ツクツクボウシが鳴いている。夏の終わりの始まりだ。僕はアパートの一室に閉じこもり、血走った眼で『きかんしゃトーマス』を観ていた。

 

 

遡ること数ヶ月前。友人の家に遊びに行った僕は、彼の1歳半になる息子をあやしていた。動物と子どもには昔から好かれなくて、いないないばあをしては泣かれ、高い高いをしては嗚咽が出るほどの号泣をされた。異変に気づいた友人はすぐに息子を僕から取り上げ、iPadで動画を再生し始めた。

画面に映ったのは、きかんしゃトーマスだった。

 

 

イギリスにあるとされる架空の島「ソドー島」を舞台に、「トーマス」を中心とした人格を持った機関車たちが活躍する人形劇。そういえば僕も幼い頃、きかんしゃトーマスの虜だった。実家には今も当時のプラレールが大切に保存されている。

懐かしいオープニング映像と共に、青い機関車が走り出す。この世の終わりみたいな顔をしていた子どもは嘘のように泣き止み、目を丸くして画面にかじりついている。僕の全力のいないないばあは、この走る人面機関車の前には遥か及ばない。僕は淡い敗北感と仄かな郷愁を胸に抱え、一緒にトーマスを観ることにした。そうしてすぐに気づいたのだ。めちゃくちゃ面白い。

 

まずテンポが素晴らしい。1話の尺もちょうど良いし、息つく間もなく展開していくストーリーには起承転結がきっちりと組み込まれている。最後には必ずオチがついて、その多くがハッピーエンドなのも気持ちが良い。

キャラクターも魅力的だ。主人公のトーマスを筆頭に威張り屋のゴードン、臆病なパーシー、自惚れ屋のジェームス。どれも個性と人間味に溢れている。
そして機関車たちはただニコニコ仲良く過ごすのではなく、時には喧嘩をし、時には悪口を言い、時には罵り合う。というかみんな結構口が悪い。「このノロマ!」「ポンコツ!」「役立たずの虫ケラ!」などという台詞が飛び交う様はまるで昼ドラのような迫力がある。でも毎話最後にはさぱっと仲直りをしたりするので、嫌な後味も残らない。そういう大人も楽しめる作品だったとは、改めて観るまでは気づかなかった。

ただ一点だけ気になるポイントがあった。機関車たちはあまりによく「やらかす」気がするのだ。つまり彼らはとてもカジュアルにぶつかったり、線路から飛び出したりする。もちろんこれはフィクションだし、怪我人は一人も出ないし、話の終わりには全て元通りに戻っている。

だが、ふと気になった。機関車たちは、一体どれくらいやらかしているのか。気になったものをとりあえず記録する癖がある僕は、特に意味もなくトーマスの「やらかし」回数を数え始めた。

それが切っ掛けだった。これは僕がひたすらトーマスを観続けた、一夏の記録である。

 

 

 

桜が散り緑の葉が生い茂っても、吹き抜ける風はなんだか肌寒い。まるで冬に逆戻りしたかのような気温に、僕は思わず身震いをする。タンスから取り出したパーカーを羽織って、トーマスの映る画面に向かう。

きかんしゃトーマスは30年を越える歴史を有しており、今なお放送の続く長寿番組である。現在ではシーズン23がイギリスで放送されており、その総エピソード数は500話を越える。
今のところ日本ではシーズン1~7,9~11,13~17をAmazonPrimeやNetflixで観ることができる。シーズンが飛び地になっているのは大人の事情のようだ。「やらかし」回数の記録はこれらのシーズンを対象とする。

そして、「やらかし」の定義ももう少し明確にしておこう。

・やらかし:線路を飛び出したり、何かを壊したり、みんなが深刻な顔をしている時

・No やらかし:単なる故障や接触が起きただけで、特に深刻な顔をしていない時

厳しい基準を置いたと言える。単なる故障や接触は「やらかし」に含めていない。トーマス世界においては「えーい!」とか言いながら機関車同士がぶつかって笑っている。乗客も気にしていないし、それはもはや「じゃれあい」の域にあるのだろう。ただじゃれ合いの結果そのまま飛び出したり壊すこともあって、そういう時は流石の機関車たちも渋い顔をしている。これはやらかしである。じゃれあいが多発するトーマス世界において、曖昧な「やらかし」は最終的には「顔が深刻っぽいか」で判定するしかないのだ。よって主観的な判断も含まれてしまうが、致し方ない。

