「同性愛者のいる社会」での身の処しかた〜『メルシイ!人生』


id:integralさんの、セクシュアルマイノリティについて自分の考えを述べたエントリと、それに対するid:nodadaさんの意見、およびintegralさんとのコメント欄でのやりとりを、この数日見ていた。



integralさんーnodadaさんのやりとり
不真面目な元化学屋の戯言(現在法曹へ向けて学習中)ーセクシュアリティ
腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーそれでもやっぱり寛容を求めたい
腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーコメント欄
腐男子じゃないけど、ゲイじゃないー差別解除するのになんで二者択一?


これに対するブロガーの反応
みやきち日記ーマジョリティが持つ「不快感」と「恐怖心」は、マイノリティの隔離・排除を正当化するか?

みやきち日記ーそのエスノセントリズムを捨てれば、マイノリティとマジョリティは共存できるんじゃないの?

uNDer thE mOonー理由(わけ)


これは、すごく乱暴にまとめれば、社会で性的マジョリティ(異性愛者)とマイノリティ(ここではおもにレズビアン・ゲイの同性愛者)が共生しようとするとき、異性愛者の同性愛者に対する拒否感ないし嫌悪感(Integralさんの言葉では「不快感と恐怖心」)をどうするか?という問題だと思う。

結局の所、人間ってのは自分が理解できない者に対しては不快感と恐怖心を持ち、それを排除しようとします。それ自身は特殊なことではありません。仕方のないことでしょう。しかし、本当に問題なのは、自分が不快感と恐怖心を持っていることを隠すためにベールで覆うことです。「自分はレズやホモを見たら不快感を感じる。だけど彼ら/彼女らがやる分には好きにやってよ」という態度はどうしていけないんでしょうか?

不真面目な元化学屋の戯言(現在法曹へ向けて学習中)?セクシュアリティ


「同性愛が気持悪くて何が悪い」ーマジョリティの異性愛者のこの主張は、マイノリティには、かなり頭が痛い課題である。

乱れガク飯田明芳-「差別してもいい自由」を制限するための根拠


嫌いではいけないのかー人間がお互いの心の「嫌う自由」をどう認めていくのか、それについては、id:miyakichiさんがきれいにまとめてくださっている。

みやきち日記?ひとを嫌うことはごく自然、ひとから嫌われることもごく自然 - 「嫌う自由」または「嫌う権利」について*1


これにつけ加えると、integralさんの言う同性愛に対する「不快感と恐怖心」が、「特殊なことではない」「仕方のない」ものだとは、僕は思わない。
僕らの社会には、少なくとも近代以降、「異性愛者が同性愛者を異常者扱いする」筋金入りの歴史がある。一部の異性愛者が同性愛者に感じるという「不快感と恐怖心」は、明らかにこの同性愛嫌悪的社会の中で「訓練されてきた感情」だ。社会的な病としてのホモフォビア(同性愛恐怖症)*2である。


それでも異性愛者が同性愛者を嫌うのは自由か?そうかもしれない。
だが、integralさんの言葉に似たこんな言葉を、僕らはよく聞かないだろうか。

「自分はレズやホモを見たら不快感を感じる。だけど彼ら/彼女らがやる分には好きにやってよ」(integralさん)
「同性愛は認めてもいいよ、ただ自分の周りにはいてほしくない」
「同性愛者はいてもいいよ、迷惑をかけなければ」


こういう言葉は、「もっとも」だろうか?僕にはそうは思えない。
「好きにやれ」といわれても、同性愛者が社会の中で「好きに」生きることができるだけの環境を認めてくれているだろうか?「自分のそばにはいないで欲しい」という考えこそが、大勢の同性愛者のカミングアウトを妨げている。異性愛者みんなにこんなことを言う権利があったら、同性愛者の居場所など存在しなくなるではないではないか(それでどうやって「好きにやれ」と言うのだ?)。そして、「迷惑をかけるな」という、あたかも同性愛者を危険分子と見なすような色眼鏡が、同性愛者には「大迷惑」であるのだ。
「同性愛者の生存権は認める(差別者じゃないからネ)、でも自分の周りはダメ!」「関係ないとこでやって!」という発想がまかり通り続けるかぎり、「共生の場」はいつまでたってもできはしない。


