きみと雨上がりを
一
門を出た途端、吹き抜ける風が柔らかに色鮮やかな草花を揺らした。頬へぶつかる風に混じる、乾いた土と草木のみずみずしい香り。
膝丈ほどの高さに伸びた草の隙間からは、丸みを帯びた形をしたピンク色の生き物が動き回っているのが見える。〈わたくさポケモン〉のハネッコだ。その近くには〈わたげポケモン〉のメリープの姿もあった。ふかふかの体毛に草のかけらが絡まっている。
ポケットモンスター、縮めてポケモン。この不思議な生き物は、人間と同じように昔からこの地に棲み、生きている。
伸び伸びと過ごす野生のポケモンを見ていると、ネモは自身の心臓が強く高鳴るのを感じた。冒険の予感に胸が躍る。モンスターボールのなかではきっと、仲間のポケモンたちもその目を輝かせていることだろう。
ポニーテールにした黒髪を結び直し、ネモは記念すべき一歩を踏み出す。
天気は快晴。旅立ちにふさわしい青空が、その頭上に広がっていた。
ネモが暮らすパルデア地方は、自然があふれる素敵な場所だ。そして、その中央に位置するのが、パルデア地方最大の都市・テーブルシティ。カラフルなタイル装飾が特徴の、華やかな街だ。
テーブルシティには、世界でも有数の歴史ある学校が存在する。その名も、オレンジアカデミーだ。ネモもこの学校に通っており、普段は寮で生活しながら大勢の生徒たちとともに授業を受けている。生物、数学、バトル学、歴史、家庭科、言語学、美術……どの教科の先生も魅力的で、学ぶことが多い。
そんなオレンジアカデミーでは、ある大きなイベントが定期的に開催されている。生徒たちにとってのメインイベント、課外授業の「宝探し」だ。
宝探しという名前ではあるが、実際に宝が隠されているというわけではない。ジムに挑戦したり、ポケモンをたくさん捕まえたり、困っている人を助けたり。パルデア地方を自由に冒険するなかで、それらの経験を通して自分なりの宝物を探してみよう!……というのが、この課外授業の目的だった。
制服のネクタイを締め直し、ネモは砂利道を進む。テーブルシティの西側の門を抜けて道なりに進むと、その先にはセルクルタウンがある。乾燥した土地を活かして栽培されているオリーブが名産品だ。
前回の課外授業でネモはポケモンリーグを制覇し、チャンピオンランクに認定された。パルデア地方の最年少チャンピオンとなったのだ。その際にこの地方一帯を巡り歩いたため、どの街にも行ったことはある。が、そうはいっても旅は楽しい。何度も訪れたことのある場所も、足を運ぶたびに新しい発見がある。
「あっ、生徒会長だ!」
「僕と勝負してください!」
「ずるいよ。私とも戦って」
セルクルタウンへ向かう道を歩いていると、さっそく五人のポケモントレーナーに声をかけられた。同じ制服を着ていることから、オレンジアカデミーに通う生徒だとひと目でわかる。宝探しに出た生徒たちは、このように思うがままに行動している。もちろん、ポケモン勝負をすることだって自由だ。
「もちろんだよ! さっ、早く戦ろう! まずは誰が相手かな?」
「はいはーい! 僕からお願いします」
「オッケー、よろしくね!」
ネモは笑みを浮かべると、まっすぐに相手を見つめた。一人目のトレーナーは、金髪の少年だった。まだポケモン勝負には不慣れらしく、モンスターボールを選ぶ手さばきが拙い。
「真剣勝負ですからね」と彼は言うが、力量差は明らかだった。ネモは自身の持っているモンスターボールを見比べる。
初心者を相手にするとしたら、強すぎるポケモンは選びたくない。強いポケモンを繰り出してレベル差で勝利しても、それが楽しい勝負とは思えないからだ。最高の一手、最善の戦略。それを模索することこそが、ポケモン勝負の醍醐味だとネモは考えている。
「一番手は任せたよ、パモ!」
ネモがモンスターボールを投げると、〈ねずみポケモン〉のパモが登場した。一カ月ほど前にプラトタウンの近くで捕まえたばかりの子だ。その黄色の頬にある電気袋を、パモは一生懸命自分の肉球でこすっている。どうやらやる気満々らしい。
相手のトレーナーは、〈オリーブポケモン〉のミニーブを出した。わなわなと口を震わせるミニーブに向かって、パモはさっそく『でんこうせっか』をお見舞いした。
一勝、二勝、三勝、四勝、そして五勝!
勝負を挑んできたトレーナーたち全員に勝利したころには、日が傾き始めていた。ポケモン勝負をしていると、つい時間のたつのを忘れてしまう。額ににじむ汗を手の甲で拭い、ネモはモンスターボールを構えた。
「よーし、次は誰が戦う?」
「もう無理です。ポケモンがみんな、ヘトヘトになっちゃいました」
「生徒会長、つえぇ」
疲労困憊といった様子でへたり込んでいる生徒たちを見て、ネモは自身の腰に手を添えた。
「残念、もう終わりかー」
勝負を終えてもパモは元気だ。いたわるためにサンドウィッチを差し出すと、勢いよくかじりついた。
もぐもぐとパモがパンを咀嚼しているのを眺めていると、「会長」とネモを呼ぶ声がした。一試合目に戦った金髪の少年が歩み寄ってきていた。
「じつは僕、会長みたいに強くなりたいんです! ポケモン勝負って、小さいころから訓練してないとダメなんでしょうか?」
「えー、そんなことないよ! わたしだってポケモン勝負を始めたのは二年前だしね」
「そんな短期間でチャンピオンに? や、やっぱり天才だ……」
「そんなんじゃないって! 普通にさ……ただ、楽しかったから夢中になってただけなの」
「それだけでチャンピオンになんて、普通はなれないですよ」
ネモの言葉に、少年は熱を込めて反論した。ネモは何か言おうと口を開いたが、結局、声は出ずに終わった。他人に自分のことを理解してもらうことが難しいのは、前々から知っていた。
ネモはべつに、自分を天才だと思ったことはない。完璧な人間ではないし、自分なりにいろいろなことに対して一生懸命取り組んでいるつもりだ。
にもかかわらず、ネモはときどき「生徒会長は私たちとは違うから」とあっさり線引きされてしまうことがある。相手に悪気がないことはわかっているが、それでもネモはそのたびに寂しいような悔しいような、モヤモヤした気持ちになる。
それを気にしていないように振る舞うのは、ネモにとっていまでは慣れっこなことだった。
「あの、生徒会長には全力を出せる相手っているんですか?」
そう尋ねてきたのは、五試合目で戦った女子生徒だった。思いがけない問いかけに、ネモは目を見開く。
彼女は自身の制服の裾を握り締めたまま、ネモの両目をまっすぐに見つめていた。ネモの勘違いでなければ、そのまなざしには憧れの感情が混じっているように見えた。
「だって、さっきも私たちのために手加減してくれたんですよね? もしトップチャンピオンのオモダカさんと勝負したときみたいなポケモンを出されたら、私たちなんて勝負にもならないだろうし」
「確かに」と、生徒たちは顔を見合わせてうなずき合った。女子生徒が思案するように首を傾ける。
「私たちは友達同士でいつも全力で戦ってるからお互いがライバルだけど、生徒会長にはそういう人がいるのかなぁって」
「いないでしょ。生徒会長って強すぎるんだもん」
「僕、生徒会長が本気で戦ってるところ見たことないよ」
「うーん、ライバルかぁ」
腕を組み、ネモは考え込む。前回の課外授業で、ネモはポケモンリーグのトップ・オモダカと戦った。
パルデア地方のポケモンリーグは、ほかの地方のリーグに比べると歴史がまだ浅く、大人たちの言葉を借りるなら「新進のリーグ」だ。そのトップチャンピオンであり、リーグ委員長でもあるのがオモダカだった。
ちなみに、パルデア地方のチャンピオンとは、チャンピオンランクに達したトレーナーを指す。ポケモンを鍛えてその技で人々を魅了する、ポケモン勝負のプロ級のトレーナーたちのことだ。
このランクに到達するには、まずは八つのポケモンジムを勝ち抜いてジムバッジを集める必要がある。バッジをすべて集め終えると特別なテスト——チャンピオンテストを受けることができ、それに合格すると晴れてチャンピオンランクを名乗れるようになるのだ。ネモは最年少でこのチャンピオンテストに合格した。
あのときのオモダカとのポケモン勝負は、スリリングで最高に楽しかった。ネモにとって、オモダカは憧れのトレーナーだ。だけど、ライバルかと言われると何か違う。
〈ロトロトロトロト……〉
ネモが思索にふけっていると、突如として着信音が鳴り響いた。「わわっ」と周りにいた生徒たちが反応する。その音の発信源は、ネモがポケットに入れていたスマホロトムだった。
「ちょっとごめんね」と生徒たちに断りを入れ、ネモは通話をつなげた。
〈もしもし、ネモちゃん?〉
「アンナ!」
スマホロトム越しに聞こえてきた声に、ネモは思わず笑みをこぼした。
「どうしたの?」
〈もうすぐ町に着くから連絡しようと思ったの! ネモちゃんが勧めてくれたから、西側の門から出たんだ。オリーブ畑が周りにあるんだけど……〉
「ってことは、セルクルタウンだね! わたしもいま向かってるとこ」
〈そうなの? ってことは、あとで会えるかもしれないね!〉
「うん! セルクルタウンにはむしタイプのジムがあるから、ジムリーダーに挑めるよ」
〈むしタイプか……きちんと作戦を考えないと〉
真剣な声に、ネモの脳内には自然とアンナの姿が思い浮かんだ。きっとどのポケモンで挑もうか考えているに違いない。
「初めてジムに挑戦するんだもんね。アンナならきっと大丈夫だよ、がんばって!」
〈ありがとう。また電話するね〉
「わたしもまた連絡する!」
通話を終えたスマホロトムを、ネモは見つめる。アンナと会話したせいか、なんだかいてもたってもいられなくなってきた。「お友達ですか?」と尋ねてくる女子生徒に、「そうなの」とネモは元気よく答える。スマホロトムでマップアプリを確認し、ネモは周りにいた生徒たちの顔を見回した。
「そういえば、さっきの質問、答えられなくてごめんね! ライバルとか、まだよくわかってないんだけど、そうなるかもしれない人は……いるんだ! だから楽しみなの」
ネモの答えが予想外だったのか、生徒たちは興奮したように顔を見合わせた。
「ええっ、いったい誰なんですか?」
「もしかしてさっきの……?」
「あはは、まだ秘密だよ!」
笑って答えながら、ネモは生徒たちに向かって大きく手を振った。
「それじゃあ、わたしはそろそろ行くね。ポケモン勝負、すっごく楽しかったよ! みんな、気をつけて旅してね」
「こちらこそ楽しかったです」
「生徒会長もお気をつけて」
「また勝負してください!」
見送りをしてくれる生徒たちを残して、ネモはパモとともに町へと続く道を歩き出した。そらとぶタクシーを使えば移動はあっという間だけれど、せっかくの旅立ちの日だから自分の足で歩いてパルデアの景色を楽しみたいと思ったのだ。
「あの子たちみたいにさ、アンナも途中で出会ったトレーナーと勝負したりしてるのかな」
歩きながら語りかけると、パモは機嫌よさそうに短く鳴いた。
揺れ動くパモのオレンジ色の耳を眺めていると、ネモはアンナと出会ったあの日のことを思い出す。彼女はコサジタウンにあるネモの家のすぐ近くに引っ越してきた、いわゆる「ご近所さん」というやつだった。
「そういえば、先ほど向こうのおうちに伺ったんですよ」
ネモがオレンジアカデミーの校長であるクラベルからそう告げられたのは、いまから一カ月前、自宅の玄関でのことだった。
バッグを斜めがけにし、ネモは忘れ物がないか確認する。いつも家事をしてくれているお手伝いさんたちが、「いってらっしゃいませ」とネモに向かって頭を下げた。
その日は引っ越しを済ませたばかりのご近所さんの初登校日ということで、クラベルがコサジタウンにやってきていた。午前中に彼がネモの家へ来たのもそれが理由だ。
クラベルは気さくな性格をしており、多くの生徒たちが彼のことを慕っている。もちろん、ネモだってそうだ。前回の宝探しが終わったあと、ネモは最年少チャンピオンになったことで、生徒会長に選ばれたりインタビューの依頼が殺到したりとなかなかに多忙な日々を送っていた。そんなときにクラベルは、校長としていろいろと手助けをしてくれたのだった。
「以前にもお話ししましたが、転入生の方がいらして……今日はネモさんに学校までの案内をお願いしたいと思っているのですが、ご都合などいかがでしょうか?」
「任せてください! どんな子なんだろう、仲よくなれたらいいなー」
