平田オリザのいう「演劇の意義」を解釈する

2020-05-08 演劇 コロナ

目次

炎上した発言

製造業は,景気が回復すれば増産すればいい

製造業を見下している 等と炎上 https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2020/04/0422.html(リンク切れ)

製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には数が限られてますから。製造業の場合は、景気が良くなったらたくさんものを作って売ればある程度損失は回復できる。でも私たちはそうはいかない。

科研費も自分のことばかり言う

研究者を見下している 等と炎上(ただし平田オリザ自身も研究者)

「例えば漫画を読むと感染するウイルスが…」

漫画家を見下している 等と炎上

スポーツイベントは無観客でも成立する

スポーツを見下している 等と炎上 また,関連して,野田秀樹さんの意見書も一部で批判されています. 意見書 公演中止で本当に良いのか

演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。スポーツイベントのように無観客で成り立つわけではありません。

演劇はなぜ特別か

以上が炎上するほどの発言か,個人的には疑問です. ただ,平田オリザさんの発言の真意は多少わかりにくく,それが炎上した一つの要因でしょう. 実際,演劇は,スポーツ・製造業・漫画等と何が違うと主張されているのか を理解できた人は少数ではないでしょうか. 以下では,平田発言の理解を試みます. キーワードは2つです.1.相互行為に関しては,内容は少し理屈っぽくなります.

  1. 相互行為
  2. 代替可能性

1. 演劇は「生」「相互行為」の「芸術」である

演劇とは,俳優が劇場で観客に何かを演じてみせる芸術・娯楽です. 特に,観客が現地で, 生で鑑賞する(ライブである) ことが重要です. 単に,「生で鑑賞するから,メディアの臨場感が高い(空間が広い,音響に迫力がある等)」ことが演劇の価値だというわけではありません. 「演劇は,俳優と観客(または観客と観客)の間の 相互行為である」 点が他の芸術・娯楽と比べて特別なところです. 演劇が相互行為である,とは,演技(俳優 ⇒ 観客),鑑賞(観客 ⇒ 俳優)という2つ行為が,同じ場(劇場)で行われるということです. つまり,演劇の観客は,劇場では,主体(演劇を見る)であると同時に,客体(俳優や他の観客に見られる)でもあるということです.

「観客も見られている」という状況は,鑑賞という体験自体に影響します. 例として,「1分ほど,セリフもBGMもない無音の場面を用意する」という演出を考えます. 演劇であれば,観客はその場面の間,何か音を立てて演出の邪魔にならないように気をつけるはずです. 咳払いをしないだけでなく,座席の軋み音が鳴らないようにすら気を遣うかもしれません. もし,くしゃみでもしようものなら,ひょっとするとその後の演劇の内容に影響するかもしれません. 演劇では,無音の演出は,観客に「息を呑み,音を立てないようにする」という緊張感を与える効果があります.

一方で,テレビドラマや演劇の録画放送で同じ無音の演出があった場合はどうでしょうか. この場合,何か音を立てたところで,自分(とせいぜい一緒に見ている家族や友人)しか影響を受けません. 仮にくしゃみをしたところで,放送内容が変わってしまうことはありえません. 劇場に比べれば,無音の演出が与える緊張感はかなり弱いといっていいでしょう. 以上の例のように,同じ演出であったとしても,相互行為であるかどうかによって,鑑賞の体験は異なるものになります.

演劇の脚本・俳優の演技は,相互行為があるという前提で準備されます. 無音の演出は,「観客が緊張感を持つ」効果を見越しています. 天井からワイヤで俳優が下りてくるという演出は,「他の観客からも驚きの視線が集まり,場に一体感が生まれる」効果を見越しています. ジョークの演出は,「他の観客も笑い,場が明るく・軽くなる」効果を見越しています. または,それらの演出が狙ったとおりの効果を持つか,観客を観察しながら,新しい表現方法を試行錯誤をする場でもあります.