 

こうして毎日トーマスを鑑賞するのが日課となったわけだが、序盤だけでも様々な発見があった。

まず、初期のエピソードでは意外と誰もやらかさない。故障したり、罵り合ったり、時間に遅れたりはするけど、「やらかし」までは至っていない。初期の最大の事件といえば、機関車たちのボス的存在である「トップハム・ハット卿」の帽子がヤギに食べられたことくらいである。

 

 

 

初めて本格的なやらかしが発生したのは、シーズン1「ジェームスのだっせん」だ。タイトルからして「あるな」という感じがしたけど、やっぱりあった。赤い機関車のジェームスがやらかしたわけだが、ここでキーになるのが「貨車」の存在である。

 

 

機関車たちの主な仕事は「客車」と「貨車」の2種類の車両を牽引することであり、そのどちらにも人格が存在する。そして、その中でも断然厄介なのが貨車である。
貨車たちはとにかくいたずらで、機関車の言うことを何も聞かない。それどころか「いけーーー!!!」とか叫びながら機関車たちを思い切り突き飛ばしたり、逆方向に引っ張ったりする。甚だ迷惑である。

そして初回のやらかし以降、貨車たちはどんどんトラブルを引き起こしていくのだが、なぜか上司たるトップハム・ハット卿はそんな時も貨車を叱らず、機関車たちを叱る。

例えばシーズン2「かしゃにのりあげたパーシー」では機関車パーシーが貨車に無理やり突き飛ばされたにも関わらず、ハット卿は「お前は厄介なことをしてくれたな」とパーシーを叱責した。とても可哀想だ。
また、「とこやに行ったダック」では機関車ダックがこれまた貨車に無理やり追突されて、線路の先の床屋に突っ込んでいく。まず「とこやに行ったダック」というタイトルが秀逸過ぎるし、何故そこに床屋があるのかという疑問も残るものの、もっと気になるのは反省の色すら見せず大笑いしている貨車が、一切叱られないということだ。

要はハット卿がボス、貨車が部下だとしたら機関車たちは中間管理職なのだ。部下から突き上げられ、上司からは叱られる。そんなサラリーマンの悲哀がそこにはある。

 

 

しかも一説によると、当時のイギリスで使用されていた貨車は基本的に鉄道会社ではなく荷主の所有物、いわゆる私有貨車だったという。つまり顧客の手前、ハット卿は貨車に強く出られないのかもしれない。そしてその怒りを機関車たちにぶつけるのだ。中間管理職の中でも、取引先のドラ息子が部下になっていびられるような、そんな涙ぐましい中間管理職である。そりゃあ機関車たちも、口ぐらい悪くなるだろう。

 

 

その後、「やらかし」の回数はどんどん増えていく。シーズン1では7回だったやらかしが、シーズン2〜4ではそれぞれ13~14回と、およそ倍の数字になっている。
原因としては貨車のいたずらに留まらず、機関車たちの単なる不注意であったり、調子に乗ってスピードを出しすぎたり、自然災害が起きた場合もある。

しかしいずれの場合もトップハム・ハット卿は機関車たちを叱るばかりで、改善案を提示しようとしない。本来ミスが多発する職場では人ではなく、その仕組み自体にメスを入れるべきだと思う。ソドー島で「やらかし」が多発する背景には、ハット卿のマネジメント手法に責任の一端があるのかもしれない。そんなことを考えながら、初夏の季節が過ぎていった。

 

 

 

冷夏が叫ばれた今年の夏に、突然の暑さが訪れた。コンクリートがジリジリと焼け、むわっとした熱気が路上から吹き上げてくる。クーラーをつけても額には汗が滲み、トーマスにかじりつく僕の頰を伝っていく。

