心理学ミュージアム

サイト全体をさがす

歴史館

坂野 登先生

動画は抜粋です。インタビュー全文は下記からご覧ください。

  • å‹•ç”»
    坂野 登先生

坂野 登先生の略歴

・ライプチヒ大学、条件反射、脳波研究、ソビエト心理学、ルリヤ、利き手・利き脳
・1957年に京都大学文学部を卒業。その後、大学院に進学して1963年に文学博士(「Experimental investigation on some significances of the theory of signal system to psychology」)。1964年にライプチヒ大学医学部助手。帰国後は大阪経済大学助教授、京都大学教授、ライプチヒ大学心理学研究所客員教授、名古屋女子大学教授などを歴任。
・京都大学では園原太郎先生の指導を受け、眼瞼条件づけをテーマに研究を行いました。ソビエト医学研究会にも参加しました。その後、ライプチヒ大学に留学して、脳波研究にも携わり、帰国後には条件反射学をベースにして心理学と脳科学とを統合させた実験的研究を展開しています。

日時:2016年2月15日(月)
場所:京都宇治市の御自宅
坂野 私は、終戦が小学校の6年生のときでした。したがいましてそのようなことが強く関係があると思うのですが、ちょうど中学校に入るときから、もう新しい日本という感じでした。中学校、高等学校は同じ中高に行きました。私は熊本が出身なのですが、当時、熊本には旧制の第五高等学校がありました。戦後の、非常に新しい息吹のある頃です。第五高等学校の先生たち、それから旧制高校の学生たちから、やはりいろいろな新しい息吹のようなものが、当時の新制高校生、あるいは中学生たちに対して非常に影響があったのです。
 そこの旧制高校の先生方、それから私の兄は――私よりも三つうえで、もう亡くなりましたが――、そのとき第五高等学校の学生で、「民科」と言われていた民主主義科学者協会に、高校の2年か3年頃に誘われて、高校生を対象にしたサマースクールなどで他の高校生と一緒に五高の先生方の話を聞きました。他校の女子高生たちと交流があったのは初めてで、新鮮な気持ちでした。何しろ私の行っていた高校はもともと男子校で、男女共学になったばかりで、一学年400名のなかで、女子高生は十数人でしたから。そこではいろいろな話がありました。ロシア語の先生からは当時のソビエトの非常にいい面を、それから化学の先生からは科学全般の世界についての話しも、そしていろいろな先生の話を伺い、そこでいろいろな刺激を高等学校の時点で受けたわけです。
 大学は一浪したのですが、実は東京で浪人していて、そこで昭和27年に「血のメーデー事件」がありました。これは、メーデーのときに初めて皇居前広場で、警官隊といわゆるデモ隊とがぶつかったのです。私もたまたま、東京で私がいたところの近所の人に誘われて、何も分からずにそこに行ったのです。そこで警官に頭を殴られて病院で治療を受けたりもしました。メーデー事件のほとぼりが冷めてから、東京から熊本へと普通列車、いわゆる鈍行に乗って帰る途中、京都で途中下車して駅前の当時丸物という名前の百貨店の屋上から京都市内の、碁盤のように整然とした町並みをみて、そうだ京大に行こうと決心したのです。おかしなものです。
そのようなことが、まず京都大学に入る前にありました。それから京大に入ってからしばらくすると、京大生の高校の先輩から誘われて、京大の近くにあるセツルメントなどに出かけるなど、社会的なことにも関心があった時代が、高等学校から大学に入って2、3年、あれこれあったわけです。
 入学したのは理学部です。1953年、昭和28年です。そのときは理論物理学がとてももてはやされていました。ただ私が一番やりたかったことは、生物学でした。当時は進化論で有名な、徳田御稔(みとし)という先生が京大におられ、その方や、ほかにも様々な方々が理学部の生物学教室におられたので、生物学をやりたいかなと思っていました。それが1年、2年の頃です。
 ところが理学部の教養課程で、どうしても数学が苦手で「駄目かな」と思っていた頃に、二つの本に出会ったのです。ずいぶん古い本ですが、アレキシス・カレルという人が書いた『人間 この未知なるもの』という文庫本を読みました。それから林髞(たかし)という人の『条件反射』の本ですね。この方は実際、当時まだソ連になる前のロシアに行って、パブロフのところで学んで帰ってきて、慶應大学の生理学の先生だった方なのですね。脱線しますが、この方は本名の姓名を分解してできた木々高太郎というペンネームで、推理作家としても有名です。この二つの本に非常にひかれて、「なるほど、こういう学問があるのかな」ということを、2年生の頃に知りました。
 生物学をやりたいということが一方であり、それから先ほどお話ししていた、社会的ないろいろな問題にも関心がありました。できれば文系と理系のちょうど中間的なものができないかと考えたのです。そこで、理学部から文学部に転学部することを考えて、矢田部達郎先生という方が当時主任でいらしたので、下鴨にあるお宅に行ったわけです。この矢田部先生に関してはいろいろな人が逸話を書いていまして、そのとおりなのです。例えば一年後輩の小牧純爾さんが、この矢田部先生のことについて何かに詳しく書いていますが、非常に学識があるというか博識な方で、またさばけた、粋な意味でも有名な方なのです。ご自宅が下鴨にあり、そこで、勉強するのは寝床にはいつくばって、脇に全部、本を置いて、そこで寝そべりながら読んだり書いたりされていたということです。そこに私は行って、「実は理学部の学生なのですが条件反射をやりたい。理学部では条件反射をやっているところが、今はどこにもないということで、それをやるためには、やはり心理学に替わる必要があるので、ぜひお願いできませんか」ということを、その寝そべっていらっしゃる前でお願いしたわけです。