このように,演劇とは相互行為という特殊な装置であり,その装置の上での表現を追求する芸術・娯楽です. これが,演劇の大きな特徴であり,存在意義です.

以上の演劇の特徴は,観客にとっての価値であると同時に, 演者にとっての価値であることが重要です. 演者にとって, 「相互作用があるという特別な状況で,どんな表現手法が効果的か,可能か」を追求すること自体が,純粋な興味の対象であり,芸術として意義があると認識されています. また,この点は,他の相互作用のある娯楽と異なる点であると認識されています. この点については,当然,演劇関係者以外からの「今の時代,そんな追求に意義はない」という批判や「それならこちらの芸術の方が価値がある」という批判も想定されます. これらの批判には,一定の妥当性があるでしょう. この点には,ある芸術の意義は誰が判断すべきか,という普遍的な問題が含まれています.

2. 演劇DVDはドラマ・映画で代替できてしまう

「コロナで演劇業界・劇団が危ない」と言ったときに,容易に思いつく対策は,

  • 演劇を収録したDVDを販売する
  • 演劇を収録した動画をYoutubeで生配信する

等でしょう. しかし,演劇が映像化されると,上で言ったような「相互行為」という特徴が失われてしまいます.

もちろん,演劇DVDが全くの無価値であるとは思いません. 確かに,脚本のストーリーや役者の演技力,音楽を楽しめるという価値があります. しかし,これらの価値は,ドラマや映画など,他の映像メディアでも代替可能です. むしろ,ドラマや映画は,演劇に比べると,時間・空間的に自由です. 例えば,複数カットから一つのシーンが作れますし,各カットは異なるロケ地でもいいわけです. 映像作品としての表現の幅は,演劇よりも広いです. 演劇DVDは,視聴者側からすれば,表現の幅が狭く,かといって相互作用という特徴も失った,いわば悪いところ取りの芸術・娯楽です.

もしかすると,「私はドラマや映画よりも演劇風の映像作品が好きだ」という人もいるかもしれません. しかし,そういう人は少数でしょう. また,その少数の人も,「生で演劇を鑑賞したときの体験」が前提にあって,その延長として,映像作品を鑑賞することが好きなのではないでしょうか. 生の演劇なしに,演劇DVDのみで芸術・娯楽として成立するのは困難であるように思います.

また,以上は,相互行為の芸術が演劇「だけ」であることを意味しません. 歌舞伎,落語,漫才,ミュージカル,音楽ライブ等も,同じ相互行為の特徴を持つでしょう. (以前,平田さんはCDとの対比はしていましたが,これは明らかに相互行為のない芸術・娯楽です.) 芸術らしさ,娯楽らしさの程度に差はあるでしょうが,他の芸術・娯楽でも同じ問題が発生することは考えられます. 例えば,もし落語に「客席に目線を向け話しかける」という技術があれば,上手くやらなければ,コロナ以後は失われていくかもしれません.

いずれにせよ,重要なのは,コロナ以後,生の観劇が難しくなったとき,娯楽としての経済性だけに着目しないことです. 「ネットで相互生中継/VR配信すればいい」というのではなく, 相互行為性を担保しなければ,失われる芸術性があることが認識されるべきです.

まとめ

  • 演劇は「生」で見て初めて価値が生まれる
  • 逆に,生で観ないのであれば,ドラマ・映画などの上位互換の映像メディアが存在する.
  • 「映像化した演劇」には芸術としても娯楽としても価値がない.

批判の再確認と反論

製造業に対する無理解か?

まず,文脈として「製造業等と演劇とは産業構造が異なる.したがって,適切な支援方法も異なる.従来の国の支援システムは製造業向きであり演劇には不向きである」ということを言おうとしていた,ということは押えるべきでしょう.(それでほとんど解決かもしれませんが)

製造業には,「生産 ⇒ 消費」という時系列が存在します. 消費が回復すれば,大量に生産し,それを流通させ,消費させることが(原理の上では)可能です. 対比するなら,演劇は「生産(演技)⇔ 消費(鑑賞)」という相互行為です. 消費の場で生で生産する必要があるため,消費が回復しても,生産量に制約があります.