同性愛者と異性愛者は、たとえお互い嫌いでも、やはり共生しなければならないのだ。


セクシュアルマイノリティに対する有形無形の差別を徐々に取り除き、マイノリティにも生きやすい制度を整えていくとき、異性愛者の同性愛者に対する「生理的感情」や「意識」の処しかたにも、どこかでぶつからざるを得ない。
これは難しい問題だ。個人の「心」や「意識」の中には、誰も干渉はできないのだから。
しかし、人間たちが協定とルールを守りつつ生きてゆく場が社会であるなら、「心」と「心」の間にもなにかの協定とルールがなければならない。


僕はあまり論理的に話をまとめることができない人間なので、ひとつの映画を通して、僕なりにこの問題を考えてみたい。



「メルシィ!人生」〜「同性愛者がいる社会」のルールを知っている人びと


メルシィ!人生(2000) - goo 映画


3月31日のエントリでも紹介したが、F.ヴェベールの人情コメディだ。
じつは、integralさんのような言葉を聞くたび、僕が思い出す映画でもある。あらすじはー


パリのコンドーム会社の経理係、冴えないバツイチ男ピニョンは、近く人員整理で自分がリストラされることを知る*3。
別れた妻子にも冷たくされ、絶望して自殺を図ろうとする彼に、隣人の元経営コンサルタントで老ゲイのベロンが奇策をさずける。彼が「ゲイである」という噂を会社に流すのだ。
コンドーム会社にとってゲイは重要な顧客、「同性愛者差別的企業」のイメージを持たれたら大損害になる。
この作戦に乗った結果(ピニョンがゲイクラブでゲイゲイしいコスプレをしているタレコミ写真を合成し、社に送りつけた)、ピニョンは会社の中で、「彼は同性愛者だ」という同僚たちの視線にさらされることになるー


そう、これは、「身近な人(会社の同僚)が同性愛者だと知ったとき、異性愛者はどういう反応を示すか」を、戯画的に、しかし克明に描いた映画なのである。


そしてもうひとつ注意したいのは、これがフランス映画、パリが舞台だということだ。

ゲイ@パリ 現代フランス同性愛事情

ゲイ@パリ 現代フランス同性愛事情

及川健二氏は、フランスは30%が同性結婚に反対で、差別による暴行・殺人は日本より多い一方、同性愛者の様々な権利が保障されているだけでなく、同性カップルが自然に街で手を繋ぎ、抱き合い、キスをするー同性愛者があたりまえに溶け込んでいる社会であると語っている(参考:AllAbout同性愛?ゲイ@パリ 及川健二氏にインタビュー)。
もちろん、そこに至るためには、長い長い努力と戦いがあった。フランスは時間をかけて「同性愛者と異性愛者がともにいるためのルール」を鍛えてきた社会なのだ。


もちろん、僕はフランスに住んだこともないから、実情は分からない。だが、「メルシィ!人生」で戯画的に描かれる異性愛者の「身近なゲイ」への反応には、日本のTVやメディアで描かれそうな「身近に同性愛者がいたら戸惑ってあたりまえ」というステロタイプな反応とは、根本的な違いがあるように感じられる。


たとえば、ピニョンが勤めるコンドーム会社だ。
ピニョンがゲイだと聞かされたとき、雇用主であるカペル社長の顔には、戸惑いが浮かぶ。その表情から察して、おそらく彼にとっても「ホモ」はイヤなものなのだろう。しかし、彼はその感情を開放しない。コンドーム会社にとって、ゲイは重要な顧客である。彼はその論理でしか動かない。彼自身の好悪は関係ない。
外ではマイノリティにいい顔をしつつ内では「不快や恐怖」をあらわにするといった二枚舌も使わない。思うに、商売はそれほど甘くないのだろう。つまり、彼のゲイに対する態度は極めて冷静で、商売人として「誠実」でもある。


社員も同様である。
同僚のマシューやヴィクトール、異性愛者の彼らにとっても、ゲイは自分たちと無関係な、下司っぽい関心の対象にしかならないものである。ピニョンがもともと軽んじられるタイプの男であったこともあり、「あいつゲイだってさ」という噂は、多少は笑いのタネになる。
だが、彼らはそれを表面に出さない。「恐怖に強ばり」もせず、過剰な反応も見せない。同性愛者の同僚と働くマナーを彼らは心得ており、自分が同性愛をどう思うかという個人的感情は、会社という人間関係の中で、きれいにコントロールしている。