インA 先生の前で、寝そべっていたのですか。

坂野 そのように記憶しています。「しかし君、理学部から来ても文学部では食えないよ」と言われて、「いや、それでも構いません」ということで、無理押しして、2年生から3年に替わるときに転学部したのです。当時、そのような転学部制度が京大にあったわけで、そこで京大の哲学科の心理学専攻というところに入ったわけです。ちなみに当時理学部からは、医学部を含めた全学部に、入試の成績が転学先の学部のものよりよければ転学可能だったように記憶しています。ただし受験科目の関係上、文系から理系への転学部は難しかったようです。
 それから、私が3回生のときに京大で日本心理学会があったのです。日本心理学会でした(第19回大会)。そのときに、おそらく教養部を使ったのです。つまり、今の総合人間学部ですね。この矢田部先生が大会委員長でした。そのとき私は3年生で、補助員をやりました。チンという発表開始と終了の鐘を鳴らしたり、あるいは、いつまでも発表を終わらない方がいたら何度もチンチンと鳴らしたり、そのようなことをやる役でした。このときに非常に印象深かったことがいろいろありました。
 一つは、教育学部の助手の方が非常に電子関係の方面に強くて、これまでは学会というのはおそらく、各部屋で時間を計って鐘を鳴らすということをやっていたのです。それを全部、発表会場で一斉にやるという方式を作ったのは、おそらくこのときが初めてではなかったかと私は記憶しています。
 もう一つ印象深かったことは、当時のその発表会場での議論が実に激しくて、中身はまったく分かりませんが、とにかく激しい議論を、しかも年配の先生方がやられていました。お名前も分かっていますが、ここでは申しませんが、とにかく激しい議論が何人かの方との間でもあったという印象が非常にあります。「ああ、これが学問なのか」という感じがしました。これが3年生のときの経験です。
 矢田部先生は、私が3年生のときだけいらして、それから早稲田に移っていかれました。したがいまして1年間でしたが、話の内容は半分以上分かりませんけれども、誰もが本当に傾聴していたという感じでした。私たち学生は、矢田部、園原、柿崎、本吉の先生それぞれのお写真をいただき大事にしまっておいたことです。
 それから次は私の恩師の園原太郎という先生で、この方は発達心理学が専門なのですが、非常に広い視野をお持ちで、まったくご自分の専門と関係ない領域でもきちんとコメントされました。それだけではなくて、ある方向づけを与えていただくという、そのような広さを持った方です。この先生はどういう訳か、条件反射についての論文を『哲学研究』という哲学科の雑誌にお書きになっていて、そのことも非常に「ああ、どういうことでつながっているのかな」と不思議に思った記憶があります。私たちの仲人役もお願いいたしました。
 当時はあと2人の先生がいらして、一人は柿崎祐一という方なのですが、この方が助教授でいらっしゃいました。この方の専門は知覚心理学の視野闘争という領域で、ゲシュタルト心理学なのですね。当時の日本では、まだまだドイツの心理学とアメリカの心理学とがちょうど両方混じっている頃なのです。この方からは、ゲシュタルト心理学とはどのようなものなのかということを学び、それから知覚心理学の実験法が非常に厳密であることを学びました。当時、私たちの先輩には知覚心理学をやっている人たちが多くて、その被験者になることを通して、知覚心理学の、特に恒常性の研究というのは非常に辛気くさいものですが、それをずっと被験者をやりながら学んだ覚えがあります。そのような実験方法の厳しさというようなものを学びました。私はまた教室の、園原、柿崎、本吉の三本柱に並ぶ研究のもう一つの柱であった、森川弥寿雄さんが主にやっておられた言語学習心理学の被験者もやりました。しかし無意味音節の学習が苦手で学習完了直前に崩れてしまい、学習心理の悪い被験者、そして知覚心理のよい被験者でした。残念ながら森川先輩はぜんそくのため、助手の若さで急逝されました。
 それから本吉良治という先生が講師でいらして、いちばん若い方でした。この方はネズミの学習心理学をやっておられました。行動主義のばりばりの方で、したがいまして考え方は矢田部先生とも、園原先生とも、柿崎先生とも違う方です。学習心理学というのは条件反射といちばん関係が深いのですが、実は考え方がまったく違うのです。この方は要するに、ネズミから人間を推察するという方向をお取りになっていたのではないかかと思います。一般に動物心理学はそのような傾向が強いかと思いますが、パブロフの場合もそうなのですが、パブロフは人間というものをまた同じ条件反射の考えで説明しようという考え方に、晩年に立ち至りました。しかし「延長線上にあるのだけれども、人間独自のものを人間は持っているのだ」というような考え方を、パブロフの条件反射は強調していたと強く感じました。
 それからもう一つ印象的だったことは、本吉先生から統計学を学びました。統計学の厳しさを学んだのですけれども、私が大学院に行った頃に1年間ほどアメリカに留学され、そこでスキナーの心理学を学んで帰ってこられたら、そこからがらりと変わりました。同じ行動主義でもスキナーの場合、いわゆる統計的なものを重視するようなものではありませんよね。

インB そうですね。

坂野 したがいまして、そこからがらりと変わっておられて、あれには戸惑った覚えがありますね。あとでお話ししますが、私が卒業論文でやったことをどうしてもこの方は納得されなくて「被験者になって、本当にそれがどうなるかやってみる」と言われて、被験者になられて、やはり、その現象が起きたのですね。それで納得されるという、そのような方でした。
 それから佐藤幸治という先生は、当時教養部にいらして禅の心理学、人格心理学を研究された方です。京大教育には『Psychologia』という、1957年から今もずっと出している国際英文雑誌があるのですが、私は大学院に入った頃からずっとその編集の手伝いをやっていました。私が書いた論文の大部分は、この『Psychologia』に英文で出しているのです。私はエディターを10年以上やりました。この方からは、その『Psychologia』を通して、海外に対する目を開けていただいたという感じです。それから、京大に就職する上でもずいぶんお世話になりました。
それから当時は非常勤で、関西学院大学の今田恵先生が非常勤で毎週1回、講義をされていました。おそらく大学院の頃だと思いますが、文献購読でジェームスを学んだのではないかと思います。何を読んだかという記憶はないのですよ。ただ、どうもそのような感じがして仕方ないのです。実はこのジェームスのことに私が今、非常に関心を持っているのは、やはり、その頃の植えつけか何かがあったのではないかなという感じがいたします。
それから3年生、4年生で、そろそろ卒業論文ということで、やはり条件反射ということで何かやりたいなと思っていました。ところがその頃、心理学の中ではそのような論文が関西学院にはあったはずなのですが、私はまったく知らずにいました。結局どのようにしてテーマを選んだかと申しますと、当時、やはりソビエトの医学が、特に日本では生理学というのか、精神医学の中で若手研究者のあいだで盛んだったのです。
 これは少し先になりますが大学院時代の頃に、ソビエト医学研究会というものがありました。それは東大・京大・阪大で、当時の若手の医者たちがその研究会を作り、当時のソビエト医学のいろいろな文献を翻訳して紹介していました。その研究会の訳で当時の日本で一時期、非常に盛んになった領域がありました。今で言えばサイコソマティック・メディシンでしょうが、ブイコフという人がソ連にいまして、彼が『大脳皮質と内臓器官』と題した本で、大脳皮質のいろいろなはたらきによって、自律神経系に支配されている内臓器官のはたらきがいかに変容するのかということを示したわけです。それから、もう今はおそらくないと思いますが、岩波から『自然』という雑誌が毎月出ていまして、その中にブイコフの書いたある論文が2回連載されたのです。翻訳者はソビエト医学研究会のメンバーです。その中に、ブイコフの実験ではないのですが、こんなことがあり得るのかと思うような実験が紹介されていたのです。     
これがその論文に影響を受けて、卒論で私が行ったときの実験装置の写真です。(写真を示す)
私はここにいます。そのブイコフが書いた論文の中に、マイオーロフという研究者が人間を使った眼瞼の条件反射の実験があります。メトロノームを1分間に120回鳴らすものと60回鳴らすものと、そのような条件があります。1分間に120回、つまり非常に速いテンポのメトロノームの音を聞かせながら、目に空気を吹き付けます。今度は1秒間に1回という、1分間に60回の遅いテンポで鳴らすときには目に空気を吹き付けません。いわゆる分化、心理学でいう弁別を作ったのですね。うまく瞬きの分化ができたときに、今までやってきた手続きを急に変えます。それまでは120回のときには目に空気が吹き付けられていて、もう条件反射ができているので、音がしたら目をパチパチパチとやります。そこで今度は60回のときに目に空気を吹き付けて、120回のときには吹き付けをやめるということをやるわけです。そして「今の音の速さはどうだったか」ということを聞くと、120回の音を遅い、60回の音を速いというように、判断が全く逆になってしてしまうという報告があったのです。でも、120回と60回ですから、まったく違うでしょう? したがいまして、そんなことがあるはずがない、でも、あると書いてあるからやってみよう、ということで眼瞼条件反射を始めたわけです。
 これが卒論で使った眼瞼反射の写真です。これは私なのですが、この装置は全部、自作なのです。このスタンドなどはいろいろ組み合わせて、高さを調節するようなものです。目に空気を吹き付けるための管と、それから空気をどうやって送るかについてはコンプレッサーを買いました。コンプレッサーは強すぎますから減圧弁を買って、そのままでは空気が汚いからこの清浄装置を付けました。次は、いつ空気を吹き付けるかという弁が必要です。弁も作りました。もう今はおそらくどこにもないと思いますが、ジンメルマン(Zimmerman)というドイツの機械を使いました。

