おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自称大人の思考パッターン

子供は「いいこと」と「悪いこと」という言葉を覚えるようになる。いい子でいれば――また、いい子でいるときだけ――いつでも完全に受け入れてもらえる、ということを学ぶようになる。こうなると子供は、母親からの愛や受け入れを自分の力で獲得しなければならなくなる。そして、その後はずっとそうなのである。無条件の受け入れが得られる期間は、せいぜい幼児期のあいだだけである。心理的に成人しているわれわれは、みな、程度の差こそあれ、愛されるためには、自分の責任において、愛されるような人間にならなければならない、ということを学んでいる。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

子供は、良い子でいれば母親から愛してもらえるという思考パッターンで生きているため、良い子でいようとする。

 

それは親が「良い子(親や世間にとって都合のいい存在)」は大事にし、「悪い子(親や世間にとって都合のいい存在)」は大事にしないからだ。

(だからと言って親を責めてもその思考パッターンからは抜け出せることはないので、親を責めるだけ無駄だ)

 

良いことをして良い子でいれば大事にされる、悪いことをして悪い子でいれば大事にされない、という思考パッターン、つまりそれは、愛されるためには愛されるような人間にならなければならないという思考パッターンで、これは子供も大人も変わらない。

 

愛されるためには愛されるような人間にならなければならない。

 

これはある種の洗脳で、これによって、愛されるためには世間的価値を手に入れて価値のある人間にならなければならないという思い込みを生じさせる。

 

その思い込みによって、私たちは自分を「良い子」と規定し、誰かに愛してもらおうとして世間的価値を必死にかき集める努力をしている。

 

私たちはみんな寂しくて、子どもと同様に愛されるための努力、人から大事にされるための努力をしているのであーる。

 

私たちが、自分のことを「金持ちの人間」「偉い人間」「性格のいい人間」「善良な人間」「強い人間」「正しい人間」「賢い人間」「きれいな人間」「ちゃんとした人間」「まともな人間」「正常な人間」「価値のある人間」として規定しようとし、思い込もうとし、証明しようとし、アッピールしようとするのは、「良い子は愛してもらえる」という思考パッターンに基づいていて、それらは愛してもらいたいが故の手段なのであーる。

 

つまり私たちは、人から自分が愛してもらえるか、大事にしてもらえるか、ということを主軸として日々を生きているということになる。

 

より抽象化した言い方をすると、私たちは人から自分がどのように扱われるか、ということを主軸として日々を生きているということになる。

 

人から価値のある人間として認められれば愛してもらえる。自分が「価値のある人間」であるということを証明するために、世間的価値(お金、地位、権力、美貌など)をかき集め、私は価値のある人間なのだから人は自分のことを大事にしてくれるはずだ、と思い込む。(僕は良い子なんだからお母さんは僕のことを大事にしてくれるはずだ、という子供然とした思考パッターン)

 

しかし、現実にはみんながみんなその人のことを大事にしてくれるわけではない。特別扱いしてくれるわけではない。中にはあからさまに粗末に扱ってくる人もいるかも知れない。

 

そして激昂する。(自称良い子が自分の期待通りに母親から大事にされなかった時に癇癪を起こすのと同じだ)

 

なんでおれを大事にしてくれないんだ。おれは価値のある人間なんだから、そんなおれを大事にするのはアタボーだろう。おれが価値のある人間になるためにどれだけの努力をしてきたと思っているんだ。あいつはとんでもないやつだ。悪人だ。悪は抹殺。それこそが正義。お、これで私が「正義」ということも証明できるな。すると私はますます価値のある人間ということになり、その分だけ人から大事にしてもらえるわい。よーし、これからも人から大事にしてもらうために、人から奪い、人に勝利し、人を踏みつけ、傷つけ、そうして世間的価値をかき集め、自分を価値のある人間として見てもらえるように頑張るぞい☆

 

とにもかくにも、私たちは世間的価値をかき集めれば人は無条件で認めてくれる、大事にしてくれるという思い込んでいて、人に自分は価値のある人間だと認めさせ、人に自分の価値を認めさせることができれば、自分の思いどおりに人は自分のことを取り扱ってくれると思い込んでいる。

