沼の見える街

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天才の頭の中を覗くような。『THE FIRST SLAM DUNK』感想&レビュー

 バスケットボールはあまり好きではない。中学の時、バスケ部の連中がイヤなやつばっかりだったからだ。性格の悪いイジメっ子とチャラいアホがたしなむスポーツ、それがバスケなのだろう…。そんなふうに中学生の私は考え、それ以降バスケを見たり遊んだりする機会も特になかった。私の人生とバスケの唯一の接点といえば大人気漫画『SLAM DUNK』(以下スラダン)であり、一応読んでみたら名作だけあって確かに面白かった。しかし中学のバスケ部には自分を桜木花道だと思いこんでるアホとかもいて鬱陶しかったので、「スラダン」がバスケのイメージを向上するまでは至らず、バスケは私の心の「別にどうでもいい箱」に入れられた。

 しかしそんなバスケ一切興味なし人生に、もう一度バスケに触れる機会が訪れた。映画『THE FIRST SLAM DUNK』である。予告編を見た時点では、特に思うところは全くなかった。あ〜最近よくある感じの名作リメイクね、私らの世代もすっかりノスタルジー消費者ターゲットだね、てかスラダン原作者の井上雄彦氏が監督もやるの?どういうこと?てか手描き2Dじゃなくて3DCGなの?大丈夫?なんか声優交代とかで文句言われてるし、まぁ熱心なファンじゃないしどうでもいいっちゃいいけど…。しかし公開されると、意外と映画/アニメファンの間で評判が良く、せっかくだし観に行っておくかと劇場に足を運んだ。その結果……

『THE FIRST SLAM DUNK』は、素晴らしかった。スラダン原作のアニメ化として云々というのを超えて、純粋に1本の独立したアニメ映画として、いまだかつてない作品が現れたと感じる。海外のアニメ映画を継続的にチェックしている身としても言うが、世界全体を見回しても、こんなアニメーション作品は前例がないんじゃないだろうか。いま海外アニメは(むしろ日本やアメリカ以外のアニメが)とても豊かで先鋭的なことになっているので、日頃あまり「日本アニメすごい」的なガラパゴス称賛はしないようにしてるのだが、それでも『THE FIRST SLAM DUNK』は世界的にもかなり前代未聞にして、間違いなく独創的なアニメ映画になっていると思う。

 ここで再び私のスラダンへのスタンスをまとめておくと「原作漫画は子どものころ読んだきり、それも細部はうろ覚えだし、特定のキャラに別に愛着もないが、各キャラがどんな性格でどんな背景があるかくらいはまぁまぁ覚えてる。ちなみにアニメ版は全然みてない」程度のものだ。全く熱心なファンではないが、まさに私くらいの層が『THE FIRST SLAM DUNK』を最も楽しめる観客である可能性も、けっこう大きいようにも思う。「とにかくオールドファンに金を落としてもらおう」的な、洋の東西を問わず流行中の懐古趣味リメイクとはかけ離れた、とても開かれた作品であることは確かだ。

 ただ(うろ覚えとかですらなく)本当にマジで一切スラダンを知らない状態で『THE FIRST SLAM DUNK』を観るのは、さすがに「もったいない」感が若干勝つ気もする。というのも本作『THE FIRST SLAM DUNK』を先に観ることで、伝説的に面白い原作漫画の終盤のネタバレを食らうとも言えるからだ。何も知らない純粋な気持ちで原作を味わいたい人は、映画を観る前にさっさと読んでしまおう。(私もうろ覚えなので読まねば…)

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 ただし原作スラダンの結末はもはやミーム化してるレベルで有名なので(『あしたのジョー』の結末に匹敵するかも)、すでにぼんやり知ってるなら映画を躊躇する意味は特にない。主要キャラの性格や背景など、最低限の説明は的確に挟まれるので「全く意味がわからない」ことはないだろうし、完全初見も全然アリかと思う。映画館で観ることに大きな意味がある映画なので、原作への熱量を問わず、基本的にはすぐに劇場に駆けつけて、観客席の熱気を味わうのがベストだろう。

 

ーーー以下、ネタバレは特に避けないので注意(ネタバレで楽しみが損なわれるタイプの作品とは思ってないが…)ーーー

 

