SF超大作として、小松左京が製作、原作、脚本、総監督をつとめた映画「さよならジュピター」は1984年3月17日に公開され今年40周年を迎えました。
主演は三浦友和さん、特撮は後に平成ゴジラシリーズを手掛ける川北紘一特技監督、主題歌は松任谷由美さんと、SFブームだった80年代において大変話題となった作品です。
実は「さよならジュピター」はモンキー・パンチ先生がキャラクターを担当する予定だった1976年のテレビ用立体アニメの企画にルーツがあり、特撮大作映画として公開されるまでに8年もの歳月を要しました。
【はじめに】
SF超大作として、小松左京が製作、原作、脚本、総監督をつとめた映画「さよならジュピター」は1984年3月17日に公開され今年40周年を迎えます。
「スター・ウォーズ」(1977)の世界的大ヒットに触発され日本の特撮技術を駆使しハリウッドに負けない国産のSF映画を目指してプロジェクトは組まれ、海外展開を念頭に英語版シナリオをアメリカで著作権登録。日本初のモーションコントロールカメラの導入や「宇宙戦艦ヤマト」(1974)や「超時空要塞マクロス」(1982)のメカデザインで知られるスタジオぬえによる壮大なビジュアルイメージの構築。二十代の若手スタッフが作り上げた精巧なミニチュアを基に、平成ゴジラシリーズで一世を風靡することになる川北紘一特技監督が太陽系と人類の危機をテーマにした未来世界をビジュアル化しました。
当時の邦画SFとしては大予算を組まれた「さよならジュピター」ですが、あまりにも壮大なイメージは予算面、技術面を含めハードルが高すぎたため理想通りの作品にはなりませんでした。
(海外でリメイク化の話があった際にハリウッドのプロダクションが試算したところ少なくとも100億円以上かかることが判明し、この企画は見送られました)。
【スタートは立体アニメ】
実は「さよならジュピター」はモンキー・パンチ先生がキャラクターを担当する予定だった1976年のテレビ用立体アニメの企画にルーツがあり、特撮大作映画として1984年に公開されるまでに8年もの歳月を要しました。
このアニメに関して、小松左京は次のように語っています。
一九七六年に、私はあるアニメ製作会社から、3Dのテレビ・アニメ技術を使った、宇宙SFものの原案をもとめられた。その時、「木星太陽化計画」という、ある科学者のファンタスティックなアイデアを骨子として、プロットをこしらえ、「さよならジュピター」の題名を用意したが、私の構想が、あまり大げさすぎたのにおそれをなしたのか、このアニメ化は流れてしまった。――しかし、その後、私の頭の中で、この原案のイメージは次第にふくらんで行き、一応の起承転結もついていた。
『さよならジュピター(上)』解説より
この作品は、東京ムービー新社の要請で企画されたもので、当時の最新技術を取り入れ専用メガネなしでもぼやけることなく見えるというものでした。
企画だけで終わったSF立体アニメですが、メカデザインをスタジオぬえに、男性キャラクターをモンキー・パンチ先生に、そして女性キャラを萩尾望都先生にお願いする予定だったと小松左京は語っています。
【SF特撮大作として再始動】
1977年、アメリカで公開された一本の映画が、ハリウッドの映画産業だけでなく、その後の世界的なエンタメ、マーチャンダイジング、そしてSFの流れそのものも大きく変えることになります。今なお新たなシリーズの創り続けられている「スター・ウォーズ」の誕生です。
アメリカでの大ヒットを受け、ゴジラの生みの親ともいえる東宝の田中友幸プロデューサーから小松左京に「スター・ウォーズ」に匹敵する、娯楽性の強い活劇もののSF映画の原作の依頼が舞い込みました。
田中友幸プロデューサーの要請に対し小松左京は“SF映画の原作は引き受けるが、そのかわりに、日本のSF作家、とくに若手の方が、どんな映画を望むかブレイン・ストーミングし、方向性を決めたい”と返事をしました。
その際に、ストーリーの核となったのが、先にご紹介した、幻となったアニメ版「さよならジュピター」でした。
アニメ版のアイデアは、木星の太陽化計画中に、ブラックホールによる危機が発生するというのもので、「さよならジュピター」のタイトルは既にこのアニメ企画の際に決まっていました。