シーズン5に入ってから、「やらかし」の回数は飛躍的に伸びていった。「やらかし回数/エピソード数」で算出される「やらかし率」を調べてみると、シーズン6では約70%、シーズン5に至っては約85%の割合でやらかしている。これはもう走ったらほぼやらかす状態である。

キャラクターが増えるにつれやらかしの原因も多様化してきて、例えば「ダンカン」という機関車に至っては「よくロックンロールを踊って線路を飛び出す」という非常にロックな理由でやらかしている。相変わらず貨車のいたずらは激しく、また機関車たちもそれに対抗して自ら貨車にぶつかり始めたりするので、もはやカオスである。

シーズン11「トーマスのドッキリ!!さくせん」ではついに1話で4回もやらかすという新記録が樹立された。トーマスが機関車たちをわざと驚かしたというのがその原因だ。ドッキリ!!とか言っている場合ではないが、最後には素直に反省して謝るあたり、やっぱりどこか憎めない。

 

 

8月に差し掛かり、既に200を超えるエピソードを観た。夏休みシーズンということもあって、SNS上では映画にドラマに、新作の話題で持ちきりだ。しかし僕はひたすらトーマスだけを観続けるので、会話に参加することができない。太陽は燦々と万物を焦がしているが、外に出ないので日焼けもしない。

朝起きてはトーマスを観て、夜寝る前にトーマスを観て、休日は一日中トーマスを観る日々を送る。だが不思議と全く飽きない。むしろその展開の目まぐるしさに、1秒も見逃すものかと眼が見開く。機関車同士の喧嘩もどんどんと激しさを増していって、嘘をついて出し抜こうとしたり、いたずらを仕掛けたりする。謀略と奸計が張り巡らされた世界、ソドー島。それなのに毎回ハッピーエンドで終わるので、脚本の巧みさには舌を巻くばかりだ。

 

そんな中、僕に小さな変化が起きた。「やらかし」を予見できるようになったのだ。

一例を挙げると、ナレーターが「だが問題が起きた」もしくは「もう遅かった」という2種類の台詞を述べると、その直後にほぼ100%やらかすことが分かった。これはシンプルである。更なる発展形として、エピソードのタイトルだけでもやらかしの有無がだいたい予測できるようになった。

例えば「あなにおちたトーマス」「パーシーのだいしっぱい」みたいなタイトルは明らかにやらかす。これは簡単だろう。ではもう少し難易度をあげて、「トーマスあさごはんにおじゃま」というタイトルはどうだろう?何が起こると予想されるか?
答えは「トーマスが朝ごはん中の家に突っ込む」である。トーマスを観続けていれば容易に解ける問題だ。ちなみにトーマスが突っ込んだ家では、奥さんが「(朝ごはんを)また作り直さなきゃならないわ!」と怒っていた。そこなの?ソドー島は不思議に満ちている。

 

 

力の限りセミが鳴く。近くの中学校から、野球部のかけ声が聞こえる。誰もが夏を満喫していた。球児が白球を追いかけるみたいに、僕は青い機関車を必死で追いかける。

8月半ばにして、AmazonとNetflixにある約350話は全て観終わった。でもダメだ。それでは全然足りなかった。「やらかし」の集計に足りないのではなく、純粋に僕がトーマスに飢えていた。今なら、あの時iPadに釘付けになっていた友人の子どもの気持ちがよくわかる。もっと、もっとトーマスをくれ。

禁断症状で文字通り夢にまでトーマスが出てきたし、油断するとすぐにそのメロディを口ずさんでしまう。完全にトーマス中毒になった僕は、ついにまだ観ぬシリーズの海外版DVD 『Thomas and Friends』を購入した。追いトーマスである。

 

 

シーズン8と12は日本に在庫がなくて、イギリスから輸入した。海外対応のDVDプレーヤーを用意して、再びトーマスの世界へと浸る。日本語版とは違って、英語版では同じナレーターが全員の声を同時に演じるというスタイルが採用されていて、これはこれで趣がある。

♪They’re two they’re four they’re six and eight.
Shunting trucks and hauling freight ♪

軽快なリズムに、華麗なブリティッシュイングリッシュが流れる。トーマスが走り、パーシーが落ちる。僕の英語能力は向上していく。もう少し、まだこの世界と一緒にいたい。

 

 

 

夏が、溶けていく。あれだけ暑かった期間はすぐに終わり、既に秋の気配が漂っている。

シーズン1から20まで、合計490話を観た僕はセミの抜け殻のようだ。こんなに短期間で大量の作品を観たのは初めてで、もう完全に燃え尽きた。なんでこんなことしたんだっけ?

