美的価値論ビギナーズガイド

美しい花、かわいい犬、優美なダンス、あざやかな絵画には美的価値[aesthetic value]がある。美的価値を持ったアイテムは、ある独特な仕方での良いものであり、私たちが気にかけるものである。生活における多くの場面で、私たちは美的なものに配慮している。賃貸の部屋を選ぶときには、家賃やエリアだけでなく、建物の外観は洗練されているか、共用部はきれいか、壁紙はシックか、押入れは古臭くないか、部屋に目障りな出っ張りがないかを気にかける。美しさや醜さは、必ずしも最優先事項ではないにせよ、私たちの選択にとって重要な考慮事項のひとつである。

美学[aesthetics]というのはその他の判断や態度や経験とは区別される、美的判断・美的態度・美的経験などをターゲットとして、その本性を哲学的に探る分野だが、美的価値はそのなかでも近年とりわけ注目されている主題である。言ってしまえば、これは古代ギリシアから続く美についての哲学の最先端である。本エントリーは、美的価値をめぐる議論において誰がなにを論じているのか、おおざっぱな見取り図を与えようとするものだ。また、私がいま取り組んでいるトピックでもあるので、自分の研究を対外的にアピールする意図もある。*1

1 なにが問われているのか

美やそれに類する価値たちについて、気になることはたくさんある。ことによると、素朴な仕方で「美とはなにか?」が気になる人の多くは、どこのどれがどう美しいのかを知りたがっているのかもしれない。しかし、美的価値論は「Aは美しく、Bは美しくない」みたいなことを教えてくれるわけではない。個別の対象が持つ価値を語るのは批評の仕事である。哲学的美学はもっと根本的なレベルで、文字通り「美とはなにか?」を考える。

全員がその方針に賛同しているわけではないにせよ、まずはドミニク・マクアイヴァー・ロペスによって導入された区別、すなわち線引きの問い規範的問いを踏まえておくのが助けになるだろう(Lopes 2018)。ロペスによれば、「美的価値とはなにか」というのはふたつの問いからなる複合的な問いなのだ。

1.1 線引きの問い

線引きの問い(美的問い、とも呼ばれる)は、「美的価値はなにゆえ美的なのか」という問いに要約される。世の中には良いものがたくさんあるが、どれがなにゆえ美的に良いのか。求められているのは、美的なものの特徴づけであり、非美的なものとの区別である。例えば、美的価値は道徳的価値とどう異なるのか。美しいことと親切であることはどう違うのか。あるいは、美的価値は認識論的価値とはどう異なるのか。「良い絵画」と言われるときの「良い」は、「良い証拠」と言われるときの「良い」とはどう違うのか。

線引きの問いは美学という学問の出発であり、長らく探求の中心に位置づけられてきた。古典的な見解として、美的なものは内的感官によって捉えられる(ハチソン)、漠然と認識される(バウムガルテン)、無関心的に判断される(カント)、さらなる目的なく楽しまれる(美的態度論)、ルールに支配されていない(シブリー)など。より現代的な見解として、美的経験とはそれ自体のために注意を向ける経験である(ステッカー)、低次性質から高次性質が創発する様に注意を向ける経験である(レヴィンソン)、形式や美的質を内容としている(キャロル)、評価することへの快である(ウォルトン)、分散的な注意を向ける経験である(ナナイ)などなど。詳しい議論はロバート・ステッカー『分析美学入門』の3〜4章を参照。

線引き問いに関連して言及しておくべきなのは、美的価値と芸術的価値の関係だろう。伝統的にはこのふたつの概念ははっきり区別されてこなかったが、傾向として、21世紀の論者はより慎重な言葉遣いを採用するようになっている。芸術的価値は美的価値だけでなくさまざまな価値からなる広いカテゴリーであり(Stecker 2019)、美的価値は芸術作品に限らず自然物や人工物でも持ちうる広範な価値である(環境美学や日常美学)。とはいえ、芸術作品が美しさや優美さの顕著な担い手であることに変わりはなく、美的価値論の文脈でも芸術作品が例として取り上げられることは多い。細かい話は前に書いたのでそちらを参照。

しかし、今日の美的価値論を盛り上げているのは、この線引きの問いではない。理論家は、美的価値がなにゆえ美的なのかよりも、なにゆえ価値なのかにより大きな関心を寄せつつある。こちらの問い、規範的問い(価値の問い、とも呼ばれる)についてはもうちょっと説明が必要だろう。