大きく分けて2つ、本作の最も素晴らしいと感じたポイントを語っていきたい。そのポイントが両方とも、最も賛否が分かれそうな点であることも面白いところだ。

ポイント1:【革新的なアニメーション表現】

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 本作の予告編を観てパッと浮かんだ感想は「あれ、手書き2Dアニメじゃなくて3DCGか〜」というものだ。まずこの「2Dじゃない」件に反発している原作やアニメのファンも多いようだし、その気持ちはわからなくもない。3DCG技術の進化によって、海外の大作アニメ映画はほぼ完全に3D化が進んでおり、日本アニメも例外ではなく(ディズニーやピクサー等の水準にはほど遠いが)フル3Dのアニメも増えてきたし、馴染み深い2Dアニメの領域にも(セルルック風など)3Dが進出している。しかしまだ技術の過渡期ゆえか、中途半端な3D技術に違和感を感じる機会も多いのが日本アニメ界の現在地といえる。

 だが『THE FIRST SLAM DUNK』本編の3Dアニメ表現には、端的に言って驚かされた。まず冒頭からガッと引き込まれる。大きな海が眼前に広がる沖縄のバスケコートで、2人の男の子(その正体は後述する)がバスケに興じている。予告編でもチラリと見えた、なんてことない光景のはずだが、劇場で本編を見ると直感的に「まるで現実のようだ」と感じた。よく考えるとこれは不思議なことだ。ビジュアル的な意味でのCGのクオリティ自体は必ずしも最高峰ではなく、パッと見で「CGだな」とわかるレベルで、たとえばPS5の最新ゲームのような「実写に見紛うほどの美麗なCG」とかではないのだから。なのになぜ「現実のようだ」とまで感じたのだろう。

 鍵となるのは「動き」だ。本作のキャラクターの動きは、モーションキャプチャー技術を使って描かれている。劇中人物がバスケをプレイするシーンでは、現実のバスケプレイヤーの動きをキャプチャーし、そこにトゥーンレンダリング(CGを漫画やイラスト風の作画でレンダリングすること)を施したという。多分そこからさらに手作業で細かい調整を行うのだろう。その結果「漫画/アニメっぽいルックのキャラが、限りなく現実に近い動きをしている」という3Dアニメーションが具現化している。

 その手法こそが、まるで実写とアニメーション、虚構と現実の境目の上を2時間ぶっ通しで走り続けるような、いまだかつてない不思議なリアリズムを本作にもたらしているのだ。「そんなにリアリズムが大事なら、実写を作ればいいじゃない」という意見もあるかもしれない。だが本作のアニメ表現が生む新鮮な驚きは、通常の実写映画からは生まれえない。キャラのビジュアルが漫画/アニメ的であるがゆえに、一種の異化効果によって、逆に「現実の人間の動き」を強く想起させるのだ。

 『THE FIRST SLAM DUNK』のリアリズムにおいて、「動き」と同じくらい重要なのは「声」だ。動きにあわせて、声の演技もいわゆる「アニメ的」な抑揚を程よく抑えた、リアリティの高い演技になっている。本作は昔のアニメ版から声優を変更した件で炎上気味になったようだが、ここまでアニメーションの手法が抜本的に新しくなってしまえば、そりゃ声優だって変更するしかないだろうと思う。往年の2Dアニメにマッチするタイプの、フィクショナルな演技では確実に浮いていたはずだ。

 そんな『THE FIRST SLAM DUNK』の大半はバスケの試合シーンが占める。予告では伏せられていたが、実は本作で描かれる試合は原作漫画のクライマックスである、「山王」との闘いだったのだ。本作を称賛する声で特に多いのが「映画というよりも、本当に試合を観てるようだった」というもので、まったくもって同感である。バスケのコートを縦横無尽に走り回るキャラクターたちの姿を、劇中の試合進行とほぼリアルタイムで捉えたがゆえの臨場感は圧倒的だ。

 もちろんリアリズム一辺倒ではなく、アニメゆえの楽しさも満載である。試合が白熱する中で、たとえばダンクシュートを決める瞬間を真下から捉えた映像、ドリブルをものすごく低い視点から捉えた絵面など、「実写では不可能なアングル」が多発する。「漫画のような実写」と「実写のような漫画」の交錯点としての「漫画でも実写でもないアニメ」が、映画全体に驚くようなダイナミズムをもたらしているのだ。