楽しく会話を交わしながら、ネモは玄関の扉を開ける。隙間から差し込んできた日の光がまぶしく、ネモは思わず目元で庇を作った。その間、クラベルは先にネモの屋敷にある前庭へと歩を進めていた。
「おや、ずいぶんとお早い到着ですね」
クラベルの言葉に、ネモはぱちぱちと目を瞬かせる。逆光に目が慣れてくると、庭の様子が徐々に見えるようになってきた。
そこには三匹のポケモンと、それを見守っている一人の少女がいた。
花畑で遊んでいるポケモンは〈くさねこポケモン〉のニャオハ、転がるりんごを追いかけているのは〈ほのおワニポケモン〉のホゲータ、噴水で水浴びしているのは〈こがもポケモン〉のクワッスだ。この組み合わせを見て、ネモはピンと来た。オレンジアカデミーの入学時には、この三匹のポケモンのなかから一匹だけを選んでパートナーにすることができるのだ。
「こんにちはー! はじめましてだよね!」
ネモが声をかけると、少女は驚いたようにこちらを振り返った。彼女のダークブラウンの髪は少しくせっ毛で、垂れ気味な眉は前髪によって半端に隠されていた。
「こちら、今日からアカデミーに転入されるアンナさんです。いまはどのポケモンにするか選んでいる最中でしたかね」
クラベルの紹介に、アンナは驚いた表情から一転してパッと明るい笑みを浮かべた。
「はじめまして、アンナです!」
「わっ、おなかの底からいい挨拶! わたしはネモだよ。これからよろしくね!」
ネモが右手を差し出すと、「よろしく」とアンナはすぐさま手を握り返してきた。握手する二人を、クラベルが微笑ましそうに見る。
「ネモさんは我が校の生徒会長で、チャンピオンランクの凄腕トレーナーなんですよ。同じクラスの仲間同士、ゆっくりと交流を深めてくださいね」
「えー! 同級生なんだ。じゃあポケモン勝負やり放題だね!」
ネモは握っていた手を離すと、流れるような動きでモンスターボールを手に取った。
「わたし、ポケモン勝負が大好きなんだ! 挨拶代わりにさっそく戦ろう!」
アンナに詰め寄るネモに、クラベルがゴホンと咳払いをする。
「ネモさん。先ほども言いましたが、ゆっくりと!ですよ」
「あはは、すみません。つい」
やたらと強調された「ゆっくりと」という言葉に、ネモはモンスターボールを構えるのをやめ、頬をかいた。
一連のやりとりを聞いていたアンナが、おかしそうにクスクスと笑う。
「ネモちゃんはポケモン勝負が好きなんだね」
「うん! アンナは?」
「私は勝負どころか、まだポケモンを捕まえたことがなくて……。だから、いまから選ぶポケモンが私にとって初めてのポケモンなんだ」
「そうだったんだ! じゃあこれが記念すべき瞬間だね。なんだかわたしまでドキドキしてきたよ!」
ニャオハ、ホゲータ、クワッス。足元に近づいてきた三匹のポケモンを、アンナは一匹ずつ見つめていた。ニャオハは日光を浴びながら気持ちよさそうに丸くなり、ホゲータはマイペースにりんごをかじり、クワッスはご自慢の頭の毛をなでつけている。ネモの目には、三匹とも魅力的に見える。
どの子にするかじっくりと吟味しているアンナの横顔を眺めていると、ネモは不意に自分が初めてポケモンを仲間にしたときの高揚感を思い出した。
「……私、この子にする!」
しばらくしてアンナが手を伸ばしたのは、ホゲータだった。その頭の上では、ほのおエネルギーがゆらゆらと揺れている。アンナに選ばれたのがうれしかったのか、ホゲータは短い両手をバタバタと動かした。
「どうしてホゲータにしたの?」
「わかんない。ただ、目が合ったとき……なんていうか、ビビッと来たの! ね、ホゲータ」
「ホゲゲ?」
語りかけたアンナに、ホゲータが軽く首をかしげた。かわいらしい仕草に、ネモは思わず笑った。
そのとき、ふと自身の足元に違和感を覚えて、ネモは視線を落とした。いつの間に近づいてきていたのだろう、ニャオハがネモの靴に前脚をふみふみとこすりつけていた。
「その靴、気に入った?」
ネモはしゃがみ込み、ニャオハと目を合わせる。ニャオハは満足そうにゆっくりとまばたきした。その姿を見ているうちに、ネモはある素敵なアイデアを思いついた。
「先生! わたしも一匹選んでいいですか?」
「おや? ネモさんは……あぁ、そういえば入学時にポケモンをもらっていませんでしたか」
「はい。あのときは育てたいポケモンが別にいたので。でも、いまはアンナと一緒に新しい子を迎えたいなって思ったんです」
そう言って、ネモはいまだに機嫌よく靴をこね続けているニャオハを抱き上げた。ふわふわの体毛は、日差しを浴びていたせいか温かい。
クラベルの両目が、眼鏡のレンズ越しに細められた。
「それは素敵な心がけですね。ぜひアンナさんと同じスタートラインから始めてみてください」
「やった!」
「では、クワッスは私と参りましょうか」
クラベルの言葉に、クワッスが「プルッ」と短く鳴く。その拍子にクワッスのツヤツヤの毛が優雅に揺れた。
ニャオハをモンスターボールに戻し、ネモはアンナへ笑いかける。
「ポケモンも決まったことだし、さっそく勝負しなくっちゃ! 下のビーチに行こう」
「どうしてビーチに?」
「わたしの家の裏のビーチにバトルコートがあるんだよ。初めてのポケモン勝負にはうってつけ!」
颯爽と歩き始めるネモの後ろを、アンナは「とっても楽しみ」とワクワクした顔でついてきた。
自宅の裏にある砂浜のバトルコートは、ネモのお気に入りの場所だ。真っ白な砂浜に青い海。パラソルテーブルにデッキチェア。南国風の背の高い木は潮風に揺れ、その大ぶりの葉を震わせている。
水色を基調としたバトルコートは歩くと軽やかな靴音がする。トレーナーがスタンバイするのは、このコートの端っこだ。
ネモとアンナは、バトルコートを挟むようにして対峙した。
「勝負の準備はいい?」
いつもどおりモンスターボールを構えたネモに、観戦していたクラベルがあきれ顔で口を挟む。
「ネモさん、アンナさんは初めての!ポケモン勝負ですからね」
念押しされ、ネモは慌てて構えたばかりのモンスターボールをしまった。うっかりいつものポケモンを出すところだった。
「そうでした! それじゃあ……よーし、さっきの子のデビュー戦だ。ではあらためて……アンナ、準備は大丈夫?」
「うん!」
「それじゃあ、実りある勝負をしよっ!」
ネモがモンスターボールをコートへ向かって投げると、まばゆい光とともになかからニャオハが飛び出した。「私も」とアンナがボールからホゲータを出す。コートへと降り立ったホゲータは、はしゃぐように小さな手足をバタバタと揺らした。
ほのおタイプのホゲータとくさタイプのニャオハ。タイプ相性はホゲータのほうが有利だが、素早さはニャオハのほうが上だ。
「ニャオハ。まずは『しっぽをふる』!」
ネモの指示に従い、ニャオハがしっぽを振った。ふかふかのしっぽをリズミカルに左右に揺らすことで注意を引きつけ、相手に隙を生じさせる。ホゲータが気を取られてぼーっとしているあいだに、ニャオハは素早い動きで相手へ駆け寄った。
「『ひっかく』!」
ニャオハの爪がホゲータをひっかいた。攻撃を受けたホゲータは驚き、固まっている。
「ホゲータ、大丈夫?」
心配しながらも、アンナはホゲータから目を逸らさなかった。そのことに、ネモはこっそりと好感を抱いた。
多くのトレーナーたちはポケモン勝負が好きだけれど、自分のポケモンに勝負させることを怖がる人もなかにはいる。だけど、アンナはそうじゃない。先ほど会ったばかりのポケモンのことを、強く信頼している感じがする。
「『ひのこ』!」
アンナの指示に従い、ホゲータが大きく口を開ける。バトルコートの中央に火の粉が放たれる。軽やかな動きで、ニャオハはその攻撃をよけた。わずかにかすったようだが、ニャオハはまだまだ元気だ。ネモは小さく息を吐く。
ほのおタイプの技の『ひのこ』は、くさタイプのニャオハにはこうかばつぐんだ。ホゲータは何度か『ひのこ』を放ったが、ニャオハが回避したおかげでどれも決定打にはならなかった。
ネモはじっとホゲータの様子を観察する。素早く動き回るニャオハに、ホゲータはオロオロと翻弄され続けている。このままニャオハが回避し続ければ、きっと勝てる。ネモは相手の攻撃が途切れた隙を突き、指示を出した。
「ニャオハ、『しっぽをふる』!」
その言葉に、ニャオハがしっぽを揺らす。ホゲータは再びニャオハのしっぽの動きに気を取られた。
ニャオハはくさタイプの技の『このは』も覚えているが、ほのおタイプのホゲータには分が悪い。そう瞬時に判断したネモは、まっすぐにホゲータを指差して告げる。
「いいよ! そのまま『ひっかく』!」
相手から距離を取っていたニャオハが、一直線にホゲータへ突っ込んでいく。その爪が、ホゲータに向かって振り下ろされた。
決まった——そう思った瞬間、ネモはアンナの瞳の奥にきらめくものを見た。自分だけがこっそりと見つけた夜空に光る流れ星みたいな、刹那的でまばゆい光。
「ホゲータ、『たいあたり』!」
鋭い声が飛んだと同時に、ホゲータがニャオハへと身体をぶつける。ホゲータよりも体重の軽いニャオハは、バランスを崩してよろめいた。そこに生まれた、一瞬の隙。それをアンナは見逃さなかった。
「決めるよ! 『ひのこ』!」
至近距離にいたニャオハに向かって、ホゲータが口から火の粉を放つ。真正面から攻撃を受け、ニャオハは目を回してペタンとその場に座り込んだ。
この勝負、アンナとホゲータの勝利だ。
「ニャオハ、お疲れ様」
ネモは倒れたニャオハに駆け寄ると、その頭をなでてからモンスターボールへと戻した。アンナとホゲータは両手をタッチし、初めての勝利を喜んでいた。
それにしても、とネモはついさっきの勝負を思い返す。先ほどのホゲータの『たいあたり』。あれは、確実に『ひのこ』を当てるためにニャオハが回避できないタイミングを生み出すためのものだったのだ。
初めてとは思えないバトルセンス。これはもしかすると、もしかするかも……と、ネモはまっすぐにアンナを見つめた。未来への予感がネモの気持ちをたかぶらせた。
「初めての勝負で勝っちゃうなんて、思ってた以上にすごい! アンナ、絶対にもっと強くなるよ!」
「ありがとう。ポケモン勝負って、こんなにおもしろいんだね」
そう言って、アンナは白い歯を見せて笑った。屈託のない声に、ネモも思わず笑顔になる。
「アンナが勝負を好きになってくれてうれしい! 違う戦法も試したいし、もう一回勝負しよー!」
「うん、望むところだよ」
すかさずバトルコートの両端に移動しようとした二人だったが、「お待ちください」というクラベルの言葉によって阻止された。その足元にいるクワッスが、「ワップス」と短く鳴く。
「お二人とも、ニャオハさんもホゲータさんも疲れておいでですよ」
「あ、すみません。ついつい興奮しちゃって」
ネモは慌ててモンスターボールにかけていた手を下ろした。気持ちはアンナも同じだったのか、少し決まりが悪そうに頬をかいていた。
「さっき出会ったばかりなのに、お二人はもう仲よしさんですね。ネモさん、チャンピオンとしてアンナさんにいろいろと教えてあげてください」
「もちろんです! アンナ、絶対にまた戦ろうね!」
「うん! またやろう」
ネモが笑いかけると、アンナもニッと口角を上げて笑った。緩やかに跳ねる彼女の髪の毛が、日に焼けていない頬にかかっていた。
それからはいろいろなことが起こった。二人でコサジの小道を探索していると、どこからか不思議な鳴き声が聞こえてきたり。それを調べているうちに崖から落っこちたアンナが、〈ダークポケモン〉のデルビルの群れに襲われそうになったり。そんなアンナを〈ライドポケモン〉のモトトカゲに似た見たことのないポケモン——コライドンが守ってくれたり。ようやく灯台にたどり着いたと思ったら、今度は普段学校に通っていないペパーという男の子と遭遇し、アンナがポケモン勝負を挑まれたり……。
ハプニングが続いてしまったけれどアンナが無事で何よりだ、とネモは安堵の息を吐いた。引っ越してきたばかりなのに、怖い思いをしたせいでパルデア地方の印象が悪くなったら残念だ。
「せっかく灯台に来たんだから、上に登ろっ! わたしたちの学校が見えるんだ」
ネモが灯台の先端を指差すと、アンナがそれに合わせて顔を上へと向けた。灯台の内部にははしごがあり、それを登ると展望デッキに行けるのだ。ネモが先にはしごを登り、アンナがそのあとに続いた。