1.2 規範的問い

多くの理論家は、次の前提を受け入れている。すなわち、あるアイテムに価値がある[valuable]とかそれが良い[good]といった評価的事実は、さまざまな反応の理由を伴う。良い行いであるときにはやるべきだし、良い映画ならば感動するのももっともだし、良い証拠があるならそいつが犯人だと信じるのは正当である。一般的に言えば、価値なるものがあるときには、特定の行為や情動や信念形成が支持される。比喩的に言えば、良いものや悪いものは、私たちを特定の反応へと引き寄せたり引き離す引力を持っている(これを規範性[normativity]と言う)。非評価的性質にこのような引力はない。単に赤いものは単に赤いのであって、ただそれだけで行為や情動を促したり正当化するものではない。*2

この引力を表現する規範的概念はいろいろある(理由、適切さ、べき、値する、正当化)。これら規範的概念のうちどれがよりベーシックな概念なのか、という問題はかなりややこしいので今回は回避しよう。以下では美学者たちの最近の傾向にならい、理由という概念を積極的に使うことにする。実際、美的価値論のうち規範的問いに答える理論は、しばしば美的理由の理論として提示されている。言ってしまえば、厳密には美的価値論が盛り上がっているというより、その一分野であるところの美的理由論が盛り上がっているのだ。

さて、美しさやかわいさといった美的価値もまた価値なのだとすれば、それらがどのような反応になにゆえ理由を与えるのか気になるところだ。美しい絵画やかわいい犬があるとして、だからなんなのか。それらはどういう仕方で、私が気にかけるようなもの、私にとって考慮すべき事項となっているのか。テクニカルに言えば、美的価値はどのような理由付与性・生成性を、どのような源泉を通して持つのか

 

ここまで、美的価値についての線引きの問いと規範的問いを紹介してきた。形式的にまとめれば、線引きの問いと規範的問いはそれぞれ以下の空白を埋めるプロジェクトだと言える。

  • 線引きの問い:アイテムxに美的価値Vがあるのは、xに__な価値があるときかつそのときに限られる。
  • 規範的問い:〈アイテムxには美的価値Vがある〉が事実ならば、xに対して__という反応をする理由がある。なぜなら、__。

以下では、規範的問い(盛り上がっているほう)に対する見解を見ていこう。

2 どんな反応に理由を与えるのか

あえてややこしい書き方をしてきたように、美的理由がそもそもどんな反応の理由なのか、というのがすでにひとつの論点となっている。ここには伝統的な見解と現代的な見解がある。

伝統的な見解によれば、美的価値が与えるのはある種の感情的反応の理由である。美的経験、美的鑑賞、美的快楽の理由と言ってもいいだろう。範例的には、美しいものと向き合ったときの、あの対象へと意識が集中し、うっとりとするなかで日常的な悩み事から解放される、あの喜ばしい心的状態が理由づけられるのだ。美しい絵画は、私の感動に対する引力を伴う。

この伝統に対抗する仕方で、現代美学は実践的転回と呼べるような変化を遂げつつある。その支持者によれば、美的価値が与えるのはある種の行為の理由である。ただ受動的に感動したりうっとりするだけでなく、美しいものや優美なものは私たちを能動的な行為へと駆り立てる。具体的になにかを作ったり、集めたり、直したり、壊したり、提示したりといった、意思によって行われる行為たちは、美的価値をひとつの考慮事項としているのだ。

実践的転回がラディカルなのは、線引きの問いに対する古典的な答えと真っ向から対立しているからだ。それによれば、美的価値は行為を動機づけないからこそ美的な価値なのである。なにかしてやろうという気を起こさず、ただうっとりと漂う経験こそが美的な経験だとされてきたわけだが、〈美的価値は行為の理由を与える〉という見解はこれを全面否定している。ゆえに、美的行為論の反対派は、線引きの問いの重要性を強調し、独特な仕方で美的と言える行為なんてないと主張することになる。対して美的行為論の推進派は、いや、ちゃんと美的な行為があるのだ!と言ったり、場合によっては美的かどうかを単に気にかけないことを選ぶ。反対派は、気にかけないならそれはもう美学じゃないと非難する……といった具合だ。こちらも、細かい話は前に書いたのでそちらを参照。

