらには、眼鏡がとても高価な時代が舞台なだけに、それは儚くて脆い世界観の象徴でもあります。見えるは見えない、見えないは見える。眼鏡を掛けることで見えるものもあれば、掛けないことで見えるものもあります。本作は丁寧語による文体も特徴的ですが、皮膜に包まれたような表現は、そこはかとなく眼鏡を連想させられます。めがねフェチ・めがね属性を刺激する先駆的な作品です。

「ゴジラ」の来る夜

 したがって、ゴジラ的殺人の動機は、今までの推理小説の『動機』とは、まるでちがっています。我々にとって問題なのは、アレやコレやの動機などという、ノンキなものではありません。殺し尽くそうとする『彼』の絶対性、どうやっても改心させることのできない『彼』の、意志と行動なのです。ゴジラの殺意を、いくら批判したり、分析したりしても、何の役にもたちません。ゴジラが存在する、それが、絶対に防ぎとめることのできない『動機』なのですから。
 そして、困ったことに、われら感情的な動物は、いつのまにか、ゴジラ的動機を理解するようになって行くのです。
(本書p74より)

 ゴジラという存在を絶対的平等的殺人的存在として位置付けた上での悪趣味で不条理でホラーチックな風刺劇です。ゴジラに立ち向かうことになるのが経済団体連合会の副会長だったり労組の委員長だったり精神病院に入院中の女優だったり新興宗教の教祖だったり天才的脱獄囚だったりと、いろいろ酷いです。従来の殺人の論理を意識的にあざ笑う展開は、ミステリ読みの方の目にもなかなか興味深いものとして映るのではないでしょうか。

空間の犯罪

 空間とは、字面だけ読めば空との間ということで、このように読めば高いところを想起させられます。足が不自由である本書の主人公の八一にとって、高いところは憧憬の場所です。一方で、空間を辞書で引けば、そこには、「時間と共に物質界を成立させる基礎形式」や「自然現象の生起する場所」といった意味が書かれています。本来、犯罪とは故意という意思に基づいて行われることが原則ですが、意思に基づかない行為と結果との乖離とを説明しようとすれば、それは「空間の犯罪」ということになるのかもしれませんね。

女の部屋

 花子にとって、部屋を得ることは男を得ることであり、部屋を失うことは男を失うこと。そんな彼女にとって、部屋とは一種の自我であり、自己と他者とを別つ壁でもあります。社会主義とか思想とか国家の政治とか愛国心とか、そうした議論や談議も、女の部屋というフィルターを通ってしまえば単なる喧騒にすぎません。

白昼の通り魔

 白昼の悪夢と白昼の魔。
 三回心中を試みて、三回とも相手の女性だけが死んで自分だけが生き残ってしまうこととなった太宰治。見方によっては太宰治は白昼の通り魔といえるのかもしれません。そんな死への誘いが、あたかも白昼夢から現実への回帰ともいうべき行為として描かれているのが本作の恐ろしさです。「白昼の通り魔」によってねじれてしまった生と死の因果ですが、それでも結び付きを見出して求めてしまう……。いやはや何とも……。

誰を方舟に残すか

 映画論的エッセイ的な作品です。解説によれば、本作でサカナとなっている映画はジョン・ファロー監督、ロバート・ライアン主演『地獄の翼』と、リチャード・セイル監督、タイロン・パワー主演『二十七人の漂流者』とのこと。極限状況下において、助かるべき者とそうでない者をいかなる基準で選別すべきか? そうしたテーマを二つの映画と創世記とをダシにしながら、エゴイストとモラルの衝突と調整とを軽妙な語り口によって描き出した佳品です。

ニセ札つかいの手記

「きまってるよ、そんなこと。ニセ札は数が少くて、めったに見つからない貴重品だからニセモノなんだろ。だから必死になってみんな探してるじゃねえか。本物を探すバカありゃしないよ。本物のお札は、ありきたりの平凡なお札さ」
(本書p248より)

 週に5回、1日3枚渡されるニセ札を使うことで保たれる源さんと私の不思議な関係。そもそも信用の上に成り立っている紙幣という存在の不思議。値段と価値の違い。本物の紙幣とニセ札との逆説的な価値の逆転。一種のコン・ゲームを描いた傑作です。オススメです。