以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Dirty words are politically potent」という記事を翻訳したものである。
新しい言葉を作り出すのは、実にクロミュレントな遊びだ。造語の大半はその場限りで消えてしまうが、時として時代にケンタッキーな言葉が生まれ、命が宿ることがある。
http://meaningofliff.free.fr/definition.php3?word=Kentucky
私は四半世紀にわたり、デジタルライツの重要性を大衆の意識に刻み込もうと奮闘してきた。インターネットが重要だと人々に理解してもらうキャンペーンがはじまりだった。以来、テックポリシーは哀れなオタクたちがスタートレックを議論する空間のガバナンスだけを意味するのではなく、人類の繁栄へとつながるものだと訴えてきた。
https://www.newyorker.com/magazine/2010/10/04/small-change-malcolm-gladwell
やがて人々は、インターネットが重要であること、そしてそれが恐ろしい方向に進んでいることを理解し始めた。そこで私の仕事は再び変わった。「インターネットのガバナンスは重要だ」から「希望的観測ではインターネットは修正できない」へと移行したのだ。希望的観測を挙げればキリがない。例えば、汎用コンピュータを禁止すれば問題が解決する、とか。
https://memex.craphound.com/2012/01/10/lockdown-the-coming-war-on-general-purpose-computing/
あるいは、有効な暗号技術を禁止すればいい、とか。
または、ウェブブラウザにユーザを脅威として扱うよう設計し直せばいい、とか。
https://www.eff.org/deeplinks/2017/09/open-letter-w3c-director-ceo-team-and-membership
あるいは、ボットですべての公開発言をフィルタリングし、著作権侵害がないか確認すればいい、とか。
https://www.eff.org/deeplinks/2018/09/today-europe-lost-internet-now-we-fight-back
または、プラットフォームにユーザの発言の監視・取り締まりを義務づければいい(いわゆる「Section 230の廃止」)とか。
その過程で、多くの人たちがこれらの議論の核心にある抽象的で技術的なアイデアを要約する新しい言葉を生み出してきた。何も虚栄心からそうしたわけではない。共通の語彙を作ることは、デジタルシステムが引き起こす本当に厄介な問題に取り組むために必要な、実質的で重要な議論の前提条件だからだ。そうして「フリーソフトウェア」「オープンソース」「フィルターネット」「チャットコントロール」「バックドア」、私自身が貢献したものとしては「敵対的相互運用性」という言葉が生み出された。
https://www.eff.org/deeplinks/2019/10/adversarial-interoperability
「敵対的相互運用性」をもう少しマイルドに表現したものとして、「競争的互換性」(「comcom」)という言葉もある。
https://www.eff.org/deeplinks/2020/12/competitive-compatibility-year-review
これらの言葉は定着はしたが、どれもニッチな領域にとどまっている。あるいは「ニッチ」にも達していないシボレス(内輪言葉)でしかなく、一般人を混乱させ、威圧し、「FOSS」なのか「FLOSS」なのか、あるいは全く別のものなのかといった意味論的な議論で本質的な戦いから注意をそらすこともある。
https://opensource.stackexchange.com/questions/262/what-is-the-difference-between-foss-and-floss
しかし、時には真のキラーワードを手に入れることもある。2022年に私が生み出した造語「メタクソ化(enshittification)」がそうだ。
https://pluralistic.net/2022/11/28/enshittification/#relentless-payola
「メタクソ化」は私の脳裏に焼きつき、あちこちに転がりながら、私の長年にわたる様々な思考や批評を凝集し、それらを一貫した主張へと結晶化させた。