 

だから、人から認められよう、大事にしてもらおう、愛されようとして、必死に自分の価値を証明する努力をする。そしてその努力の過程で、人を押しのけたり、人を見下したり、人を馬鹿にしたり、人を傷つけたりする。つまり、人を粗末にする。当然、粗末にされた人は不快な思いしかしないので、離れていき、一向に人から認められる、大事にされる、愛されるという目的が実現されない。

 

人を粗末にしているのに人から大事にしてもらえると思い込んでいるやべぇやつが私たちなのであーる。

 

私たちは自分が人からどう扱われるかばかりを問題にし、良く扱ってもらうために自分を良く見せる努力にばかり注力し、自分が人を実際にどう扱っているのか、自分が人に対して実際にどのような感情を起こしているのか、実際にどのような思いを起こしているのかということは眼中にない。

 

人から大事にされることしか眼中になく、自分が人を大事にしているのか、大事に思っているのかは眼中にない。

自分はちゃんと人のことを大事にしているぽよ、と思っていても、その「大事にする」は自分にとって都合良く解釈した「大事にする」であり、自分は大事にしているつもりでも実際は人のことを楽勝で傷つけているかもしれない。

 

私たちは、どうすれば人から良く見られて大事にされるのかということしか考えたことがないため、「人を大事にする」ということはどういうことなのかということを考えたことがないのであーる。

 

愛されるためには愛されるような人間にならなければならない。

 

これを洗脳としないためには、つまり愛されるためには良い子でいなければいけないんだ、世間的価値を有した価値のある人間でなければならないんだという強迫観念や不安や恐怖の根源としないためには、言葉の意味を明確にする必要がある。

 

ここで言う「愛されるような人間」というのは世間的価値をかき集めて作り上げようとしている「価値のある人間」というイッメージではなく、「人を大事にできる人間」ということになる。人を大事にできるようになれば愛される、ということになる。つまり、愛されるためには愛する人間にならなければならないということになる。

 

人から大事にされるための努力ではなく、人を大事にしていく努力へと努力の方向性を変える必要がある。

 

そして人を大事にできるようになるためには自分を大事する必要があり、自分を大事にしていく過程で大事にするということはどういうことなのかを理解していく必要がある。

 

自分を大事にするということは自分の心を大事にする、自分の身体を大事にする、自分の持ち物を大事にするということで、それらが楽勝でできるようになって人のことも大事にできるようになる。

 

そうして日常生活の全て、人生の全てが「自分が大事にする」という軸に集約されていく。

 

日々の軸が、「人から大事にされるかどうか」ではなく「自分が大事にしていくこと」へ切り替われば、世間的価値(集団的な幻想)をかき集め「価値のある自分」というイッメージ(自分個人の幻想)を作り出し、不特定多数の人間からの扱われ方(自分ではどうにもコントロールできないもの)をどうにかしようとする茫漠とした不毛な努力から解放され、全ては自分次第、自分が大事にしていこうとするかどうかということになり、自分や自分の身の回りのものを大事にしていくことができればできるほど、日々は自然と好転していく。

 

自分が本当に大人かどうかというのは「良いことをして良い子でいれば大事にされる」という小児的思考パッターンから、「自分が大事にしていくことが大事」という思考パッターンへ切り替わっているかどうかで判断できるかもしれない。

 

ということで私は自分が30年以上も生きてきてもなお、自分が単なる自称大人であり、5才の姪っ子や2才の甥っ子と思考パッターンは同じであるということが判明した。

 

こんなことはあってはならない。

 

よーし、ここは金の力を使ってクリスマスプレゼントを彼らに贈り、自称大人としての格の違いを見せつけ、その優越感による高揚感を幸福感と勘違いし、その段違いな勘違いの幸福感を自分へのクリスマスプレゼントとしようと思う。

 

まじでぴえん。

 

声出して切り替えていこうと思う。

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