文脈を読めば,製造業との対比は,この点を説明するためのものだと理解できます. つまり,「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。」という発言は, 「他に問題がなければ,製造業には増産により解決できる 可能性がある 」ということを意味しています.

逆に,「演劇は他に問題がなくても,原理上,演劇は 増産不可能である 」ということが主張です. 例えば武道館のような場所で演劇をすることを考えます. 空間が広くなり,観客の数が増えれば,一人ひとりの観客の振る舞いは他者に知覚されにくくなります. つまり,映像化するだけでなく,大規模化することによっても,演劇はその特徴を失います(したがって,他の映像メディアによる代替可能性が高まります). この論点のためには,「製造業が増産により回復しようとしたとき,どのような現実問題が存在するか」は直接関係ありませんし, それについて平田オリザさんが何かを主張しているわけでもありません. したがって,製造業に対する無理解という非難は的外れです.

ここでの話題は,想像するに,国の「無利子無担保融資」による企業支援策のことでしょう. 融資とは,いつかは返済するお金です.返済するときには,「通常の支出」と合わせて「融資の返済」を出費する必要があります. このためには,「通常の収入」以上の収入が必要です. 製造業は,消費が回復すれば増産により十分に収入を回復することは可能かもしれないが,演劇は増産できないので,上手く行きそうにない(融資だけでは結局潰れてしまう)という主旨だろうと想像します.

確かに,そうすると,文科省から補助金のような形になるのでしょうか. そもそもコロナ以後,上映すらどれくらいできるのかわからない演劇に対し,どこまで補助金を出すべきか,ということが論点になりそうです.

研究者を見下しているか?

まず,彼自身が研究者であり科研費申請者であることは一つの文脈です.

その上で,製造業に対する発言は,「演劇を特徴づけるための比較対象」であり,優劣を論じているわけではありません. むしろ,演劇の存在価値が微妙であり,客観的に見ればむしろ劣っていると判断される可能性があるからこそ,支援の必要性を発信しているのでしょう. 本人のツイートの通り,ここで言われているのは「意義・社会的位置づけ」であり(それがそもそも伝わっていないことが問題なのですが), 科研費申請では普通に記述されることだと言う主張は妥当でしょう.

漫画家を見下しているか?

ちょっとこれはそもそも「なんで漫画家を見下していることになるのか」を私が理解できませんでした. 「オリザは〇〇を見下している」と言いたい人のオモチャになっただけで,真面目に論じる価値はあまりなさそうだと感じます.

彼の例えを補足するなら, 「ある日(○年○月○日)以降に 執筆された漫画を読むと,あるウイルスに感染する」という仮定をおいているのでしょう. ○年○月○日以降は,新しい漫画は生産されませんから,アシスタントは不要になってしまいます. しかし,漫画家は,○年○月○日以前に生産された漫画による収入(印税)は受けられるだろう,ということです.

おそらく,演劇の業界でも,過去の資産で収入が得られる立場と,得られない立場があるのでしょう.

スポーツを見下しているか?

上で書いた通り,演劇については,演者は,観客と同じ場,相互行為の場での表現を追求することに特に芸術性を認めています. したがって,演劇は,無観客(+映像配信)では,芸術・娯楽としての本質が変化してしまうと考えています.

この演劇に対する彼らの(少し独善的な)考え方は, スポーツで置き換えるなら,「無観客で競技すること」よりも,「競技ルールを変更すること」くらいがよく対応するでしょう. 野球で例えれば,コロナ以後の社会に適応するために,「ボールを軟式に変える」「野手の数を5人にする」「三角ベースにする」ことを求められているような状況です (あくまでたとえ話です). 野球選手からすれば,ピッチングもバッティングもフィールディングも,全て根底から技術が変わってしまい, 「それは私達の追求してきた/したい野球ではない」と言いたくなるでしょう. このとき,観客からどう見えるか(野手5人でも楽しく見れるか/三角ベースでもバッティング技術が変わらないように見えるか,等)は副次的な問題です. 問題は,当事者が培ってきた技術・芸術性が失われることへの危機感であると考えるべきです. それくらい,演劇を映像化/大規模化するということは,(鑑賞する側がそれを気にするかどうかとは無関係に)当事者にとっては本質の否定であるということが主張されています.

