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2013.10.24
ブログのネタはどこからやってくるのか?-読書猿ブログの7つの源泉
使いまわす/前に書いた記事の残り
10調べても、使うのはそのうち1~2。残りの8~9の中にまだ使いたいネタがあって、それを使う場合。
これが一番速い。連投できるが、面白いものから書いていくから、尻すぼみになる。
長期的に見ると、残り物を書かずに残しておいた方が、他と結びついたり育ったりして、ましなものになりやすい。
先に進む/前に書いた記事の続き
前項とは似て非なる。
ある記事を書いたことがきっかけになって、その前には至っていなかったところに進めた場合。
しかし、こちらは時間はかかる。
たとえば、「書評を読むな、書誌を読め/存在すら知らぬ本を探すための本 」(2010.11.16)という記事をきっかけにして、「点の読書、線の読書、面の読書 」(2011.02.27)という記事を書いたけれど、この時点では単なる抽象論だった。
図書館の使い方についてのいくつかの記事や、「集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 」(2013.05.09)を経て、「複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法 」(2013.08.27)でようやく具体的な手続として展開できた。
言わずにとっておく/悪口
前項は書いたものの続きを書くことだったけれど、これは書かずにおいたものの続き、である。
たとえば、文章を書くことはどうのこうの(0を1だとか100を1だとか)いう抽象論にはうんざりだ、と書くかわりに、「だったらお前なら何をどう書くんだ?」という自問に変換して、その答えを、今の場合ならどんなステップでなら文章を書くことができるかを、具体的に書くのである。
・文章の型稽古→穴埋めすれば誰でも書ける魔法の文章テンプレート 読書猿Classic: between / beyond readers
・これは書くことがとことん苦手な人のために書いた文章です→小学生から大人まで使える素敵な方法 読書猿Classic: between / beyond readers
・伝えるべきことを伝えるために最低限必要なこと/仕事の文章のテンプレートの素 読書猿Classic: between / beyond readers
・生まれてはじめて書く人のための、小学生向け小説執筆マニュアル(手順書) 読書猿Classic: between / beyond readers
具体的に書くデメリットは、具体的であるだけに、一般的に論ずるよりもカバーする範囲が狭くなることである。これは仕方がないが、しかし絶望的でもない。文章を書くこと全般に当てはまることが無理でも、当てはまらない文章や書き手について、また別の書き方を具体的に書くことはできる。
ここから振り返っていると、悪口というのは、対象は変わっても、多くの場合、定型的なのである(なのでレスポンスよく、すばやく書ける)。
せこい話だが、悪口にしてしまえば一回切りのネタも、そうでないものにすればいくつかのネタになる。
次々にターゲットをかえてすばやい悪口を連射するやり方も、一つの書かれざる悪口を軸にいくつもの記事を書き連ねるのも、どちらもペイし得る戦略である。
もちろん悪口を書いた上で、悪口でない記事も書いてしまえばさらにネタは増えるのだが(今気付いた)、その場合はきっと、悪口記事の段階で満足してしまって、そこから先へは進まない気がする。
今度、試してみる。
昔の自分に宛てて書く/過去
確かに悪口のタネは尽きず、悪口を原資にすればネタは尽きないけれど、そればかりでは心がすさみそうだ。
そこで悪口の矛先を自分に振り向けてみる。今度は自己嫌悪に凹みそうだが、過去にずらすと何とかやっていける。
昔の自分はなんと愚かでモノを知らなかったのだろう、と。
前に「当たり前のことばかり書きやがって」と悪口を言われたことがある(このブログでよく読まれる記事というのは、ある人には〈当たり前〉で、別の人には初耳で、さらに別の人には〈冒涜されたように感じられる〉ものだったりする)。
〈当たり前〉ならわざわざ書くまでもないはずだが、それがちっとも当たり前でなかった昔の自分に向けて書いているつもりなのである。
半分ぐらいは多分、誰でもない誰かに「こんなことぐらい、もっと先に教えといてよ」と恨み言をいう代わりに書いている。
応える/内外の声
「わざわざ書くまでもない」という気持ちは、このブログを続けながらずっと持っているもので、低い更新頻度を言い訳するようになるが、ブログ記事を書く動機づけは実はあんまり高くない。
というより、書くことはそれだけでもう過剰か余計な行為だと思ってしまう。
書かずに済ませることは、いつだって可能なのだ。
といったことを考えて、多くの時間、書くや書かざるやの境でうだうだしているので、ほんの少しのキッカケで記事ができることが少なくない。
たとえば内外の声が、飽和水溶液に投じられた結晶の核となることによって。
調べる/書物
言い訳の言い訳になるが、キッカケがあって間をおかずにひとつの記事になるくらいの分量の文章ができあがることもあるけれど、ちょっと調べてみないといけないとなると、どうしても時間がかかる。
ネットで調べられる範囲は昔に比べれば増えたけれど、「ネットにろくなのがない」って(また悪口だ)ことが書き出す始まりの記事だと、紙の本だって読まないといけない。それまで関心がなくて不案内なトピックだと、一つの記事で30冊ぐらい見るとして一週間はかかる。
続ける、仕上げる/書きかけ
こういう手の遅さだから、実際にブログに上がるものは、ゼロから書いたというより、以前書いて中断したものを堀り出してきて、続きを書き継いで、なんとか最後まで行き着いた、というものが多い。
もちろん書き継いでも、再び中断する。
書き継いで中断して、を繰り返すと、当然時間は進む。
前に書いたレオ・シラードの伝記記事は、書き出してから3年くらい経っていた。
・時代はその悲観主義を追いかけた→レオ・シラードー原子の火をもたらしたプロメテウス 読書猿Classic: between / beyond readers
(最初のメモ 2011.03.25)