扉を開けてネモがデッキに顔を出すと、この日は偶然にもほかに人がいなかった。
「晴れててよかったー!」
赤色の手すりにつかまり、ネモは展望デッキから身を乗り出す。あとからはしごを登ってきたアンナが、「とってもきれい」と左隣で声を弾ませた。
展望デッキは360度見渡せるようになっており、パルデア地方のさまざまな場所を見ることができる。手すりに沿って展望デッキをぐるりと歩くと、美しい水平線や緑の山並み、そしてオレンジアカデミーの校舎が視界に入った。
ネモは右手で校舎のある方角を指差した。
「モンスターボールの形をしたオブジェがついてる大きな建物があるでしょ? あれがわたしたちの学校だよ!」
「わあっ、大きいね」
そう言ったアンナの視線が、不意にネモの右手に注がれた。厳密に言うと、ネモの装着した黒いグローブに。
「ネモちゃんのそれ、カッコイイね。パルデア地方だとそういうファッションがはやってるの?」
「これはおしゃれじゃなくて、お父さまの会社の試作品なんだ」
「試作品? ってことはお店じゃ売ってないんだね。手袋?」
「ただの手袋じゃないよ。腕時計型ガジェットを改造したもので、ボールを投げるときに指示を出してサポートしてくれるの。ポケモンを捕まえるときにも便利なんだ」
「そういえばネモちゃん、ポケモンを捕まえるの苦手だって言ってたもんね」
「そうなの、へたっぴなんだよ。わたしとしては、初めてなのにアンナが上手なことのほうがびっくりしたなー」
ここに来るまでの道中、ネモはアンナにポケモンの捕まえ方をレクチャーした。彼女は驚くほどのスピードでボールを投げるコツを習得し、コサジの小道に生息するハネッコや〈いとだまポケモン〉のタマンチュラを捕まえていた。
謙遜するように、アンナが手を左右に振る。
「それはたぶん、ネモちゃんがいい先生だったからだよ」
「あはは、そうだとうれしいな」
「あっ、そういえばさっき別行動してるときにもポケモンを捕まえたんだった」
思い出したようにそう言ってアンナがモンスターボールから出したのは、〈こいぬポケモン〉のパピモッチだった。しっとりすべすべのボディが魅力のポケモンで、その吐息に含まれている酵母は料理に非常に役立つ。パルデア地方では昔から人々の生活に根づいているポケモンだ。
「この子、パルデアに来て初めて見たよ。あと、さっきネモちゃんが捕まえたポケモンも」
「パモのこと?」
ネモはモンスターボールを取り出した。アンナと同様に、ネモもまた道中で新しい仲間が増えていた。パモだ。
ボールから出すと、パモはぱちくりと目を瞬かせた。やがてスンスンと鼻を動かし、辺りの様子を探り始める。
「パモっていうんだね。かわいい」
「パモの黄色のほっぺたの電気袋は未発達なんだよ。手の肉球が放電器官になってて、進化すると後ろ脚で立つようになるの」
「ネモちゃんって、ポケモンに詳しいんだね」
「勝負に必要な知識だからね。ポケモン図鑑を見てたらアンナもきっと詳しくなるよ。わたしたちの担任のジニア先生が開発したアプリなんだ」
「へぇ! すごい先生なんだね。早く会ってみた——うわっ」
アンナの言葉が途切れた原因は、接近してきたパモに驚いたことだった。いったい何に反応しているのか、パモのオレンジ色の耳がパタパタと揺れている。アンナは困ったように首をひねっていたが、やがてはたと気づいたようにリュックのなかをのぞき込んだ。
「もしかして、ママのサンドウィッチの匂いが残ってたのかな? ごめんね、さっきコライドンにあげちゃったんだよ」
「あっ、それならわたしもサンドウィッチ持ってるよ。お手伝いさんが『軽食にしてください』って持たせてくれたんだ」
ネモは自身のバッグからきれいに包装されたサンドウィッチを取り出した。それを目にした途端、パモは目を輝かせてネモのほうへと寄ってくる。
食べやすいようにという配慮なのだろう、サンドウィッチには切れ目が入っていた。
「アンナも食べて食べて」
ネモはサンドウィッチをひと切れ手渡す。アンナは「ありがとう」と笑顔で礼を言うと、豪快にサンドウィッチへかじりついた。
食べたそうにうずうずしているパモにも、ネモはひと切れ分けてあげた。パモは機嫌よさそうにひと口でそれを頬張った。
「おいしい! おなかすいてたからうれしいよ」
「ならよかった。アンナのお母さまのサンドウィッチも食べてみたかったなー」
「ママの料理、とってもおいしいんだよ。私もいつかおいしいサンドウィッチを作れるようになりたいんだ。作れるようになったら、今度は私がネモちゃんにごちそうするね」
「それは楽しみ!」
サンドウィッチを手にしたまま、ネモは身体を左に向けた。アンナの肩越しに真っ青な水平線が見える。太陽の位置は高く、光を反射する海面は宝石を砕いたかのようにきらめいていた。
サンドウィッチを食べ進めるのをやめ、アンナが急にネモのほうへと顔を向ける。
「……ネモちゃん」
「ん?」
「じつを言うとね、昨日はドキドキして眠れなかったんだ。新しい学校ってどんなところかな、新しい友達がちゃんとできるかなってちょっと心配で」
吐露された心情は、ネモにとっては意外なものだった。初めて挨拶したとき、アンナはとても堂々としているようにネモには見えていたからだ。
「そっかー、そうだよね。お引っ越しって緊張するもん。わたしもパルデアに引っ越してきたばかりのときは大変だったよ」
「えー! ネモちゃんも引っ越してきてたんだ。知らなかった」
「結構前の話だけどね。ここに住んで、わたしはパルデアのことが大好きになったの。オレンジアカデミーに通えたし、いろんな人やポケモンとも出会えたし」
ネモの言葉に、アンナは真剣な面持ちで耳を傾けていた。その両目が一度、大きくまばたきする。彼女は自分の心臓の辺りを片手でさすり、それからネモと目を合わせた。
「なんだか、昨日までの不安がどっかに行っちゃったみたい! いまはとってもワクワクしてる。ネモちゃんのおかげだよ」
「ええ? そんなことないって」
「そんなことあるよ! まだ学校に着いてないのに、とっても楽しいもん」
ハラハラすることもあったけど、と笑いながら言い、アンナは残りのサンドウィッチをすべて平らげた。風になびく髪を耳にかけ、彼女は目を細める。
「ネモちゃんってさ、一年生なのに生徒会長なんでしょう? さっきクラベル先生が言ってたのを聞いて、びっくりしたよ」
「流れでなってたって感じだけどね。チャンピオンになってからはいろいろと慌ただしかったし」
「同級生なのに生徒会長で、チャンピオンで……それってきっと、ネモちゃんがすごく努力してるってことだよね。さっきのポケモンの知識もさ、ネモちゃんが勉強してる証だし」
無意識のうちにごくりと喉が鳴った。なんと言っていいかわからず、ネモは手にあったサンドウィッチを食べ進めた。胸に芽吹いたのは、照れくさいというのとはまた違う、不思議な感情だった。
「私もね、学校でたくさん勉強して、いろんなことをやってみたいな。ネモちゃんのいる学校ならきっと、素敵なところなんだろうなって思うんだ」
アンナの視線はまっすぐで、本心からの言葉だと伝わってくる。ネモはシルクのハンカチで手を拭った。
そう言ってもらえてうれしいよ——そうネモが告げようとしたそのとき、不意に強い風が吹いてネモの前髪を揺らした。緑色の髪が空へと翻り、ネモは慌てて手で押さえる。アンナは自身の髪の毛が乱れるのも気にせず、手すりから身を乗り出すようにして下の風景を眺めていた。
「風が強いと、草むらの葉っぱが揺れて緑が波打って見えるね。本当にきれい」
「すっごいよね。わたし、ここから見えるパルデアの景色、気に入ってるんだ」
手すりに手を伸ばし、ネモはアンナの顔をのぞき込む。
「ねぇ、アンナ。パルデアのこと、好きになれそう?」
「まだ来たばかりだからわかんない。でも、これからいっぱいパルデアのいいところを知っていきたいな!」
つるりとしたアンナの焦げ茶色の瞳には、鮮やかな緑が映り込んでいる。元気いっぱいの返事に、ネモは思わず笑みをこぼした。
グローブに包まれた右の手のひらを空に向け、ネモは言った。
「あらためて……パルデア地方へようこそ!」
二
「おや、ネモさん。奇遇ですね」
課外授業の最中、思いがけないタイミングでネモがクラベルに声をかけられたのは、ハッコウシティの街角だった。
ハッコウシティはパルデア地方の東に位置している大都市で、高層ビルが建ち並ぶ華やかな都会だ。かつては北の鉱山で採れた資源を運ぶ港町だったが、時代とともに街並みは変化し、現在はビジネスとハイテクの街になった。夜でも煌々としているこの街の景色は、「100万ボルトの夜景」と呼ばれている。
この日の昼下がり、ネモはショッピングするためにハッコウシティにやってきていた。ポケモン勝負用の道具が欲しかったのだ。
「クラベル先生、こんにちは!」
ネモの返事に、クラベルは白い眼鏡フレームを持ち上げて柔和に微笑した。
「宝探しのほうは順調ですか?」
「はい! バッチリです」
課外授業が始まってから、すでに一週間ほどが経過している。その間、ネモは多くのトレーナーと出会い、多くのポケモン勝負を経験した。
勝負は一期一会、そうネモは考えている。再度同じ相手と同じポケモンで戦ったとしても、同じ勝負は一度としてない。だからこそ、すべての勝負が新鮮で楽しい。そうした経験は学校で授業を受けているだけではなかなかできないもので、ネモは自分がこの宝探しの時間をめいっぱい満喫していることを自覚していた。
「クラベル先生は……もしかしていま、お取り込み中でしたか?」
首をひねったネモに、クラベルは意味深長に笑みを深めた。
「じつは、先ほどハッコウシティのジムリーダーの方に頼みごとをされまして」
「頼みごと?」
「ええ。ポケモンリーグにはお世話になっていますので、ちょっとしたお手伝いです。依頼されたからには真剣に取り組まねば……そういうわけですので、失礼しますね」
「なんだかよくわからないですが、がんばってください!」
「ありがとうございます」
それでは、と軽く一礼し、クラベルはその場を立ち去った。よくよく周りを観察してみると、道路の端に立ち止まってスマホロトムの画面に夢中になっている通行人が大勢いる。聞き耳を立てずとも、「ナンジャモの配信だ」「お、ジムテストやってんねー」と人々の興奮した声がネモの耳へと飛び込んできた。
ハッコウシティのジムテストということはもしかするとポケモン勝負が見られるかもしれない、とネモもスマホロトムを取り出した。小さな画面に映し出されたのは、人気チャンネルの「ドンナモンジャTV」の配信だ。再生ボタンを押すと、見覚えのある顔が現れた。
〈皆の者~! ドンナモンジャTVの時っ間っだぞー! あなたの目玉をエレキネット! 何者なんじゃ? ナンジャモです!〉
ピンク色と水色のパステルカラーの髪に、感情豊かなコイル形のヘアアクセサリー。チャームポイントのギザギザの歯をのぞかせているのは、ハッコウシティのジムリーダー・ナンジャモだった。ボリュームのある袖を動かしながら、彼女はカメラに向かって語りかけている。
だが、ネモが反応したのはそちらではない。
「アンナ⁉」
画面に大々的に映っていたのは、ハッコウジムの前で突然カメラを向けられて驚くアンナの姿だった。
〈おはこんハロチャオ! 挑戦者氏~! ボクに会うためにハッコウジムに来てくれてアリガト! どこから来たの?〉
〈オレンジアカデミーから来ました〉
〈ってことは宝探し中? いいね~、青春じゃん! って、あれれ? そこの柱の裏に何かが潜んでますぞ! なんかギラギラした目が見えるんですけど……も、もしや新たなる挑戦者氏?〉
〈あっ、私のゲンガーです。かくれんぼが大好きで〉
アンナの声に反応するかのように、陰からするすると〈シャドーポケモン〉のゲンガーが抜け出てきた。半月の形をした真っ赤な両目に、ニタリと笑う大きな口。その背丈はアンナとほぼ変わらない。前にネモと会ったときには連れていなかったポケモンだ。
〈なんとなんと、かくれんぼがお好き? じゃあ今回の企画にピッタリかも⁉〉
〈企画?〉
〈そう! じつはね、ボクってちょっと有名人だから、とーっても忙しいんだー! だから企画をやってバズりが見込める——じゃなくて、熱意が伝わってくる相手としかコラボできないんだよ。トホホ……〉
ナンジャモが大げさに肩を落とす。