https://pluralistic.net/2023/01/21/potemkin-ai/#hey-guys
このような自然発生的な結晶化は、何十年にもわたり、人前で多くの仕事をこなし、生煮えの思考を公開の文章によって固定しようともがき、格闘してきたことのご褒美とも言える。
https://pluralistic.net/2021/05/09/the-memex-method/
「メタクソ化」を取り上げた数本の記事を公開すると、その言葉はインターネット上を駆け巡った。これには2つの理由がある。第一に、「メタクソ化」という言葉は、つい使いたくなる、やんちゃな言葉だからだ。ジャーナリストは記事に「shit(クソ)」という言葉をいれるのをたいそう好んでいる。
https://www.nytimes.com/2024/01/15/crosswords/linguistics-word-of-the-year.html
ラジオジャーナリストは、ちょっとばかし汚い複合語の音節(訳注:-shit-)をわざとらしくピー音で消して、FCC(連邦通信委員会)を茶化して遊んでいる。
https://www.wnycstudios.org/podcasts/otm/projects/enshitification
そして、学術論文に「メタクソ化」というような言葉を使うことほど、学者の一日を活気づけるものはない(編集者、査読者、校正者、植字工たちもきっと内心ニヤニヤしているに違いない)。
https://scholar.google.com/scholar?hl=en&as_sdt=0%2C5&q=enshittification&btnG=&oq=ensh
私自身、そんな感じだった。「メタクソ化」という言葉は、Tripadvisorが完全にポンコツになっていたことに、思わず口走った暴言だった。そのとき、この言葉へのちょっとした称賛の反響があった。
https://twitter.com/doctorow/status/1550457808222552065
この言葉は5ヶ月間、私の頭の中を巡り続け、やがてプラットフォームの崩壊を説明する詳細な理論へと結びついた。しかし、この言葉に命が吹き込まれたのは、その詳細な批評とちょっとした下品さが融合したからだった。どうして、理論と下品さが同じくらい重要だと思ったのか? 「メタクソ化」を初めて使ったときに面白がってくれた小さな反響は、1日も経たずに消えてしまったからだ。理論を加えてはじめて、その言葉は根づいたのである。
同様に、(20年以上にわたって世間から完全に無視されてきた)テックポリシーの論争という難解な領域から抜け出すために、理論と下品さと混ぜ合わせる必要があると考えるのはなぜか? それは、20年間この手の話を書き続けたのに、アングロサクソン語の接頭・接尾辞をその批評に加えるまで、これほどまでのインパクトを生み出すことができなかったからだ。
批評に「メタクソ化」を加えたことで、私はこれまで試みたどんなことよりも多くの注目、より長期間の関心、より活発な議論を引き出せた。まず、Wiredが私の2番目の長文記事をクリエイティブ・コモンズ・ライセンスに基づいて、4,200語の特集記事として転載してくれた。私は30年以上Wiredに寄稿してきたが、この記事はその歴史の中でも最も長い記事だった。壮大で、遠大で、散漫な記事ではあったが、一語一句そのまま掲載され、私の大切にしていた表現のひとつも殺されることはなかった。
これにより、その言葉、そして尖りまくったままの批評全体が世界中に広まり、さらなるピックアップと議論につながった。最終的に、 この言葉はアメリカ方言学会の「今年の言葉」(そして「今年のテック用語」)に選ばれた。
https://americandialect.org/2023-word-of-the-year-is-enshittification/
「メタクソ化」という言葉は、言語オタクにとっても魅力的な言葉だったようだ。
https://becauselanguage.com/90-enpoopification/#transcript-60
ドイツ語、スペイン語、フランス語、イタリア語の訳語をめぐって(善意の)論争に巻き込まれたこともある。NPRの番組をASL通訳つきで収録したときには、ろう者の観客が通訳に、「enshittification」はすでにアメリカのろう者コミュニティからASL手話があてられているので、指で綴る必要はないと丁寧に伝えるのを目にした。
