【連載】〜I LIKE YOU〜忌野清志郎──《第3回》 グラフィックデザイナー 太田和彦
INTERVIEW : グラフィックデザイナー 太田和彦
連載第3回にご登場頂くのは、グラフィックデザイナーであり、居酒屋探訪家としての顔も持つ太田和彦さん。1972年から73年にかけて「渋谷ジァン・ジァン」、「渋谷青い森」等で行われた初期RCサクセションのライヴに足繁く通い、2002年に刊行された『ロック画報 10 -特集 RCサクセションに捧ぐ-』の付属CD及び2013年に発売されたアルバム『悲しいことばっかり』に収録されたライヴ音源を提供した人物だ。この音源には、後年に世間一般に知られたロック・スターのイメージとは違う、アコースティック・ギターを掻きむしり、泣き叫ぶように歌う若き日の忌野清志郎がいる。
企画・取材 : 岡本貴之 / ゆうばひかり
文・編集 : 岡本貴之
撮影 : ゆうばひかり
ページ作成 : 鈴木雄希(OTOTOY編集部)
協力 : Babys
※文中、作品の括弧内はオリジナル発売日になります。
「こいつら捻くれてていいなあ」って思った。嫌われることを厭わないというのかな
──まず、太田さんと忌野清志郎、RCサクセションの音楽との出会いから教えてもらいますか。
太田和彦(以下、太田) : 「ぼくの好きな先生」(1972年2月5日)がヒットして、名前を知ったんだけど、それが彼らの特徴的な音楽ではなさそうだというのを友だちから聞いて。じゃあライヴに行ってみようと3人編成のRCサクセションを渋谷ジァン・ジァンに観に行って非常に衝撃を受けて。以降、ライヴをやれば必ず行く熱心なファンになったんです。僕が23、4歳くらいのことかな。
──いまでこそ「忌野清志郎」という名前は有名ですけど、最初にこの名前を見たときはどう思われましたか? 最近は名前の読みがわからないという人もいるみたいなんですよ。
太田 : 「忌野清志郎」が本名とは思わなかった。でも、“忌まわしい"という文字を使ってるのが強烈でね。RCサクセションは、彼らは冗談めかして「ある日作成したからRCサクセション」なんて言っていたみたいだけど、RCというアルファベットに片仮名でサクセション、個人名、忌野清志郎(Vo.Gt)、破廉ケンチ(Gt)、林小和生(Ba)でしょ。「こいつら捻くれてていいなあ」って思ったね。嫌われることを厭わないというのかな。
──音楽と共に、そうした姿勢にも共感したんですね。
太田 : そう。
──それまでは、太田さんはどんな音楽を聴いていたんですか?
太田 : モダン・ジャズです。他に、オーティス・レディング、ボブ・ディラン、吉田拓郎。僕は戦後生まれで良い音楽体験をしたと思う。まず中波のラジオでエルヴィス・プレスリーの声を中学生の頃に聴いて「すげえな!」。高校になったらザ・ビートルズに衝撃を受け。少し生意気になってくるとモダン・ジャズを聴いてオーネット・コールマンを知る。世界のポピュラー音楽史の節目節目に出会ってきた良い年代だね。だから、日本の四畳半フォークなんか鼻もひっかけなかった。
──忌野清志郎の作る音楽は、ぜんぜん違って聴こえたわけですね。
太田 : ぜんぜん違った。日本の歌手でこんなに強いものを持って、完成されたサウンドもあってというのは、本当に衝撃を受けた。ディランだけじゃないんだって。最初の渋谷ジァン・ジァンですぐにわかりました。「僕の好きな先生」のフォーク調と全く違う世界。“総毛立つ"とはあのことかな。ライヴはいつも10曲から12曲をやり、行くたびに新曲が出る。それがどれも水準高く練られていることに驚いてね。それと、まだPAなんてない頃だと思うんだけど、音の調整もものすごく念入りにやっていた。僕はその頃会場に来ていた女子高生の皆々様と馴染めないおじさんだった……。