ハッコウジムのジムテストでは、毎回、配信中にゲーム形式の企画が行われることになっている。この企画を見事クリアできた挑戦者のみが、ジムリーダーであるナンジャモとあとで勝負する権利を得られるという流れだ。
〈ってなワケで! ボクとバトりたかったら番組の企画を盛り上げてネ!〉
ナンジャモの言葉に、アンナはぎゅっと拳を握ってうなずいた。
〈わかりました! 一生懸命がんばります〉
〈おっ、やる気マンマン! んじゃ、企画の説明始めちゃうよー! 街角ジェントルさん、いらっしゃーい!〉
その呼び声とともに画面に堂々と映し出されたのは、なんと先ほど別れたクラベルだった。ナンジャモからの頼みごととはこれのことだったらしい。映像をよく見ようと、ネモはスマホロトムに顔を近づけた。
企画をシンプルに説明すると、挑戦者がずっと鬼役を務めるかくれんぼだ。ハッコウシティには監視カメラがたくさん設置されており、それによって治安が守られている。今回はそのカメラを利用して、風景に紛れたジェントルさん(クラベル)を捜すらしい。ジェントルさんを三回見つけることができれば、ジムテストに合格のようだ。
一回目の「街角ジェントルさんをさがせ!」の舞台は、ジム前の道路だった。植木や街路樹の陰、設置されたパラソルテーブルなどを、ネモはスマホロトム越しにじっくりと眺める。優雅に過ごすクラベルを見つけたときには、思わず「やった」と声が出た。
ネモ以外にもジェントルさん捜しに熱中している人は多いらしく、何人もの通行人が道路端で足を止めてスマホロトムに釘づけになっている。「見つかんないよー」「あっ、いたいた。ここだ!」「ナンジャモかわいいー」「あれ。このジェントルさん、どこかで見た気が……」と配信の感想があちこちで飛び交っていた。
なかでもネモが惹きつけられたのは、かくれんぼとかくれんぼのあいだに行われる挑戦者とジムトレーナーとのポケモン勝負だった。勝負中も配信は続いており、アンナのポケモンが華麗に技を決めるたびに、ハッコウシティのあちこちから歓声が上がった。街全体がナンジャモの配信に夢中なようだ。
それから二回目、三回目のかくれんぼも成功し、アンナは見事にジムテストをクリアした。配信の同時視聴者数もシビルドン登りに増えている。役目を完璧に果たしたクラベルが画面から去っていくのを見守ったあと、ナンジャモは〈フヒヒ!〉といたずらっぽく笑った。
〈いやー、白熱したゲームに全世界の皆の者も大興奮だったぞよ! アンナ氏と勝負すれば、ボクの動画がもーっと楽しくなりそう!……ってなわけで、アンナ氏とのコラボならいつでも受付チュー!〉
その言葉にアンナは〈やったー〉と拳を空へと突き上げた。ナンジャモがカメラに向かってウインクする。
〈あ、それと今日はこの配信を見ている皆の者に向けてお知らせがあるぞ~! 来週ハッコウシティで行われる花火大会。毎年大人気のこのイベントのメインステージに、な・な・ぬぁーんと! このボク、ナンジャモが出演するぞ~!〉
配信を見ていた通行人たちが、わっと明るい歓声を上げる。やはりナンジャモの人気は相当なものであるようだ。
スマホロトムの画面を見ながら、今年ももうそんな時季になったのかとネモはしみじみ思った。ハッコウシティの花火大会といえば、何万発もの花火が打ち上げられるパルデア地方のビッグイベントだ。
ネモも昔、両親に連れられて、高層ビルの特等席で観たことがある。ピカチュウ形のかわいい花火も好きだったけれど、ギャラドスの炎舞と呼ばれる巨大花火の迫力がすさまじかったことがやけに印象に残っていた。
〈こんなビッグなイベントに呼ばれるなんて、あーん幸せ! 天に召され~! 花火とナンジャモの夢の競演にビリビリィ~ッと来ちゃったそこのキミ、花火大会の日にはハッコウシティまでおいでませませ~!〉
ナンジャモが長い袖を振っている後ろで、アンナも手を振っている。その顔を見た途端、不意にネモのなかにひとつのアイデアが思い浮かんだ。
——アンナを花火大会に誘うのはどうだろうか?
ネモが考えているあいだ、画面に映り込んでいる通行人たちがカメラに向かってピースしていた。ナンジャモがギザギザの歯をのぞかせて笑う。
〈あなたの目玉をエレキネット! エレキトリカル★ストリーマー、何者なんじゃ? ナンジャモでした~!〉
配信の最後は、そんなお約束の挨拶で締めくくられた。ネモはスマホロトムをしまうと、ハッコウジムに向かって駆け出した。
いまならきっと、アンナがそこにいるはずだった。
「あっ、ネモちゃん」
聞こえてきた声に、走っていたネモはパッと顔を上げる。ハッコウジムに着くよりも相手に気づかれるほうが先だったようだ。ゲンガーを連れて道路を歩いていたアンナが、こちらに向かって手を振っている。先ほどの配信で見たのとまったく同じ姿だった。
「アンナ! 会えてよかった。さっきのナンジャモさんの配信を見てたんだよ。アンナが出てきてびっくりしちゃった」
「私もだよ。まさかこんなところで会うなんて」
「そっちのゲンガーはさっき配信で連れてた子?」
ネモが目を向けると、ゲンガーはなぜか挑発するように舌を出した。
「うん。昨日ね、街で会った子に『バチンウニを持ってたらわたしのゴーストと交換して』って声をかけられたんだ。それで交換したら、突然ゲンガーに進化しちゃったの! 私、驚いちゃって」
「交換したばっかりのポケモンが進化するとびっくりするよね」
「うん、いったい何が起きたんだろうって。でもゲンガーとはすぐ仲よしになったんだよ。今日の勝負でもいっぱい活躍してくれて……って、あれ?」
アンナが目を向けると、ゲンガーは隣にいなかった。いつの間に移動したのだろう、生け垣の陰に隠れ、通行人を驚かせて遊んでいる。「うわっ」「なんだなんだ!」と驚く人々に、ゲンガーは愉快そうに舌を突き出して笑っていた。
アンナが慌ててゲンガーを呼び寄せる。
「こら。ゲンガー、ダメだよ」
そうアンナがたしなめると、ゲンガーは急に決まりが悪そうにオロオロと目を泳がせた。いたずらするのは好きだが、怒られるのは苦手らしい。
「反省してるみたいだね」
ネモの言葉に、アンナは「だといいんだけど」と肩をすくめた。
「さみしがりな性格のせいなのかなぁ。構ってもらうのが好きで、いっぱいいたずらしちゃうの」
「元気があり余ってるのかもよ? ポケモン勝負するといいかも!」
「それはネモちゃんがやりたいだけでしょ」
「あはは! バレたか」
ネモが頬をかくと、アンナはうれしそうに口元を緩めた。
「冗談だよ。私もネモちゃんと勝負したいなって思ってたんだ」
「アンナも? うれしい! それじゃ、ジムバトル前の練習としてわたしと一回勝負しとこっか!」
ネモの提案に、アンナは笑顔でうなずいた。
ハッコウシティのバトルコートは、モンスターボールの形をした歩道橋の中央部分に位置していた。近未来的なデザインの照明がコートを囲むようにして並んでおり、金属製の欄干から見下ろすと真っ青な海面が広がっている。周りには矢継ぎ早に画面が切り替わる電光掲示板や、シャープなシルエットをした高層ビル。華やかな人工物が建ち並ぶ光景は、いかにも大都市らしい。
ネモはジムに挑む前、あらかじめバトルコートに来て立地や材質を把握することにしている。ポケモンの動きやすさや踏ん張ったときの滑りやすさ、そのほか、気候などを確認しておくことで勝負を有利に進めることができるのだ。
「アンナ、準備はいい?」
バトルコートの反対側に立つアンナに、ネモは大きな声で語りかける。ナンジャモの配信でジムトレーナーとポケモン勝負をしていたアンナだが、このコートに来る前にきちんとポケモンセンターに立ち寄っていた。「大丈夫ー!」とアンナが両腕で丸印を作った。ネモは右手のグローブの裾を引き上げた。
「それじゃあ、三対三で勝負ね。実りある勝負をしよっ!」
「うん!」
ネモの現在の仲間は、ニャローテ・パモ・イワンコの三匹だ。つい先日、旅の途中でニャオハがニャローテに進化したのだった。おそらく、アンナのいまの実力に対するのにふさわしい編成だろう。
先ほどのジムトレーナーとの勝負で、アンナはアチゲータを出していた。ネモのニャローテと同じく、ホゲータが進化したのだ。ほのおタイプのアチゲータとくさタイプのニャローテがぶつかると、ニャローテが不利になる。悩んだ挙げ句、ネモは最初にイワンコを出した。
「任せたよ、イワンコ!」
「ゆけっ! パピモッチ!」
アンナの一匹目はパピモッチだった。パピモッチはフェアリータイプ、同じく〈こいぬポケモン〉のイワンコはいわタイプだ。
「まずはイワンコ、『かげぶんしん』!」
「パピモッチ、『ほしがる』!」
イワンコがその場で素早く動き、分身を作り出している。その間、パピモッチは小さく鳴きながら、瞳をうるうると潤ませ甘えるような仕草を見せた。
その動きに油断したのか、イワンコはネモが持たせていたオボンのみをうっかり落としてしまった。さっきまでの甘える仕草はどこへやら、パピモッチがそそくさと動いてそれを拾い上げる。
「イワンコ、油断しちゃダメだよ。『いわおとし』!」
「パピモッチ、よけて!」
イワンコが落としたいくつかの岩はパピモッチに命中した。ネモはすぐさま畳みかける。
「もう少しだよ! イワンコ、『かみつく』!」
イワンコがパピモッチに攻撃する。倒した——そう確信したネモだったが、意外なことにパピモッチはまだ元気に動き回っている。
「……そうか! さっきのオボンのみで回復したんだ!」
「いまがチャンスだよ! 『じゃれつく』!」
パピモッチがイワンコにじゃれついた。一見するとかわいい動きだが、ダメージはしっかり入っている。足を止めたイワンコに向かって、アンナがまっすぐに指差した。
「さっきのお返し! パピモッチ、『かみつく』!」
パピモッチの攻撃を受け、イワンコはその場にペタリとへたり込んだ。
「ありがとう、イワンコ」
ネモはすぐさまイワンコをボールに戻す。次に繰り出したのはニャローテだった。
「速攻で決めるよ! ニャローテ、『でんこうせっか』!」
その指示どおり、ニャローテは素早く動いてくれた。攻撃を受けたパピモッチは倒れ、アンナがすぐさまアチゲータへと交代させる。
やはりアンナはポケモンのタイプ相性を的確に見極めている、とネモは気を引き締めた。
「ほのおとくさじゃ、こっちの分が悪いね。それなら……」
ネモはとっさにモンスターボールにニャローテを戻すと、パモを繰り出した。
でんきタイプのパモとほのおタイプのアチゲータ。タイプ相性としては五分五分だが、ネモには勝算があった。ニャローテが苦手なほのおタイプへの対策として、パモにじめんタイプの技を覚えさせていたのだ。
「アチゲータ、『かみつく』!」
「パモ、『あなをほる』!」
パモに攻撃しようと近づいてきたアチゲータだったが、パモが自分の掘った穴へ潜るほうが速かった。姿をくらませたパモを、アチゲータは目をぱちくりさせながら捜している。
「いまだよ、パモ!」
ネモの声とともに、パモが掘った穴から飛び出した。そのままアチゲータに攻撃する。
「アチゲータ、耐えて! そのまま『あくび』!」
パモの至近距離にいたアチゲータが、口を大きく開けてあくびをした。パモもまた、釣られるように大きく口を開ける。すぐに後退してアチゲータからじゅうぶんな距離を取ったパモだが、その目元はなんだかとろんとしている。
「ああっ、ねむけが移っちゃってる! こうなったら早めに決めなきゃ——パモ、『でんきショック』!」
「アチゲータ、『やきつくす』!」
炎と電気が衝突する。風とともに運ばれてきた熱に、ネモはとっさにまぶたを閉じた。次に目を開けたとき、どーんとその場に大の字になって倒れていたのはアチゲータのほうだった。
アンナがねぎらいの言葉をかける。
「アチゲータ、お疲れ様! ゲンガー、出番だよ!」
アンナが最後の一匹を繰り出した。ボールから外に出た途端、ゲンガーは機嫌よさそうに赤い舌をべーっと突き出した。
「パモ、さっそく『でんきショック』……って、あれれ」
ネモが気づいたときには、パモはすっかりその場で眠ってしまっていた。アチゲータの『あくび』のせいだ。その隙をアンナが見逃すはずもなく、パモはゲンガーの『たたりめ』によってあっという間にダウンしてしまった。
「パモ、ありがとう! がんばったね」
モンスターボールにパモを戻し、ネモも最後のポケモンを繰り出す。先ほど引っ込めたニャローテだ。
——いましかない!