ブログというのは、もうちょっと軽快に書くもののような気がする。
10調べても、使うのはそのうち1~2。残りの8~9の中にまだ使いたいネタがあって、それを使う場合。
これが一番速い。連投できるが、面白いものから書いていくから、尻すぼみになる。
長期的に見ると、残り物を書かずに残しておいた方が、他と結びついたり育ったりして、ましなものになりやすい。
先に進む/前に書いた記事の続き
前項とは似て非なる。
ある記事を書いたことがきっかけになって、その前には至っていなかったところに進めた場合。
しかし、こちらは時間はかかる。
たとえば、「書評を読むな、書誌を読め/存在すら知らぬ本を探すための本 」(2010.11.16)という記事をきっかけにして、「点の読書、線の読書、面の読書 」(2011.02.27)という記事を書いたけれど、この時点では単なる抽象論だった。
図書館の使い方についてのいくつかの記事や、「集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 」(2013.05.09)を経て、「複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法 」(2013.08.27)でようやく具体的な手続として展開できた。
言わずにとっておく/悪口
前項は書いたものの続きを書くことだったけれど、これは書かずにおいたものの続き、である。
たとえば、文章を書くことはどうのこうの(0を1だとか100を1だとか)いう抽象論にはうんざりだ、と書くかわりに、「だったらお前なら何をどう書くんだ?」という自問に変換して、その答えを、今の場合ならどんなステップでなら文章を書くことができるかを、具体的に書くのである。
・文章の型稽古→穴埋めすれば誰でも書ける魔法の文章テンプレート 読書猿Classic: between / beyond readers
・これは書くことがとことん苦手な人のために書いた文章です→小学生から大人まで使える素敵な方法 読書猿Classic: between / beyond readers
・伝えるべきことを伝えるために最低限必要なこと/仕事の文章のテンプレートの素 読書猿Classic: between / beyond readers
・生まれてはじめて書く人のための、小学生向け小説執筆マニュアル(手順書) 読書猿Classic: between / beyond readers
具体的に書くデメリットは、具体的であるだけに、一般的に論ずるよりもカバーする範囲が狭くなることである。これは仕方がないが、しかし絶望的でもない。文章を書くこと全般に当てはまることが無理でも、当てはまらない文章や書き手について、また別の書き方を具体的に書くことはできる。
ここから振り返っていると、悪口というのは、対象は変わっても、多くの場合、定型的なのである(なのでレスポンスよく、すばやく書ける)。
せこい話だが、悪口にしてしまえば一回切りのネタも、そうでないものにすればいくつかのネタになる。
次々にターゲットをかえてすばやい悪口を連射するやり方も、一つの書かれざる悪口を軸にいくつもの記事を書き連ねるのも、どちらもペイし得る戦略である。
もちろん悪口を書いた上で、悪口でない記事も書いてしまえばさらにネタは増えるのだが(今気付いた)、その場合はきっと、悪口記事の段階で満足してしまって、そこから先へは進まない気がする。
今度、試してみる。
昔の自分に宛てて書く/過去
確かに悪口のタネは尽きず、悪口を原資にすればネタは尽きないけれど、そればかりでは心がすさみそうだ。
そこで悪口の矛先を自分に振り向けてみる。今度は自己嫌悪に凹みそうだが、過去にずらすと何とかやっていける。
昔の自分はなんと愚かでモノを知らなかったのだろう、と。
前に「当たり前のことばかり書きやがって」と悪口を言われたことがある(このブログでよく読まれる記事というのは、ある人には〈当たり前〉で、別の人には初耳で、さらに別の人には〈冒涜されたように感じられる〉ものだったりする)。
〈当たり前〉ならわざわざ書くまでもないはずだが、それがちっとも当たり前でなかった昔の自分に向けて書いているつもりなのである。
半分ぐらいは多分、誰でもない誰かに「こんなことぐらい、もっと先に教えといてよ」と恨み言をいう代わりに書いている。
応える/内外の声
「わざわざ書くまでもない」という気持ちは、このブログを続けながらずっと持っているもので、低い更新頻度を言い訳するようになるが、ブログ記事を書く動機づけは実はあんまり高くない。
というより、書くことはそれだけでもう過剰か余計な行為だと思ってしまう。
書かずに済ませることは、いつだって可能なのだ。
といったことを考えて、多くの時間、書くや書かざるやの境でうだうだしているので、ほんの少しのキッカケで記事ができることが少なくない。
たとえば内外の声が、飽和水溶液に投じられた結晶の核となることによって。
調べる/書物
言い訳の言い訳になるが、キッカケがあって間をおかずにひとつの記事になるくらいの分量の文章ができあがることもあるけれど、ちょっと調べてみないといけないとなると、どうしても時間がかかる。
ネットで調べられる範囲は昔に比べれば増えたけれど、「ネットにろくなのがない」って(また悪口だ)ことが書き出す始まりの記事だと、紙の本だって読まないといけない。それまで関心がなくて不案内なトピックだと、一つの記事で30冊ぐらい見るとして一週間はかかる。
続ける、仕上げる/書きかけ
こういう手の遅さだから、実際にブログに上がるものは、ゼロから書いたというより、以前書いて中断したものを堀り出してきて、続きを書き継いで、なんとか最後まで行き着いた、というものが多い。
もちろん書き継いでも、再び中断する。
書き継いで中断して、を繰り返すと、当然時間は進む。
前に書いたレオ・シラードの伝記記事は、書き出してから3年くらい経っていた。
・時代はその悲観主義を追いかけた→レオ・シラードー原子の火をもたらしたプロメテウス 読書猿Classic: between / beyond readers
(最初のメモ 2011.03.25)
ブログというのは、もうちょっと軽快に書くもののような気がする。
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