3 なにゆえ理由を与えるのか

美的理由に関してもっとも気になるのがその源泉である。あれこれの反応(感情にせよ行為にせよ)をする美的理由は、どういうシナリオにおいて生じるのか。この問題は、Van der Berg (2020)の論文タイトルが示すように、「美的快楽主義とその論敵たち」という構図で理解するのがよいだろう。

3.1 美的快楽主義

美的快楽主義にはいくつかの構成要素があるが、そのベースをなすのは美的価値の還元的分析である。すなわち、まずはじめに美的価値を成り立たせるよりベーシックな事実を指摘する。

  • アイテムxに美的価値Vがあるのは、xが美的な快楽を与えるおかげである。

例えば、美しい絵画は私たちを喜ばせるからこそ美しい。まずもって重要であり、私たちが気にかけるのは快楽である。美しさは、快楽という別の良いものをもたらす限りで、道具的に良いものなのだ。美的快楽主義はこの還元的分析に、次のような原則を添える。

  • 誰しも、快楽を最大化する理由がある。

これは当たり前すぎるほど当たり前だ。その他の条件が等しいときに、きついだけの仕事ではなくより楽で、なんなら楽しい仕事を選ぶのは当然だし、そうしないのは不合理である。もちろん、あらゆることを考慮して、最終的には快楽の小さい選択をすることもある。この原則は、ひとつの考慮事項として、誰しもなるべく快楽の大きい方へともっともらしく引き寄せられる、と述べているに過ぎない。

合わせて、美的快楽主義は規範的問いに答える。美しい絵画は快楽を与えるからこそ美しいのであり、誰しも快楽を追求する理由があるので、その美しい絵画を追求する理由があるのだ。まずそれを選んで鑑賞する理由があり、加えて利他的な快楽の最大化を認めるならば、他の人のためにその絵画を促進する(紹介したり展示したり修復する)理由がある。*3

実際には細かい補足がなされるものの、これが美的快楽主義の大筋である。ざっくりまとめるなら、そこでは快楽追求者たちと、その道具としての美的に良い・悪いアイテムたちからなる領域として、美的生活が描き出される。これは極めてエレガントな理論だ。実際、美術館や観光地に足を運び、美しいものに触れようとする動機の説明として、誰しもfeel goodを求めているというのは直観的にかなりしっくりくる部分がある。ジェームズ・シェリーが言うように、美的快楽主義は分野においてデフォルトの理論となっている(Shelley 2019)。

美的快楽主義者にとって重要な課題は、美的価値の客観性を担保することである。快楽という、一見すると個人的なものに訴える以上、どこのどれに美的な価値や理由を認めるかは人それぞれバラバラだという帰結が導かれかねない。私はK-POPに快楽を覚えるので、これを鑑賞したり批評する理由を持つが、そうじゃない人はそうじゃない。快楽主義者にとってポピュラーな戦略のひとつは、ある種の理想的な主体(真なる判定者、理想的批評家)を設定し、この主体に快楽を与える能力でもって客観的な美的価値を論じるというものだ。Newjeansとワーグナーのどちらが美的により良いかは原理的に決定可能であり、より価値が小さい方に引き寄せられてしまうのは趣味が洗練されていないからだ。しかし、そうだとしても、なぜ目下の低俗(?)な楽しみを手放し、エリート好みのアイテムに快楽を覚えるべきなのか、というさらなる問いが生じる(Levinson 2002)。想像するに、美的快楽主義への反感が近年高まっているのは、ここにあるエリート主義への反感が高まっているからだろう。

ここでちょっと歴史の話をすると、分析美学において美的快楽主義(実際にはもうちょっと洗練された美的経験主義)を広めたのは、アメリ美学会の長老ことモンロー・C・ビアズリーである。ビアズリーははっきりと美的価値を良い経験、ひいては良い人生のための道具とみなし、それを促進すべきだと訴えてきた。ビアズリーを分析美学第一世代とするならば、1980年代ごろから21世紀初頭にかけて活躍した論者たち、具体的にはマルコム・バッド、アラン・ゴールドマン、ジェロルド・レヴィンソン、ロバート・ステッカーらを第二世代とみなしていいだろう。そして、彼らの多くはビアズリーの影響下で、明示的にせよ暗黙的にせよ、美的快楽主義にコミットしている。(この世代に含まれる美学者のうち、ノエル・キャロルは特筆すべき例外である。)