https://maximumfun.org/episodes/go-fact-yourself/ep-158-aida-rodriguez-cory-doctorow/
私はベルリンでメタクソ化についてのスピーチを行い、その原稿を公開した。
https://pluralistic.net/2024/01/30/go-nuts-meine-kerle/#ich-bin-ein-bratapfel
そしたら、あの堅物のFinancial Timesが連絡をよこしてきて、そのスピーチを、これまたほぼそのまま、週末版の雑誌に6,400語という膨大な特集記事として掲載してくれた。
https://www.ft.com/content/6fb1602d-a08b-4a8c-bac0-047b7d64aba5
彼らは(Wiredと同様に)無料で転載できたにもかかわらず、私に(実際、非常に高額な)掲載料を支払うと言ってきた。Die Zeitも同様だった。
https://www.zeit.de/digital/internet/2024-03/plattformen-facebook-google-internet-cory-doctorow
これはメタクソ化という言葉の広がりの始まりに過ぎなかった。この言葉は私が関与しないところでも、それに紐づく批評とともに、かつてないほど広がっている。言い換えれば、テックポリシーオタクたちが四半世紀にわたって織りなしてきた糸が、ようやく動き始め、しかもその動きが加速しているのだ。
にもかかわらず(いや、むしろそれゆえに)、批評自体は良いのだが「教会や小中高生と話すときには使えない」(私のお気に入りは「NATOの会議では言えない」)という理由で、批評の広がりが妨げられているのではないかと「懸念」する声も耳にする。小中高生、NATO将校、あるいは同じ教区の人々とこの言葉を使うかどうかは、あなた次第だ(ただし、この3つのグループすべてが、私の造語の根源にある少し下品な言葉に馴染みがあることは保証しよう)。「メタクソ化」という言葉を使いたくないなら、自分で言葉を作ればいい。あるいは、過去25年間に公衆の注目を集めることに失敗した数十の言葉のうちの1つを使えばいい(たとえば「プラットフォームの崩壊(platform decay)」とか)。
この真珠の首飾りをつまむような仕草が面白いのは、「メタクソ化」という言葉を聞いても心理的なトラウマを経験することなく受け止められる人々から一様に発せられているにもかかわらず、他の人々はそれほど強靭な精神の持ち主ではないかもしれないと心配していることだ。彼らは、最も保守的な高官が最も厳粛な場で、恥ずかしさのかけらも、ましてや謝罪もなくこの言葉を使っているにもかかわらず、それでも心配なのだ。
ということで、私は来月、国際連合事務総長の前で、メタクソ化についてのスピーチをすることになった。
https://icanewdelhi2024.coop/welcome/pages/Programme
こんなものを議論に持ち込むために半生を費やしてきた結果、アイデアを成功させる方法ついて、苦労に、そして情報に基づく見方を手に入れた。
第一に、軽度の猥褻さはバグではなく、機能である。長くて真面目なものと短くて面白いものの組み合わせは幸せな結婚であり、言葉もアイデアもそれ単体でいるよりもずっと良くなる。レニー・ブルースは、彼の聖典的著作『How to Talk Dirty and Influence People(下品に話して人を動かす)』で、このテーマについて次のように書いている。
下品な言葉を使ってしまってお困りなら、力になりたい。まず、それはそもそも問題じゃない。論理的に説明しよう。
ここにトイレがある。それだけが僕らの関心事だ。汚いトイレのジョークを言えるのは、汚いトイレが存在するからで、それが僕らが話しているすべてだ、トイレについてね。もしこのトイレを煮沸して清潔にしたら、僕らはもう、このトイレで汚いトイレのジョークを言えなくなる。ミルナーホテルなんかの汚いトイレのジョークは言えるんだろうけど、このトイレはもう清潔なトイレだ。猥褻さは人間そのものだ。このトイレには中枢神経系もなければ、意識レベルもない。認識なんてしちゃいない。ただあるだけのトイレだ。猥褻になることもできない。不可能だ。もし猥褻になれるなら、気難しくもなれるだろうし、共産主義のトイレにも、裏切り者のトイレにもなれるはずだ。でも、どれ一つなれやしない。ここにあるのは、ただの汚いトイレだ。
