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神さまの殺しかた/宗教にハマらずに生きる方法

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ここ最近、宗教に関する議論が盛んだ。まず上田紀行さんの記事でジャブが放たれて、佐々木俊尚さんの記事で一気に噴き上がった感じ。日本人の宗教アレルギーにはあらめて驚かされる。みんな、ほんとに「宗教」って言葉が嫌いだね。脊髄反射で「宗教はけしからん!」と感じる心理状態のほうが、よほど宗教的だと私は思う。
自分を無宗教だと信じている人は大抵、自分の信仰心に気づいていないだけだ。本当に無宗教な人間にはなかなか出会えない。かくいう私も、宗教的な行為(※初詣とか)をしないわけではない。けれど、そういった日常の行為を「宗教的だ」と認識できる程度には、無宗教だ。
今回の記事では「本当の無宗教とはどんなものか?」を考えたい。私の宗教観について、ちょっとまとめておこう。



【参考】

â– 「宗教信じてないならお守りをズタズタに切って」宗教学者と大学教授の対談が話題に

â– 佐々木俊尚氏、幸福の科学・ジョブズ霊言本セミナーとコラボで炎上

â– 佐々木俊尚さん@幸福の科学対談の炎上余波で何故か田原総一朗さんまで登場
 ※切り込み隊長ってキリスト教徒だったんだ!

â– なぜ今、カール・マルクスの『資本論』に立ち返る必要があるのか?

私はマルクス主義者ではない。思想ということならば、キリスト教(プロテスタンティズム)が私の物事を考える基本になっている。

【佐藤優】

 ※プロテスタンティズムの倫理と(元)外交官の精神


神さまのいない日曜日 (富士見ファンタジア文庫)

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     ◆



あなたは、幽霊は存在すると思うだろうか?
もしも答えがイエスなら、あなたは無宗教とは言えない。乱暴な言い方だが、非合理的な存在を理由もなく信じるのは「宗教的」だからだ。
もしも答えがノーなら、あなたは暗闇が怖いだろうか?
幽霊を信じていないにもかかわらず、あなたが暗闇を怖がるとしたら、それはなぜだろう。理由を説明できないとしたら、あなたは無宗教とは言いがたい。非合理的な感情の変化に理由もなく振り回されるのは「宗教的」だからだ。そして、あなたが平均的で一般的なヒトならば、まず間違いなく暗闇は怖いはずなのだ。
私たちが「無宗教」になるのは難しい。
組織宗教はともかく、「宗教的なもの」は身の回りにありふれている。それらをすべて批評的な目で見ることができて初めて、あなたは本当に無宗教だと言える。
お守りを大切にするのは宗教的だ。
パワースポットに出かけるのは宗教的だ。
初詣にいくのも、食事の前に「いただきます」というのも、みんな宗教的な行為だ。
会社で出世したい? 彼女ができて有頂天になる? 億劫な仕事に四苦八苦させられたから、あのクライアントとは金輪際、取引をしたくない? ──出世、有頂天、億劫、四苦八苦、金輪際。これらの言葉はすべて仏教用語がもとになっている。
私たちは宗教的なものに取り囲まれて生きている。




切り込み隊長や佐藤優さんの場合はキリスト教だった。人気ブログ『シロクマの屑籠』のシロクマ先生は、仏教が思想の基盤になっているという。「私は無宗教です」とドヤ顔で答える人に限って、パワースポットをありがたがる。ほんとうに無宗教な日本人は、じつはあまり多くないのかもしれない。社会人になるまで気がつかなかったが、私のようなガチガチの機械論者でダーウィニストは珍しいようだ。(※しかもダーウィニズムは誤解されがちだ。)


