和田義盛の墓はどこにあるのか。実はハッキリとはわかっていません。一応鎌倉市内にある和田塚(わだづか)がそうだと言われていますが……ここ、実は古墳です。発掘調査をしたら確かに戦死したような人骨は出てきたんですが、副葬品にハニワも出てきました。
和田義盛の最期は北条氏に反発し、鎌倉幕府に対して謀反を起こした形になっているので、他の御家人のような立派な墓は作られなかったのかもしれません。
しかし、地元民から愛されていた和田義盛。死後の冥福を祈る菩提寺(ぼだいじ)は、三浦にありました。それが今回散策する「来福寺(らいふくじ)」です。
今回のお散歩ルート
三浦海岸駅前のバスロータリーで3番のりばからバスに乗り、2つ先の「池代(いけしろ)」で降ります。
けれど、バスは1時間に1本。時刻表を確認して、時間を合わせて行くか、それとも停留場2つ分を歩いていくか。歩きの場合は来福寺までは20分ほど。道のりは坂道ですが、ゆるやかな坂なので、「ちょっと健康のために歩いてみるか」って感じで登れます。
でもやっぱり歩くのは億劫だな~という人は、ロータリーの向かいにあるスーパーの前に、タクシー乗り場があるので利用しましょう。
歩いて来福寺へ
今回は私も歩いて来福寺へ向かいます。まず三浦海岸駅に着いたら、ガード下を真っすぐ進み、横断歩道を渡って右へ。
駅の近くには、馬頭観音やお地蔵さんなど、色んな石仏が並んでいます。どんな謂れがあるのでしょう。後ろの「記念碑」が風化しているため、ところどころしか読めなかったのですが、この石仏とはまた関係ない事が書いてありそうでした。
この辺りは昔、海軍の施設があったらしいので、開発する時に周りの寺にあったものをまとめたのでしょうか?
まぁ、今回は三浦一族ゆかりの史跡めぐりですので、この謎は一先ず置いといて、ずんずん坂道を登って行きます。途中何回か分かれ道はありますが、ひたすら坂を登る方に行きましょう。
池代バス停を通り過ぎると……。
案内板の通りに左に曲がって真っ直ぐ進みます。
まっすぐ進んでいくと、突き当りにドーンと来福寺が現れます。
来福寺の縁起
来福寺は最初に紹介した通り、和田義盛の菩提寺で、京都の東本願寺の末寺です。元々は、三浦と鎌倉の境にある名越(なこし)という場所にありましたが、義盛の所領である和田の里に移され、その後またここに移されました。
いままで、こぢんまりとした三浦の史跡を巡ってきた人は、来福寺の本堂が想像していたよりも大きくてビックリするでしょう。本殿は元禄10(1697)年の創建で、本山である東本願寺からも免許を貰った格式のあるものです。お寺としても建築物としても三浦半島屈指のものでしょう。
寺宝である和田義盛像は室町時代の作といわれ、三浦市指定文化財となっています。
しかし、一般拝観は普段はおこなわれていません。が、実は来福寺の副住職がオペラ歌手ならぬオテラ歌手の和田祐樹さん。来福寺の本堂でコンサートを行っていて、コンサート日には一般の人も本堂に入れるそうです。
コンサートについては、仏教賛歌のコーラス隊である「鹿の子合唱団」の公式Facebookページを参照してください。
和田朝盛の墓
和田義盛の嫡男の孫に朝盛(とももり)という人がいました。彼はなかなか波乱万丈な人生を送ります。初めは2代目将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)の側近として、武芸の腕が立つ武士として仕えていました。
3代目将軍実朝(さねとも)は、和歌の素養がある者を側近にしました。そこにも朝盛の名前があります。つまり彼は文武両道のスーパー御家人です。
しかし、建保元(1213)年の和田合戦の直前。彼は和田一族として、将軍側近として板挟みになってしまったのでしょうか。突然の出家をしてしまいした。ほとんどの和田一族は討死しましたが、彼は生き延び、表舞台から姿を消して、どこかでひっそりと生き残っていました。
そしてそれから14年経った嘉禄3(1227)年、再び彼の名前が歴史上に現れました。承久3(1221)年に起こった承久の乱の首謀者である尊長(そんちょう)を匿っていたということで、捕縛されたのです。
しかし、この記事を最後にまた出てこなくなります。処刑されたのか、許されたのかも定かでありません。しかし、来福寺の近くには朝盛の墓と伝わる史跡があります。そこの地名「高円坊(こうえんぼう)」も朝盛の法名からとられていると伝わっています。
というわけで時間に余裕があれば、さらにプラス15分、歩いてみましょう!
朝盛の墓への道のり
来福寺を出たら、左へ進みます。
ちなみにこの道はわりと車通りがあります。しかし幅は車一台がギリギリ通れるくらいです。左右に避けられる場所を確認しつつ進みましょう。
このように街灯が無い所を通るので、雨の日や夕方以降は気を付けて!
細い山道を登りきると、ちょっと複雑な交差点に着きますが、対角線上に真っすぐ行きましょう!
開けた台地に一面の畑! 遠くに見える海! そよぐ風はほのかに海の気配……。これぞ三浦の畑! という風景をまっすぐズンズンすすんでいきましょう。ちなみに正面にこんもり見える森が目的地です。
途中で農家の方とすれ違ったら、にこやかに挨拶!
左へ曲がったら、次の角を右へ。
真っすぐ行って、杜をぐるりと半周すると「高円坊日枝(こうえんぼう ひえだ)神社」の鳥居があります。
室町時代末期の創建と伝わっている神社で、元々は寺院の守護として建てられたといわれています。無人の神社ですが、管理しているのは三浦の神社ではお馴染みの白山神社です。
この鳥居を背に立つと、お目当ての「和田朝盛の墓」が見えます。
キャベツ畑に囲まれるように石碑があります。すっかり風化している上に苔がびっしりなので、文字を読むことはできませんが、「朝盛塚碑」と書かれていたそうです。
※編集部注:ストリートビューでも石碑がかすかに確認できます
『初声の歴史探訪記』という本に石碑の文字が書き起こされていて、それによると朝盛は承久の乱の後に阿波国(現・徳島県)に潜んでいましたが、のちにこの地へ帰って来て開墾したとされているようです。
本当に朝盛がここに帰って来たのかは定かではありませんが、この地にこうして伝承として残っているという事実が大事なのではないかなぁと思います。
帰り道
ここまで来たら、帰りのバスは「池代」ではなく「仲尾(なかお)」の方が近いです。来た道をあの複雑な交差点まで戻ります。
バス停へは左へ曲がります。
右手側に仲尾バス停が見えてきます
三浦海岸駅に戻るなら道路の向こう側。横須賀方面に向かうならこちら側。
どちらのバスも1時間に1本なので早く来る方へ乗るか、歩いて三浦海岸駅に戻りましょう。
意外と絶景な穴場お散歩ルート
私の写真の腕では伝わり切れないかもしれませんが、このルート、実際に歩いてみるとかなりの絶景です。取材時は初夏でしたが、冬の晴れた日なら富士山も見えると思います。しかも三浦半島には珍しく急勾配の坂道がない!
というわけで、三浦半島の穴場絶景スポットとしてもおススメなお散歩ルートでした。