──おじさんって、太田さんもまだ20代でしたよね(笑)。
太田 : 20代でも、その子たちからしたらおじさんだから(笑)。1番後ろで観ていたんだけど、会場の後ろにもスピーカーを置いてたんだよね。その頃のフォークに多かった生ギターでマイクを通さずにチョロチョロ弾くような歌手と違って、最大の音量で「ガイーン!」。ギターは1番強い弦を張って、リンコのベースはウッドベース。音調整にものすごく時間をかけていて、19時開始に30分も平気で調整してる。彼らはスタジオで練習する金がなくて家で練習してたんじゃないかと思うんだ。だから、ライヴ会場でイメージする音を作ってるんだろうなって。その間挨拶なんかしない。それで調整が終わるといきなり「ガイーン!」。それはそれは素晴らしいものだった。
客はただただ、シーンとして聴いてた。どう反応していいかわからないみたいな感じ
──音楽はすごいけど、ステージは愛想のない感じでやってたんですか。
太田 : 愛想はないですよ。愛想はないけど、MCは喋る。その頃の客はほとんど、桐朋あたりの女子高生ばかりで、男は僕と友人の松井くらい。だから、「おまえたちに俺の音楽なんてわかるもんか」という姿勢で逆にバカ丁寧に「みなさま、本日は……」とか言ったりしてたね。破廉は1番毒舌で、客に「なんだよ、その格好は」とか平気で言う。でも、女子高生は毒舌を言われるとまた喜ぶじゃない? 「キャー!」とか言ってさ。毒舌とバカ丁寧で喋って、音楽の話なんて一切しない。本音を言わない感じだったね。
──でもその女子高生たちも、RCの音楽が好きで集まっていたんじゃないでしょうか?
太田 : いや、それはぜんぜん違う。渋谷のパルコ通りあたりにライヴを聴きにいくのは不良のはじまり、みたいなスリルでしょう。カバンを隠してね。どこかで情報を仕入れて、「フォークソング、素敵ね」なんて思ってライヴハウスに行ってみたら、悲哀いっぱいの痛切な曲をやっていてぜんぜん違うわけだから、ポカーンとするしかなかったと思う。
──そういう子たちは、清志郎さんの歌をどう受け止めていたんですかね。
太田 : ただただ、シーンとして聴いてた。どう反応していいかわからないみたいな感じだね。歌詞は痛切だし曲は重いし陰気だし。ただ、彼女たちも心では受け止めていたと思う。帰るときにはみんな黙ってたもん。シーンとうなだれてしずしずとお帰りになっていきましたね。
──いまのライヴハウスでは考えられない光景ですね。
太田 : それだけ、インパクトが強かったんじゃないかな。途中で帰る人はいなかった。渋谷ジァン・ジァンを中心にやっていて、そのうち「ようやく僕たちもLPが出ます!」と。その『初期のRCサクセション』(1972年2月5日)を買ったら良くなくて。収録してある曲からして違った。それで、自分で楽しむためにラジカセを風呂敷に包んで持ち込み、録音するようになったんだよ。
天才だし、声に個性があるという歌手としての最大のものを生まれ持っていた
──その頃に録音した音源が後に『悲しいことばっかり(オフィシャル・ブートレグ)』として2013年5月2日にリリースされることになるわけですね。
太田 : そう。同じ頃、RCがTVKの番組『ヤング・インパルス』に出るようになって。僕は小型テレビの前でも録音してましたが。外にゴミ回収車が来るとその音も入っちゃった(笑)。
──ははははは(笑)。
太田 : 『ヤングインパルス』はとても良い番組だったけど、彼らはものすごく反抗してた。『悲しいことばっかり』にも入ってるけど、業界批判の「ガラクタ」とかを歌って。
──「わるいディレクター」っていう曲もありますね。テレビに出させてもらっているのに、何に反抗していたんですかね?