そう確信したネモは、自身のテラスタルオーブに手を伸ばした。
テラスタルとは、ポケモンが宝石のように光り輝くパルデア地方特有の現象だ。ポケモンの頭部などに王冠のような形をしたテラスタルジュエルが発生し、その体表も宝石のように変化する。テラスタルしたポケモンはタイプがテラスタイプに変わったり、テラスタイプと一致する技の威力が強力になったりする。ただし、テラスタルは一回の勝負に一度しか発動できない。そのため、どのタイミングで発動させるかが、勝敗を握る鍵となる。
このテラスタルをするのに必要な道具がテラスタルオーブで、一部のトレーナーが所持することを認められている。本来はさまざまな手続きが必要なのだが、ネモの計らいでアンナは登校初日にテラスタルオーブを手に入れていたのだった。
「アンナもテラスタルオーブ、持ってるもんね。テラスタル、やっちゃうよ!」
「私だって!」
ネモとアンナは同時にテラスタルオーブを手に持ち構えた。強い風が集まり、オーブからはまばゆい光が放たれる。
コート上にいたニャローテとゲンガーはその光に包まれ、やがて身体は宝石のようにきらめき始める。ネモは自身の胸が高鳴るのを感じながら、ニャローテに向かってまっすぐに腕を伸ばした。
「いくよ! ニャローテ、『かみつく』!」
「ゲンガー、『シャドーパンチ』!」
パンチを放つゲンガーに、ニャローテもまた攻撃を繰り出す。
ゴーストタイプとどくタイプ、ふたつのタイプを持つゲンガーと、くさタイプのニャローテ。どくタイプのポケモンにくさタイプの技を繰り出しても効果はいまひとつなため、ニャローテが覚えている技のなかでいちばんダメージを与えられるものはあくタイプの『かみつく』だ。
だが、ニャローテが『かみつく』を繰り出しても、ゲンガーは絶妙な動きで急所に当たるのを避け、ダメージを軽減させていた。決定打を放つためにはやみくもに攻撃しているだけでは足りないと、ネモは脳をフル回転させて思考を巡らす。
アンナもまた策を練っているのか、真剣な面持ちでゲンガーを見つめている。そのまなざしにともる光を見つけた瞬間、ネモは身体の内側でゾクゾクと楽しさが沸き上がってくるのを感じた。
「あはは!」
ポケモン勝負特有の、心がヒリヒリするような感覚がネモは好きだった。一手読み違えると、すぐさま形勢が逆転するあの感じ。
「ニャローテ、『タネばくだん』!」
ネモの指示に、ニャローテがゲンガーに向かって種を飛ばした。当たった箇所を、ゲンガーは自身の手でさすっていた。
「大丈夫?」
心配するアンナの声に反応し、ゲンガーが腕をパタパタと動かした。向こうにはまだまだ余裕がありそうだ。
バトルコートの様子を観察し、ネモはさらに頭を回転させる。
アンナのゲンガーは非常に素早い動きを見せている。おそらく次は先手を取られてしまうだろう。勝利を目指すには、まずは攻撃をよけつつ、そのうえでこちらの攻撃を確実に当てなければならない。
いったいどうすれば……とネモが思考を深めていたそのとき、先ほどの『タネばくだん』のときに落ちた種が目に留まった。ハッコウシティのバトルコートの床はなめらかだが、パモの『あなをほる』のせいでところどころ地面が盛り上がっている。その溝に引っかかるようにして、種が一カ所にたまっていた。
「ニャローテ、もう一回『タネばくだん』!」
ネモの指差すほうに向かって、ニャローテが種を飛ばした。それはゲンガーがいる場所とはまったく見当違いの方向だった。地面に落ちた種が、飛ばされた勢いのまま地面に散らばる。
アンナは考えるように下唇を軽くかんだ。
「何か企んでる?……でも、攻めるしかないね。ゲンガー、『あやしいひかり』!」
コート上に現れた真っ白な光の玉が、ニャローテを惑わせた。光が奏でる怪しげな動きに、ニャローテの目がぐるぐると回り出す。
「しまった! 混乱しちゃった!」
「いまのうちだね。ゲンガー、『シャドーパンチ』!」
アンナの指示に、ゲンガーが攻撃を仕掛ける。ニャローテはいまだに目を回している様子だが、ここはニャローテががんばってくれることに賭けるしかない。
「ニャローテ、『エナジーボール』!」
ネモの声を聞いた刹那、ニャローテの瞳に強い光が宿った。緑色の光の玉が繰り出され、そのままゲンガーに向かって飛んでいく。
「当たらないよ!」
「ニャローテ、もう一回『エナジーボール』!」
何度も飛んでくる光の玉を、ゲンガーはひょいひょいとよけていく。だが、ネモが狙っていたのはその真後ろだ。『エナジーボール』でゲンガーを誘導した先は、先ほどの『タネばくだん』の種が落ちている場所だった。
「ニャローテ、もう一回!」
ニャローテの放ったエナジーボールが種に当たり、その衝撃でパンパンと音を立てて弾けた。ニャローテのほうを向いていたゲンガーは音に驚き、ニャローテに無防備に背を向けた。
「これで決めるよ! ニャローテ、『かみつく』!」
完璧なタイミングでニャローテが攻撃すると、ゲンガーの身体がふらりとよろめいた。急所に攻撃が当たったのだ。やったか、とネモが思った瞬間、アンナの声が響いた。
「ゲンガー、『しっぺがえし』!」
しまった、とネモが思ったときにはもう遅かった。至近距離に近づいたニャローテに、力を振り絞りゲンガーが『しっぺがえし』をお見舞いする。相手よりあとに攻撃したおかげで、その威力は高まっている。
パリン、と何かが砕ける音が二方向から響き渡った。それと同時に、ニャローテとゲンガーの頭上で輝いていたテラスタルジュエルが砕け、二匹はもとの姿へと戻っていく。数十分にも及ぶ勝負は、どうやら引き分けのようだった。
「ニャローテ、がんばってくれてありがとう!」
心からの感謝を告げ、ネモはニャローテをモンスターボールへ戻した。
勝負を終えてしばらくのあいだ、アンナは呼吸を整えるようにその場で荒い息を繰り返していた。その頬は赤く、見ているだけでアンナの興奮がこちらにまで伝わってくる。
「ゲンガー、お疲れ様」
アンナはゲンガーをモンスターボールに戻すと、ネモへと駆け寄ってきた。
「すごい勝負だった……! 『タネばくだん』で追い詰められたとき、もうダメかもって思っちゃった。心臓がまだバクバクしてるよ」
「本当にすごかった! アンナ、もうジムバッジ二個の強さじゃないよ。絶対もっと強くなる」
「だとうれしいな!」
アンナがはにかむように微笑する。疲労した肺を広げるように、ネモはさわやかな空気を思い切り吸い込んだ。
「本当はいますぐもう一回勝負したい!……けど、わたしはチャンピオンだからアンナに無理はさせないよ。またバッジが集まってきたら勝負しようね!」
「うん!」
「……アンナがさ、これからもっともっと、もーっと強くなってさ、いっぱいいーっぱい勝負できるときが来たらうれしいな」
「ネモちゃん……」
半端なところでアンナは口をつぐんだ。彼女のダークブラウンの瞳が柔らかに揺らめいている。ネモはそっと笑みを浮かべた。
二人のあいだにひとときの沈黙が落ちる。不思議なことにそれはちっとも気まずくなく、むしろ充足感を共有しているかのような、居心地のよいものだった。
ネモとアンナはしばらくのあいだこの沈黙を楽しんでいた。が、「ぐうう」というアンナのおなかの鳴る音で静寂は破られた。
「もしかしてアンナ、おなかすいちゃった?」
ネモの問いに、アンナは照れをごまかすように前髪を自身の指先に巻きつけた。
「ポケモン勝負で疲れちゃったみたい」
「わかるよ。甘いもの欲しくなるよねー! あ、せっかくだからなんか甘いもの食べに行く?」
「賛成!」
二人はバトルコートをあとにし、舗装された道に沿ってぶらぶらとハッコウシティを歩いた。街中にはスーツ姿の会社員も多かったが、電光掲示板の前で自撮りしている観光客やポケモンを連れて歩く子どもの姿もあった。
高級店の建ち並ぶ大通りを脇に逸れ、建物と建物のあいだを抜ける。奥まった道の先には柵越しに海に面したスペースがあり、アイスクリームとクレープの屋台が並んで出店していた。背の高い南国風の街路樹が等間隔に植えられ、その足元にはベンチが設置されている。
ネモたちはベンチに荷物を置くと、さっそくアイスクリーム屋の商品を眺めた。展示されているアイスキャンディーのサンプルは、カラフルで色鮮やかだ。
「アンナはどれにする?」
「うーん、悩む……」
「あ、見て見て。このコジオソルトアイス、本当にコジオの塩を使ってるんだって」
ネモが指差したメニュー写真には、キューブ状の塩がトッピングされたアイスクリームが写っている。アンナが小首をかしげた。
「コジオってたしか、〈がんえんポケモン〉……だっけ?」
「そうだよ! 貴重な塩を分けてくれるから、昔の人はコジオのことをとくに大事にしてたんだよ。進化すると『しおづけ』っていうちょっと変わった技を覚えるの」
「へえ! おもしろいポケモンなんだね。じゃあ、私はこれにしてみる!」
「いいね。わたしはチョコミントアイスにしよーっと」
注文したアイスを店員から受け取り、二人はベンチへと腰かける。匂いをかぐと、鼻腔をくすぐったのはアイスの匂いではなく潮の香りだった。海が近いせいだろう。
「おいしい! これ、選んでよかったな」
コーンにのったアイスをかじり、アンナが目を細める。ネモもチョコミントアイスをなめた。さわやかな甘みが口のなかに広がった。
「アンナは宝探し、順調?」
「たぶん。本当はもっと早く三つ目のジムに挑戦しようと思ってたんだけど、いろいろと立ち寄ってたら遅くなっちゃって……」
「何してたの?」
「学校で授業を受けたり、図書室で本を借りたり、ペパーと協力してヌシポケモンをやっつけて、それで見つけた珍しいスパイスでサンドウィッチを作ってもらって食べたり……」
「ヌシポケモン? すっごく強そう!」
「ほんと、強くて大きかったよ。あとはカシオペアに頼まれてスター団のアジトに行ったり、野生のポケモンを捕まえて図鑑を埋めたり、いろんな街の料理を食べたりしたかなぁ」
あたりまえのように出てきた名前に、ネモは思わず眉間に皺を寄せた。
「スター団とも関わってるの? それって危なくない?」
ネモの心配を、アンナは明るく笑い飛ばした。
「大丈夫だよ。ネルケって人も手伝ってくれてるし。……あ、ネルケはアカデミーの人だよ! とってもいい人なんだ」
「ネルケ? 聞いたことない名前だなー。アンナのことだから大丈夫だとは思うけど、無茶はしないようにね!」
「うん、ありがとう」
ベンチから伸ばした脚を揺らし、アンナはくすぐったそうに肩をすくめた。表面がぼんやりと溶けたアイスをなめ、彼女はネモの顔を見上げる。
「いろんなところに寄るのも楽しいけど、私ね、早くジムバッジを集めたいんだ。それで、早くポケモンリーグに挑戦したい。チャンピオンになって、本気のネモちゃんと戦ってみたいんだ」
「わたしだってアンナと戦いたい! でも、さっきだって真剣だったよ?」