今日の快楽主義批判は、第三世代による第二世代の乗り越え、ひいてはその根底にあるビアズリー主義の乗り越えだと言ってもいいのかもしれない。現在、美的快楽主義はさまざまな角度から批判されまくっており、そのすべてを紹介することはできない。そのなかには、前述したエリート主義の問題に加え、美的に良いものを代替可能にしてしまう(シェリー)、社会的側面を説明できない(ロペス)などが含まれる。とにかく、美的快楽主義が街で唯一のゲームではないことは、今日おおむね認められつつある。

現在、美的快楽主義に対する代替案があれこれと試されているところだが、以下ではロペスとシェリーの見解を取り上げよう。ぶっちゃけ、今日の論壇はこの二人が作ったと言っても過言ではないだろう。シェリーは、2000年代中頃から美的快楽主義を繰り返し批判していた論者であり、ロペスは前述した実践的転回の中心人物である。地理的に見ても、ロペスのいるブリティッシュコロンビア大学周辺と、シェリーのいるオーバーン大学周辺には、分野において活躍している論者たちが集まっている。ロペスもシェリーも、かなり込み入った理論を提示しているが、大まかには実践的アプローチとして前者を、原始主義として後者を要約できるだろう。

3.2 実践的アプローチ(ロペス)

「xは美しい」といった美的価値事実から、あれこれの反応をする理由に至るシナリオはなにか、というのが目下の問いであった。ロペスが提示するネットワーク理論は、美的価値が組み込まれている社会実践へと注意を促す。美的快楽主義とは異なり、ネットワーク理論は美的価値の還元的分析に立脚するものではない。すなわち、美的価値を成り立たせるよりベーシックな事実を指摘するところからはじめるわけではない。代わりに、美的価値がどのような文脈に取り囲まれているのかを記述する。端的に言えば、美的理由の源泉は美的実践にある

ネットワーク理論はめちゃくちゃ込み入った理論だが、そのエッセンスだけを取り出すと次のようになる。美的価値は、いろんな活動に従事する専門家たち(美的エキスパート)が、分業的にそれぞれの達成を目指す社会実践に組み込まれている。芸術家ならうまく作ろうとするし、編集者ならうまくまとめようとする。そして、彼らがそれぞれの能力を発揮し、それぞれのパートをうまくこなしたかどうか、すなわち達成を収めたかどうかは、然るべき美的価値事実に然るべき反応をしたかどうかによって決まる。インテリアデザイナーは、ある壁紙のエレガンスに反応し、それをある仕方で配置することによって、インテリアデザイナーとしての達成を収める。このような描像に、ロペスは次のような原則を添える。

  • 誰しも、達成をおさめる理由がある。

快楽を追求する理由がそれ以上説明するまでもないのと同様、達成を追求する理由もそれ以上の説明を必要としない。その他の条件が等しいときには、雑にやって失敗するより、うまくやって成功する理由があるのだ。合わせて、ネットワーク理論は規範的問いに答える。美しい絵画に対し、ある行為φによって反応することが達成としてカウントされるような行為者は、自ずとφを実行する理由があるのだ。そうすることが行為者に快楽をもたらすかどうかは、ロペスによれば副次的で偶然的な事柄である(もちろん、快楽によって活動が促進されることはあるにせよ)。*4

美的快楽主義とは異なり、ネットワーク理論は「誰しも〜」をスコープとした美的理由論にはなっていない。物理的には同一のアイテムでも、どのような美的価値を持ち、誰にどんな美的行為の理由を与えるのかは、それが組み込まれた実践次第なのである。ざっくりまとめるなら、そこでは達成を目指す行為者たちと、そのタスクとしての美的に良い・悪いアイテムたちからなる領域として、美的生活が描き出される。

美的快楽主義とネットワーク理論の違いは、倫理学における快楽主義と徳倫理学の違いにおおむね対応している。前者はその通り、快楽という内在的に良い事態の最大化に向けてあれこれの行為がなされるが、後者の焦点はむしろ行為者の人間としての性格や能力にある。良い帰結をもたらすかどうか以前に、行為者には自身の能力を発揮して「うまくやる」理由があるのだ。ロペスが言う美的エージェントとしての達成には、新アリストテレス主義者が言うところの開花繁栄が少なからず見て取れる。