太田 : すべてに、じゃないの? 『ヤングインパルス』はRCだけ3曲やらせてもらう破格の待遇だったから、ディレクターは本当は理解があったんだろうけどね。彼らはその日何を演奏するのか言っておかないんですよ。だからディレクターも、司会者もわからないから「さあ、今日は何をやるんでしょうか?」って。そこでおもむろにテレビ批判の「わるいディレクター」とか歌い出すんだから、いいタマさ(笑)。
──後にザ・タイマーズで「FM東京事件」を起こす予兆がすでにありますね(笑)。
太田 : ははははは(笑)。でも、あるときは「サン・トワ・マミー」(越路吹雪のカバー、後に『COVERS』に収録)を突然歌い出したから、笑っちゃったんだけど、聴いているとすごく良くて。やっぱり歌唱力あるなあと思った。声の良い人は何を歌っても良くなるんだなあと実感した。
──歌手としての実力が初期の段階からハッキリとあったんですね。
太田 : だって天才だもん。天才だし、声に個性があるという歌手としての最大のものを生まれ持っているわけだからね。
──『悲しいことばっかり』や『ロック画報』のCDに入っている音源はとても迫力のある音で録れていると思います。太田さん自身、ライヴハウスで録音していたときに録る場所などに気を遣っていたのでしょうか。
太田 : 気なんて遣えないさ。ラジカセを紙袋に入れるとガサガサ音がするでしょ? だから風呂敷に包んで、知らん顔して膝に置いて、ライヴが始まると風呂敷をほどいてガチャッ(ラジカセの録音ボタンを押す)ってやるだけ。座る場所が大いに影響して、ベースが大きく鳴っていたりしたんだけど、それはしょうがないからね。そのときに録音していたカセットテープがこれ。
──これは貴重ですね!
太田 : 清志郎が亡くなったあと、これを宗像和男さん(元キティレコード宣伝担当)と一緒に清志郎の事務所Babysに持ちこんでデジタル化してCDに焼いたのをもらったときは、「ああ~よかった!」とホッとした。このままだとどんどん劣化する恐怖がつねにあった。色んなテープを山のように持って、自分で編集して「RC大全集」を作ったり、それなりに整理はしていたんだけどね。
──こんなにお持ちだとは思っていなかったです。
太田 : これが原資料。その頃、我々が“聖なる本”と呼んでたのがこれ(ムック本『RCサクセションのすべて』を見せる)。持ってる?
──持ってないです! はじめて生で見ました。
太田 : これが素晴らしいんだよ。楽譜が載っていて本当に貴重品だよ。
──このアイドルばりのあどけない感じ、清志郎さんは女子高生にモテたんじゃないですか?
太田 : でも、あどけないと思ってライヴに行ったら「ギャイーン!」だからさ(笑)。
──それはたじろぎますよね(笑)。
『シングル・マン』にはモーツァルトの晩年の曲に似た“透明感のある哀しみ”があった
太田 : あとこれ、清志郎の写真集(岡部好著『清志郎』)を買ったら、ライヴ会場に僕が映ってた。
──あ、この革ジャンを着ている男性が! カッコイイですね。
太田 : この日のことは覚えていて、清志郎はいつもと違う道化師風の衣装で出てきた。僕は早めに行ったらどんどん前に押し出されて、1番前になっちゃったんだ。オッサンが1番前で顔を見たら演奏しづらいだろうと思い、ずーっと下を向いてたんだよ(笑)。渋谷の「青い森」だね。
──太田さんは当時「キザクラの二級をくれる青年」として、後に清志郎さんの著書『十年ゴム消し』に登場するくらい、認識されているお客さんだったわけですよね。実際に言葉を交わしたことがあるのでしょうか。
太田 : いや、ない。演奏前のアーティストに声を掛けるなんて失礼なことはしないよ。キザクラを持って行ったのは、ジァン・ジァンに行く途中に酒屋があって、自分たちが一所懸命やっている音楽を女子高生は理解してくれてない寂しさがひしひしと見えたから、「ちゃんと男のファンもいるんだぞ」という気持ちを表そうと思ってさ。でも一升瓶を楽屋に渡してもらうだけ。話なんかしない。男のファンはそういうものです。それを2度くらいやったのかな? 1本目は割っちゃったみたいだけどね(笑)。あちらも誰かはわかってなかったんじゃないかな。でも本には“好青年”って書いてあったな(笑)。
──これだけ熱心に通っていた太田さんがライヴに行かなくなったのはどうしてなんですか?