「真剣だったけど、全力じゃないでしょ? 前の宝探しでチャンピオンになったときの仲間は、いまの仲間とは違うだろうし」
そういえば、そんなことをつい最近ほかの生徒からも言われた。ネモは自分のモンスターボールを見る。
いま連れて歩いているパモたち以外にも、捕まえて鍛えているポケモンはたくさんいた。ネモはいつでもポケモン勝負に真剣だが、すべてのポケモンをなんの制限もなく選んで勝負の場に出しているかというと、それは違う。
アンナが言う「全力じゃない」とは、そういうことだろうか。
「さっきのネモちゃんとの勝負は引き分けだったけど、いまのところ私、ポケモン勝負で負けたことないんだよ。だからきっと、このままずっとがんばっていけばネモちゃんにいつか追いつけるかなって。全力のネモちゃんと戦えるようになるのが、いまの私の目標なの!」
まっすぐな言葉をぶつけられ、ネモは自身の口端がむずむずと動いているのを自覚した。にやけるのを我慢できなかった。
「それに」とアンナが言葉を続ける。
「私、最近そらとぶタクシーを使えるようになったから、前より速くいろんなところに行けるようになったんだ」
「あれ? そらとぶタクシーは前から誰でも使えたと思うけど」
首をかしげたネモに、アンナは少し恥ずかしそうに眉尻を下げた。
「前まではパルデアのそらとぶタクシーに乗るの、ちょっと不安だったの。前に住んでたところだとアーマーガアっていうポケモンがみんなを運んでくれたんだけど、パルデアの場合はイキリンコの力で空を飛ぶでしょ? あの子たち、身体が小さいから大丈夫かなって」
「あはは! 確かに、あんなに小さい身体のどこにみんなを運ぶパワーがあるんだろうってびっくりするよね」
「うん。でも実際に乗ってみたらとっても安全で、もっと早く乗っておけばよかったなって思ったよ。そらとぶタクシーを使えばすぐに移動できるし、ネモちゃんにだってこれからもっと会いやすくなるよね。待ち合わせだってできるし」
待ち合わせ、という言葉にネモの脳が反応した。そういえばナンジャモが配信でPRしていた花火大会にアンナを誘ってみようと思っていたのだった。アンナとのポケモン勝負が楽しくて、すっかりネモの頭から抜け落ちていた。
「それじゃあ、わたしとアンナでハッコウシティの花火大会に一緒に行かない?」
「行く行く! 私もネモちゃんと一緒に行きたいって思ってたんだ」
残っていたアイスのコーンのかけらを口に放り込み、アンナはベンチから勢いよく立ち上がった。
「そのころには私、もっといろんなジムに挑戦しておくから。まずはハッコウシティのナンジャモさんと勝負しないと!」
「応援してるよ! ジムバトルの配信、絶対見るからね」
「ありがとう! ネモちゃんも宝探しがんばってね」
こちらに向かって手を振るアンナに、ネモもまた手を振り返す。モンスターボールを模したリュックは買ったばかりの品なのか、日向を歩くアンナの背中でピカピカと輝いていた。
ネモはシルクのハンカチをポケットから取り出すと、口元をそっと拭った。アンナならばきっと、目標を達成することができる。そう心の底から思っている一方で、ネモの胸中に小さな不安の影がよぎった。
アンナは先ほど、一度もポケモン勝負で負けたことがないと話していた。いつかそのときが来たら、アンナはどう感じるのだろう——……。
らしくない想像を、ネモは頭を振って追い払う。勝とうが負けようが、ポケモン勝負はとにかく楽しい。二年前、ポケモン勝負を始めたばかりのネモがそう感じたのと同じことを、アンナも感じてくれると思った。
三
窓から差し込むぼんやりとした光に、ネモは自然と目が覚めた。窓ガラスの向こう側を見ると、空全体がどんよりと灰色の雲で覆われていた。
布団にくるまったままネモがあくびをすると、同じベッドで眠っていたパモットが両腕をもぞもぞと動かす。つい先日、パモから進化したばかりのパモットは自分の大きさにまだ慣れていないのか、身体の三分の一ほどがベッドからはみ出ている。
「パモット、朝だよ」
声をかけると、パモットは寝ぼけた様子でネモの腕にほっぺをこすりつけた。その途端、ネモの身体にまでビリビリッと刺激が走る。「あはは! 朝からいい電気だねー」と、笑いながらネモはパモットを指先で突っついた。
パモットの得意技は『ほっぺすりすり』で、これはパモのころから変わらない。パモやパモットの黄色のほっぺには電気が蓄えられており、うっかり触ると、ビリビリと感電してしまうのだ。
窓ガラスの向こう側を見つめ、ネモは小さく息を吐く。
「せっかくの花火大会の日なのに、なんだかいまいちな天気だなぁ……」
ネモの声に反応したのだろう、パモットの耳がピコピコと動いた。
ネモは上半身を起こすと、あくび混じりに両腕を大きく伸ばす。その途端、長い黒髪が肩の上から滑り落ちた。普段ひとつに束ねている黒髪も、寝ているときには下ろしていた。
昨晩、寄り道をしつつもネモがたどり着いたのは、パルデア地方の交通の要であるチャンプルタウンだった。ナッペ山のふもとにあるこの町は、飲食店をはじめ多くの建物が並んでおり、なんだかごちゃごちゃとしている。
宿泊したホテルのベッドは、実家のものに比べるとかなり硬い。手を伸ばし、ネモはベッドサイドに取りつけられた出窓を開いた。外を見下ろすと、飲食店が軒を連ねる横丁の様子が目に入る。
まだ朝だというのに、茶色のレンガで舗装された道はポケモンを連れて歩く住民たちでにぎわっていた。いちばん多いのは〈よくばりポケモン〉のヨクバリスだろうか。じっと目を凝らすと、ときおり宝探しの最中らしき生徒の姿も見かけた。
ネモがチャンプルタウンに来た理由。それは、ジムリーダーのアオキと会うためだった。
前回の課外授業の際、チャンプルジムでのポケモン勝負は白熱したものとなった。ポケモンリーグのチャンピオンとなったいま、ネモはアオキともう一度戦ってみたかったのだ。
「アオキさん、今日は会えるといいなー!」
独り言ちながら、ネモは手早く身支度を済ませる。まずはいつもの格好に着替え、右手にグローブを着用する。そして最後に、黒髪をきつくひとつに結ぶ。おかしなところはないだろうかと鏡で自身の姿を確認すると、パモットのオレンジ色の毛がタイツについていた。指先でつまみ、落とし物ケースにしまう。『パモのけ』はわざマシン作りの役に立つのだ。
ネモがバッグに落とし物ケースをしまっていると、突然スマホロトムが〈ロトロトロトロト……〉と鳴り出した。画面を確認すると、アンナからの電話だった。
〈もしもし、ネモちゃん?〉
「アンナ! どうしたの?」
〈今日、花火大会の日でしょ? だから連絡したんだ。雨が降ったら中止になるかもしれないけど……〉
アンナの言葉に釣られるように、ネモは窓の外を見た。雨粒こそ確認できないが、いつ降り出してもおかしくないような空模様だ。
「夜から晴れてくれるといいんだけどね……。アンナはいま何してるの?」
〈ジムに挑戦するための準備をしてたよ。今度のジムでバッジ五つ目!〉
「もう五つ目なんだ。すごい!」
〈勝てたらだけどね。えへへ。今日はジムバトルが終わったタイミングでネモちゃんに電話しようと思ってるんだけど……それで大丈夫かな? 夕方くらいになりそうなんだけど〉
「うん。わたしは大丈夫! もし雨が降っちゃったら、どこかで遊ぼうよ。ポケモン勝負とか!」
〈いいね、とっても楽しみ! それじゃ、まずはジムテストがんばってくるね〉
互いにバイバイと言葉を交わし、通話は終了した。スマホロトムをしまい、ついでにネモはいまだベッドに座るパモットにぎゅっと抱きつく。早く夕方になればいいのにと思った。
ホテルの部屋を出て最初にネモが向かったのは、チャンプルジムだった。入り口近くには挑戦者らしき生徒がおり、真剣な面持ちで何やらぶつぶつとつぶやいている。何かの食べ物について話しているようだが、うまくは聞き取れなかった。もしかしたらジムテストにてこずっているのかもしれない。
そのまま受付に進みスタッフにアオキの居場所を尋ねると、「チャンピオンのネモさんですね。アオキはただいま休憩中で、おそらく宝食堂にいると思いますよ!」と教えてもらえた。
宝食堂はチャンプルタウンの端のほうにある人気の飲食店だ。藍色の瓦屋根にはモンスターボールの形をしたちょうちんがつるされ、風が吹くたびに揺れていた。窓にはさまざまな宣伝用ポスターが貼られており、そのなかにはハッコウシティの花火大会のポスターも交じっていた。
「いらっしゃいませ!」
ネモが店内に足を踏み入れると、途端に店員から威勢のいい挨拶が飛んできた。
宝食堂の店内は広く、畳敷きの座敷席と木製の仕切りで区切られたテーブル席、カウンター席が用意されている。これだけ多くの席があるにもかかわらず、すでに三分の二ほど埋まっていた。ネモが息を深く吸い込むと、だしの柔らかな香りが肺の奥にまで満ちていく。食欲をそそるいい匂いがした。
「あ、アオキさんだ」
見知った顔を見つけ、ネモはさっそく奥へと足を進める。木製カウンターの手前側の席に座っているのは、チャンプルタウンのジムリーダー・アオキだった。スーツ姿の風貌は、いかにもサラリーマンという雰囲気を醸し出している。
その傍らには空になった皿が置かれていた。いまなら手があいていそうだと判断し、ネモはアオキに声をかけた。
「お久しぶりです」
突然の挨拶にアオキは一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに得心した様子で「……どうも」と小さく会釈をした。ネモは隣の席があいていることを視線だけで確認する。
「お昼休み中にすみません。お隣、いいですか?」
「……少しなら」
アオキは静かにうなずいた。ネモは赤いクッションのついた木製の椅子に腰かける。そのとき、カウンター越しに板前からアオキへと焼きおにぎりが差し出された。先に注文していた品が届いたらしい。
皿にはレモンが添えられており、アオキはそれを焼きおにぎりにかけて食べ始めた。
「じつはわたし、アオキさんとポケモン勝負したいと思って来たんです。いまは宝探し期間中で」
「そんな時期ですか。どうりで……。最近、挑戦してくる生徒さんが多いと思っていました」
アオキがレモンを潰すと、酸味のある香りがこちらにまで漂ってくる。ネモは膝の上で手を握り、居住まいを正した。
「ポケモン勝負、どうでしょうか? わたしは準備万端なのでいつでも大丈夫です!」
元気よく告げたネモに、アオキは普段どおりの表情のまま、しかしわずかに申し訳なさそうに眉の筋肉を動かした。
「すみません。最近はジムに挑戦する生徒が多く、今日はなかなか時間が取れなそうです」
「そうですか」
ジムリーダーは多忙だから仕方がない。肩を落としたネモに、「明日の昼すぎであれば大丈夫ですが……」とアオキが湯のみに手を伸ばしながら言った。