十数回のブレイン・ストーミングを経て、小松左京による第一稿が1979年に完成しスタジオぬえがストーリーボードを作成。また外国人出演者が多く、日米合作化も考えられることから、シナリオの英語版も作成されました。
スタジオぬえの宮武一貴先生による、映画「さよならジュピター」の冒頭を飾る長距離貨客宇宙船TOKYOⅢのデザイン。
小松左京の物語イメージを素晴らしい形で広げていただきました。
庵野秀明監督の「新世紀エヴァンゲリオン」の舞台となった第三新東京市の名は、この宇宙船に因んでいると言われています。
英二たちがのぞいていた窓の外側から、直線距離でほぼ数十キロはなれた宇宙空間で、自重二千二百トンの巨大な長距離貨客宇宙船トウキョウⅢが、中央船体の四方にはり出したビームの先の、旅客、貨物コンテナーユニットを、船軸中心にゆっくり回転させながら、ミネルヴァ基地に接近しつつあった。
《ミネルヴァ・コントロール……こちら、トウキョウⅢ……》
ミネルヴァ基地の航行管制室では、スピーカーが、かすかに雑音をまじえて鳴りはじめた。
『さよならジュピター(上)』より
スタジオぬえの宮武一貴先生による、異星人の謎のメッセージが発見された火星に関するイラストボード。
このシーンは映画に反映されることはありませんでした。
映画脚本の準備作業と同時並行で、1980年から週刊サンケイで小説版「さよならジュピター」の連載も開始されました。
挿絵はスタジオぬえの加藤直之先生で、物語に連動したイメージの数々は「さよならジュピター」のビジュアルイメージを多くの読者に印象付けることになりました。
全長二百四十メートル、重量二千五百トンの“スペース・アロー”号の後尾にある、巨大な四基の噴射ノズルをまわりこむようにして、小さなフェリー・ロケットが接近して行った。
一個の直径が四十五メートルもある核融合推進ロケットノズルの内面は、木星の照りかえしをうけて、にぶい赤みがかった銀色にかがやいている。
「すごいものだな……」とフェリーの操縦席[コツクビツト]から、そのノズルを見上げながら、井上博士は嘆息をもらした。「あの中心部で、核融合ペレットが爆発するのかね?」 「そうです。――この型は、“ダイダロス改Ⅲ型”といって、まあ複合ノズルを使った最終型ですがね……」とホジャ・キンも、窓ごしに“スペース・アロー”を見上げながらいった。『さよならジュピター(上)』より
【幻となったハリウッド製作】
日米合作化も考えられることから、シナリオの英語版も作成された「さよならジュピター」。その英語版をアメリカで著作権登録したところ、アラン・ラッドJr.のラッド・カンパニーから原作を買取りたいとのオファーがあったとのことです(当時のアメリカは著作権登録が原則でした)。しかし条件が“主役をアメリカ人とし、また原作者が口出しすることを一切認めない”というものだったので、この申し出は実現しませんでした。
実はアラン・ラッドJr.は、二十世紀フォックスの「スター・ウォーズ」を実現させた立役者でもありました。映画「さよならジュピター」誕生のきっかけとなった、「スター・ウォーズ」の最重要関係者が興味を示していたとは何とも不思議なエピソードです。
*「さよならジュピター」を断念したアラン・ラッドJr.は、ショーン・コネリーを主演に木星を舞台にした映画「アウトランド」(1981)を製作しています。
「さよならジュピター」米国著作権登録出願書(部分)
【様々な才能が結集された製作準備」】
ファンクラブだった小松左京研究会のメンバーにより、ビデオ絵コンテの作成(絵コンテをホームビデオで撮影し紙芝居のように全体の流れを確認)やセットを検討するための手作りミニチュアの製作がボランティアで行われました。
また、スタジオぬえのデザインを見事なまでに精巧にミニチュア化してゆく小川モデリングの小川正春さんらも加わり、「さよならジュピター」のイメージを映画という形に変換させるための大切な準備は整っていきました。
そして、本編を橋本幸治監督、特撮を川北紘一監督が担当し、「スター・ウォーズ」で迫力ある宇宙シーンを描いたミニチュア撮影用のモーションコントロールカメラを、工業用ロボットの生産で知られる株式会社アマダの協力で日本で初めて導入しました。
出演は三浦友和さん、後に小室哲哉さんひきいるglobeのメンバーとして活躍するマーク・パンサーさんも天才少年科学者カルロス役で登場しています。