太田 : 行かなくなったのではなくて、ライヴに出なくなったんです。『楽しい夕べに』(1972年12月5日)が出て、「これはいいな」と思ったんだけど、同時にライヴの出番が少なくなり、「このままになっちゃうのかな?」って思ってた。その後数年して、『シングル・マン』(1976年4月21日)が出て。あれも衝撃だった。全編に漂う悲哀感に、聴けば聴くほど気持ちが沈んでいく。僕はモーツァルトの晩年の曲によく似ているなって思った。“透明感のある哀しみ”というのかな。晩年の弦楽四重奏なんかはとても透明な哀しみがある。「甲州街道はもう秋なのさ」なんかは、「ああ、このバンドは本当にこれで終わったんだ」っていう寂しさがあった。でも、「不遇なときに名作を作る」というのはクリエイターの宿命。モーツァルトもそうだし、画家でもそうだし。そういうときの作品には輝きも、透明感、哀感もある。「とうとうRCにもこういう時期が来ちゃったな」というつらさがたまらなかった。ジャケットデザインの諦めたような、捨てばちのような感じもね。売れようという気も、受けようとする気もすべて諦めた諦念がすごく表れ、すっかり心を閉ざしてしまったんだなって思ったね。
──それが故に、作品としてはより魅力的にはなってますよね。
太田 : それが芸術家としての宿命なんだろうね。だから、数年後に吉見佑子(音楽評論家)さんが再発売運動をおこし、「あいついい奴だな!」って思ったよ(笑)。やっぱり理解者はいるんだ、この良さをわかってくれる人はいるんだって、嬉しかったねえ。
〈汚れた心しか あげられないと あの娘は泣いていた きれいじゃないか〉(「僕とあの娘」)
──「お墓」「僕とあの娘」等は、ロック・バンド編成後にレコーディングされました。そうしたアレンジは太田さんにとって満足のいくものではなかったようですが、逆に当時聴いていて後に収録された曲で気に入った曲はありますか。
太田 : ロック・バンドの新生RCになってからは、あんまり熱心には聴いてなかったね。
──太田さんが『悲しいことばっかり』で音源を提供した「夢を見た」は、『FEEL SO BAD』(1984年11月23日)に収録されていますが、聴いたことはありますか?
太田 : いや、これは持ってないな。じゃあいま聴いてみようか。
~しばし『FEEL SO BAD』収録バージョンの「夢を見た」を聴く~
太田 : これはあの頃ジァン・ジァンで聴いた清志郎の声、リズム、歌い方、まったくそのままだね…… これ買おう。
──ありがとうございます(笑)。「お墓」についても聴きたいんですが。
太田 : 「お墓」はいいよねえ。
──「お墓」って聴くとギョッとしちゃいますけど、最後の歌詞で所謂タイトル回収というか、どういう曲だったのかがわかるじゃないですか? このあたりの歌詞の作り方をどのように感じていらっしゃいますか。
太田 : 上手いもんだよね。思っていることをだらだら並べていくフォークと違って、こういう構成で最後の1フレーズによって全体をパッと完結させるのは、現代詩として素晴らしいんじゃないかな。自分の心情を切々と言うだけには決して留まっていない。ボブ・ディラン全詩集の翻訳が難しいと言われているけど、清志郎の詞も詩集を編む価値がありますね。
──最後の最後に歌の世界を完結させるという意味で言うと、「僕とあの娘」もそうですよね。最後の歌詞の一節には本当にグッと心を掴まれます。
太田 : 〈汚れた心しか あげられないと あの娘は泣いていた きれいじゃないか〉。素晴らしいよね。本当に清志郎の詞は素晴らしいです。
忌野清志郎の生涯の最高傑作は「NIGHT AND DAY」だと思う
──では太田さんが好きな3曲とアルバムを1枚挙げてください。
太田 : 「あの歌が思い出せない」「ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います」、それから「NIGHT AND DAY」だね。
太田和彦が選ぶ忌野清志郎の3曲
①「あの歌が思い出せない」
②「ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います」
③「NIGHT AND DAY」
──「NIGHT AND DAY」は最後のアルバム『夢助』(2006年10月4日)収録の曲ですね。
太田 : 僕は忌野清志郎の生涯の最高傑作は「NIGHT AND DAY」だと思うな。
──それは正直、ちょっと意外でした。どんなところにそう感じるのでしょうか?