疲労でぼうっとなった頭を振り、Excelを開く。そうだ、「やらかし」の回数を数えていたんだった。途中からトーマスにのめり込みすぎて、すっかり目的を忘れていた。やらかしなんてもはやどうでもいいし、それより夏が終わってしまうけど、折角集計したのでその結果を発表する。

もういきなり本題に入ろう。やらかした総合計回数である。

合計回数は….

 

 

198回。

 

1話あたりおよそ0.4回やらかしている。中盤の勢いより大分落ち着いた印象があるが、それでもなかなかの頻度である。

続いて、やらかした機関車のランキングだ。

 

5位 ヘンリー 10回

4位 ジェームス 12回

3位 ゴードン 13回

2位 パーシー 23回

1位…

 

トーマス 39回。

 

主人公トーマス、堂々の1位。もちろん主役として登場するエピソードが多いという事情もあろう。しかし悪口を言って貨車に嫌われたり、調子に乗りすぎて天罰が下ったり、その個性的なキャラクターが寄与していることも間違いない。

 

そして、次はやらかした原因の内訳だ。ある意味これは重要な観点かもしれない。原因を追求することで、やらかしの再発防止に繋がるのだから。

 

5位 短気 9回

4位 自然災害 18回

3位 図に乗る 23回

2位 わざと 36回

1位…

 

不注意 68回。

 

「注意してください」というのが結論になってしまうが、注目すべきは2位に「わざと」がランクインしていることだ。これは貨車も含めた登場人物たちがわざとやらかしたり、何らかの手口でやらかしを誘発したり、明確な悪意を持って「やらかし」を発生させた時にカウントした項目だ。やはりいたずら貨車の影響が大きいが、それにしてもトップハム・ハット卿の手腕が問われる結果である。

ちなみに「図に乗る」は調子に乗りすぎてやらかした場合、「短気」は怒りのあまり我を失ってやらかした場合にカウントしている。どちらも「不注意」の派生ではあるが、機関車たちの人間味が伺えるので別途集計とした。

なお、やらかし上位の「機関車」と「原因」をクロス集計するとこうなる。

 

赤いセルは特徴的な数字が現れている部分だ。これを見るとランキング上位のやらかし機関車たちにおいては、自然災害という不可抗力の回数が驚くほど少ない。つまり上位ランカーの彼らは、基本的に自業自得でやらかしているのだ。パーシーは圧倒的に不注意、ジャイアン的存在のゴードンは短気で、スネ夫的存在のジェームスは貨車に嫌われやすい。機関車それぞれの性格が現れていると言えよう。

 

さらにおまけとして、エピソードのタイトルでやらかしを予測できるのか?ということも調査したい。

490話を、何も起きなかったエピソードは「A.やらかさず」グループ、一度でもやらかしたエピソードは「B.やらかし」グループの2種類に分類する。そしてA,Bそれぞれのタイトルをユーザーローカル社の提供する「AIテキストマイニングツール」にかけて比較した。下図では各グループにおいてよく出現する単語が表示されており、単語のフォントサイズがその頻度の高さを表現している。

 

「トーマス」がどちらにも共通して頻出するのは分かるとして、注目すべきは「B. やらかし」グループにおける「きかんしゃ」と「パーシー」の大きさである。このどちらかの単語がタイトルに現れている場合、極めて高確率でやらかす可能性があるということだ。まさか番組タイトルの「きかんしゃ」がやらかしの合図だったとは、驚きである。