 キャラが3DCGかつ、会場全体を映した俯瞰ショットが多いからかもしれないが、試合の空気感に、漫画で読んだ印象よりも少し突き放した現実的なクールさ・ドライさが漂っていたのも良かった。主人公たちにとっては凄く重要な試合だが、あくまで「現実の会場で沢山行われているうちの一試合」に過ぎない、というような…。これは実際に会場の観客席で(第三者視点から)スポーツの試合を観戦している人に近い感覚かもしれない。

 この「ドライさ」も感じるアニメ手法によって、逆に強烈な存在感を獲得したキャラクターがいる。言わずと知れた『SLAM DUNK』の主人公・桜木花道である。全体的にはリアリティが高い、まるで本物の試合のような雰囲気であるからこそ、ド素人だが天才的なセンスをもつ桜木の破天荒な行動が、良い意味で「悪目立ち」するのだ。ダブルドリブルの場面の可笑しさったらないし、机の上に立って観客を煽りまくるシーンでは「マジでやべーやつがいるよ…」と客席の心情とリンクした。

 しかしだからこそ、チームがピンチを迎えた時に桜木が不敵にも言う「おめーらバスケかぶれの常識はオレには通用しねえ!シロートだからよ!」というセリフが、まさに(漫画においては達人だがアニメ業では「シロート」である)井上氏の境遇とも一致することにゾクッとしてしまう。終盤になるにつれ、机に突っ込んでまで勝利に固執する桜木の様子に、彼に反感を抱いていた試合の観客までもがつい応援してしまう姿は、「漫画家がアニメ監督ねぇ…」と斜に構えていた私たち映画の観客の心情とも、見事にリンクするかのようだ。

 この実写的リアリズムと漫画的ダイナミズムの交錯点のようなアニメの試合を「観戦」することで、「天才漫画家でありアニメ素人」である井上雄彦氏が多大な手間をかけて(2Dではなく)3Dアニメ表現にこだわった理由が見えてくる。それは天才の頭の中で起こっている「リアル」をそのまま出力するためだと思う。つまり井上氏がかつて「漫画」の形でアウトプットしていた、脳内で縦横無尽に繰り広げられる「動き」をリアルかつダイナミックに表現するための、現時点でのベストな手法が「3DCGアニメ」だったから…ではないだろうか。

 現在の日本アニメは…というと雑に括り過ぎだが、全体の傾向としては「強い"絵"の力によって、いかに現実を魅力的に歪曲するか」にアニメーションの重点が置かれていると感じる。大ヒットした『鬼滅の刃』でも新海作品でも、まずはカッコよかったり美麗だったりする、現実を魅力的に歪めた"絵"が中心となり、それを軸にキャラを動かしたり、エモい音楽や派手な特殊効果を重ねたりして、アニメーションを成立させるという発想が根強いと思う。

 だがそうした主流的な日本アニメのスタイルは、現実の人間のリアルな躍動にこそ命が吹き込まれるという、井上氏が極めてきた創作の方法論と、実は相容れないものだったのだろう。だからこそ氏は、今回のような新しいチャレンジに出たのではないか。あえなく失敗する可能性も大いにあったはずだが、蓋を開けてみれば、1本のアニメ映画として(世界的に見ても)前代未聞の革新的な作品ができあがったわけだ。

 実際、『THE FIRST SLAM DUNK』のような発想で作られた、近年の日本・海外のアニメ映画は(特にこうした大作エンタメでは)全く思いつかない。あえて国内で1本、近い種類の驚きを感じた近年のアニメ映画をあげるなら、岩井俊二が監督を務めた『花とアリス殺人事件』だろうか…。

 両作品は、アニメ世界に異質な現実感を持ち込んだ作品であること、監督がアニメ畑の作家ではないことが共通している。ただし『花とアリス殺人事件』は全編ロトスコープなので、モーションキャプチャーの方法論をベースにしつつも、同時に漫画/アニメ的なダイナミズムを大胆に織り交ぜた『THE FIRST SLAM DUNK』とはやはり全く異なると言えるが…。