ロペスほど「達成」を重視しているわけではないにせよ、美的価値や美的理由をめぐって実践に注目するアプローチはかなり増えてきた(Kubala 2021)。これらは、快楽主義の個人主義的な性格に対するアンチとして理解できるだろう。快楽という、本質的には個人個人で感じ取るものではなく、社会的なルールや制度といった私たちを取り囲むより大きなものが、私たちの行為選択を左右する、というわけだ。実践的アプローチの台頭の背後には、少なからず、社会規範や集団的行為をめぐる社会存在論の発展がある。実践なるものがより詳細に論じられるようになったからこそ、これを使って美的理由を論じる美学者たちが増えてきたのだ。

3.3 原始主義(シェリー)

ジェームズ・シェリーやオーバーン大学の同僚たち(とりわけケレン・ゴロデイスキー)は、ネットワーク理論とはかなり異なった仕方で、美的快楽主義に対抗している。オーバーン派の中心となるスローガンはかなり単純である。美しいものは、快楽を与えるからこそ美しいのではなく、美しいからこそ快楽を与えるのである。

「xは美しい」といった美的価値事実から、あれこれの反応をする理由に至るシナリオはなにか、というのが目下の問いであった。言い換えれば、美的理由の源泉はなにか。オーバーン派は、いわば、この問いをまともに取り合わない人たちだ。美的価値から美的理由への橋渡しは必要ない。美的に良いものは、ある種の理由を伴うが、それはもうそういうものであり、さらなる説明はないのだ。

まず、オーバーン派は美的反応をある種の経験とみなす古典的な見解にコミットしている。要は、美的行為なるものについてそもそも懐疑的なのだ。次に、美的価値が美的経験の理由を与えることに、さらなる深い説明はないとする。美的経験でもって反応する理由があるのは美しいからであり、それ以上でも以下でもない。美とはそういうものなのだ。

シェリーは、美と色の類比を好んで取り上げている。赤いものは、赤いものとして知覚する理由を生じさせる。赤いポストを見て、赤さの感じを覚えるのは、ポストが現に赤いことでもって適切である。つまり、赤いという性質はそれだけで赤さを感じる経験への引力を持っているのだから、そこに橋渡しなど必要ない。同様に、美しい絵画を見て、美しさの感じを覚えるのは、絵画が現に美しいことでもって適切である。美しいという性質から美しさを見て取る理由の間に、橋渡しなど必要ない。原始主義とは、美ないし美的価値に原始的な理由付与性を認める立場である。

ゴロデイスキーは美的快楽をより強調しており、美的に良いものは美的快楽に値する、美的快楽でもって反応することが適切だと主張する。用語がややこしいところだが、これは「快楽主義」が定訳であるところのhedonismではなく、それとは説明の順序において真逆の立場である。美的快楽主義は〈美的快楽を与えるおかげで美しい〉という快楽ファーストの理論であるのに対し、原始主義は〈美しいおかげで快楽に値する〉という美ファーストの理論である。快楽を与えるものが追求の理由を与えるのは当たり前だと快楽主義者が考えるように、原始主義者は美しいものが快楽を覚える理由を与えるのは当たり前だと考える。

実践的アプローチが、現代的な観察に立脚したアプローチであるとすれば、オーバーン派の原始主義は伝統回帰と言えるようなアプローチである。シェリーとゴロデイスキーは、それぞれハチソンやカントのような近代美学の論者たちから影響を受けており、そこから原始主義的な見解を引き出している。

例えばカントは、「美しい」という判断と「快適だ」という判断を区別している。形而上学に置き換えれば、beautifulという性質とpleasingという性質は別物なのだ。美的快楽主義者はいつのまにかこの伝統的な区別を忘れて、beautifulを一種のpleasingとして論じるようになってしまったが、シェリーらによればこれはまったくの誤りである。前述の通り快楽主義者は美的価値の客観性を担保するのに苦労しているが、それもそのはず、カントがそもそも客観性を認めていない快適なものを使って美しいものを理解しようとしているからだ。シェリーによれば、真なる判定者に与える快楽を標準として美的価値の客観性を担保しようとするのも、ヒュームを誤読している(Shelley 2011)。ヒュームは、現に美しいものを見出す資質について述べていただけで、そういった資質を持った人たちに快楽を与えるものが美しいとは言っていないのだ。ヒュームにおいても、美しさは快楽を与える能力に先行している。

 

どちらが正しいかはともかく、実践的アプローチと原始主義はそれぞれ異なる方面から触発され、異なる方面へと美的価値論・美的理由論を前進させている。現代の美学者たちは、ロペスたちのおかげでメタ倫理学や社会存在論を読むようになったし、シェリーたちのおかげでよりクラシックな論者たちの見解を見直すようになった、と言ってもいいだろう。