他にも、「B. やらかし」グループには「こわい」「にげる」「きたない」などのネガティブな単語がより多く並んでいる。確かに「こわい」「にげる」とつくエピソードはパーシーが恐怖でパニックになってやらかすし、「きたない」は何かに突っ込んで汚れるようなエピソードが多い気がする。

「パーシーときたないきかんしゃ」なんてタイトルがあろうものなら、10回くらいやらかすだろう。

 

 

さて、こうして当初の目的は果たしたわけであるが、僕の心にはまだ引っかかる部分があった。今回は「やらかし」を調べることが目的だったのでその内訳を調査したが、実はそもそも、途中からその回数自体が減少しているのだ。改めて「やらかし」をシーズン別に集計すると、こういうグラフになる。横軸がシーズン数、縦軸がやらかし回数だ。

その境はシーズン13にある。シーズン12以前のやらかし率を計算すると、ちょうど50%。それに対し、シーズン13以降でのやらかし率は23.9%。なんとシーズン13を境界に、やらかし率が半分以下になっているのである。

シーズン13といえば、人形劇だった本作がちょうどフルCG化したタイミングである。ここで何かが起こったのだ。なぜシーズン13以降、やらかしは減少したのだろうか?

ここからはあくまで「トーマス中毒者による妄想」として、次の3つの仮説を提唱したい。

 

仮説1

1つめの鍵は、シーズン14の「ヘンリーはあんぜんだいいち」というエピソードにある。安全をテーマにした教育的な内容だが、ナレーションの中にこういう台詞が出てくるのだ。

 

「ヘンリーは長い間ソドー鉄道で働いていたが、『安全第一』という言葉を聞くのは初めてだった。」
「ロッキーも初めて『安全第一』という言葉を聞いたが、それが重要な事だと分かった。」

 

え、今?

300話以上経って今更?

なんと機関車たちはそれまで、安全第一という言葉を知らなかったのである。

300話を経てついに安全第一を覚えたヘンリーは、得意げに言う。

「『安全第一』だからな、パーシー。」
「『安全第一』にはまず、確認する事がとても大事なんだ。」

これは仮説だが、ヘンリーが安全第一という言葉を覚えたことによって、それが他の機関車たちにも普及したのではないか?これまでソドー島には存在しなかった安全第一という概念が浸透したことで、やらかす機関車が減少したのではないだろうか。

 

仮説2

2つめの鍵は、貨車だ。シーズン13以降、あのいたずら貨車たちが、ほとんど出演しなくなったのである。いや正確に言うと貨車自体は毎回登場するのだが、その貨車には顔や人格が存在しない。文字通り単なる貨車なのである。だから機関車を無理やり押したり、突き飛ばしたりもしない。ただ静かに、言われるがままに機関車に牽引される存在となった。そうすると、必然的にやらかしも減少する。

これも仮説に過ぎないが度重なる貨車たちのいたずらに対し、何らかの制裁が加えられたのではないだろうか。それによって貨車たちは人格を失ったのではないか。

実際に「原因別の1話あたりやらかし回数」をシーズン12以前とその後で比較してみると、

 

不可抗力である「自然災害」が35%しか減少していないのに対し、その他の自業自得的な原因はいずれも大きく減少しているのだ。

例えば「わざと」が73%も減少しているのは、わざとぶつかる貨車たちがいなくなった影響が大きいと思われる。また「不注意」は45%、「図に乗る」「短気」に至っては80%近く減少しているが、これは安全第一の意識が徹底されたからではないか。

安全第一の概念の普及と、貨車の人格喪失。

この2つの要因によって、機関車たちのやらかしが減ったのではないだろうか。

 

仮説3

そして、もう一つ鍵がある。これが最後にして、最も重要な鍵である。

その鍵は、「やらかす代わりに、何が物語を展開させるのか?」という問いに潜んでいる。これまで機関車たちはやらかし、怒られ、反省することによってストーリーの起承転結を形成してきた。それがなくなった今、物語における代わりの「スパイス」が存在するはずなのだ。

 