インB ジンメルマンは実験器具メーカーですね。

坂野 そうです。ドイツのメーカーです。それは時間を制御する装置なのです。大きな中空の円盤の円周をぐるぐると梃子(てこ)が回るわけです。梃子はモーターとベルトで結ばれていて円盤に沿って回転し、円盤に取り付けられた二つの接点を通過します。回転速度はベルトを変えることによって変化できます。回転する梃子は手前の接点をまず開いて、次いでもう一つその先の接点を閉じるという、このような方法で時間を制御する装置があって、それを使って時間制御をしました。二つの接点の距離を変えることによって、オン・オフの時間を変えることができるのです。接点はいくつも取り付けることができるので、複雑なオン・オフも可能です。
次に、まばたきを記録するのはどうしたらいいかということで、当時はまだ脳波装置も何もないのです。あるのは単なるオン・オフの記録が可能なだけの記録装置でした。いろいろ考えまして、結局は、まぶたの上に小さなばんそうこうを貼り付け、そこから細い糸を垂らしました。では、どうやってその接点を付けるかと言えば、既製の水銀接点を使いました。今だったら、水銀というのは毒で使用禁止ですよね。ただ、それを知らずに当時は水銀を使った接点というものがあったわけです。つまり、梃子でもって水銀がたまっているところに接点がはいればスイッチが入る。このような梃子の応用で、まばたきすれば糸は引っ張られて、梃子の原理で接点が落ちて電気が入るという方法で、まばたきを記録したのです。きちんとうまくできて、それを使いました。
 ところがメトロノームで120回、60回と音を出すのですが、メトロノームというのは自動的に止めたり始めたりするのが難しいですよね。それで純音を使いました。純音を使っていろいろ実験しましたが、結局は弁別閾ぐらいの程度の高さの違う高い音と低い音とを使い、片方に空気を吹き付け、片方は吹き付けないという、そのような方法で眼瞼条件反射を作りました。そして、先ほど言ったような方法で逆転させたわけです。そうしたら、確かに混乱が起きるのです。判断がまったく変わってくるのです。その実験を行って「眼瞼条條反射に於ける系の混乱について」という卒業論文を書いたのですが、本吉先生が、どうしても「そんなことは納得できない。では、俺を被験者にしてやってくれ」と言われました。これは実際に卒業論文の諮問が終わり、もう通ったあとの話なのです。というのは、本吉先生はまだ講師ですから、卒業論文に立ち会うことはできるけれども決定権はありません。のちに大学院に入ってから、本吉先生を被験者にして、私が実験したら実際に起きたのですね。しかも、ちょうどこの弁別閾付近ですから、高い・低いと言っても相対的な高さ・低さですから、本吉先生の場合は実験が終わってからもしばらくは逆転した現象がずっと続いていたのです。「ああ起きるんだな」ということで納得していただきました。やはりこの先生からは、「納得するまでとことん突き詰める」という、そのような研究における基本的な態度というものを学びました。これが学部時代で、そこで大学院に入ったわけです。
 次が大学院で、この条件反射関係ではやはりロシア語がどうしても必要でした。私は第一外国語が英語で、第二外国語がドイツ語なのです。ロシア語はまったくやっていませんでした。大学院に入ってから、やはり必要だということに気がつきまして、独学でロシア語を勉強し、何とか文字ぐらいは、これは何という文字か、何と読むかということと、文法のある程度までは分かりました。
 当時、京大のすぐそばに「ナウカ」という、ロシア語の本だけ売っている店がありました。「ナウカ」というのは、ロシア語で「科学」という意味です。そのような店はおそらく、京都に何軒かあったと思うのですが、京大の農学部の横にもあったのです。そこに私は行きまして、まだ何も読めませんが、ただ文字が何という文字かということだけは分かるので、「パブロフ」という字だけを目当てに行って買った本がここにあります。実は探し回って出てきたのです。これが「エー・ペー・パブロフ」と読むのですね。そのときは、これがどのような本かなどということは分かりませんでした。
 それからもう一つ、先ほどお話しした実験の基になったマイオーロフの実験を記載した本もナウカで偶然見つかりました。ロシア語です。お二人は、ロシア語は?

インA まったくだめです。

坂野 これがあとから分かったことなのですが、アスラチャンという、これはまた有名なパブロフのお弟子さんです。日本にも来て、私もお会いしたことがあります。『パブロフ』という訳本もあるのです。最初に買った本はその本だったのです。非常に記念すべき本です。この「ナウカ」という本屋さんで、いろいろロシア語の本を買いながらずっと勉強していったということが、大学院に入って初めの頃です。
 それからその次に、やはりいろいろと生理学的なことも勉強しなければいけないということで、当時は脳波がだんだん盛んになってきました。もう亡くなりましたが、秋田宗平という京都工芸繊維大学の色覚の、色の専門の方がいらっしゃいました。それから私と同期の名倉啓太郎、彼はもう亡くなりましたが、この3人でこの東北大学医学部生理学の本川弘一研究室に、2週間か3週間、夏休みを利用して、脳波を学びに行きました。この方が世界的に有名な脳波の研究者だったのです。
 この方から脳波の記録方法を学ぶだけではなくて、誘発電位の記録方法をも学習したのです。誘発電位というのはご存じと思いますが、脳波というのは自発的に脳から出ている波なのですが、誘発電位というのは、何か刺激が入ったことによって誘発されて出る波です。刺激が入ってから起きるまでの潜時というのは、だいたいいろいろな事象によって決まっているわけです。したがいまして脳波の記録計をずっと記録していくと、何か刺激が入ったら、その変動が脳波の記録の中に入って、ごくわずかな変動が見られるわけです。それを集めて加算していくという方法で、やっと見えるような変化なのですね。
 当時、それを記録する方法を、この本川先生というのは実はもう非常に頭のいいというか、目の付け所がいいというか、そのような方法をつくられたのです。脳波の記録用紙の一部に小さな穴を開け、記録用紙が動いていく途中である接点をその穴が通過すると電気がはいって、光なり音なりの脳波を誘発させる刺激を出すという装置です。一回記録が終われば記録用紙をまた巻き戻して実験を繰り返すわけです。二回目、三回目と記録用紙の穴が接点を通過するごとに刺激がはいりということを繰り返すことによって、一回では雑音としか見えなかった、刺激によって誘発された脳波の変化が次第にはっきりとしてくるというわけです。つまり、今だったら、もうまったく電子的に何にも問題がない。そのような方法を手作りで記録するという、そのような方法を学んだということです。
 後でお話しする東ドイツの研究室では、記録用紙ではなくカメラのフィルムに誘発電位を重ね焼きするという方法を知りました。電子的な方法で半ば自動的に誘発電位を記録することができたのは、京大教育学部でのずっと後のことでした。
 また大学院時代に戻りますが、先ほどお話ししたパブロフは「人間と動物はどう違うのか」ということで、第一信号系・第二信号系という概念を晩年に提唱しております。彼のこの考えは実際の実験からではなく、精神病院の患者さんたちの観察などから、そのような発想を出されたのです。このような考え方は、当時アメリカにはまったく伝わっていませんでした。つまりアメリカに伝わったのは、パブロフのいわゆる『条件反射学』という有名な本だけからです。それ以降の「パブロフの水曜日」という、毎週水曜日に弟子たちと会っていろいろな議論をするものがあってそれが出版されているのですが、そこでクレッチマーやジャネなどについて、いろいろなコメントをする中で出された考えなのです。これはアメリカではまったく一言も言われてない、ほとんど知られてない考え方です。そのようなことを私が知ったということで、「では、こういう方法で研究をしていこう」と思ったわけです。
 簡単に言いますと先ほどの眼瞼、まばたき条件反射で言えば目の動きが第一信号系です。それから先ほどの卒論で言えば、音が速かったか遅かったかというようなことを言うものが第二信号系です。基本的にはそのような考え方なので、その考え方を基にして日本心理学会では20回以上ずっと発表を続けました。当時、私よりも2年か3年上かな、関西学院の……。