そう、私は機械論者で、ダーウィニストだ。


機械論がどういうものかと言うと、ようするに魂の存在を信じていない。
めちゃくちゃ噛み砕いた言い方になるが、霊魂とか神秘的なパワーとか、そういうもの全般を「無い」と仮定してものごとを考えている。なぜかといえば、そういう神秘のパワーを仮定しなくても、生命や宇宙や人生について説明できるからだ。物事を説明するのに必要以上の仮定を用いるべきではない。(※噛み砕きすぎてえらい人から叱られちゃいそうだ。)
霊魂を「無い」と仮定しているから、輪廻転生を信じられないし、復活の日も魂の救済も信じることができない。当然、神道的なアニミズムも信じられない。機械論に立つと、一般的な組織宗教はもちろん、「宗教的」なもの全般を信じられなくなる。お守りもおまじないもパワースポットも、私は信じていない。



たとえば見晴らしのいい美しい景色を見ると、人は厳かな気持ちになる。
だから、そういう場所はしばしばパワースポットに選ばれる。しかし、その場所に「神秘的な何か」があると考えるのは合理的ではない。「神秘的な何か」の存在を、客観的かつ再現性のある方法で観察できないからだ。
見晴らしのいい場所は肉食獣の接近に気づきやすいし、食物を探すのにも適している。だからヒトはそういう場所を好むように進化した。──と、進化心理学的に考えるほうが合理的だ。パワースポットで厳かな気持ちになるのは、そういう気持ちになるように神経伝達物質が分泌されているだけだ。
私が暗闇を恐れるのは、幽霊がいるからではない。「幽霊のようなものがいるかもしれない」と考えるように、ヒトの脳が進化してきたからだ。ヒトの眼球は暗がりに弱く、夜行性の肉食獣は多い。理由もなく暗がりを怖がる脳は、ヒトの生存に有利に働く。だから今でも、私たちは理由もなく闇を恐れる。
さらに「お守りを大切にする気持ち」も、進化的な適応のなごりとして説明できるはずだ。
初めて石器を制作した人類は、ホモ・ハビリスだと言われている。ホモ・ハビリスは230万年前から140万年前まで存在していた初期の人類で、その姿は人間というよりサルに近い。彼らは原始的な打製石器を発明した。
しかし彼らの石器は、ほとんど進歩しなかった。
私たちホモ・サピエンスはせいぜい20万年ほどの歴史しかないが、爆発的な技術発展をとげてきた。比べてホモ・ハビリスは「お前ら90万年間も何をやってたんだ?」と言いたくなるような進歩のなさである。したがってホモ・ハビリスは、現代人のような創意工夫の結果として石器を発明したのではないだろう。たとえばアリが蟻塚を作り、ビーバーがダムを作り、ラッコが石で貝殻を割るような、本能的な行動として石器を製作していたはずだ。
ところでラッコは、個体ごとに自分のお気に入りの石があり、それを大切に持ち歩くという。ホモ・ハビリスも、おそらく同じように石器を持ち歩いていたのではないだろうか。
ホモ・ハビリスのような初期の人類は、かばんを持っていなかった。だから作り上げた石器を、大切に持ち歩いていたはずだ。手のひらに収まるサイズの財産を、本能的に大切にしていたはずだ。そうした本能を持たない個体は道具を失いやすく、したがって食事にありつくのが難しく、生存競争で不利になる。
以上は、あくまでも私の想像だ。
しかし「手のひらサイズの道具を大切にする本能」は、決して無理のある想像ではないと思う。そして、その本能のなごりが現代人にも残っているとしたら、お守りやロザリオを大切にしたいと感じる気持ちとして現れてもおかしくないだろう。



宗教的な行為の背景には、合理的な理由のともなわない感情がある。
ヒトは理由もなく暗闇に不安を感じるし、仲間をいとおしく感じる。理由もなくお守りを大切にするし、ジンクスにとらわれる。そして、死を恐れる。これらの感情に合理的な理由はない。だから「どうしてこんな気持ちになるのだろう?」と疑問に思ったときに、「神秘的な何かがあるからだ」と短絡してしまう。宗教に目覚めてしまう。
しかし一見すると非合理的な感情も、進化という観点からは合理的に説明できる場合が多い。