汚いトイレの話したからって、あなたが傷つくことはない。あなたが傷つくのだとしたら、それが陳腐で、何度も何度も聞かされてきたからだ。
https://www.dacapopress.com/titles/lenny-bruce/how-to-talk-dirty-and-influence-people/9780306825309/
第二に、新語が時に理論的な裏づけから切り離され、口語的に使用されるという事実も、バグではなく機能だ。多くの人々が「メタクソ化」という用語をゆるく適当に使い、その理論的な枠組みをあまり理解しないままに、単に「悪いもの」を意味する言葉として使っている。じつに良いことだ。用語が辞書に載るというのはそういうことで、それ自体に命が宿る。1000万人の人々が「メタクソ化」をゆるく使うことで、その10%がもっと長期間、理論的な私の仕事をもっと調べるよう促されるのなら、それは100万人の一般人を、かつては専門的で難解な実践者の世界にのみ存在していた議論に引き込めたということだ。用語を正確で理論的に間違いがないように使わせたいなら、その使用を世界から切り離された少数の内輪グループに限定すればいい。「メタクソ化」の用法を取り締まるのは、自己抑制的である以上に、自傷的ですらある。ベルリンでのスピーチで私が言ったように。
メタクソ化は問題に名前をつけ、解決策を提案している。それは単に「物事が悪くなっている」ことだけを意味するものではない(もちろん、そのように使いたければ構わない。これは英語の言葉だ。我々にはder Rat für englische Rechtschreibung[英語正書法評議会]なんてものはない。英語は誰にとっても自由だ。好きにやれ、meine Kerle[俺の仲間たち])。
最後に、「造語」は言葉を考えつく以上のことであり、同時にそれ以下のことでもある。 アメリカ方言学会が「メタクソ化」に栄誉を与えた後、私の用法に先行する「メタクソ化」の引用を、私宛てにメンションしてくる人が何人書いた。これはさして驚くべきことではない。なぜなら、英語は移ろいやすく遊び心に富んだ言語だからであり、英語話者は悪態をつくのを愛しているからであり、接頭・接中・接尾辞を駆使して罵るのは楽しいからだ(例えば、「unfuckingbelievable」)。しかし、もちろん、私は自分自身でその言葉を思いつく前に、他の用例のどれにも遭遇したことはなかったし、その用例が話者を越えて広がってもいなかった(私の用法に先立つ数少ない先例も、それぞれに独立した造語行為であったように見える)。
もし「造語」が単に言葉を思いつくことだけを意味するのなら、ささっとPythonスクリプトを書いて「shit」という単語をオックスフォード英語辞典のすべての単語のすべての音節に挿入させて、それを出力したテキストファイルを公開すれば、未来のすべてのクリエイティブな罵り屋たちに優先権を宣言できるだろう。
一方で、造語が意味を持つのは、造語者が a)独立して言葉を発明し、b)その言葉が造語者の直接の環境を超えて、より広い世界に広がるコンテキストを作り出すからだ。
しかし他方で、そしてはるかに重要なのは、造語が成功するには造語者のあずかり知らぬ人々が広げてくれることを必要とするという事実だ。つまり、造語者が造語において果たす役割はあくまでも小さいものでしかない。確かに、造語がなければ広がりもない。しかし同時に、広がりがなければ造語もないのだ。言葉は個人ではなく、話者の集団に属している。言語は個人的な現象ではなく、文化的な現象なのだ。
それこそが重要なのではないか? テックポリシーの真剣で幅広い議論を促すために、25年間にわたって疲れを知らずに戦ってきたコミュニティの一員として、私たちは「メタクソ化」のおかげで、これまで以上にそこに近づいている。もし他の誰かが私より前にその言葉を使っていたとしても、もし一部の人々がその言葉をゆるく使っているとしても、もしその言葉が一部の人々を不快にさせるとしても、その言葉が私が望むこと、私が人生を捧げてきたことを前進させるのであれば、それはそれで構わない。
言葉を造ることの目的は、正確な用法に対するピルクンヌッシヤ的な執着でもなければ、造語者として知られることのちっぽけな栄誉でもなく、NATOの将軍たちの処女耳を「shit」という言葉から守ることでもない。ちなみに、「shit」という言葉は「science(科学)」の語源でもある。
https://www.arrantpedantry.com/2019/01/24/science-and-shit/
言語っておもしろいだろ?