 同じくCGを使ったアニメであっても、たとえばディズニー/ピクサー/ドリームワークスのような海外アニメ映画の主流とも、『THE FIRST SLAM DUNK』は全く異なっている。あえて海外から挙げるなら、今年見た素晴らしい中国アニメ『雄獅少年』が、高いリアリズムと(後述するが)逆境の中で生きる若者へのシンパシーという点で、通じるところが多いと言えそうだ。

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そして自分でも意外だが、同じく今年観たアニメ映画である『FLEE』を思い出した。アフガニスタンから難民として「脱出」したゲイの青年の人生を、実写を元にしたアニメーションで語り直した特異な作品で、表現手法としてアニメがもつ大きな可能性を改めて感じさせてくれる映画だ。

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 もちろん『FLEE』とは作品テーマも規模もあまりにも異なるのだが、現実とアニメの境界に踏み込んでいくチャレンジ精神という点では、『THE FIRST SLAM DUNK』にはこうしたアート映画にも共鳴する志の高さがあると感じる。

 そんなわけで本作は、2Dアニメ/漫画/実写映画の枠組みを踏み越え、それらを融合するような大胆な手法としての「3Dアニメ」の新しい可能性を切り開いた。しかし実は従来的な「2D」表現への愛着もたっぷり表現されている。3Dへの期待を感じさせる冒頭から始まったかと思うと、オープニングでは逆に意表をついて、「手描き2Dアニメ」のワクワクするような魅力を強調してくるのだから(そして最終盤のぶち上がる場面にも繋がっていく)。うろ覚え勢である私でさえ「あいつらが帰ってきた!」と興奮したのだから、原作ファンは感涙モノといって良いはずだ。なんにせよ本作、アニメ表現に少しでも興味がある人は、決して見逃さないほうがいいだろう。

【ポイント2:リョータについて】

 こうしたアニメ表現の革新性に匹敵するほど、『THE FIRST SLAM DUNK』を観て素晴らしいと感じたポイントがある。それは宮城リョータにまつわるエピソードだ。

 リョータは、実質的な本作の「主人公」と言っていい。先述した「冒頭でバスケに興じている2人の男の子」とは、宮城リョータと兄のソータだったのだ。本作は、原作漫画では描かれることのなかった、実はリョータが内心で抱えていた葛藤を描写していく。いわば壮大な「後づけ」と言えばそれまでだが、まさにこの点こそが『SLAM DUNK』を今リメイクする必然性だと思えるほど、個人的には心打たれた。

 私が原作うろ覚え勢なせいもあるだろうが、リョータはメインの5人の中では比較的(ファンには申し訳ないが)印象の薄いキャラだったように思う。リョータには桜木や流川のようないかにも少年漫画的なケレン味もないし、赤木(ゴリ)のように過去にまつわる濃いエピソードもないし、三井のように大胆な変化を遂げるドラマチックな展開もなかったはずだ。リョータは確かな実力をもつ魅力的な人物だが、あくまで脇を固める名サブキャラだったように記憶している。

 だが、そんなリョータを中心に再構成された本作を観て、改めて気づくことがある。『SLAM DUNK』があまりに有名な作品であり、そしてリョータ自身も人気のキャラであるゆえに、『THE FIRST SLAM DUNK』を語る上でも意外と見落とされそうなポイントだ。それは宮城リョータのようなキャラクターが、日本のアニメ作品で「主人公」として正面から深く描かれるのは意外なほど珍しいということである。

 アニメ好きの人はちょっと考えてみてほしいが、本作のリョータのような、スポーツが好きで雰囲気は少々チャラいが、実は家庭の背景など様々な苦悩や鬱屈も抱えている…という、そのへんのストリートにいそうなリアリティある"普通の若者"が、近年の日本のアニメで「主人公」として描かれたことがどれほどあるだろうか…? いやちゃんと探せばあるのだろうが(書いてて『サイバーパンク:エッジランナーズ』とかはわりと当てはまるかなと思った)、それはともかく、リョータのような人物が深い解像度とリアリティ、そしてシンパシーを伴って主人公を務めているというだけでも、『THE FIRST SLAM DUNK』は相当フレッシュな作品に感じられた。