「本当ですか? じゃあ明日、ジムに伺います!」
わざわざチャンプルタウンに来た甲斐があった。ネモがワクワクと明日の予定を脳内で組み立てていると、店の扉がガラガラと音を立てて開いた。
「いらっしゃいませ!」
店員の威勢のいい挨拶が店内へと響き渡る。とっさに、ネモは入り口のほうへと顔を向けた。
「あっ」
そこに立っていたのは、アンナだった。五つ目のジムとはチャンプルジムのことだったのか!とネモは驚いた。
ネモはこちらに気づいてもらおうと手を振ったのだが、アンナは店の奥には入ってこず、入り口に立っている店員に細かく注文を伝えていた。その注文を店員が大きな声で叫び、さらに板前が繰り返す。
そのやりとりが合図だったかのように、座敷に座っていた客たちが嬉々として立ち上がる。彼らは「ナイスタイミングだったね」「昼休憩、延長しようかな」「今日はどっちが勝つかな」と口々にしゃべりながら、慣れた様子で荷物とともに席を移動し始めた。
やがて何もない状態になると、ゴゴゴゴと激しい音を立てて座敷部分が変形し始めた。畳は取り外され、そこに現れたのは緑色を基調とした立派なバトルコートだった。そういえばチャンプルジムのジムテストはこうだった、とネモは前回の宝探しのときのことを思い出した。
「仕事の時間のようですね」
ネクタイを締め直しながら、アオキが立ち上がる。ネモはアオキとアンナを交互に見比べた。
バトルコートに立つアンナは、ネモの存在にまったく気づいていないようだ。集中を途切れさせるのも申し訳ないため、ネモは黙って観戦することにした。
バトルコートの端と端で、アオキとアンナは真正面から対峙した。先ほどまでのほほんと食事をしていた客たちも、勝負の開始をいまかいまかと待ち望んでいる。
「どうも」
アオキが軽く会釈したのに合わせ、アンナもまた頭を下げた。
「お世話になります、アオキです。何とぞよろしくお願いします」
「あ、えーっと、アンナです。よろしくお願いします!」
アオキはネクタイの結び目を軽く緩めると、さっそくモンスターボールを放った。現れたのは〈ゆめうつつポケモン〉のネッコアラだ。アンナもまた、同じタイミングでボールを投げる。アンナの一匹目はアチゲータだった。
アオキのポケモンはノーマルタイプ。このタイプの特徴は、弱点がかくとうタイプしかないところだ。いままでネモは何度もアンナとポケモン勝負をしてきたが、彼女のポケモンがかくとうタイプの技を使っているところを見たことがない。
状況はあまりよくないかもしれない……と、ネモはアンナのほうを見やった。彼女は身振り手振りでアチゲータに指示を伝えているところだった。
「アチゲータ、『やきつくす』!」
「ネッコアラ、『あくび』です」
アチゲータの口から放たれた炎をかわし、ネッコアラは大きくあくびをした。それに釣られたように、アチゲータもあくびをする。そのまぶたは重たげに何度も下がり、口からはあくびが止まらない。睡魔にあらがえなかったのか、やがてアチゲータはその場で寝息を立て始めた。ねむり状態だ。
「『たたきつける』!」
無防備になったアチゲータに、ネッコアラが攻撃した。それでもアチゲータは目を覚まさずダメージが重なっていき、やがてアチゲータは何もできないままにダウンした。
「アチゲータ!」
アンナが鋭い声を上げる。明らかに動揺しているアンナとは対照的に、アオキはいたって冷静だった。
「これから挽回するよ! ゆけっ! ピカチュウ!」
アチゲータの次にアンナが繰り出したのは、〈ねずみポケモン〉のピカチュウだった。前回勝負したときにはいなかったポケモンだ。ここからいったいどう巻き返すのだろうかと、ネモは期待を込めて試合の行方を見守った。
だが、ネモの期待とは裏腹に、戦況はあまり変わらなかった。ネッコアラの攻撃に、ピカチュウは防戦一方だ。素早さの勝るピカチュウは回避を繰り返していたが、やがてしびれを切らしたアンナが攻勢に出た。
「ピカチュウ、『ほうでん』!」
ピカチュウの頬にある電気袋から電撃が放たれる。——形勢逆転か。そう思われた刹那、不意にピカチュウが目を回してその場にダウンした。ピカチュウの『ほうでん』よりも先に、ネッコアラの『ふいうち』が相手にダメージを与えていたのだ。
二人の戦いを、ネモは席に座ったまま冷静に分析する。アンナは必死に食らいついているが、作戦でどうこうできる以上にポケモンの力量の差が明白だ。
ピカチュウがダウンしてからも、アンナは次々にポケモンを出した。三匹目はバウッツェル、四匹目はコジオ……そして最後に出した五匹目のポケモンがゲンガーだった。
「相手は弱ってるよ! がんばって、ゲンガー!」
アンナの声援に鼓舞されたのか、ゲンガーの渾身の『しっぺがえし』によってようやくネッコアラは倒れた。喜んだのもつかの間、アオキはすぐさま〈つちへびポケモン〉のノココッチを繰り出してくる。
アンナの残りのポケモンはゲンガーのみ。それに対し、アオキはノココッチのほかにもう一匹温存している。
ゴーストタイプの技はノーマルタイプのポケモンに、ノーマルタイプの技はゴーストタイプのポケモンに無効だ。ゲンガーもノココッチも、互いに相手に効果のある技は限られていた。
「ゲンガー、いくよ!」
追い詰められたアンナがテラスタルオーブを使用する。ゲンガーはまばゆい光を放ち、テラスタルした。一方のアオキはテラスタルしてくる素振りさえ見せず、冷静にノココッチに指示を出す。
「ノココッチ、『ドリルライナー』!」
アオキのノココッチの攻撃が、ゲンガーに真正面から決まった。激しい衝撃に耐えかね、ゲンガーはヨロヨロと体勢を崩した。重いダメージにあらがい、必死に立ち上がろうとしていたが、やがて糸が切れたかのようにその場に倒れ込んだ。わっと食堂内から歓声が上がる。
アンナの手元にはもう戦えるポケモンがいない。アオキの勝利だ。——そして、アンナにとってはこれが初めての敗北だった。
「……勝負、ありがとうございます。お疲れ様でした」
ノココッチをボールに戻し、アオキが淡々と頭を下げる。アンナは何も言わなかった。下を向いたまま、その場でじっと自身の足元を見つめている。
「アンナ?」
様子がおかしくなったことに気づき、ネモは思わず席から立ち上がりかけた。だが、それよりも先にアンナはハッと我に返った様子で勢いよく頭を下げた。
「す、すみません。ぼーっとしてました。アオキさん、勝負してくれてありがとうございました!」
礼を言うアンナに、観客たちから「よくやったね」「がんばってたよ」と温かい声援が飛んだ。アオキは無表情のまま首を横に振る。
「いえ、業務なのでお気遣いなく」
バトルコートからアンナが降り立つ。アンナは最後までネモの存在に気づくことなく、ふらふらとした足取りで食堂から去っていった。木製の扉の向こうへと消えていく彼女の背中を、ネモは黙って見守ることしかできなかった。
「アンナ、大丈夫かな……」
「お知り合いですか」
ネモの独り言に、戻ってきたアオキが反応する。ネモは大きくうなずいた。
「友達です! アンナ、チャンピオンになるためにジムバッジを集めるんだって張り切ってたから、ジムバトルで負けちゃったのが心配で……」
アオキはカウンター席の横に立てかけていた鞄を手に取り、帰り支度を始めている。あいた皿をカウンター越しの板前に渡しながら、彼は独り言のような声量で言う。
「ポテンシャルは感じました。自分の上司が気に入りそうな人材ですね……」
「やっぱり! アンナってポケモン勝負の才能ありますよね。絶対にチャンピオンになれると思うんです」
「可能性はあるでしょうね。……このままいけば、ですが」
アオキの声は冷静で、だからこそネモの胸に突き刺さった。
その後、アオキは早々に店の入り口側へと移動して会計を済ませた。「今日はありがとうございました」と礼を告げ、ネモは宝食堂をあとにする。
明日にアオキと勝負する約束を取りつけられたことはよかったが、心配なのはアンナのことだ。
扉を開けて外に出ると、鼻先にぽたりと冷たいものが落ちてきた。ネモはとっさに灰色の空を見上げる。ぽたり、ぽたり。落ちてくる雫はひとつ、ふたつと数を増やし、次第にザアザアと切れ目なく地上に降り注ぐ。
チャンプルタウンに雨が降り始めた。
宿泊しているホテルの部屋に戻ったネモは、アンナからの連絡を待つことにした。ポケモンをモンスターボールから出し、いたわりの気持ちを込めて一匹ずつブラッシングしていく。頭の毛をブラシでなでつけると、パモットはうれしそうに目を細めた。
それから二時間、三時間……。時間が経過してもなお、アンナからの連絡はない。この辺りからネモはそわそわし始めた。ジムバトルが終わったら連絡すると言っていたのに、いったいどうしたのだろう。アンナからの連絡を待つべきか、それともこちらからかけるべきか……。逡巡した挙げ句、ネモはスマホロトムを手に取り、アンナへと電話をかけた。——が、相手はいっこうに出ない。
ネモは窓の外を見た。雨は降り続いたままで、日はすっかり落ちていた。辺りは薄暗く、夜が始まる気配が世界を包み込んでいる。部屋にこもって雨音に耳を傾けていると、ネモの胸中にむくむくと不安な気持ちが芽生え始めた。
「もしかしてアンナ、ポケモン勝負が嫌になっちゃったのかな?」
口をついて出た声は、自分が想像していたよりもずっとか細かった。真正面に立っていたパモットが、不思議そうに小首をかしげている。
初めて出会ったときから、アンナはポケモン勝負を楽しんでいた。ネモはそれがずっと続くものだと思っていたけれど、壁にぶつかることだってきっとある。
——全力のネモちゃんと戦えるようになるのが、いまの私の目標なの!
ハッコウシティでアンナが言った台詞が、不意にネモの脳裏によみがえる。あのとき、ネモは心の底からうれしく思った。あんなにもまっすぐな目で、あんなにもまっすぐな言葉を友達からぶつけられたのは初めてで、彼女のことを全力で応援しようと思った。
もしもいま、初めての敗北を経験してアンナが悲しい気持ちになっているのだとしたら、ネモには何ができるだろう。ネモはいままでこんなふうに誰かに入れ込んだことがなかったから、何をすべきかがわからなかった。
「アンナ……」
ネモの口からぽろりと弱々しい声が漏れる。そのとき、ブラッシングをされたばかりのパモットがネモの膝に乗り、ほっぺをこすりつけてきた。肌に走るビリビリとした刺激に、ネモはハッとしてうつむいていた顔を上げる。言葉は通じていないだろうけれど、パモットにも不安が伝わったのかもしれない。
ネモはパモットの身体に両腕を伸ばすと、そのままぎゅっと抱き締めた。
「一人で考え込むなんて性に合わないよね。アンナにちゃんと会いに行こう!」
ネモの言葉に、パモットは鼓舞するように両腕を振った。まずはチャンプルタウンの捜索だ、とネモはパモットを連れてホテルの部屋を飛び出した。
絶対にアンナを捜し出す!