インB 宮田洋先生ですか。

坂野 ええ。彼とはその頃知り合って、あの方はもうずっと唾液の条件反射で、私は眼瞼条件反射ということでお互いに発表をしていました。
それから私の研究には、先ほど申したソビエト医学研究会との出会いが大きく影響しております。いろいろな翻訳物を通してだけでなくもう一つは、京大の医学部の精神科の助手の方で、やはりこのソビエト医学研究会の方からのものです。この方は実は日本で初めて小児精神医学を学んで帰ってこられた高木隆郎という方です。その方と知り合いになって、その方のお世話で精神病棟の中で、統合失調症の患者さん、それから神経症の患者さんについての研究をさせてもらいました。これがM1からM2にかけてです。京大の心理学研究室からいろいろな実験道具をリヤカーに載せて、そこまで運んでいって、そこで実験をしました。
 修士論文は実はここでやった研究と、それから文学部の研究室のほうでやった研究との両方を混ぜ合わせたようなものでした。病院でやった研究の部分は、統合失調症や神経症の患者さんの特徴を、バルブ押しを使った方法で確かめるというもので、あとから話しがでてきます、ルリヤというロシアの神経心理学者の方法との出会いによるものでした。
 それから先ほど申した佐藤幸治先生との関わり合いで、30年以上関わって、エディターとしても10年以上関わったのですが、だいたいこの頃に書いている論文は全部英文で書いて、この『Psychologia』に載せてもらいました。これが60年前後ではなかったかなと思うのです。ドクターに入った頃です。
これは別に大したことではないのでしょうが、当時はマスターからドクターに行く人は、定員から言えば半分に減るわけです。ところが私たちは「全員入れろ」と言って、園原先生たちのところに押しかけていって、結局は男4人、女4人の8人が修士からドクターまで入れてもらった覚えがあります。このときは、そのようなことをやった時代でした。
 また、これも非常に京大の独特な方法なのですが、博士課程3年時からは大学院に籍を置きながら就職ができたのです。私の場合は博士課程の2年次のときに結婚して、3年次にはドクターに籍を置きながら東京に就職をしたわけです。当時は非常に就職難で、私の先輩たちがオーバードクターを含めて10人ぐらいがごろごろいたわけです。
 社会心理学の南 博先生いう文学部の大先輩で当時一橋大学におられたこの方が、東京で日本リサーチセンターを作ろうという企画の中心人物でした。一業種一社制ということで日本の代表的ないろいろな企業八社が出資して、マーケティングの研究調査機関を作るので、「来ないか」という呼びかけがありました。言うなら、人買いですよね。もうそのときに文学部心理にいたオーバードクターやドクターコースのほとんど全員が、ここに就職しました。私も一緒に就職しました。
 このときに心理学関係で言えば、北大からドクターコースの人と学部生、東北大からもドクターコースの人と学部生、それから東京大学は心理がいなくて、京大からはオーバードクタードクターコースの大人数、九大からは助手の人と学部生そして後にはドクターコースの人、それから京大の教育学部からも心理関係が2人、心理以外にも法学部、経済学、社会学、言うならば日本全国の領域のドクターコースの人たちや、ドクターを終えた人たちを多数集めて調査機関を作るということでした。
青学からも1人、経済学部の人がいました。私よりも先輩でしたが、非常に仲良くしてもらいました。そこで東京に出かけて、新しいいろいろな経験をするわけです。日本リサーチセンターはマーケティングの調査機関で、私は研究部の主任研究員ということで非常に居心地のよい思いをしました。週に1回、研究日があったのです。それを利用して国立衛生研究所や法政大学の柘植秀臣という方の研究室に出入りしていました。この柘植秀臣という方は、実は条件反射の研究で有名な方で、金魚を使った条件反射をずっとやっていらしたのです。

インB 国立衛生研究所では、何をされていたのですか。

坂野 ここでは実際には研究をさせてもらえなかったのですが、脳波関係のいろいろな仕事を見学させてもらったりしました。

坂野 この柘植秀臣という方はもともと東北大学の生物学出身の方で、法政大学の社会学部の地下室に生物学の研究室を持っていました。この方はいろいろな外国の条件反射関係や生理学関係、それから生物学関係の方との交流が非常に深くて、ここで東ドイツのライプチヒ大学に行くきっかけをもらいました。これは日本に帰ってから初めて、どこから給料が出たかということが分かったのですが、とにかく、「東ドイツのあるところで、人間を使った脳波の研究をできる男が欲しいと言っている。行かないか」という話を柘植先生からもらったわけです。そこで日本リサーチセンターを休職して出かけたわけです。
少し話が変わりますが、当時はドクター論文を出すということは当然もう博士課程を終わって、オーバードクターになって、ずっとあとで出すことが普通だったのですが、私は博士課程という制度があるのだから一度出してみようではないかということで、日本リサーチセンターで勤務しながら博士論文を書いたのです。書いてはみたものの、当時の和文タイプというのは実に大変なもので、もちろん手元には持っていませんでした。したがいにです。まして、英文で書くのが一番手っ取り早いのです。つまり、タイプがあればいいわけですから。ということで、英文で書きました。うまく時間を作りながら1年間かけて、ちょうど日本リサーチセンターに行って1年終わったときに提出したのです。博士課程単位取得満期退学時にです。
英語で書きましたが、日本語で言えば「第一信号系と第二信号系の相互関係の心理学的意義」というようなことで出しました。その翌年に、園原先生から学位をいただきました。
 それで、この東ドイツに行く話なのですが、ちょうどそれがリサーチセンターで3年が終わったときです。当時、まだ日本と国交がなかったのです。どうやって行くかということでいろいろなことがありましたが、ともかく何とかビザなしで行かなければなりません。当時はチェコスロバキアですがこの国は日本と国交があり、また当然のことながら東ドイツと国交がありました。というわけでチェコスロバキアのビザと招聘先からの招聘状で無事、東ドイツの空港に降り立つことができました。道中いろいろなことがありましたがここでは割愛します。家族は数ヶ月遅れで、私よりも楽ないわゆるツーリストのルートでやってきました。
そのような方法で何とか行き着いて、向こうでは研究助手ということで給料をもらって、2年と少々いました。このお金の出所がどこかということがあとから分かったのですが、International Brain Research Organization、国際脳研究組織、IBROという略語で言うのですが、そこから留学生用のお金が出たのです。私が行った先の人が、IBROの東ドイツの代表者だったのです。したがいまして、東ドイツにすればつまり西のお金をIBROからもらい、そのお金を東ドイツのお金で私に払えばそれは得ですよね。そのような方法で、私は向こうで給料をもらいながら、2年少々の生活をしました。このときは非常に楽でした。まだ日本人も東ドイツには10人ぐらいしかいないと聞きましたが主にベルリンで、ライプチッヒ在住の少数の留学生たちとは交流がありました。そこで、いろいろな経験をしました。当時は日本との国交はまだなく、私たち家族の帰国の10年後に国交ができたというそのような時期です。
 この写真はリサーチセンターにいたときの、アイカメラというものを共同で先輩と一緒に作って週刊誌に載ったものです。これは私が実際に実験しているところです。デモンストレーションなのですが、ここに三つの缶を置いて、どこを見ているのかということを実験しています。昔のアイカメラはあれほど大きな筒なのです。ただ当時はもう初めて日本で作ったぐらいのもので、非常に珍しがられて、これを使っていろいろな実験をしました。この写真は単なるデモンストレーションですが。
 これは大学の中の写真で、これが破壊されたライプチヒ大学です。この中はもう全部がらんどうなのです。外側だけがこのように残っていました。

インA やはり、戦争ですか。

坂野 ええ。この中はもう全部瓦礫でした。私を東ドイツに招聘してくれた研究室の主任の先生から、「ヴントの研究室はおそらくこの辺りにあったろう」と教えてもらった覚えがあって、写真でも撮ればよかったなと思います。本当にがれきの中を行った覚えがあるのです。大学の外側だけが残って中は何もない、そのようなところでした。この主任の先生はピッケンハインという名前の生理学者で親日家でした。第二次大戦に従軍中、頭部に外傷を受け、そのリハビリのために漢字を勉強したという経歴の持ち主でロシア語が堪能で、パブロフ全集のドイツ語訳を手がけたりもした人です。全集は10巻以上あったでしょうか、京大教育学部の図書室にありましたが、翻訳者が彼だったことはずっと後になって知りました。
 また、そこの研究室でいろいろなことを勉強しました。この写真の一番左にいる女の人が主任の秘書です。この下にいる人が実験助手です。何をするかといえば、この研究室の仕事は、大部分はネズミを使って、ネズミの頭に電極を植え付けて、そこを電気で刺激したときのいろいろな反応を観察するという方法で実験をしていたところなのです。私はそこで人間の脳波をやれということで始めたのです。これは、私が実験で撮影した誘発電位の重ね焼きのフィルムを見ているところです。こういう撮影なのでした。