「スポーツイベントは無観客でも成り立つ」という件の発言は, 無観客でプレーすることになっても,競技のルールが変わらなければ, 「アスリートにとって,それまで培った自身の技術・芸術性が損なわれることはない」 「したがって,そこには鑑賞に値する価値が少しは残る」という意味です. 実際にそれが観客にとって十分に面白いのか,それで採算が取れるか,等は,もっと後の副次的な論点です. 対比されているのは,無観客の演劇について, 「演者にとって,それまで演者が培ってきた技術・芸術性が損なわれる」 「したがって,そこには鑑賞に値する価値は(少なくとも演者から見れば)残らない,もしくは本質的に変化してしまう」ということです. 彼らは,芸術や技術の本質が失われると主張していることに繰り返し注意が必要です. 「実際に,スポーツを無観客で行った場合に採算がとれるか」「見ていて楽しいか」といった現実的な問題,個別の論点よりも, もっと前提の部分で彼らは危機感を訴えています. また,その主旨の説明の手段として,対比の対象としてスポーツを選んでいます.

なぜ炎上したか

端的に,「比喩で言おうとしている内容が難しすぎた」んだと思います. 演劇の芸術としての特徴なんて,演劇に興味のない人に説明するには,かなりの情報量が必要です. なお悪いことに,ネットでは,「よくわからない人のよくわからない発言」は,「頑張って解釈しようとする対象」ではなく,「曲解して叩く対象」です. 例えば,中には「他業種と比較するから悪なのだ」という極論まであります. 相手にとって未知の概念(演劇とは何か)を説明するために,既知の概念(製造業やスポーツとは何か)と比較して相違点に言及するのは,かなりオーソドックスな方法です. しかし,一旦「無理解・傲慢な劇作家」という印象を持たれてしまえば,それすら受け入れられません.

他の観点としては,「私は劇作家であり,製造業・スポーツについては素人なので詳細は知らないけど,この例え話でも主旨は伝わるよね」という態度が受け入れられなかったのかもしれません. 世間は,ある程度の有名人には完璧を求めます. 特に,「有名人なら,自分の知っている製造業・スポーツの実態くらい知っていて当然だ」という認識があります. 個人的には,他業種の実態は,他業種の専門家が発信すればよく,聞き手・受け手がその発言を把握すればいい話だと思います. ある業種の専門家に対し,他の業種に対する知見を必要以上に求めるのは,不要にコストを上昇させる,全く意義のない風潮だと思いますが,世間的にはそう認識されないのでしょう.

以上から,曲解されないためには,大半の人が無理なく理解できる内容に絞って情報発信をするべきだったのかもしれません. 例えば,

  • 目の前で生で演じることが,ドラマや映画にはない演劇の魅力だと思っている.
  • だから,映像配信だと文化が廃れてしまうと思っている.
  • また,演劇の公演スケジュールは実はタイトなので,仮に今後演劇を見たいという人が増えても,売上増に伸びしろはなさそうだ.売上に伸びしろがない上に,負債が膨らんだ状況なので,文化の保存のためにも,現行の融資とは別の支援が欲しい.

くらいでしょうか.

私達は平田発言をどう受け止めるべきか

以上は全て解釈ですが,解釈の上で,重要な論点は何かを考えて見ます. まず,「演劇だけが特別なのか」についてです. 私はこれはNOだと思います. 平田オリザは,あくまで演劇の専門家として,演劇の特徴を発信しました. 「演劇は,相互行為が本質的な特徴である(故にコロナで特に窮している)」という主張は, 「他の芸術は,相互行為以外のどの観点からも特徴がない(故にコロナで窮していないはずだ)」ということを意味しません.