4 どれだけ強い理由を与えるのか

直観的に、美的に良いものが与える理由は、例えば道徳的に悪いものが与える理由などに比べると、はるかに弱いものである。美的価値に引力があるとしても、そんなに強い引力ではないのでは、という懸念はもっともである(McGonigal 2018)。

例えば、美的義務と言えるだけの強い拘束力がありうるのか、というのは論争のタネとなっている。人を殺してはいけないという道徳的義務は、考慮事項の加算によって打ち負かされるようなものではそもそもなく、ダメなのだからダメだという強い拘束力を持っている気がする。いかなる反応に理由を与えるにせよ、また、いかなる源泉に根ざしているにせよ、美的に良いものはせいぜい暫定的・誘惑的な理由を与えるに過ぎず、ある行為を義務にするほどではないのかもしれない(Dyke 2021; Whiting 2021)。

5 その他の探求

以上が美的価値論の本流だとすれば、その周辺にはさまざまに派生する探求が位置づけられる。本当にいろんな人がいろんなことを論じているので、まとまりを見出すのは大変だが、いくつかキーワードに沿って紹介しよう。

個性・スタイル

美的快楽主義が疑わしい理由のひとつに、個人の個性やスタイルを否定しかねない、という点がある。前述した通り、理想的主体を持ち出す快楽主義には少なからずエリート主義が含まれている。それが行き着く先は、それぞれの個人的な楽しみや愛着のあるアイテムを手放し、高尚な快楽やアイテムだけを認めるような画一化された世界なのだが、そんな世界は本当に美的に良いのか。それはむしろ、アレクサンダー・ネハマスが言うように、悪夢ではないか(Nehamas 2007)。なんらかの意味において私たちは美的生活における個性を大事にしているっぽいが、これが厳密に言ってどういうことかは説明を要する。要注目の論者として、ニック・リグル、アレックス・キングなど。

専門性

ロペスは美的快楽主義が想定するようなエリート(すなわち、良い趣味を持ち、高尚な芸術に快楽を覚える主体)を否定するが、美的実践におけるエキスパートの重要性を否定するわけではない。各々好き勝手に美的価値や理由を見出していいわけではなく、やはりなんらかの訓練や知識が必要なのだ。では、快楽主義が理想とするエリートに代わる美的エキスパートとは、どのような能力を備えた主体なのか。例えばロペスは、関連する実践にアイテムを位置づけ、そのもとで適切に美的価値を見出す能力を、エキスパートのコア能力として位置づけている。

能動的関与

美的快楽や美的経験はしばしば受動的なものとして語られてきたが、近年はそこに含まれる能動的関与(エンゲージメント)に着目する論者が増えてきた。芸術鑑賞が典型的であるように、そこにあるのは一方的に与えられる快楽ではなく、鑑賞者が解釈的に探り、知覚や情動を調整し、認知的達成を遂げるなかで得られるリッチな経験である。快楽主義・経験主義の枠組みにとどまるにせよ、このようなリッチな美的経験を想定することで説明できることは多い。例えば、快楽主義の帰結であるところの画一的な世界は、このような認知的能力を発揮する機会がないからこそよろしくない、などなど。要注目の論者として、ティ・グエン、ベンス・ナナイ、モハン・マテンなど。

文化的多様性

近年の美的価値論は、デフォルト理論であるところの美的快楽主義の見直しにとどまらず、西洋的・ヨーロッパ的な美学の伝統自体を見直す試みを含んでいる。とりわけロペスは、伝統的美学の普遍主義的な傾向に対抗してコスモポリタンな美学を推進しており、その一環で、ロペスやその教え子たちは東洋哲学のうちにオルタナティブな美的価値論を見出すような研究を進めている。現在UBCの院生には、ラサ理論を専門とするEmily Lawsonや、中国・日本思想を専門とするDavide Andrea Zappulliがいて、それぞれロペスと共著で美学の論文を書いている。

さいごに

このあとの付録1を見てもらえれば分かるだろうが、現代的な美的価値論にはまだ7年ちょいの歴史しかない。このたかだか7年の間に、先立つ半世紀もの間デフォルトであった見解が覆されつつあるというのは、かなりエキサイティングな事態だ。