彼らがむしろ好奇の対象にし、嘲笑し、弄り回すのは、同性愛者のピニョンではなく、「同性愛者に対する嫌悪感をコントロールできない人間」の方である。


普段からホモ嫌いを公言してはばからないマッチョの、ラグビー部主将サンティン。突然現れた身近なゲイの存在にパニックを起こした彼を、意地の悪い同僚たちがからかい、いじめたおす。そのドタバタが、物語の一つの軸になる。


サンティンは、マシューに「代わりにゲイ差別者のおまえがリストラされることになった」と嘘を教えられ、さらに混乱をきたす。「ホモはバカにし排除する対象」という彼にとっての道理に反し、ペコペコと「ホモ」の機嫌を取らねばならないハメになる。こんな男を、フランスが誇る名優ジェラール・ドパルデューがやるのだから、大変なドタバタである。


必死でピニョンに気に入られようと奔走する彼が、とうとうビニョンに「惚れ」てしまうという展開は、あまりに非現実的で、冗談が過ぎる気がする。だが、これは「ホモ嫌い」の心理の一つの典型の、的確でどぎついカリカチュアなのだ。
強いホモフォビアを持つ人間は、自分と同性愛者の「差異」を冷静に理解できておらず、自分が「ホモと交わる」、「ホモになってしまう」ことを異様に恐れている。「自分は異性愛者で彼は同性愛者だ」と認識していればよいものを、自分と「ホモ」の境界が瓦解することを恐れるあまり、ひたすら「ホモ」を「異常」の領域に置き、自分の「正常さ」を守ろうとする。


しかし、同性愛者と異性愛者がともに暮らす協定ができている社会では、はじき出されるのは、こんな人間の方なのだ。
integralさんは、マジョリティとマイノリティの関係について、こう主張している。

排除を基礎とした理解もあって良いのではないかなぁ、と思います。要するに「大きな御世話」と言うヤツです。
こうすると、結局隔離何じゃないのか、と言われそうですが、それはそれで仕方ないのではないでしょうか。理解を超えるものを嫌悪し攻撃することが人の性なら、自主的な(強制隔離は無論否定されなければなりませんが)隔離もまた紛争を回避する一選択肢ではないか、と思います。


腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーコメント欄


「紛争を回避する」ための「隔離」や「排除」が必要なら、「ホモフォビアをコントロールできない人間が自主的に自分を隔離する」のが一番合理的じゃないかと僕は感じるのだが、integralさんはどう思うだろうか。というか、なぜintegralさんは、自分が同性愛者に対して一方的に「自主的な自己隔離」を求める権利があると思っているのだろう?
けれど僕は、人に「自主的な自己隔離」など求めたくない。可能でも現実的でもないと思うからだ。それよりは、共生のマナーと感情のコントロールの方法を鍛えてゆくほうが、まだ簡単だ。
とうとう神経衰弱を起こして精神病院に入院するハメになったサンティンは、たいして変わらないが、やや変わる。そして変わることで、彼自身が生きやすくなったのである。


人それぞれの資質によってホモフォビアはにじみ出す


しかし、誰もがコントロールを身につけているわけではない。
はじめに述べたように、ホモフォビアは、「社会の中で訓練された不快感と恐怖心」だ。現代社会では、メディアや「世間の常識」を通して、大多数の人の頭に刷り込まれている。多くの人が何らかのかたちで持っているものだ(ゲイである僕自身だって、自由でなかったりする)。
だがその感情は、別にベタに同じでもない。それぞれの人間の性格によって、「にじみ出しかた」はさまざまに異なってくる。


たとえば、ピニョンの元妻クリスティーヌ。彼に幻滅して離婚したあと、未練がましくつきまとう彼を無視し、ただの迷惑のように冷たくあしらっていた。が、彼がゲイ(つまり、異性=自分を性的に求めない人間)だと知った(思い込んだ)とたん、彼を呼びつけ感情的になじりはじめる。
偽装結婚されたという怒りか*4、「ゲイの息子」になる我が子を案じパニクったのか、自分の鬱憤を「世間」をタテにピニョンにぶつける彼女を見て、ピニョンは憑き物が落ちたように理解するー自分が愛していた妻は、こんなに「醜い人間」だったのか、と。