音楽は「マクロス」シリーズや映画「復活の日」で知られる羽田健太郎さん
そして、主題歌「VOYAGER〜日付のない墓標」は松任谷由美さんと大変豪華な布陣となりました。
撮影現場には漫画家のとり・みき先生も見学に訪れ、その様子を当時「週刊少年チャンピオン」で連載していた「クルクルくりん」で紹介されています。
小惑星でのラストシーン撮影の巨大なスタジオセットの模様。
宇宙服姿のキャラクターのモデルは天才少年科学者カルロスを演じたマーク・パンサーさん(金魚をヘルメットに入れるシーンは実際の「さよならジュピター」には存在しません)。
ミニチュア撮影の現場を訪れた際のエピソード。
サングラスの男性キャラのモデルは川北紘一特技監督。
ニラレバ基地のモデルはミネルバ基地。
VFXが主流でなかった当時、宇宙船のミニチュアをピアノ線で釣っての撮影(操糸)も実際に行われていました。
小松左京を始め、様々な人の想いを込めた、映画「さよならジュピター」は、1984年3月17日に公開されました。しかし、残念ながら高い評価を得ることは出来ませんでした。
日本のSFファンのために“世界に誇れる日本人の手によるSF超大作を創り上げる”。その挑戦は無謀であり、見果てぬ夢だったのかもしれません。
しかし、商業用映画に初めてスタッフとして参加した樋口真嗣監督をはじめ、庵野秀明監督ら多くのクリエーターに影響をあたえたようです。
【その後の「さよならジュピター」】
先に、「さよならジュピター」は、英語版をアメリカで著作権登録した際にアランラッドJr.のラッド・カンパニーからハリウッドでの映画化の打診があったとお話しましたが、実は2011年に小松左京が亡くなった後に、別のプロダクションから新たな映像化の打診がありました。
企画を検討していたのは、紀里谷和明監督、モーガン・フリーマン主演の映画「ラスト・ナイツ」(2015年)を制作したLuka Productions International。
この話は、やはり、映像化には莫大な費用がかかる点がネックとなり、交渉は中断されました(試算したところ100億円でも製作費は足りないとのことでした)。
ラッド・カンパニー、Luka Productions International、いずれも、「さよならジュピター」はハリウッド映画になるポテンシャルを秘めていると判断していたようです。
Luka Productions Internationalに「さよならジュピター」の映像化を提案し尽力した堺三保さんはその後、ハリウッドでクラウドファンディングによる短編映画『オービタル・クリスマス』を企画、2021年に自身の制作・監督・脚本により完成させています。
2021年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」が公開されると何故かSNSで「さよならジュピター」の名前があがることが増えました。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の重要なシーンに松任谷由実さんが作詞作曲した「さよならジュピター」主題歌である「VOYAGER〜日付のない墓標」が使われたためでした。
多くのSFファン、特撮ファンを驚かせた「VOYAGER〜日付のない墓標」の起用は庵野秀明監督が松任谷由実さんに直接お願いし実現したとのことでした。
「VOYAGER〜日付のない墓」流れる、「さよならジュピター」のラストシーン。
小松左京が現場で持ち歩いていた撮影用の台本には、自身の書き込みが残されています。
この時に「さよならジュピター」が再注目されたことをきっかけに、2021年にハルキ文庫「さよならジュピター」重版、そして同年「さよならジュピター」初のBlu-rayも発売されることになりました。
【「さよならジュピター」の可能性】
(結末にかかわる部分もあるのでご注意ください)
「さよならジュピター」の物語には、様々なアイデアが駆使され、またたくさんの伏線が敷かれていました。多くの人々の犠牲のもと、太陽系はからくも危機を脱っし、人類は生き残ります。
しかし、木星をただよう巨大物体、ジュピターゴーストに関しては、その正体も解明されず、最後に発した電波信号に関しても謎のままです。
ジュピターゴーストとは何か?英二とマリアはどうなったのか?