インA これは、ネガのようなものですか。

坂野 はい、ネガです。このネガは、実は先ほどの本川研究室のお話にでてきたような誘発電位を、今度はフィルムを使ってやろうというわけです。したがいまして、フィルムに誘発電位を重ね焼きするわけです。そのような方法で撮るということをここでやっていたわけです。当時は、そのような方法しかなかったのです。ここで自分が人間での脳波研究をしなければいけない、しかもお金をもらっているわけですから成果を出さなければいけないということがあって、3か月間は英語で話してもいいけれども、それからはもうドイツ語というわけです。
もちろん、大学の手配で、コロンビア人の医師とペルー人の技師との合計3人で、1人の女の先生からドイツ語の特訓をずっと受けたのです。特訓と平行して、とにかくそこで脳波室を造る必要があるということになりました。脳波室ですから、電波を遮るシールド室が要るわけです。それを造るのが、ドイツ人の年配のマイスターでした。

インB 機械主任というものですか。

坂野 ええ、もう職人の親方です。ですから、大工の親方と一緒に脳波室を何か月かかけて造りました。その間その人と、まだあまりうまくないドイツ語で話しながら、そこで、本当にこつこつとやるドイツ人気質(かたぎ)というようなものを感じました。

インA やはりシールドルームのように、何か金網か何かを張ったりするのですか。

坂野 ええ、もちろんそれは要るのですが、まずその枠組みを組むのが雑ではないのですよ。もう本当に細かいのです。それから、その研究室にはいわゆる研究員が先ほどお話しをした主任とドイツ人の同僚と私の男性3人、それから機械工が一人いました。その人は旋盤などを使って実験に必要な機械を全部作るのです。

インA 専門でやっているのですか。

坂野 ええ、専門です。それから、電子・電気の技術者が一人です。電気関係のものは、「これを作ってくれ」と言ったら彼が全部作ってくれます。それから、ここに女の人は2人いたのですが、その人はネズミの実験をするときのお手伝いをしていました。正式には技術助手といいます。電極をネズミに埋め込んだりするときにある程度の技術が要るわけです。だから日本で言えば、例えば看護師ぐらいの資格がなくてはいけない人です。それからネズミを飼う専門の人が一人です。その人はネズミだけを飼うわけです。全部その人が世話をします。それに掃除担当のおばさんです。
 というように全部、分業体制でした。これがドイツの分業体制です。それから、自動化されてない解析方法を学びました。あるものを解析するためにはどのような方法が基本にあるのかという、つまり自動化されてしまったら、もう、その自動化のままで仕事をすればいいのですが、実はやはりその原理を知っておくことが必要です。
 それから、この医学部の生理学の研究室、ここは実は当時ライプチヒ大学は「カール・マルクス大学」と名称が変えられ、日本語風に言えば、「ライプチヒ・カールマルクス大学」です。そこの医学部付属で、精神医学の、精神科病院付属の臨床神経生理学研究室だったのです。そこでそのような基礎研究をやるということでしたけれども、また、そこにいる別の部門のスタッフたちとのいろいろな話を通しての、向こうの精神科の先生たちとのいろいろな交流もありました。また私がこの生理学の研究室で、心理学的な方法を使った研究を行うに当たって、どのようにしてその手法を取り入れ、どのようにしてその手法を理解してもらえるようにしたらよいのか、こころを注いだ覚えがあります。このときの共同研究として、3本ぐらいの研究論文を国際誌に発表したのでまあまあではないでしょうか。
 研究室の同僚との思い出を少しだけ申しますと、ドイツでは相手と話しをする際の人称代名詞のSieとDuを使い分けます。私は同僚だったドイツ人の研究者から、知り合ってから数ヶ月後に、これからSieからDuにしないかといわれてそれ以降ずっとDuで過ごしましたが、ピッケンハインや他の同僚とはずっとSieでした。気持ち的にはそんなに違いはありませんでしたが、動詞の変化も違い微妙なものがありました。この同僚と私の正式の職名は研究助手でした。
 IBROから出るお金は一年でしたがそれを一年と少し延長して、帰国後に3年ほど大阪経済大学にいましたが、最終的には苧阪良二先生と佐藤幸治先生のお二人の努力で、私が京大の教育心理学の講座に参ったわけです。1970年から1997年の27年間です。佐藤幸治先生はいろいろな外国の方と交流が深いわけで、ルリヤが実は日本にやって来たことがあります。私が修士の頃です。そのとき、京大の教養部でルリヤと初めて会って非常に感銘を受けました。そのときルリヤとどのような話をしたかと言いますと、ご存じの眼球運動、この研究結果を持ってきて、一生懸命、私に説明をしていた覚えがあります。レーピンが描いた『予期せぬ帰還』という名の絵で、予期せぬ帰還をした人はレーニンだという説があります。予期せぬ帰還をした人を迎えている家族を描いたこのような絵を、前頭葉に障害がある人たちや健常な人たちに、いろいろな教示を与えながら見せたとき、いかに教示によって眼球運動が変わるのか、いわゆる随意運動の言語統制、言語的なコントロールと前頭葉のはたらきについての研究でした。これは彼自身の実験ではないのですが、前頭葉が損傷を受けると、どのような教示でも同じに見えてしまうのです。これを一生懸命説明してくれた覚えがあります。そこで彼がやっている神経心理学というものに、関心を持つようになったということになるのです。
 これは修士時代から関心があったことなのですが、京大教育に移った頃、ソビエト心理学研究会というものがもうできていて、そこに参加しました。この会は10年ぐらいしか続かなかったのですが、ソビエトの心理学関係のいろいろな本や論文を紹介する、あるいは独自の研究をするという会であって、それに参加していました。

インB それは京大の中でやったのですか。

坂野 京大でも一時期事務局を受け持ったことはありましたが、とくに熱心だったのは、東北大学の教育心理の辺りではなかったかと思うのです。松野豊さんなどです。
それから、ドイツでやっていました誘発電位を使った研究を京大教育で発展させていきました。パブロフの信号系理論と神経心理学というものを結合させるような研究を、ここでやろうとしていたのです。
 1980年にライプチヒで国際心理学会が開催され、この大会に参加発表しましたが、その後引き続き在外研究員として、今度はライプチヒ・カールマルクス大学の心理学研究所のヴント記念講座の客員教授として再び東ドイツで生活することになりました。実際ここにいたのは8か月ぐらいで、あとは世界をあちこち回りそこでいろいろなことを勉強しました。当時西ドイツではどうだったか知りませんが、東ドイツのこの大学では、基礎部門と教育心理部門と臨床心理部門というものがあり、それぞれ別の学士号が取れるのです。それだけ専門化しているということです。ただ、実験的な装置はもう非常に乏しくてだめでした。ここで私がやったことは、私は心理学研究所に研修のために来ていました教育現場の先生たちの教育も一部担当してやっていましたから、その先生たちの研究指導というか、研修を終えるための論文の資料として調査をやってもらいました。利き手や認知スタイルについての調査をやってもらい、論文をまとめるための指導を行ったりしました。その成果は日独の比較研究として発表したりもしました。
 私の研究領域というのは教育神経心理学という領域になるかと思うのですが、ソ連で条件反射をめぐる議論が1950年頃にあり、日本で紹介されたのはずっとあとなのですが、結局は心理学の領域においても、生理学の領域においても、条件反射を基礎に考えなければいけないという大掛かりな議論がありました。その中で、パブロフの条件反射の考えに反するということで、ルリヤが批判されるわけです。それにはいろいろな理由があります。これはソ連でも東ドイツでもそうなのですが、例えばフロイトのような考え方をどのように理解するかという考えともどこかで絡んでいて、ルリヤはある時期にフロイトに非常に傾倒したことが実はあったのです。これにはきちんとした理由があるとは思うのですが。
 1980年、ヴントのところに留学した折にも、前にお話ししたピッケンハインとは研究上でたびたび出会う機会があり,彼が編集者でもあった英文モノグラフシリーズに、彼の勧めでこのような本を1982年に出しました。これは東ドイツからです。これは、ルリヤのある考え方を基にした研究になるわけです。少し専門的になりますので、違った形で、また私はお話ができればなと思います。
 心理学研究所での写真を少しお見せしますと、これはスタッフたちとの旅行のものです。ライプチヒからドレスデンへの旅行で、あれはドレスデンを流れるエルベ川でしょうか。その川をずっと遡り、1泊ぐらいで行ったときの旅行の船内での写真です。