経理課の若い女性事務員アリアンヌ。彼女は「生理的ホモ嫌い」ではない(合成タレコミ写真のピニョンの半ケツ姿を見て「カワイイ(ウフ)」とか言ったりする)。だが、「ピニョンはゲイ」と思い込んだとたん、彼女の目に彼は、「好きなだけ弄っていいオモチャ」としか映らなくなる。
女性上司ベルトランがタレコミ写真のピニョンの腕にあるタトゥーを疑うと、「じゃあ服を脱がして調べましょう」と言う。信じられないような性的嫌がらせだが、驚いたことに、彼女はまったくそう思っていないらしい(性的少数者に対しては、「性に関する礼儀」とでもいうべきものがいきなり狂うマジョリティがしばしばいるが*5、その一例だ)。
さらに、この「服脱がせ作戦」で敬愛する上司ベルトランが「セクハラ」の罪をかぶってしまうと(アンタのせいだよ)、一転してピニョンに怒りをぶつけ(悪いのはアンタだってば!)、後述のヘイト・クライムを煽りさえする(オイ!)。
しかも、本人自覚ゼロなのである(最後は何もなかったようにニコニコしている)。
こういう手合いは、サンチョンのような分かりやすいホモ嫌いより、始末が悪いかもしれない。


上司ベルトラン。彼女は冷静で、社内に広まったピニョンの「ゲイ疑惑」をただ一人鵜呑みにしない。ゲイ的なもの(タレコミ写真)を見ても平然としているばかりか、知識もある*6。「知っているからこそ動じない」人である。
しかしその彼女すら、ピニョンの存在が(アリアンヌに乗せられたセクハラ事件のせいで)自分の首を危うくするとなると、カッとなって、つい口走る「あのオカマ!」


今の社会では、たいていの人が「ホモ嫌悪」から自由ではない。
だが、それがどう表出するかは、それぞれの人の資質による。
いいかえれば、ホモフォビアとは、「その人の弱さや欠点」の表れでもあるのだ。
そして、僕らはここで、最初の設定に戻ろうーこの物語のピニョンは、ほんとうはゲイではないということに。
気持悪い、オモシロい、腹立たしいーどんなかたちでもいいが、そうした「異質な存在」としての「同性愛者の姿」は、結局、異性愛者の目と頭の中にしか存在しないのだ。


ヘイト・クライム(憎悪犯罪)はなぜ起きるのか


ホモフォビアが社会の病だといっても、「同性愛者を嫌う自由」はあるかもしれない。それは認めよう。
だが、その自由には、常に法と倫理を踏み越える危険がある。


アルバとポンスの2人も「ホモ嫌い」だ。しかも彼らは、同性愛者を受けつけない自分たちの感情を、そのまま「常識」だと思い込む傾向がある。
また、ピニョンをゲイだと思い込んだとたん、その性的な部分しか意識できなくなる。
ピニョンが息子会いたさに高校の門の前をうろついているのを見かけると、「少年漁りをしているのだ」と思う。「なんて奴だ」「俺にも子どもがいる」「あんな奴は危険だ」ー彼らは自分の感情的な思い込みだけで、勝手に「社会の危機感」を作り上げてしまう。
その結果、ガレージでピニョンに殴る蹴るの暴行を加えるにいたるーあくまでコミカルに,滑稽に描かれているが、紛れもないヘイト・クライム(憎悪犯罪)の発生過程である。


「偽ゲイ作戦」の立案者の老ゲイ・ベロンは、作戦の成功に快哉を上げていた。「ゲイのピニョン」の権利が会社の中で守られるのを見ることは、彼にとって(彼が若い頃には与えられていなかった)同性愛者の社会的権利保障を確かめることでもあったからだ。
だが、同僚の手で傷つけられたピニョンを見て、彼は驚愕し、絶望したように呟く「やはり、なにも変わっていない‥‥」


同性愛者を守る法的救済措置があれば迫害は防げるのだから、それさえあれば異性愛者は同性愛者に「不快感・恐怖心」を持っても構わないーこれが冒頭にリンクした、integralさんの主張だと思う。
だが、「ホモは嫌いだ」という「自由な」嫌悪を、無自覚に「世間」「常識」「正義・倫理」(「みんなそう思っている」)と結びつける人間がいるかぎり、ヘイト・クライムが発生する回路は断たれないのだ。


