イージーリスニングの虜、アーティストの麻薬

佐村河内騒動で考える:松浦晋也のL/D
例の「交響曲第1番」の感想、NHKの「お涙頂戴」番組作り、新垣隆氏の仕事など論じられていることが幾つかのテーマに渡る長いエントリだが、終わりの方に書かれていたことについて思ったことをメモ。

現代音楽の売れなさは、もう笑うしかないレベルで、CDが出てもスタンプ枚数は数百枚というのが当たり前だ(コミケかよ!)。私はその手のCDを数百枚持っているが、「これと同じCDを世界の何人が持っているのだろう」と盤面を眺めたりもする。


現代音楽だけでなくクラシック音楽も客入りに悩んでいるという話はよく聞く。クラシック音楽業界の窮状について拙書に書いたところより引用。

 数年前、あるシンポジウムで音楽プロデューサーの平井洋さんとご一緒したことがあります。五嶋みどりをはじめ日本を代表する音楽家のマネジメントやコンサートのプロデュースを、長年やってこられた方です。平井さんによれば、クラシック音楽の分野では「今は一握りの人を除いて、プロがなかなか食っていけない時代」。
 伺ったお話をまとめると、「少し前ならトップクラスは演奏家で、二番手ならオーケストラに入り、三番手の人はヤマハ音楽教室で教え、その次は自宅でピアノ教師をするというように、食べていく手段が皆それなりにあった。今はオーケストラのバイオリンの空きポスト一つに人が殺到し、少子化で音楽教室には人が集まらない。住宅事情も悪く騒音問題もあるので、ピアノを買える家が少なくなった。どこの音楽ホールもお金が無く運営に苦心している。でも、これが当たり前なんだと思うべき。この状況で何ができるかを考え工夫することが大切」。
 ここから二つのことが言えると思います。一つは、これまでの「芸術の振興」は社会全体の安定と豊かさを前提としてきた。二つ目は、単に芸術だから守られるべきだということは言えない。一番目については、低迷する景気と政治的閉塞感の中での橋下氏当選[2011年、大阪市長に橋下徹が当選したことを指す]といった現象が端的に示していますし、詳しい説明は不要でしょう。
 二つ目について。現在は、ポピュラー音楽が低俗な娯楽でクラシック音楽が高級な芸術、あるいはポピュラーがわかりやすくクラシックは難しい、とはならなくなりました。趣味嗜好や価値観が多様化している中で、クラシックもポップスもジャズもロックもヒップホップも現代音楽も歌謡曲も民謡も、音楽としてはどれも同等。どれが重要でどれがそれほどでもないという言い方は、できないのです。そんな中で、かつてはヨーロッパ貴族の庇護のもとにあり、次いで「文化となった芸術」[近代以降の芸術は当初は既成の文化に対抗する「前衛」として現れ、やがて文化となっていくという意味]として制度の恩恵を受けてきたクラシック音楽は、売れなければ生き残れないポピュラー音楽に比べると、経済活動が貧弱です。日本発の文化ではないので、能や歌舞伎のような伝統芸能としての保護は望めません。海外で活躍する日本人アーティストに期待がかけられますが、国内で強い存在感を示すには「工夫」が必要ということになるのでしょう。


(『アート・ヒステリー』第一章 アートがわからなくてもあたりまえ p.79〜p.80)


