novtanの日常

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社会学者への反発と他の学問との差異について

身もふたもないことを言うと、社会学者の側も、そうでない側も「社会学」という命題の大きさを持て余しているのではないかと昨今の争いを見て思う次第です。

社会学の研究対象は多岐にわたっていて、一人の学者がカバーする範囲はそれに比較して極めて狭い、という印象があります。大学の学部で概論を履修した程度では「社会学者とは何か」を把握できない、と感じています。
もっとも、僕が履修していたのは25年前の出来ことですから、一般教養としての社会学概論がそこから進歩していることは期待したいんだけど。

そういった枠組みであるから、「社会学者」という肩書でものを喋っている人がAさんとBさんとCさんでは価値観の根底から違う、ということもよくあるように思えます。そりゃそうよ。学問としての目的がでかすぎるんだよね。ただ、本来取り扱うべき「統計とデータ」というベースに無頓着な人が大きな声を上げていることがよく観察されるのはなぜか、と考えるともうちょっと学問の根底の部分について統一的なものをちゃんと据えて、かつ学問の進展とともに厚みを持たせていくべきなんじゃないかと思います。

エセ科学とのボーダーラインで苦しんでいる代表的な学問として「心理学」のようなものはそういったところを経過してアップデートされていると思いますし、まだわからないことが多すぎて過去の常識とみなされることが大きくひっくり返るということを繰り返しているし、それを言ったら物理学ですらそういうことが起きる。だから、ひっくり返るときにちゃんとひっくり返れるというのも学問としては大切なことですよね。医学にしても、基礎科学にしても、それを拒む権威がいたという黒歴史はまあまあ今でも繰り返されてはいます。
だから、社会学だけが特別おかしな人に牛耳られている、とは思ってはいません。

ただね、少なくともこの何年かで起きている「Twitterでイキるxx学者」という存在はいただけないんですよね。閉じた世界での話ならともかく、今の社会での活動に従事している「個」に対して一方的な価値観からの攻撃を行う、ということを行うならなおさらです。それに根拠がなかったり単に価値観の相違であることを権威を傘に否定するなどはたちが悪いわけです。逆に言うと、「正義ではなく見解の相違」であれば攻撃的ではなく建設的な議論ができるようなことをわざわざ揉め事の種にしている。

コレ自体は社会学者という看板に限った話ではないですが、社会学に特有の問題があるとしたら「あまりに個々の見解過ぎて一般論から外れているという形での反駁が難しい」ということなんですよね。他の学問であれば「常識はずれ」で済んだり「否定的な研究」で済んだりするのが、そのことをそのように取り扱っている人がその人(とその周囲の賛同者)だけであるというようになってしまうとどうにも反論がしづらいですよね。で、それを「社会学者」という看板で行う、というのが社会学に従事している人にとっては一番苦々しい話だと思いますし、俺は関係ないのにって思うところだと思います。

でも、それなら社会学、という看板を解体して活動することに舵を切るしかないですよね。これは、(悪い)権威からの脱却という意味でも重要かもしれません。ただ、枠組みの力が弱くなる、という難点もありますし、それに対する抵抗はありますよねきっと。

社会学以外の学問をベースにしている人の目からすると目立っている社会学者のイキリに対して同じ社会学からの物申す力が働かないのはなぜだ、という疑問が強いと思います。そこに対してちゃんと向き合っていくことが必要なんだと思いますし、そこに目をつむるのであれば「色々いるんだから社会学自体を批判するな」なんて言葉を発するべきではないと思いますよ。もちろん、研究で答える、という王道もよいと思いますが、外野の目からすると先に述べたとおり、もっと基盤の部分をきっちり積み上げてほしい。少なくとも、「その研究結果はあなたの主観に過ぎない」というものを成果として認めないようなプロセス、ルールがないと他人の研究をきっちり批判するなどがしづらいままだと思うんですよねえ。