フォビアのない者にフォビアを押しつける愚


誰もがホモフォビアを持つわけではない。ホモフォビアに一切縛られていない人間もいる。


ピニョンの17歳の息子フランク。彼は母にも軽蔑される父に幻滅し、面会日も避けるほど父を嫌っていた。しかし、TVでパリ・プライド(パレード)に参加している(会社の方針で無理矢理させられたのだ)父親の姿を見て、がぜん父への信頼と尊敬を取り戻す。
「多様性のフランス」の新世代の彼に、ホモフォビアは一切ない。そんな彼にとっては、自分を幻滅させてきた情けないヘテロの父より、堂々と我が道を行くゲイの(ふりをした)父の方が、ずっと尊敬に価したのである。
たちまちお父さんっ子になってしまうフランクの現金なはしゃぎぶりはちょっと滑稽だが、その姿は、両親の不仲を見せられ続けた彼が、どれほど尊敬し愛することができる父親の存在に飢えていたかを示していて、少し切ない。そんな息子を見たピニョンは、「息子にはヒーローの父親が必要だ」と考え、フランクの前ではゲイのふりをし続けることを選ぶのである*7。


「ゲイの父親」なんて、とんでもないだろうか?元妻クリスティーヌは、確かにそう言った。しかし、当のフランクは、父がゲイであることを少しも気にしていない。クリスティーヌの非難は、まったく無意味だ。
オランダのゲイ・カップルの息子テレンス君は、両親との幸せを「2人のパパ」の中で歌った(4月3日のエントリ参照)。その歌には、テレンス君が2人のパパと幸せに暮らしているのに、周りには「普通じゃない」と彼をいじめる異性愛者家庭の子どもがいることが、チラと語られている。テレンス君は逞しくイジメを跳ね返しているが、こうした子どもへのイジメを恐れ、子どもを持つことを踏みとどまっているLGBTカップルはきっと多いだろう。
同性カップルに限らない。国際結婚家庭、シングルマザー家庭、当人たちはそれぞれの幸せの中で「普通に」暮らしているのに、「普通じゃない」「かわいそうに」と世間が彼らを「異常」に仕立て上げる*8。
不幸でないものを、わざわざ干渉して不幸にする。愚どころか、暴力である。だがこれが「普通」の錦の御旗の下で、「マジョリティ」がやっていることなのだ。


「寛容」ではなく、ただ「人と対等に暮らすための努力」


最後は、ドタバタの中でピニョンがほんとうはヘテロであるということが「バレ」、騒ぎは収まる。そして、これまで冴えない透明人間のように扱われていたピニョンが、「事件の人」になったことで自信を回復し、美人の上司ベルトランと恋仲になるというオマケがつく。めでたしめでたしである。


暴行事件を起こしたアルバとポンスの罪がきちんと罰せられなかったのは物足りない気がするが、最後、前はピニョンが追い出された社の記念撮影から、彼ら2人が追い出されることで、メッセージが締めくくられる。
「誰しも、いつ排除される側になるか分からない」。


統一地方選で東京都中野区議に立候補しているセクシュアルマイノリティ候補石坂わたる氏は、言っている。

マイノリティは「自分以外の誰か」ではない。誰にでも事故や病気等で障害を持つ可能性があるし、自分の子どもや身近な人が同性愛者である可能性だって少なくない。誰でもマイノリティになる可能性があるということを考え、すべての人が安心して生きていける社会について考えてもらいたい。


ゲイジャパンニュースー中野区議候補・石坂わたる氏に聞く


僕は、セクシュアルマイノリティの(つまり、自分自身の)権利や安全の保障を社会に求めたいと思うとき、「寛容」という言葉は使わない。寛容と言うと、人間に身の丈以上のことを求めるような気がするのだ。
だが、違う人間が並んで暮らすための協定と、そのために必要な最低限の感情のコントロール、これは求めたい。少なくとも、「世間」をしょった建前を振りかざして、自分の感情を制御しないことに開き直る物言いには、戸惑いを覚える。


だって現実には、サンティンのように、自分の感情の赴くまま人を排除してはばからない人間は、それによって人に排除されることになるのだ。

異性愛者が自分は好きなだけ人を嫌いたい、でも自分が嫌われることは許せない、というのは通りません。わかりやすく言えば、「ホモは嫌い」と主張するのなら、「侮蔑語を平気で使う奴は嫌い」「『生理的』という言葉で思考停止するバカは嫌い」と大いに嫌われることもまた引き受けるべきだ、ということです。