その「工夫」の仕方が箍が外れるところまで行ってしまったのが今回の事件だったのだが、元記事に戻って。

 けっしてつまらないということはない。そこは玉石混淆の、持ち上げるもけなすも自在で自己責任の魅惑のバトルフィールドだ。
 ところが、そこに至るためには、せっせと聴き込んで,耳の感受性を作らねばならない。その敷居がすごく高い。理由は簡単で、クラシック系音楽は長いし、普通に生活していると聴く機会も限られているからだ。
 1時間あれば、2分のビートルズ「オール・マイ・ラビング」は30回聴ける。30回も繰り返し聴くと、曲の構造から込められた創意まで、なんとはなしに感じられるレベルの耳ができてくる。気がつくとラジオでかかったりもするし、知らずに全曲を聞いたりもする。
 しかしマーラーの交響曲は1時間あっても1曲聴けるかどうかだ。それを30回聴こうと思えば、1日以上の苦行となる。
 そこをくぐり抜けた者だけが「クラシックマニア」になる。さらにその中でも、さらに現代曲なんてものに引っかかった者が、分からないなりに聴き込んで、NHK-FM「現代の音楽」をエアチェックしたりして、やっと現代音楽の消費者となる。


現代音楽を聴く「耳の感受性」を作るのには、まず「クラシックマニア」になることが必須、と。こういうことは現代美術でもよく言われてきた。
ギリシア美術があったからイタリアルネサンスが生まれたことを認識し、抽象絵画を「見る」ためにはセザンヌへの理解が必要で、コンセプチュアルアートを読み解くにはデュシャンを知っていなければならないとか。さらにその先のさまざまな表現を鑑賞するにあたっても、「コンテクスト」と「コンセプト」を押さえられるかが要になるとか。一見口当たりの良くない大衆受けしないような、時には”閲覧注意”なビジュアルに、「新しい美とリアリティ」を見出す感受性も必要とか‥‥。*1


つまり現代音楽も現代美術も、耳や目の肥えたオタク、マニアのためにあるということになる。であれば、売れないのは当たり前ではないか。
それでも大本のジャンルが成り立ってきたのは、音楽と美術が初等・中等学校教育に組み込まれてきたからだ。美術館やコンサートホールが国や自治体から助成金を得られるのもそのためだ。ただその分競争力は弱く、商業主義に淘汰されがちになる。

 そんな小さな市場に、音大は年間100人オーダーの作曲家の卵を送り込み続けている(なんという蠱毒、オネゲルが「私は作曲家である」に書いた通りだ)。
 市場を大きくしたければ、そこに人々を導く導線が必要になる。デパートが人の動きを考えてエスカレーターを設置するのと変わるところはない。
現状、学校の吹奏楽部と合唱部(そして若干の室内楽とオーケストラの部活)が、若干の導線の役割を果たしている。
 佐村河内守名義の各曲は、新たな導線の可能性を示したのではなかろうか。なにしろ18万枚もCDが売れたのだ。
 それが「全聾の被曝二世作曲家」というレッテルなしに聴かれるか、という問題はある。が、それでも一切手抜きなし、ガチンコにしてセメントマッチの「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」というのはありではないだろうか。アルバート・ケテルビーが、イッポリト・イワノフが果たした役割を、誰かが果たすべきではないだろうか。


エントリーページに、この「導線」について言及したブックマークコメントがあった。

KasugaRei 芸術 音楽 “「イージー現代音楽」「ライト現代音楽」” “聴衆を導く導線” 仮想や希望ではなく、実際に映画音楽がそれなりにその役目を担って来たと思いますよ。『サイコ』『猿の惑星』『未知との遭遇』など。


順にバーナード・ハーマン、ジェリー・ゴールドスミス、ジョン・ウィリアムズ。洋画好きな人なら一度は聞いたことのある名前だ。
現代音楽の作曲家兼評論家で映画音楽を手がけて成功した人としては、マイケル・ナイマンがいる。ピーター・グリーナウェイ監督の一連の作品でバッハとミニマルミュージックを融合した音楽が評価され、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』ではさらに情緒たっぷりなメロディアスな音楽が非常に一般受けした。つまりそれはイージーリスニングぽかった。ナイマンが出てきた頃は「前衛」というものもなくなっていたのだ。
日本でも映画音楽を作曲している音楽家はたくさんいるが、私が現代音楽の作曲家として思い浮かべるのは武満徹だ。一柳慧も高橋悠治も数は多くはないが映画音楽を制作している。*2 ただ武満徹も晩年は、かつてのちょっと尖った作風からかなりイージーリスニングな感じになっていた。