それだけに、これは一過性の局地的なトレンドなのではないかという懐疑があっても無理はない。一過性かどうかはともかく、局地的なのは否定できないだろう。例えば、イギリス美学会アメリ美学会に比べてより伝統的な主題を好むことで知られているが、そんな英国の美学者が美的価値論なるものにほとんど手をつけていないのは事実である(例外はDaniel WhitingとDerek Matravers)。

いずれにせよ、ここではかなり新しいことが次から次へと試みられており、「美学の伝統に照らしていかがなものか」という懐疑も含めて、あらゆる意見が歓迎されている状態だ。「なぜ美を気にかけるのか」という問いは多くの人にとって、生活の実感に照らして考えることのできる身近な問いだろう。これを入口としてもっとクラシックな美学・芸術哲学のほうへと向かうもよし、美に限らず価値論一般のほうへと向かうもよしということで、美的価値論はよい哲学入門でもある。私にとっても、勉強しなければならないことは日々増えていくばかりだ。言うまでもなく、それは素晴らしいことである。

 

付録1:年表

論壇の形成にとって重要な役割を果たした(と思われる)イベント、著作、ジャーナル特集をまとめてみた。

  • 2017年3月 - Estetika 54 (1)
    • Fabian Dorsch監修「美的理由と美的義務」特集。
    • 今日でこそ、北米を中心として展開されている美的価値論だが、そのきっかけを作ったのはヨーロッパ美学会発行のジャーナル『Estetika』である。2000年代にはすでに、ファビアン・ドルシュやエリザベス・シェルケンズといったヨーロッパを拠点とする分析美学者たちが、美的経験主義に対抗し美的合理主義を推進していた。彼らによれば、美的判断を(準)推論的に支持する理由(つまり一種の信念の理由)がありうる。いわば、美しさは感性ではなく理性によって捉えられるのだ。「美的理由」というのも、もともとはこの文脈で使われていた用語である。これが美的判断論を超えて拡張していくきっかけとなったのが上記の特集である。意図的かたまたまか、そこには美的判断の正当化をめぐる論考だけでなく、さまざまな美的行為の理由を扱う論考が集まったのだ。
    • McGonigal, Cross, Archer & Wareの寄稿論文がとりわけよく引かれている。
  • 2017年3月 - Australasian Philosophical Review 1 (1)
    • Jennifer A. McMahon監修「カント主義から快楽主義まで」特集。
    • Mohan Matthenの「The Pleasure of Art」をリード論文としたディスカッション。マテンはそのかなり長い論文のなかで、美的快楽主義(厳密には芸術の価値についての快楽主義)を現代的にアップデートしている。今日において快楽主義と対決するなら、マテンの検討は避けては通れないだろう。
  • 2018年7月9日〜27日 - 「Beauty and Why It Matters」
    • アメリ美学会とUBCの共同開催によるサマーセミナー。Dominic Lopesの主催で、Anthony Cross, Keren Gorodeisky, Alex King, Samantha Matherne, Thi Nguyen, Nick Riggle, James Shelley, Servaas van der Bergなど、後にこの分野を牽引する哲学者たちが大集合している(写真)。
  • 2018年9月 - Lopes『Being for Beauty
    • 最重要人物による最重要文献。付録2を参照。
  • 2021年1月 - Philosophy and Phenomenological Research 102 (1)
    • Being for Beauty』のブック・シンポジウム。Shelley, Driver, Matherneがコメントしロペスが応答。ロペス自身による『Being for Beauty』の要約もあるので便利。
  • 2022年2月 -  Lopes, Nanay, and Riggle『Aesthetic Life and Why It Matters
  • 2023年3月 - Journal of Aesthetics and Art Criticism 81 (1)
    • Robert Stecker監修の美的価値シンポジウム。「美的価値とは?」の大喜利で、いろんな世代の美学者がショートノートを書いている。現代的な美的価値論としてチェックしておきたいのはGorodeisky, Lopes, Matthen, Nguyen, Peacocke, Shelley, Steckerあたり。
  • 2024年2月 -  Lopes, Matherne, Matthen, and Nanay『The Geography of Taste』
    • コラボ本その2。オープンアクセスで公開されている。

付録2:リーディングリスト

もしゼロから勉強するなら、ということでおすすめの文献をまとめてみた。任意のトピックについて参入する際の定石だが、(1)まずは無理せず日本語で読めるものをいくつか読み、(2)『Philosophy Compass』やSEPで雰囲気を掴んでから、(3)よく引かれている文献に当たっていくのがおすすめだ。

