細田守の新作「おおかみこどもの雨と雪」を観た

新宿バルト9で「おおかみこどもの雨と雪」を観てきた。以下、CinemaScapeに投稿した感想。ネタバレなので畳んでおきます。ひどいこと書いてますが、映像はたいへん目に快く、眼福でしたよ。これホント。

作り手の都合でリアリティを露骨に出したり引っ込めたり使い分けられて、登場人物に親身になって寄り添える筈もなく。(★2)


アニメとは、実写では難しいムチャクチャもできる表現媒体だ。猫が長靴を履いてチャンバラしたり、豚が戦闘機を操縦してドッグファイトしたり、犬の探偵がプロトタイプベンツで爆走したりする。それは作品毎にリアリティレベルというものがあって、「こういうところはウソつきますよ、でもああいうところはウソじゃないですよ」という線引きが各々の作品でなされているから観客は「なるほど、このお話はそういうものか」と納得してフィクションを飲みこんでいるのだ。


「おおかみこどもの雨と雪」は画面のルックからして極めて現実に近く、写実的に描かれている。ごく普通の宮崎あおいと大沢たかおは、ごく普通に出会い、ごく普通の恋をしました。でもただひとつ違っていたのは、大沢たかおは狼男だったのです。ほとんど現実の現代日本に見えるこの世界で、この不思議なお話の顛末はいったいどうなるのでありましょうか、宮崎あおいの運命やいかに、という導入部分はオレも楽しく引きこまれた。しかしこの映画のウソは狼男の存在にとどまらず、あとからあとから雪だるま式に増えてゆくことがだんだん明らかになってくる。


たとえば宮崎あおいは、狼男が存在するという事実を世間から隠し通す側に、ためらいなく立つ。これは人類の進歩と科学の発展に対する重大な背信行為だと思うのだが、その選択の重さや覚悟は一切描かれない。惚れた男がたまたま狼男だっただけ、そんなことで私の愛は変わらない、という至って個人主義的なノリだ。これが五社英雄の「極道の妻たち」だったら「愛した男が極道だった」でも別に文句ないんだけど、この場合は愛した男が狼男なのだ。狼男アメリカンなのだ。科学の常識がひっくり返り、人類の定義さえ揺らぎかねない超ド級のセンセーショナリズムを、自分の家族や友人にさえ嘘をつきまくって隠し通し、偽りの普通の夫婦像を生涯演じ続けねばならぬ、その痛みと苦悩がこの映画には全然ない。


ダンナの狼男はあっさり退場する。田舎に暮らす母子。狼の姿で庭駆けまわる子供たちを、縁側から愛情のこもった眼差しで見つめる宮崎あおい。オレは、ここにも強く違和感を感じる。この女には、人目を気にする仕草、周囲を警戒する目配りがなさすぎる。絶対に発覚してはいけない秘密を抱えた人間とは思えない緩みっぷりなのだ。そりゃあ確かに、人の顔色ばかり伺う不審な暗い女なんか細田守は描きたくないんだろう。だからいつもニコニコ、ゆるゆる母さんにしたわけだ。宮崎あおいに岡惚れしているらしきジジイなんか誰よりも早くこの一家の異常性に感づく筈だと思うのだけど、なんとこのジジイはさしたる人間像も描かれぬまま途中からいなくなる。おお、かくて破綻は避けられた。かくて秘密は守られた。細田守の神の手は偉大なり万能なり。しかしですね、作り手の都合でリアリティを露骨に出したり引っ込めたり使い分けられて、わたくしが登場人物に親身になって寄り添える筈もなく、なんだかふわふわ浮世離れした話だなーと思いながら、物語の進行をやや遠くから見守るばかりだった。


宮崎あおいの田舎で暮らそう的な苦労がたいへん丁寧に描かれるんだけど、これとて普通の田舎暮らし、普通の子育ての苦労の範疇をはみ出すものではない。それは至って結構で、尊いことだろうと思う。しかし愛すべき異形の子供たちを現実の中で育てるからこそ生じるたぐいの苦労は、あんまり見当たらない。


いや、そういうことを描きたいんじゃないんだ、母の子育て、親子の絆、子供の自立とか家族の年代記とかなんとか、そういった描きたいものがあるんだとおっしゃるならば、そもそも狼男アメリカンなんて大技を繰り出す必要はなかったのではないか。或いは一切のリアリティーと具体性を捨てて、まんが日本昔ばなしにたのきん全力投球すればよかったのではないか。だからこれは脚本の問題でさえなくて、企画そのものに問題があったとしか思えない。


これで出来上がりが普通にクソ映画だったら話は簡単なんだけど、悲しいことに細田守の演出は冴え渡っている。息を呑むような美しい瞬間もたくさんある。とても気の利いた設計と施工がなされた瀟洒な一軒家が、基礎工事が全然できてなくて傾いて建っているようなものだ。内装とか家具とかすげえオシャレでカッコイイんだけど、この家には住めない。


ちなみにじゃあどういうのがわたくし好みの映画なのかといえば、これはもう秘密が早々にバレて迫害されるしかないです。母子ともども石もて追われるのです。マスコミは宮崎あおいの獣姦をネタにスキャンダルをゲスに煽り、科学者はメスを片手に解剖させろと詰めより、2ちゃんねるからは電凸スネーク実名暴露。悲惨な現実の中で誰からも理解されず、無力だが美しい母子の愛を描いたうえで、追い詰められた狼人間の怒りがついに大爆発、今度は戦争だ! とばかりに阿鼻叫喚の死屍累々、殺戮の果ては悲劇的な結末に至るしかない。異形の狼人間が現代日本のクソみたいな社会で幸せに生きていけるかどうかをクソ真面目に考えるならば、そのようにしかなるまいと思う。


こういった現実との折り合いをあくまで児童映画の範疇で描いた原恵一の「河童のクゥと夏休み」は、かすかな希望も感じさせて実に素晴らしい映画だったと思うのだ。でも「おおかみこどもの雨と雪」は子供の観客にセックスを隠さなかった一方で現実の過酷さは隠蔽し、或いは巧妙に回避するんだよな。そしてこうも思うのだ、「河童のクゥ」が全然まったく売れずに「おおかみこども」が愛されヒットする世の中において、「おおかみこども」にこれだけブーブー不満を垂れておるわたくしこそが現代における異形の獣人雪男、フランケンシュタインの怪物、大アマゾンの半魚人なのではないか… だって「おおかみこども」に感動する人って、絶対いいひとだと思うんだよなあ… なんだこの敗北感…