 原作の時点で、リョータは主要メンバー5人の中で最も「こういうヤツって本当にいそうだな」という身近なリアリティを有していたキャラと言える。『THE FIRST SLAM DUNK』はその点が強調されるとともにさらに掘り下げられ、一見するとよくいるチャラめの若者だが、実は複雑で繊細な内面をもつリョータという人物を重層的な視点から描き出そうと試みる。

  先述したように本作冒頭のリョータと兄・ソータがバスケをしている場面がまず鮮烈だ。モーションキャプチャーによるリアルな動きと、かなり抑えられた声の演技のトーンが「まるで現実みたい」な効果を生むことについてはすでに言及した。だが話が進むと、このいっけん和やかなバスケの場面の裏に、実は「厳しすぎる現実」が横たわっていることが見えてくる。

 実はリョータとソータの宮城家は、父を失っていた。ソータは嘆き悲しむ母親に、一家の長男として家族を支えると告げるが、とはいえ彼もまた子どもに過ぎない…。秘密基地のような洞穴で、現実を受け止めきれないソータが泣きじゃくる哀れな姿をリョータは目にする。そんな悲惨な状況だからこそ、兄弟にとってバスケは、キツい現実に心折れないための「救い」であり、ある種の「逃避」のような役割も果たしていたことがわかる。「辛いときこそ平気なフリをしていろ」といった内容の兄の言葉は、その後もリョータの人生にこだまし続ける。

 だがあろうことか、ただでさえしんどい宮城家とリョータをさらなる悲劇が襲う。なんとソータまでもが、海の事故で帰らぬ人となってしまうのだ…(兄の死は冒頭の時点では直接的には描かれないのだが)。あまりに無情な展開だが、現実には「これくらい」の悲劇は起こるときは起こるし、重なるときは重なってしまうんだろうな…とも思わせるような、妙にドライな冷淡さに貫かれていて震えてしまう。(広がる海のイメージと大きな喪失の結びつけ方から、極めて間接的にではあるが、「ポスト3.11映画」として受け止める余地も残しているように思った。)

 キツすぎる悲劇が起ころうが、人生は淡々と続いていく。父も兄も喪ったリョータは成長してバスケ部の選手になり、兄の形見に「いってくる」と告げて試合に向かうのだった。この直後のオープニングがブチ上げで最高にカッコいいので誤魔化されてる気もするが、冷静に考えるとどんな始まり方だよ、『ブラックパンサー ワカンダフォーエバー』かよと思ってしまうほどに、あまりに悲しすぎる冒頭である。

 だが冒頭から全体を貫くこの「悲しさ」こそが、本作を特別なものにしている。その後のリョータのスポーツへの向き合い方は、悲しみに満ちている。優秀なバスケ選手だった兄の後を追い、不在の穴を埋めるようにして、リョータはバスケにすがりついていく。切実さもあってバスケの腕前はどんどん上達していくが、心に空いた穴が真に埋まることはない。それでも「辛いときこそ…」という兄の言葉を胸に、リョータは「平気なふり」をしながら、自分の人生の逆風にバスケで挑んでいくのだ。

 このリョータの描かれ方をみて、私などは「ああ、そうだよね…こういう人だって沢山いるよな…」と少し反省したほどだ。スポーツマンといえば、あたかも「リア充」(リアルが充実している人)や「陽キャ」(明るくて人付き合いが上手い人)の代表格のような存在にも思われがちだ。そうしたリア充や陽キャと自分は違う…的なルサンチマンをバネに、何かに没頭するというキャラ造形はアニメにおいて馴染み深いものだ。だが現実逃避は陰キャオタクの専売特許ではない。現実の辛さを忘れたくて創作行為やサブカル趣味や科学研究に打ち込む人がいるように、(いっけん明るくチャラく振る舞っているかもしれないが)同じ理由でスポーツに打ち込んでいる人だって沢山いるはずだ。