みやきち日記ーひとを嫌うことはごく自然、ひとから嫌われることもごく自然 ー「嫌う自由」または「嫌う権利」について


現に今でも、セクシュアルマイノリティへの個人的な嫌悪感情を野放しにしている人は、周囲のセクシュアルマイノリティから警戒されている。信用されず、距離を置かれる。
そして、彼らは、いつまでたっても身近にセクシュアルマイノリティがいることに気づかないまま、得々と言う。人間は、理解できないものには不快感・恐怖心を覚えるものですよー


僕は、できうれば自分自身、そういう人間にはなりたくない。
僕もまた、いつでも無意識の差別者になれる立場にいる。僕は日本国籍で、男で、ゲイで、30歳で、身体的な障害を持たない。いつ在日外国人を、女性を、レズビアンやトランスジェンダーなどの他のセクシュアルマイノリティを、子どもや老人を、障害者を、無自覚に差別するか分からない。
排除する側に回るか排除される側に回るかは、複数・同時並行にも起こるのだ。


だから僕は、自分をコントロールしなければならないと思う。どうするのか、と言われても分からない。自分の感情を一度突き放して相対化してみたり、自分を取り巻く状況を客観視できるような別の状況と比較してみたり、とにかく頭を冷やしてみたり、自分の軽率な言葉や行動が悔やまれて職場のトイレの壁に頭をぶつけたり、いろいろである。
ただ、僕の無知や偏見から生まれた個人的な感情にすぎないものに、社会の同調圧力を利用してもっともらしい理由をこじつけ、人を傷つける「みっともない人間」にはできうればなりたくないと、日々試行錯誤してはいる。


僕は寛容な人間ではない。古い偏見から解放された若いフランクや、聡明なベルトランにはなれないかもしれない。だが、せいぜい「この社会での身の処しかた」を知っているマシューやヴィクトールではありたいと思うのだ。

同日21:30追記


少し文章を直した。長かったので誤字や表現上分かりにくいところが多かった。それを直し、分かりやすくなるよう映画のエピソードも少し書き足したが、論旨じたいに削除追加はとくにない。


しかし、短くピシッとした文章を書ける人を、僕はつくづく尊敬する。
ネットで長い文章は良くないと分かってはいたが、これは長すぎた。書いた当人の僕にも、読み直すのが大変だったぐらいだ。


ここまでおつき合い下さったあなたに、お礼を言います。お疲れさまでした(笑)。

*1:このエントリは、僕がmiyakichiさんの掲示板に書いた書き込みを叩き台に書いて下さった。お礼を申し上げる。

*2:ホモフォビアについてはカナダIDAHO(国際反ホモフォビアの日)サイトの一部。

*3:決して彼の仕事能力が人並み以下なわけではなく、社の記念撮影でもフレームに入り切らないと写真から外されるような、自己アピールに欠ける「透明人間」ぶりが、総合的にマイナス評価になっていたのである。

*4:確かに(これが真実だったら)彼女の怒りは当然だろう。だが、彼女だって失恋の穴埋めにピニョンの優しさと愛情を利用して結婚した、「打算の結婚」だったのである。

*5:相手がレズビアン・ゲイだと分かると「あなたはタチ?ネコ?」とセックスについて立ち入ったことを遠慮もせず尋ねたり、トランスジェンダー、トランスセクシュアルの体について根掘り葉掘り知りたがったり、そういう人が、どれほど多いことか。

*6:タレコミ合成写真のピニョンのコスプレを「古すぎる,今のゲイはこんな格好しないわ」と言っている(若かりし日のベロン老人の写真と合成したからだ)。

*7:結局息子に対し自分を偽るのだから、真面目に考えるとあまり良いことと思われない。が、ここは、「父親らしい父親=ゲイ」という発想の大逆転を狙った挿話と取るべきだろう。

*8:身近にいる人間はそうではない。シングル家庭をサポートする地域社会、ダブルの子どもを大勢受け入れている保育所はたくさんある。偏見を持つのは、遠く顔の見えないところから観念的に外国人やシングルマザーや同性愛者を見ている人びとだ。