Pluralistic: Dirty words are politically potent (14 Oct 2024) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: October 14, 2024
Translation: heatwave_p2p
* * *
「enshittification」という言葉を生み出したことで、待望の楽しい騒ぎを起こすことはできたが、一方でネガティブな反応もいくつか起こっているようである。
良い機会なのでここで少し、「enshittification」を「メタクソ化」と訳したことについて、なんで「メタ」つけたんだ?と思った読者も多いと思うので、訳者として補足というか蛇足というか、言い訳をしておきたい。
「メタクソ化」と訳語をあてたことについては、それなりに好評をいただくこともあるが、あまり好ましく思われていないフシもある。個人的にもいくつかの理由から必ずしも良い訳語だとは思っていないが、あれこれ考えたものの他に思いつかなかった(し、今でも思いつかない)ので、本ブログ内での訳語の一貫性を保つために「メタクソ化」と訳し続けている。
私がコリイ・ドクトロウの「enshittification」という言葉とそれが意味する理論について最初に触れたのは、彼の2022年11月28日の記事「How monopoly enshittified Amazon」で、彼の共著『チョークポイント資本主義』の延長線上にある話として実に面白い内容だった。当然翻訳しようとしたのだが、「enshittify」「enshittification」という議論の中核をなす造語に、どう訳をあててよいのか途方に暮れてしまった。
これが文章であるなら、説明を盛るとか、日本の文脈に多少寄せるとか、注釈を挿れるとか、いくらでも逃げようはある。だが、彼の重要な理論をたった一語で表す造語で、しかも目にした人をニヤリとさせるか、眉をひそめさせようと(面白がって)意図したような言葉だ。逃げようがない、と困ってしまった。
構造としては「shit」を語根として、接頭辞の「en-(~にする)」と接尾辞の「-fy(~化する)」、さらにそれを抽象名詞化する接尾辞の「-ification」がついた言葉で、一見すると、仰々しく、さかしげに見える得体のしれない言葉だが、分解していくと「クソ」だけが残る。だから、ギョッとするし、二度見してしまう。
単語だけをみれば、「クソ化」「うんこ化」と訳出してよい言葉だが、それではほぼ「shit」そのままの一本グソであり、この言葉の持つ面白みもニュアンスも伝わらない。何より目新しさのない凡庸な表現に思えた。クソ化、うんこ化はすでに表現として散々使われているし、コリイ・ドクトロウが表現したい現象を一意に意味するものにはなりにくい。
日本語にそういう小賢しい言葉はないもんかと探してはみたものの、しっくりくるものは見つからなかった。訳すのを諦めてカタカナにするのも一手だが、「エンシット化」という言葉では仰々しい雰囲気は出るものの、読み手はうんこまでたどり着けない。
あるいは、その言葉の指す理屈を要約した言葉ならと思い、「劣悪化」「粗悪化」「改悪化」「堕落化」「ダメ化」を当ててみたが、やはり造語感は薄いし、「enshittfication」というつよつよな字面には到底及ばない。二度見どころか、読み流されてしまう。何より、50をとうに超えたおっさんが楽しそうにうんこうんこ言ってるのだから、そこをマイルドにするなんて余計なお世話である。だから、クソであれうんこであれ、「shit」は「shit」であるとわかるようでなければならない。それでいて得体のしれない言葉。一本グソではなく、巻きグソのような言葉。
はてどうしたものかと思いあぐねているうちに、まぁ次に出てきたときに改めて考えるかと、上述の記事の翻訳は断念した。
幸か不幸か、次の「enshittfication」はすぐにやってきた。2022年12月10日の「Freedom of reach IS freedom of speech」という言論の自由とエンドツーエンドの原則(つまりはリーチの自由)についての論考で、その翻訳記事「“リーチの自由”は“言論の自由”である」が本ブログにおける「メタクソ化」の初出である。
コリイ・ドクトロウはよほどみんなにクソを見てほしいのだなと諦め(そういうところは嫌いじゃない)、改めて向き合う覚悟を決めた。が、向き合ったところで妙案が浮かぶわけでもない。結局、1週間ほど悩みに悩むことになった。クソやうんこのことばかり考え、なんとかひねり出そうと頑張ってはみるものの、なかなか出てこない。まさに便秘である。
