『アナと雪の女王』にかかったジェンダー観の砂糖衣

「過去、女性は素晴らしい能力があっても、それが”幸せな結婚”に結び付くものでなければ女として生きるのに余計なものであるとして、発揮する機会を奪われてきた。女性の生き方として賞揚されてきたのは、生まれて初めて出会った異性と恋に落ち、一生の愛を誓い合って生きること。しかし今やロマンチックラブのベールは剥がれ、一方で女性が能力を発揮しそれを正しく活用することが、社会の発展にも寄与するということになった」
このようなジェンダー観を、この作品も共有しているように見える。
その上でこの物語を要約すると、
「女は自立や自己解放を追い求めるべきだが、それはこの社会では孤立と紙一重。かといって男はもう当てにならない。なぜなら女がこれまで分断されていたのは、男の作った社会規範のせい(女の特殊な能力を封印させるのもその一つ)だから。頼れるのは同じ女だけ。シスターフッド万歳! ただし男社会での出世を望まない男なら信用してやってもいいよ」
ということになろうか。


近年、どんどん現代的な女性観を打ち出してきているディズニーのプリンセスもの。『アナと雪の女王』も、今まで以上にそのツボを押さえた作品として、絶賛されている。ジェンダー観点以外からも十分に楽しめるし、上の要約はちょっと偏っていて乱暴だという向きもあるかと思うが、お約束の異性愛に着地しなかった点を賞賛する声も多く、こうした方向で捉えられ、歓迎されているところは結構あるんじゃないかと、ネット上のレビューや感想を見ていて思った。
たしかにアニメーション作品、ミュージカル作品としてだけでなく、「自立した女性の生き方をいかに反映させているか」というフェミニズム的な面でも評価されることを強く意識した作品で、「現代的なジェンダー観にディズニーのプリンセスアニメが追いついた」とも言われているようだ。
しかしその中身はこれまでのプリンセスものより進んでいるというよりは、四方八方を配慮しかなり手堅く巧妙にバランスをとったものだと私は感じた。


まず従来の、魔法にかけられていたお姫様と彼女を救う王子様という古典的な役割が、エルサとアナに振られているのは明らかだ。そこで「愛」や「自己犠牲」ばかりが前面に出ると古臭くなるので、エルサが雪山を登りながら歌う場面を大きな見せ場とし、「自由」「自己解放」の高揚感を印象づけることで、現代的な女性観に強くマッチする印象を作っている。アナが”究極の選択”で男より女(姉)への愛を選ぶところも、現代風かもしれない。
しかしエルサは最後に山を降りて王位継承者としての本来の役割をまっとうするのだし、アナは大切な家族と信頼できる男の両方を手に入れる。
姉の成長物語として見れば「自由や自己解放の限界を知り社会的役割を遂行することの重要性」が、妹の成長物語として見れば「自己中の恋愛・結婚ファンタジーから脱して利他的に生きることの美しさ」が語られている。*1


つまり、「男への幻想を捨てよ。しかし自己解放はほどほどにせよ。国や家族という共同体を大切にし、各々の社会的役割を遂行せよ」というのが、(作り手が意識しているかどうかは別にして)この作品の発している率直にして辛口なメッセージである。
なんだか冒頭に書いた要約と乖離しているように見えるが、この辛口メッセージに口当たり良くかかっている砂糖衣が、「私は自由」「ありのままに生きる」「王子様なんか糞くらえ」「女同士最高!」なフェミ節の入った「現代的なジェンダー観」(と言われるもの)なのである。
砂糖衣は雪のように美しい。だからその中にどういう”薬”が仕込まれているか、よく味わわねばならない。結構苦いお薬だなと、私は思った。


個人的には、(「いい子」でいることを強いられてきた長女には特に)訴求力ありまくりなあの歌、結っていた髪を解いてセクシーな女に変身を遂げるエルサ、足下から広がる凍った大地と立ち上がっていく氷柱‥‥の場面は素晴らしく、映画館の椅子の上で感動と快感に打ち震えたので、元の城に戻ってしまうラストに一抹の残念さを感じた。
姉妹愛は美しいし、よく出来たハッピーエンドだとは思う。でも、広場をスケートリンクにしたり噴水を凍らせてみせたって、あの岩山にそびえ立つ壮麗な氷の城という”芸術”に比べたら、本人にとってはチャチな手品みたいなもんじゃないですか。
「すんごい才能もってるのに、あなたこんなもんで満足できるの?」という疑問と、「どんな才能も世間に受け入れられねば宝の持ち腐れか‥‥」という納得が交錯した。


いや、「宝」というより、それはむしろ人々を傷つける恐ろしい力。解放された女の力は何をしでかすかわからんアナーキーな暴力となって荒れ狂うので、愛でなだめ、社会的居場所を与え、適切にコントロールしなければならない、というわけだ。リベラル層に受けそうなフェミ味の砂糖衣をまぶしつつも、肝心なところはきっちりと男(社会)目線からの「女」が描かれている。
これは別に批判ではない。こういう絶妙なバランスがヒットのポイントなんだなという感想。そもそも「女」はほとんど、男目線(それは男女共に持っている)の中でしか可視化されてこなかったのだし。
そう言えば、あの氷の柱が天に向かってガンガン屹立するところなんかは、男っぽいと言えば非常に男っぽい。しかし孤独な女が、自分だけの世界を守るために武装していく場面として、鳥肌が立つほど素敵だったのは事実(エルサの「個性」としての雪と氷が、本当に美しく描かれている)。あの感動と生理的な快感が高度に一致した近年まれに見るシーンを味わうだけでも、もう一回は劇場で観る価値のある作品だったことを付け加えたい。*2



●追記
ついに悪女をヒロインにした7月に公開予定のディズニー実写映画『マレフィセント』(『眠りの森の美女』の魔女)が楽しみでならないのだが、これまでの流れから勝手に想像すると、悪女と聖女に女を振り分けるシステムへの怨嗟と糾弾の中で、「女の自分語り」がますます加速するものと思われる。

*1:エルサとアナのテーマを一緒にやっているのが、有名な『ローマの休日』だ。自分を解放する「自由」の素晴らしさと「愛」に生きる喜びを知った上で、アン王女は最終的に元の社会的な役割の中に戻っていく。「自分のために」から「人のために」と生き方を選び直している点で『アナと雪の女王』に似ている。

*2:快感と言えば、同時上映された短編『ミッキーのミニー救出大作戦』が素晴らしかった。ただひたすらプリミティブな運動と、ひたすらナンセンスな笑い。実写かと思うような手の込んだCGやさまざまな”現代的”テーマを盛り込んだ作品を見慣れた目には、とても新鮮。以来、ディズニーの初期短編アニメをYOUTUBEで見直している。