 日本アニメ界には、そもそもオタク的な感性をもつクリエイターが集まりやすいし、その作品を(私含め)オタク的な感性をもつ鑑賞者が見るという高濃度オタクサイクルがいまだに根強いと思う。だからこそ取りこぼされるタイプのキャラクター="他者"って絶対いるよな…とは以前から感じていたが、本作のリョータはまさに「オタク的な想像力が取りこぼしてきた」"他者"ではないかと思えた。オタクの支配権と影響力が強すぎる日本アニメ界において、物語やキャラを描く上で実は密かに存在していた「檻」のような枠組みを、スラダンという超有名作品の力をフル活用してぶち破るパワーがとても痛快で、同時に痛烈でもあった。

 冒頭で「バスケは好きじゃなかった」と書いたが、昔のしょうもない思い出などから、スポーツへのうっすらした偏見をもっているような私のようなオタク系人間は、つい"ナードvsジョック"(いわゆる文化系オタクvsスポーツ系リア充)的な安易な対立項にとらわれてしまいがちだ。おめーが偏ってるだけだろと言われればそれまでだが、実際そうした構造は(アニメに限らず)フィクションに数え切れないほど出てくるので、実はうっすら影響されてる人も多いのでないかと思う。だが現実には「オタクvsリア充」みたいなシンプルな対立項に、人間が都合よく収まるわけがない。

 本作のリョータ(や後の三井)のように「現実がキツすぎて、持て余したエネルギーを変にこじらせて自分をダメにしないためには、もうスポーツしかないんだ…」というような、切羽詰まった状態にある若い人って、実際には多いんだと思う。車椅子バスケを描いた井上氏の過去作『リアル』は未読なのだが(読みます)、おそらくそうした作品などを経たことによって、そんな若者たちへの井上氏のシンパシーはますます強まっていったのだろう。

 その結晶としての『THE FIRST SLAM DUNK』は、「しんどい人生に抗うためにスポーツに打ち込む若者」に向けた力強いエールのようにも受け止められる。かつてスラダンの読者だった元スポーツ好きや、リアルタイムでスポーツに打ち込む、悩みや鬱屈や喪失を抱えた若い人々は、本作のリョータたちの物語を見て、どこか深い部分で慰められ、励まされるのではないだろうか。井上雄彦氏が『SLAM DUNK』を今リメイクした背景には、エンタメにおける共感の網からこぼれ落ちてきた「他者」たちをすくい上げたい、という現実世界に広く開かれた意志があったのだと思う。その意志が、アニメ表現において「リアル=現実」を強く志向した姿勢とも深く共鳴しているのは、まさに必然だろう。

 

 (またも1万字くらい書いてしまったのでそろそろ終わりたいが)一応最後に言っておくと、『THE FIRST SLAM DUNK』は、必ずしも観た人全員をまんべんなく満足させる、端正でバランス完璧な作品とは言えないのかも知れない。私も絶賛しつつ、気になる点もないではない。たとえば回想シーンを多用することで、特に試合の後半は、せっかくのスピーディでスリリングな展開をやや損なっている感もある。また、長大な山王戦を映画の尺に押し込めたことで、どうしても削らざるをえなかった場面やセリフなども少なくないようだ(私は原作うろ覚えなので気にならないが)。

 それでも、私が良い映画…というか良い創作物の条件だと考えているものが2つある。それは「見たことのない何かを見せてくれること」、そして「他者への想像力を拡張してくれること」だ。本作は獰猛なまでに大胆なアニメ表現によって前者を、深みのあるリョータの物語によって後者を満たしてくれた。この基準から言えば『THE FIRST SLAM DUNK』は、紛れもない傑作と言わざるを得ない。

 たしかに、スラダン原作や昔のアニメの熱心なファンが本作をどう思うのか、原作うろ覚え勢としては検討もつかない。私の観測範囲では称賛の声が非常に多いとはいえ、けっこうな熱量で反発してる「オールドファン」の声もちらほら目にする。ただ言わせてもらえば、もしもずっと好きだった作家が、自分の過去作をベースに、これほど革新的かつ真摯な作品へと飛躍したのなら、私なら心から誇らしく思うだろうし、そんな作家を愛した自分の目は間違ってなかった、と感動することだろう。だからお前もそう思うべきだ!…とは決して言わないが、できる限り思い込みやこだわりを捨てたオープンな心で、天才の頭の中を覗いてもらえればと思う。

 

12/18追記

たくさん読んでもらってありがとうございます!追記(?)として原作漫画の再読レポートも書きました。

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