最終的に、ここまでに書いてきたいくつかの条件と、これまでコリイ・ドクトロウの文章を読み、翻訳し、そして、彼のアクティビストとしての活動を踏まえたうえで汲み取れる彼の意図を考えることにした。前者の条件は、1)クソかうんこを入れる、2)造語感ないし得体の知れなさをもたせる、または理論を一意に示しうる目新しい言葉にする、3)読み手を面白がらせる、ミームっぽいのもいいな、というあたりを意識していたと思う。
後者については、最古参のアンチDRM戦士で、デジタルライツのために戦う闘士として、彼が心底腹を立てているプラットフォームの崩壊(とそれをもたらすプロセス)についての関心を喚起し、問題(とその解決への道筋)の議論へと引き寄せることが、この言葉に込められた意図だろう、と考えた。彼のブログ、Pluralisticに書かれる文章は、作家としての力量を存分に感じさせるものではあるのだが、どの視点から書かれているかといえば、基本的にはアクティビストとしてのコリイ・ドクトロウである。それも大いにヒネた視点から。
「enshittfication」といういささか下品な言葉遊びは、結局のところ、興味をひきつけるための仕掛けであって、それこそが最も重要な意味を持っている(と私は思う)。少なくとも、アカデミシャンのように大真面目に、正確に現象を捉えるためのワーディングではない。語彙としての厳密性よりも、耳目を集める面白おかしさのほうが、この言葉には必要だ。
そんなふうに考えを巡らせていたのも、この期に及んでまだ逡巡していたからだ。そりゃ「クソ化」「うんこ化」と訳したほうが無難だ。機械的な翻訳なら正解だろう。わざわざ翻訳者がしゃしゃり出て悪目立ちするなんて、それこそ興ざめだ。何よりそれで大スベリしたら、むちゃくちゃ寒いし、恥ずかしい。
さりとて、「enshittfication」という、見た瞬間に「なんじゃこりゃ」というインパクトを与える言葉を、ただその文字として意味するところだけを拾うというのも面白くない。そんなもんは機械/AI翻訳の仕事であって、その人間のむちゃくちゃさを拾ってこそ人間の仕事じゃないか。
このとき候補としていたのは、「メタクソ化」と「クソミソ化」、「クソプラ化」だった。「クソミソ化」はキャッチーなのだが、どうしても「やらないか」と結びつきやすく、二重の意味を持ちそうというか深刻なミーム汚染を起こしそうなので断念した。「クソプラ化」は意味合いとしてはおそらく一番ぴったり(プラットフォームのクソ化)で、音韻は嫌いじゃないが字面がどうも気に入らず、インパクトも弱く感じた(インパクトだけなら「ビチグソ化」があったが、さすがに汚すぎる)。
「メタクソ」は、「めちゃクソ」「めったクソ」から派生したであろう程度を表すやや下品な言葉として使われていて、とりあえず「クソ」が入っている言葉としてピックアップした。基本的に意味を考えたものではなく、音韻として悪くないし、ことばの意味はわからんがなんとなくすごそうに聞こえる。少なくとも、「化」をつければ言葉として意味を一意に定められそうではある。無理矢理に意味を考えれば、「メタになる(meta-)」ことで生じる問題でもあるし当たらずしも遠からずである。ただ、その言葉の批判対象に含まれるMeta(旧Facebook)と重なる言葉でもあるので、その点はいささかネガティブに感じた。
先例としては、古の漫画『トイレット博士』に「メタクソ団」という心底下品なクソガキどもが登場する。この漫画の愛読者であったクソガキどもは環境の変化に耐えられずにことごとく死に絶えたと聞いているので1なお、後に翻訳した「メタクソ化」の記事に「マタンキ!」と反応した人がいたので驚いた。どうも絶滅したわけではないらしい。、「クソミソ」ほど先例に引きずられることもミーム汚染を起こすこともなさそうだ。造語感は弱くなるが、面白がってもらえるかもなと考えた。
そんなこんなで「メタクソ化」に傾きつつも、「enshittfication」というとにかくすごい表現には及ばない、理想の言葉に届いていないのはわかるわけで、そこでやはり逡巡してしまう。
最後に背中を押してくれたのは、これがCreative Commonsライセンス(CC BY 4.0)で公開されている記事であり、それを私が勝手に翻訳しているという事実だった。