太田 : 彼の理想とした、ソウル、R&Bがその通りに出来上がっているんじゃないかな。あれはソウル・ミュージックの世界的な大傑作だと思う。歌詞も、バック演奏も、彼の理想が100%実現したと思ってる。何度聴いても飽きない。
──やはり、清志郎さんは最後の作品で原点であるオーティス・レディングのようなソウル・ミュージックへと帰って行ったんですかね。
太田 : 帰ったという言い方でも良いのかもしれないね。『夢助』は詞がみんな良いんだよなあ。それこそ「オーティスが教えてくれた」とかね。それと、感動したのは「激しい雨」の〈RCサクセションがきこえる〉のフレーズね。“初心忘るべからず”忘れてなかったんだよ。その初心というのは、3人組でジァン・ジァンでやって売れなくても名曲なんだという自負を彼は持っていたと思う。
それから、自分にも「死」があることを知った時、1番最初のころを思い出したんじゃないかな。この歌詞の“RCサクセション”は、3人組のRCサクセションのことだと思う。1つの円環が閉じたという気持ちかな。その最高傑作が「NIGHT AND DAY」だと思う。
──そうなると、アルバムを1枚選ぶとすれば『夢助』ですか。
太田 : いや、アルバムとしては原点として2ndアルバムの『楽しい夕べに』にしておきたいな。でも、もっと言えば僕が作った『悲しいことばっかり』がベストだよ。
──それはそうですね! 失礼しました(笑)。
太田 : そりゃそうさ、当然ですよ(笑)。じゃあ『悲しいことばっかり』にします。これが僕のRCベストです。
太田和彦が選ぶ忌野清志郎のアルバム
RC SUCCESSION / 悲しいことばっかり
【収録曲】
1. 黄色いお月様
2. ぼくの情婦
3. 愛してくれるなら
4. マイホーム
5. 弱い僕だから
6. ぼくとあの娘
7. あそび
8. 悲しいことばっかり
9. ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います
10. もしも僕が偉くなったら
11. 仕事なので
12. わるいディレクター
13. ベイビーもう泣かないで
14. 九月になったのに
15. お墓
16. ガラクタ
17. 君にさようなら
18. ベルおいで
19. 一日
20. 夢を見た
21. マリコ
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音楽への純粋な気持ちを一生持ち続け、体制に反抗するマインドを絶対に忘れなかった
──ありがとうございます。では最後に、若い音楽リスナー、アーティストに向けて清志郎さんのどんなところをとくに知って欲しいかメッセージをお願いします。
太田 : 忌野清志郎という音楽家の、音楽への純粋な気持ちだね。それを一生持ち続けたこと。そのころ地方から出てきたミュージシャンは後に俳優になったりした。それは東京に出て成り上がりたいということで音楽活動じゃなくてもいいわけ。でも清志郎は東京の国立出身で、そういう連中とはぜんぜんマインドが違う。音楽以外のことには何も興味を持たない、それが偉い。音楽を通じてタレントになりたいわけじゃない、文化人になりたいわけでもない、音楽だけをやって、自分でロッ研(プライベートスタジオの「ロックン・ロール研究所」)を作ってみたり。その音楽への純粋さを、ひとときも失わなかったというところです。それと強調したいのは、体制に反抗するマインドを絶対に忘れなかったこと。これは立派なことです。音楽家は体制に反抗しなきゃ駄目。あらゆる音楽においてね。清志郎の音楽は「みんなで一緒に聴ける音楽」じゃない。痛切だし、重いし。ワイワイ言いながらBGMにするには合わない。僕はビリー・ホリデイが好きなんだけど、しょっちゅう聴く気にはなれないのは、楽しくないし、重すぎるから。清志郎の音楽も同じ、静かに聴き出したら途中で絶対やめられない。これこそが「本物の音楽」である何よりの証拠です。
【>>>第4回は3月23日に掲載予定。RCサクセションを時代の寵児へと導いたあの2人が登場します! お楽しみに!】