日本語で読めるもの(たぶん全て)

サーベイ論文

重要文献10選

  • Shelley, James. 2010. “Against Value Empiricism in Aesthetics.” Australasian Journal of Philosophy 88 (4): 707–20.
    美的快楽主義の批判。置き換え可能性の問題を有名にした一本。
  • Matthen, Mohan. 2017. “The Pleasure of Art.” Australasian Philosophical Review 1 (1): 6–28.
    快楽主義を擁護する一本。受動的な快楽観に対抗し、能動的な調整と自己強化のプロセスとして美的快楽を特徴づける。
  • Lopes, Dominic McIver. 2018. Being for Beauty: Aesthetic Agency and Value. Oxford: Oxford University Press.
    美的快楽主義の問題点をまとめ、ネットワーク理論を提唱する。骨太だが、遅かれ早かれ挑戦すべき一冊。
  • McGonigal, Andrew. 2018. “Aesthetic Reasons.” In The Oxford Handbook of Reasons and Normativity, edited by Daniel Star, 908–36. Oxford: Oxford University Press. (高田さんの紹介記事
    実践的転回を代表する仕事のひとつ。インテグリティの観点から美的義務を擁護する。
  • Nguyen, C. Thi. 2020. “Autonomy and Aesthetic Engagement.” Mind 129 (516): 1127–56.
    能動的な関与として美的関与を特徴づけ、それによって自律性の原則を理解する。
  • Gorodeisky, Keren. 2021. “On Liking Aesthetic Value.” Philosophy and Phenomenological Research 102 (2): 261–80. 
    原始主義の一例。適合態度分析に影響され、快楽に値する価値として美的価値を説明する。
  • Kubala, Robbie. 2021. “Aesthetic Practices and Normativity.” Philosophy and Phenomenological Research 103 (2): 408–25.
    規範的問いへ実践的アプローチを探る一本。実践外のエージェントに対する拘束力のなさなどを問題としている(アウトサイダー問題)。
  • Dyck, John. 2021. “There Are No Purely Aesthetic Obligations.” Pacific Philosophical Quarterly 102 (4): 592–612.
    せいぜい誘惑的な美的理由があるだけで、美的義務はないと主張する一本。
  • Cross, Anthony. 2022. “Aesthetic Commitments and Aesthetic Obligations.” Ergo an Open Access Journal of Philosophy 8: 402–22. (本ブログの紹介記事
    コミットメントが美的義務の源泉になると主張する一本。
  • Riggle, Nick. 2022. “Toward a Communitarian Theory of Aesthetic Value.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 80 (1): 16–30.
    共同体的な善を中心に据え、美的な価値づけの実践を描き出す。

*1:勉強したてのころに書いたものよりも、だいぶ体系的なものになったかと思う。ところで、私は2023年までは美的快楽主義者だったが、以降はこれに反対するようになった。

*2:ただし、このあと取り上げるシェリーの原始主義は、美と色の類比において、色にもこの種の引力を認めているような気がする。

*3:快楽主義・経験主義者の例としてよく挙げられるのは、ビアズリー[Monroe Beardsley]、ディッキー[George Dickie]、マザーシル[Mary Mothersill]、バッド[Malcolm Budd]、ゴールドマン[Alan Goldman]、ウォルトン[Kendall Walton]、レヴィンソン[Jerrold Levinson]、ステッカー[Robert Stecker]、アイズミンガー[Gary Iseminger]、マテン[Mohan Matthen]など。もっとも、彼らのほとんどは規範的問いに直接答えようとしていたわけでなく、ここにまとめたような答えを単に示唆していたに過ぎない、というのは言っておくべきだろう。

*4:ロペス自身が提示している定式はこうだ。

ある美的価値Vは理由付与的である=〈アイテムxはVである〉という事実は、〈エージェントAが文脈Cにおいて行為φすることは美的達成となるだろう〉という命題に重みを与える。ここで、xは美的実践Kに含まれるアイテムであり、Aのφする能力はKの美的プロファイルに揃えられている。
an aesthetic value, V, is reason-giving = the fact that x is V lends weight to the proposition that it would be an aesthetic achievement for some A to φ in C, where x is an item in an aesthetic practice, K, and A’s competence to φ is aligned upon an aesthetic profile that is constitutive of K.