小松左京研究会のインタビューに対し、次のように語っています。
実は二人ともジュピターゴーストに収容されて生きてるんだ。冷凍睡眠で。それが第二部だ。
「小松左京自伝」(日本経済新聞出版社)より部分抜粋
つまりジュピターゴーストというのは生物かどうかわからんけれども、いわゆる超空間飛行もできるし、宇宙で生命が発生している星をあちこち探して、最初に地球に来たときは人間はまだジャングルの中だ。そのとき一番数が多くて一番知性の高いのがクジラだった。それでクジラに歌を教えたんだ。
ジュピターゴーストに紹介されて、地球人も銀河系知的連合みたいなところに参加していくと。
まあどうせ僕も第二部は書けないから、ここで公開してるんだ。
宇宙をさまよい、知性ある生命同士をつないでゆく。
小松左京の作品をよくお読みになる方は、気づかれたと思いますが、これは、未完の大長編『虚無回廊』に登場する、直径1.2光年、長さ2光年の驚異の構造物”SS”と同じ機能です。
そして、『虚無回廊』には、ジュピターゴーストと思わせる物体が登場しているのです。
小松左京の遊び心としてのカメオ出演なのか、それとも、『虚無回廊』の物語に深く関わってゆく存在だったのか、今となっては知るよしもありません。
時空をも超越する”SS”なら、木星を消失した時間軸から、英二とマリアを回収するぐらいお手のものかもしれません。
【おわりに】
勝ち目のない戦いに挑み、心身をすり減らし、ついには犠牲となる者たちへの、敬意と深い悲しみ。小松左京のこの想いは、未曽有の地殻変動に対峙し、同胞である日本人の脱出に己が全てを犠牲にする、「日本沈没」の主人公たちに対しても見ることができます。
無謀であっても、やるべき価値があるなら敢えて挑戦する。それ故に、理解しようともせず、ただ無意味に足をひっぱる人々に対しては厳しい眼をむけます。
「たとえ勝ち目はなくとも、挑戦する側にくみしたい」。
小松左京がその生涯をかけ多くの作品に託してきた大切なメッセージは、世界に通ずる立体SFアニメ、そしてハリウッドに負けない特撮SFを目指した「さよならジュピター」にも通ずるものがあると思います。
小松左京が亡くなってからも、小松左京作品の映像化の企画の打診が途切れず続いています。
アニメ化であっても実写化であっても、その実現には多くの困難を伴います。けれど、小松左京の映像化を提案していただく方々は、本当に作品を愛し、自らの手で映像化を実現したいという方も数多く見受けられます。
それほど遠くない将来、小松左京原作の素晴らしい映像作品を皆様にご覧いただける日が来ることを切に願っています。
「さよならジュピター」40周年を迎え、メカデザインやイラストボードでビジュアルイメージを導いていただいたスタジオぬえの宮武一貴様と加藤直之様。未来的でリアルなセットデザインを手がけていただいた張仁誠様。イラスト画から抜け出したような素晴らしいミニチュアを手がけた小川モデリングの小川正晴様。音楽により作品イメージを広げていただいた、羽田健太郎様、杉田二郎様、松任谷由実様。本編監督の橋本幸治監督、特撮の川北紘一特技監督。三浦友和さんはじめ出演された方々。プロジェクト初期から作品世界の構築に貢献いただいたSF作家の皆様。小松左京を支えた株式会社イオと小松左京研究会の皆様。そして、ここに書ききれなかった、「さよならジュピター」に係った全ての方々に心より感謝の意を表します。