インA この写真の一番左側が先生ですか。

坂野 ええ、一番左側です。それからこれは京大教育心理時代の写真ですが、一番左側が梅本堯夫先生、真ん中が河合隼雄先生です。
それから沢山ある写真の左は学会に行ったときの風景で、この真ん中の上のほうは、京大の教育心理の中でのゼミ風景です。それから右の下は、ソ連からある有名な心理学者が見えたときの接待の様子です。京大で、日本教育心理学会を行った折のものが真ん中の下です。
 これは私の著書なのですが、この『二つの心と一つの世界』というのが私のテーマで、この目次だけご覧になったら、それでよろしいかと思うのです。一つ、私の思っている問題意識というのは、哲学的な背景との論争が、私たちが心理学をやっていく上でやはり必要ではないかということから、昔からある心理学の研究の方法論上の論争的なものを取り上げて私なりの議論をしました。そこから尾を引いた心理学上の論争があり、その問題を解決するためには、一つは実証的な方法で解決しなければならないのではないかということで、私なりのある研究方法をここで提起しようとしたわけです。すべては、「心は二つあるのだけれども、実はそれは一つに統一されるのだ」という考え方で、これは第一信号系・第二信号系の考え方も背景にあるわけです。類型論的なものを基にして考えたものが、この第2章です。
 第3章は、ルリヤの脳モデルを基にして、実は二つの心というようなものがその中で考えられているのだということを挙げています。では今度は、情動と認知という面で考えれば、やはり二つの脳というようなものが考えられるのではないかということで、情動と関係する脳のはたらき、それから認知と関係する脳のはたらきということで、両方の相互作用を考えようとしたわけです。
 第5章では、知能研究の中での二つの心というのは、簡単に言えば、この流動性知能と結晶性知能というものをどう位置づけるかということと、最近それ以降出てきたK-ABCやDN-CASという、そのような認知モデルから二つの脳、心を考えるのですが、それがどうやって統一的に理解できるのかということです。
 第6章は、「認知の方略に見る二つの心」ということで、認知の方略というところから考えようとしたものです。
 この第7章が実は、先ほど申したルリヤの考え方を基にしたことです。指組みと腕組みというものが、隠れた左利きと関係があるということを、ルリヤは実際に失語症の患者を通した研究で明らかにしてきたのです。ではそれが一体、心とどう関係があるのかということをずっと見てきたものが第7章です。それから、それを実際に実験で作り出せないのかということを見たものが第8章です。したがいまして、これはいわゆる調査の部分と実験の部分というのが7章、8章で、私がやった実験だということになるわけです。

インB 『ヒトはなぜ指を組むのか』で書かれていたものですね。

坂野 はい。第9章が「女の心と男の心」です。ここで具体的に出ているものは、例の自閉症の研究で有名なバロン・コーエンが考えている「自閉症というのは男の脳の極端な現れだ」というような考え方なのです。そのような考えと、私たちがずっと前に作ったパブロフの信号系理論を基にした質問紙との絡み合いで、実はどう関係があるのかというようなことを見たものが第9章なのです。
 第10章は、これは新しいいろいろな文献などを参考にしながら、日本教育心理学会の年報に出したものをまとめ直したものです。二つの心がどのようにして統一されるのかというテーマで書いたのですが、これはいろいろな領域に渡ってしまったので、非常に散漫になったきらいがあったのです。つい昨年の5月に出したものがこれです。荒川先生、実は2日前に分かったのですが、同志社の神学部、経営学部、心理学部、それからグローバル何とかという四つの学部で、今年の国語の入試問題にこれが出ているようです。

インB そうなのですか。

坂野 それが、この序章から数ページ、全部取って、これです。ここの問題に使っています。これが一番新しいものです。前に書いたこの本から出てきた問題は、あらゆる認知であれ、パーソナリティであれ、どうしても不安というものがいろいろな背景にあるのだということに気がついたのです。そういったことに気がついて、それから書き始めたのが、この本なのです。この中身は、この前の例の日本心理学会の雑誌の……。

インA 『心理学ワールド』ですか。

坂野 ええ、あの一番新しい号の「自著を語る」欄に紹介しました。簡単に言えば、あらゆる心の底に不安というものがあるのだけれども、それがどこかではたらき方が引っ掛かってしまったら、それが不安として現れてくると一般的には考えられています。しかし、それがそうではなくて、普通に働いている場合には、不安は非常に大事なはたらき方をしているのだということと、この『二つの心と一つの世界』に絡めて言えば、実は不安には2種類あります。一つは、身体的なものです。例えば汗をかく、鼓動が速くなるなどのいろいろ身体的な面に現れる不安と、もう一つは、いろいろ思い悩むという不安とがあるのです。それが実は二つの大脳半球のはたらきと関係があるという研究に接したわけです。身体的なものは右の大脳半球で、思い悩むというのは左の大脳半球です。では、そのようなモデルでもって、どこまで説明ができるのかということを調べていったら、非常におもしろいことが分かったのです。
簡単に言えば、アイゼンクが考えていた人格モデルがあります。それが、この194ページのこの図なのです。これは、そのまま図をなるべく忠実に日本語に訳して書いてみたものです。そうしてみると、先ほどお話しした二つの不安がここに入っているのです。それをここに表したものが、この左の図です。つまり「心配だ」「落ち着かない」というこの二つが、この図の中にあることが分かったのです。「心配のない」「落ち着いた」というものは図の下のほうにあるのです。そういうことに気がついて、それを基にして、一つのモデルに表したものが、次のページのこの図です。この「定位・探索モード」というのは、何か新しいものに定位して、それを探索するというモードで、もう一方はそれを収斂・慣例化するルーチン化するというモードである。その二つがあるという、そのような考え方に、結局はこの先ほどの図というものが収斂されるのです。このモデルを使ったいろいろな現象を説明するとこういうことになるわけです。
 例えば一つの例で言いますと、例の流動性・結晶性知能ですが、流動性知能が定位・探索モードのほうに入り、結晶性が収斂・慣例化モードのほうに入るのではないかと思うのです。それから、パーソナリティで言えば、定位・探索モードのほうが外向性であり、収斂モードのほうが内向性であるというように、いろいろ、そのように考えられていくのではないかとずっと議論をしていったものが、この本なのです。実はこれはずっとやっていく中で、例えばスピルバーガーの不安尺度、一番よく心理学で使われている、特性不安と状態不安を測る質問紙ですが、あれをこの二つの不安という観点から見てみると、二つが混在しているということが分かってくるのです。
 私はドイツ語を第二外国語で習い、しかもドイツに行っておきながら、ドイツ語の文献を読むのはあまり得意ではありません。でも苦労してフロイトのドイツ語の文献で必要な部分を振り返ってみました。フロイトがどのようにして不安というものを考えていったのかを、ずっと時代別に追っていって見てみたのです。実はフロイトには考え方の変遷があって、最終的には、ある意味では前頭葉が発するものが不安であるというような考え方に言い換えてもいいのではないかと思います。そういった部分と、それから彼の言っている不安の中に、実は二つ不安が入っているのだということなどです。そのようにフロイトを読み解いていったことが、一つの私の新しい成果であったような気がしました。
 そういったいろいろな文献を見ながら、このときに温めた考え方をもう一回まとめてみようと思ったのが、この本なのです。幸い文献などは、今はほとんど全部インターネットで入手できますよね。だからドイツ語のこのフロイトの著作は、ほとんど全部手に入りました。そのようなところが現状です。実は今、その発展といえるような本を書いているのです。不安を感情の一つだと考えると、感情の中で不安がどのように位置づけされるのか、感情と認知との関係はどうなるのかということで、今まとめています。でも基本はずっと一貫して、二つのものがどのようにして統一されるのかということになりますかね。
 