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現代音楽でも現代美術でもそのジャンルの”先端”に躍り出ようとして制作をしている人は、映画という総合芸術の中の一パーツとして物語を支えるより、単独の作品だけで輝きたい、人を打ちのめしたいと思うものかもしれない。真面目に「自分の芸術」に取り組んでいる人ほどそう願うのかもしれない。
しかしそういうアーティストがゲーム音楽や映画音楽を手がけて、「これは業界に名前を売って食べていくためだけのもの」とドライに割り切れるかというと、そうとも限らない。そこにもあらんかぎりの情熱を注ぎ込んでしまうのが、作り手の性というものではないかと思う。
その分野の理論に精通し、さまざまな技術を巧みに操れる人が、頭の片隅で「こんなの芸術でもなんでもないし」と思いつつも「どうせやるなら」「こうしたらもっとハマるはず」と熱中して作ったものが、優れた"イージーリスニング"を心から欲し憧れる人を魅了し、そのわかりやすい魅力で支配してしまう。


自分のテクニックが多くの人を虜にするということは、アーティストにとっては麻薬だ。その状況にアーティスト自身が溺れていくということも、往々にしてあるのではないかと思う。
これだけ皆が喜んでくれているんだもの、”皆のため”になっているんだもの‥‥というばかりではない。一皮めくると焼き直しやハッタリだったとしても、情緒たっぷりでメロディアスでいい具合に”泣き”が入っているこれはこれで、結構気持ちいいものじゃん?そういうのを作れる自分ってたいしたものじゃん?という気になってくる。アーティスト自身が自分の創作にうっとりしてしまう。


そういう仕事でそれなりの報酬を得たりしていると、多くの人がついてこれない”先端”で孤独な創作に打ち込んでいる人々からは、「あいつは悪魔に魂を売り渡した」などと言われることはある。何が悪いんだ、売れたもの勝ちだと思っても、どこかで節を曲げてしまったなという思いは掠めるかもしれない。
新垣隆氏のことを言っているのではもちろんない。私もかつて現代美術の分野にいて自分の中の悪魔の囁きを聞いたことがまったくないとは言えないし、現代美術なんか捨ててそちらに行った人を何人も見てきた。書いていてそれを思い出した。
ちなみに90年代以降は、「対象を巧みに描ける」技術を現代美術に積極的に取り込む傾向が、福田美蘭や会田誠などをはじめとして藝大系の作家たちから出てきた。これも、「前衛」が終わって過去のあらゆるものが呼び出されている例というだけでなく、受験期に身につけたやたら高度な描写技術を持て余して(この「お宝」を眠らせとくのはもったいない)のこともあるのではないかと思う。


私事だが私は今、美術の”イージーリスニング”技術を、身近な人のために時たま使っている。デザイン専門学校のクロッキーの時間に学生を描いてあげたり、家族の求めに応じて肖像画を描いたり。
相手が喜んでくれるのはちょっと嬉しい。

*1:一方で、クラシック聴きまくり→現代音楽に到達というセオリー通りの鑑賞態度でなくても、現代音楽を楽しめているという人も中にはいると思う。私の友人はヒカシューを通じてジョン・ゾーンに出会ったし、プログレや民族音楽を聴いていて前衛音楽好きになった人もいる。(昔の)ニューウェイブとかプログレとか民族音楽自体、市場は限られているじゃないかと言えばそうだが、別に音楽史をなぞるような聴き方をしなければ先端には触れられない、というわけではないだろう。ただ、その機会は比較的少ないということだ。

*2:芥川也寸志は?團伊玖磨は?黛敏郎は?と言われそうだが、彼らと武満徹以下の人々とは決定的に違うように思う。ジョン・ケージ以前と以後の違いというか(黛敏郎はケージの紹介はしたけれども、それ以後の新しい音楽を切り開いた作曲家とは言えないだろう)。