それに気づいた時、あるアイデアが天啓のように舞い降りた。しかし僕は逡巡した。そこには覚悟が求められたのだ。なぜならそれは「物語の構成の変化を調べるために、490話をもう一度観直す」というアイデアだったから。

別にここで観直さなくても、記事としてはもう十分かもしれない。残りの夏を、キャンプにでも行って楽しめばいい。そういう甘い考えが頭をかすめた。

しかし僕は結局、もう一度PCを立ち上げたのだ。なぜなら、ただ単にトーマスを観たかったから。誰かにやらされている訳ではない。もはや記事の為ですらない。僕は純粋に、残された夏をトーマスと共に走り抜けたかったのだ。

 

何百回目かわからないオープニングソングが、ツクツクボウシの鳴き声に重なって晩夏を奏でる。目は血走り、脳汁が吹き出し、全身の神経が研ぎ澄まされる。こうなったらもう止まらない。石炭の代わりにレッドブルを飲み、蒸気の代わりに鼻息を荒く吐く。僕という機関車が、ソドー島を疾走する。僕の夏はトーマスと共にあり、夏が続く限りトーマスは終わらないのだ。

徹夜もした。有給もとった。その結果、1周目のわずか約6分の1の日数で全話を観終わった。火照った身体には一切の疲労はなく、なんなら3周目すらいける気がした。どこまでも駆けることができる、いわばトーマス・ハイだった。
そうして2周目の490話を観終わった僕には、ソドー島の真実が見えていた。

 

本題に戻ろう。シーズン13以降、きかんしゃトーマスを支えてきた存在は何か?

やらかしに頼ることなく、変わらない面白さを維持させてきたのは誰なのか?

 

それは、

 

 

 

トップハム・ハット卿である。

 

シーズン14「はたらきもののきかんしゃ」。ハット卿が汚れて真っ黒になる。
シーズン17「アフタヌーンティーきゅうこう」。ハット卿がジャムまみれになる。
シーズン19「ヘンリーのしんぱい」。ハット卿のズボンが破れてパンツが丸見えになる。

そう、シーズン13以降、やたらとトップハム・ハット卿が災難に遭う場面が増えているのだ。帽子を飛ばされたり、何回も転んだり、牛に追いかけられたり。
牛乳まみれになったり、愛車をスクラップにされかけたり、愛車に煙突をとりつけられたり。
これまでの高圧的なキャラクターとは打って変わって、とにかく酷い目に遭いまくるのである。

試しに「ハット卿が災難に遭う回数」、略して「ハット卿回数」。これを先ほどの「やらかし回数」のグラフにプロットしてみる。

シーズン12まではわずか4.9%だった「ハット卿率(ハット卿回数/話数)」が、シーズン13以降は27.7%まで急上昇している。シーズン19および20ではついにハット卿回数がやらかし回数を上回るという結果まで出た。

つまりこれらのシーズンにおいては、「機関車がやらかす」よりも「ハット卿が災難に遭う」ことで物語が展開していくのである。これは作品として、ハット卿が自らを犠牲にすることで機関車のやらかしを防いでいるとみることはできないか。

490話の最終話を飾るシーズン20「スキフとにんぎょ」では、ハット卿が海で遭難し、近くの無人島に漂流する。これまでのエピソードの中でも、ひときわ酷い目に遭っている。「最悪だ〜」というハット卿の叫び声が遠く海にこだまする。

しかし僕は知っている。それはソドー島の安全を守る為だと。自ら災難に遭うことで、やらかしの要らないストーリーを創り上げているのだと。

シーズン初期には諸悪の根源だと思われたハット卿は、実はソドー島の英雄なのかもしれない。

 

 

 

PCを閉じて、大きく伸びをする。窓の外を眺めると、陽炎がアスファルトの地平線をぐらんと揺らしている。こうして僕の夏は終わる。心のつっかえはもう無くなって、あとに残るのはトーマスの世界にどっぷりと浸かった、心地よい余韻ばかりだ。

 

ありがとうトップハム・ハット卿。

夏が終わっても、あなたのお陰でトーマスの物語は続いていく。

僕はこれからも、その背中を追い続けるだろう。