当然,最終的に演劇を特別に支援するかどうか,を論点にするならば,その政治決定の前に, 「演劇以外の他の芸術・産業はどういう状況なのか,その芸術・産業に固有のコロナ問題があるかどうか」について,情報が必要です. この情報は,(平田オリザではなく)それぞれの芸術・産業の専門家が発信し,国民に把握されるべきでしょう. 少なくとも,私には,平田発言が,この議論(「演劇以外の芸術・産業はどう困窮しているか」)をすっ飛ばして,「演劇だけを支援しろ」と言っているようには読めません. 「演劇は演劇の専門家が発信します,他の産業は他の産業の専門家が発信してください,最終的な支援の意思決定は政治と民意でやってください」という態度に見えます. まさに,科研費申請で,「私の研究の意義は私が,あなたの研究の意義はあなたが説明します.最終的な予算配分はお上が判断してください」というのと同じ態度です. これは,認められるべき態度です. 「窮状を訴えるなら,他の業界の窮状を正確に把握しろ」 「科研費申請するなら他の研究の意義も説明しろ」というのは効率の悪い話です. 彼の社会的な役割は,専門である演劇の窮状を具体的に発信することです. 他の業界を引き合いに出したときに最低限求められるのは,「説明の主旨が把握できること」です. 他の業界に対する平田の認識が不正確であること自体には,直接の問題がないのです. 言ってしまえば,平田発言に製造業に対する見解が含まれていたとしても, 我々は「所詮は劇作家が製造業を引き合いに出して語っている」程度にしか受け止めていないでしょう. それでいいのです.劇作家の言う製造業の状況を鵜呑みにする人がいたら,よっぽどその人のリテラシーが問題です.

そういう社会にしなければ,専門家の情報発信は高コスト・高リスクになり,国民が手にする情報が減ります. 専門家の発言が多少不見識で,不見識を指摘することがあっても,発信すること自体は肯定するべきです. 今,必要な文化支援について正確に判断するためには,各分野について詳細な情報が必要です. 各分野の状況がわかるのは各分野の専門家です. 各分野の専門家が発言する上で,「他の業界に対する見識を持て」と要求水準を高めることには,デメリットもあるのです. 例えば,発言上手の専門家のいる分野だけの主張が通る社会になってしまいます. もしくは,専門家の情報発信が政治家のみに向けられ,国民には発信されなくなります. 結果,国家の意思決定が不透明になります(過程が共有されないので,なんでその業界が支援されることになったのかわからない). 発言者には最大限寄り添い,その発言の主旨・意図を汲もうとすることは,国民から見て透明性の高い,健全な民主国家の必要条件だと考えています(この記事執筆の動機です). 「主旨はわかってるけど,枝葉の表現を非難する」というのは,ローカルには正しくても,社会的な文脈では非生産性の塊です.

例えば,「生が大事なのはスポーツ・娯楽も同じじゃないか」という批判自体はあって然るべきだと思います. 現実問題として,生観戦なしに存続できるプロスポーツはかなり限られているでしょう. そういう意味では,スポーツの現実問題に対し不見識だ,という指摘は妥当です. ですが,だからといって「発言するな」「見識を深めてから言え」「よく知らない業界を引き合いに出すな」というのは, (例え正論であっても)社会的なコストを上昇させる行為です. 彼の発言に求めるべきは,「演劇の現状を正確に伝えること」だけです. 私達は,平田発言からは,ただ「演劇が何に窮しているのか」だけを理解し,(他の業界を含め)コロナ後に必要な文化支援に興味を持てばいいのです. 平田オリザ自身も,それを望んでいるはずです.(あくまで想像ですが)

以上から,私達がやるべきことは,「他の業界の平田オリザ的な人は何を言っているか」「各芸術・業界が失われたときの社会的・具体的な損失は何か」「他のコロナ関連の予算の用途に比べて,有意義と言えそうか」に注意を向けることでしょう.

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