インB 質問をよろしいでしょうか。第五高等学校では心理学の授業等はなかったのでしょうか。

坂野 いや、それは当然あったでしょうね。でも、そのときに心理学に関心を持ったということはありませんので、そのようなことを考えもしませんでした。それから、もう一つ言い忘れていることがありました。京大大学院時代に、精神科の教授で、村上仁という有名な方がおられて、その授業を、これはもうまったくもぐりで受けに行ったということで、精神医学のほうにも関心を持ったということがあります。

インB そのように精神科に出入りしている心理学の院生は、けっこういたのですか。

坂野 いや、私だけです。授業を受けに行った人は他にもいたかと思いますが。

インA 当時は、やはり精神科で臨床をやる心理学者もあまりいなかった感じですか。

坂野 いや、そうですね。私はずっと文学部におりましたので、その当時の同期ぐらいの教育学部の動向には非常に疎かったのです。いろいろ振り返ってみると、精神科のほうで一緒になったことはないです。当時は教育学部ではロジャースがはやっていたのです。だから統合失調症のような患者さんを扱うことはないというのではないでしょうか。
 それから、先ほどお話しした統合失調症の患者さんでやった研究で非常におもしろいことは、卒論のテーマと結びつくと思うのですが、当時は特に、今でもそのようなことはあるかも分かりませんが、長期入院という非常に慢性化した統合失調症の患者さんが多いわけです。そこでもやはり、高い・低いという音の弁別をやってもらうわけです。そうしますと、ことばで「高い・低い」というようなことを弁別してもらいますと、だんだん弁別が、皆、「低い、低い」となるのです。ところが、「こちらの音だったらこちらを押しなさい、こちらはこちらを押しなさい」というように運動反応に変えますとそれが少ないのです。つまり、言語的なレベルでは「低い」になってしまうが、運動レベルといった別のレベルではきちんと区別ができているのです。言語レベルと運動レベルでの乖離が起きたというわけです。
 それからもう一つは、これは外来の神経症の患者さんたちで同じことをやったときにも起きています。高揚した神経症の患者さんたちは、逆に「高い」というほうにことばでの判断が変わってきます。手でもってやらせると、変化がみられないという、やはり、そのような乖離というか、分離が起きてくるわけです。そのような研究をしていました。

インA 言語と運動とでは反応の出かたが違うのですね。

坂野 ええ。やはり、今でもそのようなパラダイムを使った研究がいろいろあります。

インA 患者さんはけっこう協力してくれましたか。

坂野 非常に難しいというか、辛抱が要りますよね。だから、もちろん私だけで実験室にいるのではなくて、支えてくれる病院の関係の方がそばにいてはじめてできることなのです。外来ものの私だけはだめなわけです。ここでの成果は『Psychological Research』に発表しました。
 それから先ほどお話しした京大ソ医研で私が実験させていただいたときの精神科のお医者さんが、日本で言うなら自閉症研究のさきがけになった方なのです。つまり、カナーのところに行ったのです。カナーのところから帰ってきて、そこで日本で初めて京大の精神科の中に小児精神医学という、正式ではないのですがその方がそれを作られたのです。

インA そうでしたか。

坂野 それから、何かあったかな。今から振り返ると、若い頃はいろいろなことを考えずにずいぶん冒険したなと思いますね。

インA ドイツのライプチヒ大学ということで、あれは昔、ヴントがいた頃は心理学ではもう世界の中心だったのですね。

坂野 そうです。

インA それから敗戦のあとはどうなのですか。心理学の中心はどちらかというと、アメリカに移ってしまったと思うのですが。

坂野 ヴントがいた頃には、大きなライプチヒ大学の構内の中にいろいろなセクションがあったと思います。ところが、それから戦争が終わったあとでは、場所がないので今度はもう心理学の研究部門、研究所はいろいろなとこに転々とするのです。私が1962年に最初に行った折には、大きな建物の中のあるブロックに全部の部門があったのです。先ほどお見せしたような大学の大きな建物の中で、そこの何ブロックかを占有して、そこに心理学の部門があったのが、戦後はいわば押し込められてしまっていたのです。それでそこがもう狭くなるなど、いろいろな理由があってまた別のところに移ったのです。だから心理学はずっと大学の本部の構内にあったわけではないのです。ただ1980年に国際心理学会がライプチヒであったのですが、そのときには街の中心の大学本部で学会はあったのですけれども、心理学研究所はそこにはありませんでした。私は市電で20分ほどほぼ毎日通いましたが、中心部から離れたところに心理学研究所はありました。

インA ライプチヒ大学の雰囲気というものはどんな感じでしたか。

坂野 私が行ったときの1980年のそこでの雰囲気というのは、ヴントの研究部門というのはヴントのやったことをもう一回まとめ直すというか、埋もれた資料を掘り起こすという仕事と、もう一つは、新しい観点から考え直そうという考えなのですが、しかし非常に閉鎖的でしたね。したがいまして、他の部門との関係が非常に悪かったです。だから「あれじゃあね」というように思いました。その部門の客員教授である部外者の私に対しても非常に閉鎖的でした。またヴントの資料室に資料を見に行った折は、いつも付き添われていました。閉鎖的だという意味では、ソビエト心理学も一時は非常に盛んであったし、しかも、私たちにとって非常に魅力的な研究が数多くありましたが、今ではもうないですよね。だからそれがなぜだろうかと思います。独自性とは閉鎖的でもあるのだと思います。

インA ソビエト心理学の研究は非常におもしろいと思います。大脳の機能という生理学的なベースがあって、それにパーソナリティや思考などの心理学的な機能を結び付けて、生理学と心理学とが一貫したダイナミックな理論が構築されていると思います。

坂野 しかし閉鎖的であったがためにリヤなどが死んでしまってからは、そのあとを継ぐ人というものは話に聞きませんし、なぜそのようになるのでしょうかね。もう一つソビエト心理学の特徴は、ルビンシュテインやレオンチエフに代表されるその理論にあったと思います。それがあまり継承されなくなって本当に残念なことです。東ドイツではどうだったかといえば、そうですね。ライプチヒのあの辺りや、旧東ドイツにある心理学はどのような特徴があるかと言われれば、何も……。いろいろな文献が、今はもう大部分が英語で読めるので、ドイツ関係のいろいろな論文等もたくさん読めるわけですけれども、旧東ドイツの論文で「これは」というものはあまりないですね。ただベルリンのフンボルト大学の、ゴットシャルトの後を継いで主任となったクリックスは西欧でも有名な研究者でした。東西ドイツ統一後のライプチッヒの心理学研究所のスタッフは大部分入れ替わって、西ドイツの研究者に取って代わられたと聞いております。

インA そうですか。やはり、共産圏の国になってしまったということもあるのでしょうか。

坂野 はい。やはり、閉鎖的であったがために、一方では独自性があっても、他方ではそこで非常に遅れがひどかったということがあったのでしょうね。それから当時、東ドイツでいろいろな心理学関係の本を買ってきましたが、やはりフロイト批判など、もう決まりきったものばかりでした。