ちなみに機械論者(というか科学主義者)のややこしいところは、魂の存在をあくまでも「仮定していない」だけだということだ。客観的かつ再現性のある方法で、そういった神秘的なパワーの存在を観察・証明できるなら、その存在を信じることにやぶさかではない。ウィンストン・チャーチルは「狂信者とは心変わりをすることができず、話題を変えようとしない人のことである」と言った。私は狂信者ではないので、いくらでも考えを変える準備がある。
しかし、くせ者なのは「客観的かつ再現性のある方法」だ。
たとえば宗教的な瞑想をして、何か神秘的な経験をしたとしても、それで神秘的な存在を信じることはできない。客観的ではないからだ。「この方法で瞑想すると、こういう感情・幻覚を抱くようにヒトの脳はできている」と理解するほうが合理的だ。



    ◆



私の思想の基盤にあるのは、機械論とダーウィニズムだ。高校時代に『利己的な遺伝子』と出会ったことが、その後の私の思考を決定づけた。私にとっての開祖(笑)であるリチャード・ドーキンスは、最近は「あらゆる宗教を否定する!」と息巻いて、過激な発言を続けている。信者(笑)の1人としては、もう少し穏やかになってもいいのでは…? と思わないわけでもない。
私としては、宗教はそんなに悪いものでもないと思っている。「魂なんて無いよ」「生命は化学反応でしかないよ」と言われると、不安にかられる人も少なくない。私たちに霊魂が無いからといって、私たちの人生の価値とは関係がない。魂があろうがなかろうが、人生が尊いのは当たり前だ。が、そう思えない人のほうがどうやら多いらしいのだ。であれば、心の平穏を得るために宗教的なものを信じるのも悪くないだろう。
またヒトは1人では生きていけない。共同体の存在が不可欠だ。適切な共同体を提供するシステムとして伝統宗教が役立つのではないかと、最近の私は考えるようになった。宗教は紛争の原因にもなりうるが、社会の安定にも有益だ。功利主義っぽい観点から、宗教は否定しがたいと私は思う。


â– 中国激動・第二回"さまよえる"人民のこころ

今、人々の間で急速に求心力が高まっているのが、2500年の伝統を誇る中国生まれの“儒教”だ。「他人を思いやる」「利得にとらわれない」ことを重要視する儒教にこそ、中国人の心の原点があるとして、儒教学校の設立や、儒教の教えを経営方針に掲げる企業が続出。現代風にアレンジした新興グループまで登場し、中国全土に儒教ブームが広がろうとしている。


â– 被災時に、オンラインゲームの仲間に頼れるか

僕は今回の震災で、日本ではオフラインのコミュニケーションですら十分に信頼できなくなっている、と感じました。
その例が、避難所における配給物資の分配です。共同体が空洞化していて、「アフターユー(お先にどうぞ)」といえるだけの信頼関係がないので、「なんであの人が先なんだ」ともめることを懸念し、全員分が揃うまでは配らないというおかしなことになりました。
僕が派遣した調査員によると、お寺の檀家衆や宗教団体を中心とする避難所は、比較的平和だったそうです。それは、彼らが日頃から緊密な共同体のなかで生きていて、「アフターユー」と言えるからだと思います。

     ◆



組織宗教に属していないからといって、無宗教だとは言えない。私たちの身の回りは、宗教的なものであふれている。自分の行為を「宗教的だ」と批評できるようになって初めて、本当に無宗教だといえる。
宗教的な行為は生活習慣に密接に関わっている。だから完全に拒絶するのは難しい。私も、宗教的な行為を捨てる去ることはできないだろう。
しかし、それが宗教的だと認識することはできる。
人間は自らの属する文脈の外に出ることはできないかもしれないが、自分がどんな文脈に属するかを知ることは、できる。






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â– 生活の中の仏教語

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※私の宇宙観(宗教観)にもとづいた短編小説です。
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