このCCライセンスのもとで作品を公開するのは、基本的には自分の表現やアイデアを他者に広めてもらう可能性を高めるためであり、赤の他人に創作のバトンを渡すためだ(少なくともNDでない、というのはそういうことである)。そこに、金を払えだの、一定の品質を保証しろだの、リスペクトしろだのという息苦しい制約は存在しない。原著作者が選択したCCライセンスに定められた条件以外には何の制約もない。なんなら、原著作者をおちょくるために使ったっていい(少なくとも、著作権法によっては妨げられない)。まさに「好きにやれ、みんな」の精神だ。
そう、何も私だけに特別に許可されたわけじゃない。CC自体がそういうものであるし、何より言葉に訳語をあてるのに誰かの許可なんて必要ない。なら、私が理想の言葉を見つけ出せなかったとしても、誰かがそうしてくれればいい。私は私の案、私の表現を公表するが、同じものを元にして別の人がもっと素晴らしい表現を出して、上書きしてくれればいい(そしたら遠慮なくパクらせてもらおう)。それでいいじゃないか。このブログを続けているのは、「enshittfication」に対応する理想の言葉を追求するためではなく、その言葉が指す現象について伝えるためなのだから。
ある種言い訳めいた、しかし、私と、少なくとも著者のコリイ・ドクトロウに共有された世界観に基づいて、私は公開ボタンを押した……。
なんて、大げさに書くくらいには、この「メタクソ化」という言葉をあてるまでには大きな逡巡があったという話である。翻訳はアマチュアとして十数年続けているが、ここまで悩んだのは初めてだった(ちなみに2度目もコリイ・ドクトロウで、「twiddling」という言葉である)。
なお、意を決して公開した翻訳記事「“リーチの自由”は“言論の自由”である」であるが、反応としてはさして芳しいものではなく、少なくとも私の確認した範囲では、誰一人「メタクソ化」という訳語を面白がってはくれなかった。拍子抜けしたと同時に、安堵したというのが本当のところである。
それ以降は、あれこれ考えても仕方ないし、「メタクソ化」という訳語をあててパブリッシュした以上、それ以上にピタッとハマる言葉に出会うまでは「enshittificatoin」を「メタクソ化」と訳出し続けることにしている。
あくまでも、このブログでは。
他人が他所でどう訳そうと私の預かり知らぬところであり、「やあやあ我こそは最初にenshittificatoinに訳語をあてたものなるぞ」などという興ざめなムーブをするつもりもない。私が「メタクソ化」と訳したからって他人がそれに縛られることはないし、むしろ好きに(あるいは媒体の制約の範囲内で)訳せばいい。あーだこーだと理由を書いてきたが、それはこのブログに載せるまでに逡巡したというだけの話であって、もっとも重要なのはこの言葉がさす現象(とそのプロセス、提示されたソリューション)に注意を向けさせることであり、取り上げられるならどんなかたちだっていい。この言葉が生み出された意図を考えれば、訳語なんてただの依代に過ぎない、些細なことだ。
当然、翻訳とはこういうものだというつもりもない。Creative Commonsライセンスで公開された文章を元に、スラックティビストの私なりに思考をめぐらせ、翻訳という行為の中で、その文脈に可能な限り最適な、面白い、ささる表現を考えたいというだけである。その文脈においてという話であって、別の文脈では「enshittification」は「クソ化」と訳すのがより適切と考えることだって当然ありうる。「必ずしも良い訳語だとは思っていない」のは、コリイ・ドクトロウの文章という文脈において「メタクソ化」以上にハマる言葉を見つけられなかったということであって、「クソ化」と訳さなかったことを言い訳をしているのではない。
幸い、初出の翻訳記事から4ヶ月後に公開した「メタクソ化するTiktok」は、大いに反響を呼んだ記事になった。「メタクソ化」という訳語を面白がってくれる人もいて安心したし、何より今我々が直面している状況・問題に注目が集まったこと、漠然と受け入れていたプラットフォームのおかしさに気づきを得た人がいたことが嬉しかった。
もちろん、訳語に不満を持った人たちもいた。元の単語に「メタ」なんてないじゃないか、言語的に正しくないだろ、という気持ちもわからないではない。ならばどうだろう、「メタクソ化」を「クソ化」「エンシット化」とブラウザに置き換えさせてはいかがだろうか。そのためのブラウザ拡張を作るなり、既存の拡張にちょっとしたスクリプトを書き足せば、簡単に置き換えられる。
え? ブラウザではできるかもしれないけど、アプリじゃできないだろって? そう、そうなんだ! 「enshittification」だの「メタクソ化」だの下品な言葉遊びに興じる我々は、まさにそれをできるようにするために、手を変え品を変えこんなことをしてるんだ。