インB 少し話が戻るのですが、日本リサーチセンターではどのようなことを主にされていたのでしょうか。先生のご担当とかを教えてください。また他にも心理学で活躍された方がいらっしゃるでしょうか。
坂野 その中のメンバーは、結局は全員もう分散してしまったのですが、有名な方としては数理心理学で鮫島史子さんがいました。彼女は私と同じ研究部に属していて、私が東ドイツに行った後、そこを辞めてからアメリカでずっと教員・研究生活をしていらっしゃって、ごく最近、日本に帰ってこられたということを聞いています。数理モデルを研究されていて、慶應大学の印東太郎先生のお弟子さんです。研究部長は南 博先生でした。調査部には文章心理学者で邪馬台国の研究でも有名な安本美典さんがいました。彼は大学が私の後輩で、旧労働省からやってきました。またノンフィクション作家の沖藤典子さんは北大文学部心理出身で調査部でした。さらには津守・稲毛式乳幼児精神発達診断検査で知られる稲毛教子さんは調査部で、調査部長は心理統計学で知られた故・大川信明氏でした。また東大社会学の出身で和光大学の元学長の三橋修さんも調査部所属でした。
私の場合は何をしていたかと言えば、いくつかやった研究があるのですが、例えば商品のパッケージに関してどれを見るかということで、アイカメラを使った研究をしました。それから官能検査です。当時はビールで言えばキリンビールが最も売れていたのです。出資したのはアサヒビールなのです。なぜキリンビールが売れてアサヒが売れないのかということで、官能検査でブラインドテストをやり、ラベルを消したり付け替えたり、温度を変えたり、そのような検査をやりしました。それから調査部があって、そこでいわゆるマーケティングなどの本来の仕事をやるのです。
 それから脳波の機械を買ってくれるということが一つ魅力で、それがリサーチセンター行った理由でもあったのです。脳波ではなくてポリグラフになったのですが、それを使いながら、いわゆる深層面接のようなことをやりました。しかし、それは実際、何も効果はありませんよね。ただ眼球運動に関しては、いろいろ学問的な意味でも、「これは使えるな」というものがありました。例えば先ほどお見せしたルリヤの『予期せぬ帰還』とよく似た研究で、曖昧図形と眼球運動との関係です。
 それからもう一つ、これは東大の医学部の先生方と一緒にやった研究です。片側の半身が麻痺する片麻痺の患者さんについてのものです。手と脳との結びつきは交差しているのですから、左側の片麻痺は右側の脳のどこかがやられている。そのような患者さんたちでは、空間的ないろいろな認識が悪いのです。これは別に片麻痺に限らず、右の脳がやられたら空間的な認識が落ちます。では、そこを見ていないから認識が悪いのか、見ていても何かが原因で認識が悪いのかという疑問がありますよね。それについてアイカメラを使って調べた共同研究があります。やはり見るべき対象を見ていないから認識が悪いのです。視空間に障害のある患者さんは、ある物語の絵を見せても、見た目で大きなある一点しかずっと見てないということが分かり、それも発表しました。それなどは、学問的には非常におもしろい研究ではなかったかなと思います。
 ただ、リサーチセンターでのいろいろな経験を通して感じたことは、学部時代に基礎をやっていた人は応用が非常に利くのです。実際に京大の先輩で、オーバードクターでそこに行った人は、2人とも知覚で恒常性の研究をやっていました。その人たちはマーケティングで1人は調査部、1人は私と同じ研究部でバリバリの仕事をやっていて、研究部の先輩は退職後自分でマーケティングの会社を作りました。つまり、基礎的な知覚実験でいろいろなことができるという能力をもった人は、現場では応用が利くのです。もう一人、私の1年後輩で時間誤差をやっていた人と、それから先ほどお話しした調査部の先輩とは、2人ともリサーチセンターを辞めたあとでは関西の大学で社会心理学というか、消費者心理学の領域でずっと定年まで活躍していました。基礎をきちんとやっていれば、それは応用が利くということなのです。それを感じましたね。
リサーチセンターは、今でも立派に企業活動をしているのですが、もうすっかり変わってしまったようです。私たちが当時やったことといえば、例えば先ほどお話ししたアイカメラは当時の8ミリフィルムで撮るわけなのですが、その一コマ一コマを掘り起こしていって、見たときの目と対象の絵とを合わせるわけです。それをやってくれる人が、高校でデザインをしているアルバイトの男の子で、非常によくやってくれました。やはり、そのような人が採用され、そのおかげで研究ができたわけです。研究部門にも目を配るというそのような見識と余裕が、当時はあったということですかね。

インB そうは言っても、当時からすると、まったく新しい世界へ飛び込んだ感じではなかったのでしょうか。前例がないわけですよね。

坂野 ええ、だから今考えてみたら、当時は「そこに行ったら将来どうなるのか」ということは考えずに行っていましたね。例えばまずリサーチセンターが将来どうなるか分からないところでしょう?それから東ドイツに行くときも、どうなるかということがまったく分かりませんでした。そのような向こう見ずなところが、昔はそれでも許されたということでしょうね。皆前向きでした。

インB 最初に留学されて、戻ってきてからその後、わりとすぐに日本での次のポジションは見つかったのですか。

坂野 向こうに行ってから一年も経たないときに、大阪経済大学から話がありました。それはやはり「パブロフを読む会」という研究領域横断的な、専門が様々な研究仲間のおかげだということです。それは院生時代、京大理学部の生理学の先生、京都府立医大の眼科の大家、立命館大学の社会心理学の先輩、大阪経済大学の自然人類学や生態学の先生たちとの集まりで、週一回府立医大で夜集まっていました。しかしお誘いに対して無理をお願いして1年間、待っていただきました。ドイツに行ったばかりで帰るわけにはいきませんからね。帰ってから思いがけないことでちょっと苦労したことがあります。京大文学部では博士課程の3年生から就職できたのですが、これはあくまでも教授会の内規であって、このことであとから履歴書を提出するときに非常に困りました。それで「そのような制度が当時はあった」というような証明書を京大文学部の事務に頼み込んで作ってもらい、提出しました。おかしいわけでしょう?

インA ええ、そうですね。学生でありながらですからね。今だと逆に、社会人学生などがいますから問題はないのかもしれませんが。

坂野 今はそうですね。ただ、当時は一般にはなかったのです。それから、ある時期にはあって、しばらく経つとその制度がなくなってしまった全く別の例として、これは先ほどお話しした、鮫島さんたちが参加されて作られたはずなのですが、能力開発研究所ですか。高校から大学受験するときに、進路を決めるための「進適」というものがあったのです。進学適性検査です。それを私は高校生の折に受けて「理系」と出ました。その影響もあって私は最初理学部に入学したのでした。しかしそのような適性検査は、なぜかあまり長くは続かなかったようです。私が進適で文系と出ていたらどの学部に出願していたでしょうか。

インA 先生はけっこう、ルリヤなどに影響を受けたのでしょうか。少し勘違いしていたら申し訳ないのですが、ルリヤも腕組みなどの利き脳の研究もされていたのですか。

坂野 いや、それはルリヤはやっていません。彼は指組や腕組みが、潜在的な利き手の指標になるという、利き脳へのヒントを与えてくれました。私がルリヤの考え方を、利き脳のほうに持っていったということです。ルリヤとも何度か手紙を往復し励ましを受けました。今でも残っていますが、彼は非常にまめで、手書きできちんと書いた返事をくれますね。もう今ではロシア語はほとんどだめになりましたが、先ほどお話しした『Psychologia』に、ルリヤの書いた論文をロシア語でもらい、それを英語に翻訳して掲載することなどを当時はやったこともあります。ところで当時のソ連の本というのは、再版がないと聞いていました。

インA 初版だけですか。

坂野 ええ。だから絶対にもう逃してはだめなのです。

インA ルリヤというのは、どのような感じの人なのですか。名前はよく聞くのですけれども。

坂野 彼はユダヤ系ロシア人で、タタールスタン共和国のカザンの生まれで、経歴は非常に変わっていて教育学と医学の博士号をもっていて、軍医の経験もあります。彼はビゴツキーと並び称される同じ時代の人ですよね。ただ外国で知られているソ連の心理学者では、ルリヤとビゴツキー以外にはあまりいませんよね。ここに写真があります。いわゆるロシア人の顔とは違います。

インA 何となく気さくそうな感じの人ですね。

インB エネルギッシュな。

インA では、そろそろ時間ですがこれでよろしいでしょうか。

インB 長い時間、ありがとうございます。

(録音終了)

インタビュアー:小泉晋一(共栄大学)、荒川歩(武蔵野美術大学)
インタビュー全文PDFのダウンロードはこちらから