そう意気込んだネモだったが、チャンプルタウンは意外と広い。レンガタイルで舗装された道に従い、まずは宝食堂の近くを、そこからさらに奥に進み、店が建ち並ぶ繁華街をネモはパモットとともに見て回る。
チャンプルタウンは栄えていて活気があった。行き交う人々は多く、そこからアンナを捜すのはずいぶんと骨が折れる作業だった。借りられるものならば、ニャースの手も借りたいくらいだ。
町には雨が降り続け、その勢いは時間がたつごとに強くなった。雨の強さに耐えかね多くの通行人たちが傘をさし、傘を持っていない人々は飲食店の軒下で雨宿りしている。トレーナーとともに雨のなかを歩いているヨクバリスは、濡れていくぶんかスリムになっていた。
「傘、持ってくればよかったかも」
雨のなかを歩きながら、ネモはパモットへと声をかける。ホテルを出たときにはこの程度の雨ならば平気だとネモは思ったが、どうやら判断を見誤ったようだ。雨のなかを走り回るパモットと同様、ネモもまた一瞬でずぶ濡れになってしまった。
宝食堂の周辺から捜索を始めて町の西側まで歩いたのに、ネモたちは気づけば再び宝食堂近くへと戻ってきている。歩き始めてしばらくたったが、収穫は何ひとつない。
水分を含んだ服が身体に張りつき、わずらわしい。呼吸を繰り返すたびに、ネモは漠然とした息苦しさを覚えた。
もしかして、アンナはほかの町に行ってしまったのだろうか。嫌な想像がネモの脳内をぐるぐると回った。コライドンに乗って移動してしまった可能性や、そらとぶタクシーを使った可能性もある。そうなったらもうお手上げだ。
「アンナが見つからなかったらどうしよう」
ネモの足取りは、次第に重くなっていく。スニーカーが雨水を踏み、辺りに水しぶきが散った。弱気になったネモの声に反応したかのように、隣を歩くパモットが短く鳴く。こちらを見上げる瞳が心配そうな光を帯びていることに気づき、ネモは軽くしゃがんでその頭をなでた。
「ごめんね、パモット。絶対に会えるよね」
パモットの柔らかな毛に触れたことで、ネモは少し落ち着きを取り戻したことを自覚した。先ほどまで目に入らなかったささやかな自然の変化も、いまは冷静に観察することができる。
ネモのすぐ隣にある植え込みの葉々は、濡れたせいでいつもより深い緑色をしていた。植え込みの柔らかな土の匂いは雨によってより強くなり、生命の気配を色濃く漂わせている。
その植え込みが、風がないにもかかわらずガサリと揺れた。思わずネモとパモットはそちらに意識を集中させる。——とその瞬間、突如として植え込みから紫色のシルエットが飛び出してきた。
「うわっ」
驚いたネモはうっかり尻もちをつきそうになった。隣にいるパモットも目を丸くしている。ネモとパモットの前に現れたその影の正体は、いたずらが成功しておかしそうに笑っているゲンガーだった。
「もう、びっくりしちゃったよ……って、もしかしてきみ、アンナのゲンガーじゃない?」
こちらの言葉が伝わっているのかいないのか、ゲンガーはそのまま何事もなかったかのように西の方角に走り始めた。ついてこいということだろうか。ネモとパモットは互いに顔を見合わせ、それからどちらからともなくゲンガーを追いかけ始めた。
ゲンガーは俊敏だった。置いていかれそうになり、ネモは走った。ゲンガーの姿を見失わないよう、両腕を大きく振って必死に脚を動かす。スニーカーが泥を跳ね上げ、ネモたちの足跡を濡れた道に残していく。
「あっ! あれって……」
ゲンガーが向かった先にあったのは、半円形をした石製の広場だった。階段が座席代わりになっており、晴れた日にはステージ部分でショーが行われたりする。朽ちた石柱が取り囲むこの空間はチャンプルタウンのなかでも有名なスポットのため、ネモもパモットも先ほど目視で確認した。少なくとも、ステージにも柱の陰にもアンナの姿はなかった。
困惑するネモをよそに、ゲンガーは迷うことなく階段を下り、ステージへと向かっていった。ネモも置いていかれないようにそのあとを追う。ステージの壁の左右にはパフュートンが彫られたレリーフがあり、真ん中には奥の空間へとつながるアーチがあった。普段は鉄格子によって入り口が封鎖されているが、今日は珍しく開いている。
「もしかしてあそこ?」
ネモの予想どおり、ゲンガーはそのアーチをくぐってなかへと入っていった。暗いこともあり、遠目ではなかの様子がよく見えない。ネモとパモットは階段を下りてアーチへ近づくと、そっとそのなかをのぞき込んだ。
アーチの先は、細い通路となっていた。目を凝らすと、さらに奥には空間が広がっているのがわかる。だが、肝心なのはその手前だ。
アーチをくぐったすぐそこに、地面に座り込んだまま寝息を立てている少女の姿があった。差し込む光が彼女の横顔を照らしている。
アンナだ! そう気づいた瞬間、ネモは自身の心臓が大きく拍動したのを感じた。アンナの膝の上には厚みのある本があり、開きっぱなしにされたまま重みでずり落ちそうになっていた。どうやら本を読んでいるあいだに眠ってしまったらしい。
ネモはアンナに近寄ると、静かに息を吸い込んだ。
「アンナ」
名前を呼ぶ瞬間、少しだけ声が震えた。狭い通路にネモの声が反響する。それに反応したように、アンナの目がゆっくりと開いた。
「あれ、ネモちゃん?」
そこまで言ったところで、アンナは我に返った様子で立ち上がった。寝ぐせのついた前髪を整え、彼女はネモの顔を見つめる。
「ネモちゃん、どうしてここに? というか、髪が濡れてるよ! 傘ささなかったの?」
「急いでたから……ゲンガーを追いかけてここまで来たの。アンナから連絡がないから心配で……」
「ええっ、そうだったの⁉」
アンナは目を丸くし、本を手にしたままスマホロトムの画面を確認する。画面を見た途端、彼女は「わっ」と驚きの声を上げた。
「もうこんな時間だったの! 本当にごめんね、私のせいでネモちゃんがビショビショになっちゃった」
「アンナのせいじゃないよ」
「とにかくこれ使って。私のタオル」
アンナが慌ててタオルを差し出してくる。その傍らではゲンガーがニタリと愉快そうに笑っていた。ネモは「ありがとう」と礼を言い、タオルを受け取った。
長い時間アンナを捜していたせいで、身体はすっかり濡れていた。ネモは結んでいた髪の毛をほどくと、タオルで頭を拭う。雨に濡れたパモットはぶるぶると身震いして周囲に水滴を飛ばしていた。
その間、アンナはそわそわとスマホロトムを確認していた。
「着信があったのに全然気づいてなかった!」
「アンナはなんでここに?」
「それが……ジムバトルのあとに町を歩いてたら、急に雨が降り出したの。傘を持ってなかったから雨宿りしようと思ってここに入ったんだけど、雨がやむ気配がなくてね。時間を潰そうと思って図鑑を読み出して……そのまま眠っちゃったみたい。本当にごめんね。私から連絡するつもりだったのに」
その声は普段どおりのようにも思えたが、明らかに虚勢の色が含まれていた。しかし、それを追求するのは憚られ、ネモは髪を拭いながらうなずいた。
「全然いいよ! アンナが見つかってよかった」
すっかり濡れてしまったタオルを自身のバッグにしまい、ネモはアンナへ向き直った。「洗って返すね」と言ったネモに、「そのまま返してくれて大丈夫なのに」とアンナは少し申し訳なさそうに肩をすくめた。
「それよりさ、図鑑って?」
「これのことだよ。学校の図書室で借りてたんだ」
アンナがこちらに差し出したのは、かなり年季の入った紙製のポケモン図鑑だった。最近はすべての生徒がスマホロトムの図鑑アプリを使うため、紙の図鑑を持ち歩いている人間はあまりいない。
ネモはその図鑑を両手で持った。日に焼けたページはところどころボロボロだったが、開いて持つとずっしりとした重さが両方の手のひらに感じられる。
「ちょっと言いにくいんだけど……私ね、さっきチャンプルジムに挑戦して負けちゃったんだ」
そう言って、アンナは目を伏せた。何かをこらえるように、彼女は何度も自身の左腕をさすっていた。
ネモはためらいがちに口を開く。
「じつはその試合、わたしも見てたんだ」
「えっ、ネモちゃんもあのとき宝食堂にいたの? 全然気づかなかった」
驚いた様子でアンナが口元に手を添える。そのまぶたが、緩慢な動きで上下した。彼女は後ろ手を組むと、どこか気まずそうに通路を見つめた。
「……正直ね、アオキさんに負けたとき、目の前が真っ暗になったみたいに感じたの。自分が負けるなんて思ってもなかったから」
なんと言っていいかわからず、ネモはアンナの横顔を眺めた。背中をわずかに丸め、アンナは気弱そうに眉尻を下げる。
「ポケモン勝負は楽しいし、大好き。だけど私、初めて負けて、なんというか……悔しくて」
アンナの双眸の表面には、涙の膜が張っていた。彼女がまばたきするたびにその瞳は強くきらめいたが、そこからこぼれ落ちるものは何ひとつなかった。
「アチゲータもピカチュウもバウッツェルもコジオもゲンガーも、みんながんばってくれたのに、負けちゃって。私、なんだか自分が不甲斐なくって。いろんなことを一人で考えてたの。どうすればよかったのかなとか。せっかく……せっかく期待してもらってたのに、負けたって知られたらネモちゃんにガッカリされるかな、とか」
「ガッカリなんてするわけないよ!」
反射的にネモの口から出た声は、思ったよりも大きくなってしまった。近くにいたパモットが驚いたように両耳をピンと立てる。
アンナは両目を見開いたあと、その口元をかすかに緩めた。
「そっか」
そこで一度、アンナは口をつぐんだ。まごまごと自身の右手を左手でさすり、彼女は決意したように顔を上げる。
「ありがとう、ネモちゃん」
そのアンナの声は、いままでネモが聞いたなかでもっとも優しい響きをしていた。照れくさくなってネモは頬をかく。ほどいたままの長い黒髪が、肩の上を滑っていった。
「お礼を言われるようなこと言ってないって」
ネモにとって、本心からの言葉だった。
アンナはネモに肩を寄せると、「これね」とネモが手にしたままだった図鑑を指差した。
「ネモちゃんがきっかけで読もうと思ったんだよ」
「わたし?」
「うん。アオキさんに負けてどうしたらいいんだろうって考え込んでたときに、学校で図鑑を借りてたことを思い出したの。前にネモちゃん、パモやコジオみたいなパルデアのポケモンのこと、私に教えてくれたでしょ?」
「あー! そういえば、そんなこともあったね」
いまとなってはなんだか懐かしさすら感じる。思わず笑みをこぼしたネモに、アンナもまた小さく微笑んだ。
「ネモちゃんがポケモン勝負に強いのはポケモンを鍛えているだけじゃなくて、そうやって勉強もしてたくさん知識があるからだって気づいたの。ネモちゃんと同じくらい、私もいろんなことをがんばろう。弱音を吐くのはそれからだ……って、そう思ったんだ」
アンナが図鑑の表紙をそっと手でなでる。ネモは大きくうなずいた。
「それで紙の図鑑を読んでたんだ。確かに、図鑑アプリだと自分がまだ捕まえてないポケモンのことは詳しくわからないもんね」
「そうなの。ノココッチのこともネッコアラのこともちゃんと理解したし、次こそはアオキさんに絶対勝ちたい! だから特訓もして、リベンジしようと思ってるんだ」
ぎゅっと拳を握り締めるアンナの背に、ネモは優しく触れた。
「アンナなら絶対に勝てるよ! わたし、応援してる!」
「ふふ、ありがとう。ネモちゃんが応援してくれるなら、百人力だよ」
紙製のポケモン図鑑を、ネモはアンナへと返した。かなり大きなサイズだったので、リュックに入れるのは難しそうだった。かなり強引な方法でアンナはリュックの底に図鑑を押し込んでいる。
その様子に笑みをこぼしながら、ネモはアーチ越しに外を見た。話に夢中で気づかなかったが、耳を澄ましても雨音が聞こえなくなっている。
いつの間にか、雨はもうやんでいた。
「アンナ、晴れたみたい!」
図鑑をリュックに詰め終えたアンナが、ネモの言葉に空を見上げる。
「ほんとだ! やったね。花火大会が開催されるかどうか、スマホロトムで調べてみる」
アンナがスマホロトムを操作しているあいだ、ネモはほどいたままだった黒髪をひとつに束ね直した。濡れていた髪もアンナと話しているうちにほとんど乾いていた。
アンナがうれしそうにスマホロトムの画面を指差す。
「花火大会も無事に決行だって」
「よかった。それなら一緒に観に行けるね」
笑いかけたネモに、アンナは満面の笑みを浮かべてうなずいた。その瞳がきょろりと動き、彼女はどこか企むような表情で空の方向を指差した。動きに釣られ、ゲンガーとパモットまでもが夜空を見上げる。
「ネモちゃん、ちょっと上を見てみて」
「上?」
アンナの言葉に従い、ネモは彼女が示す先を目で追った。街灯によってぼんやりと照らされた夜空に、小さな点のような影が見える。それは徐々に大きさを増し、バサバサという羽音とともに白い車体が見えてきた。
「あ!」
その正体に気づいた瞬間、ネモは思わず歓声を上げていた。
近づいてきた羽音の正体。それは、そらとぶタクシーの迎えだった。
*
〈インコポケモン〉のイキリンコたちの力によって空を飛んで移動するそらとぶタクシーは、パルデア地方のポピュラーな乗り物だ。イキリンコたちは乗り物部分に備えつけられたワイヤーを引っ張って、人間の乗る車体を運ぶ。野生のイキリンコと違い、タクシー会社に所属するイキリンコたちはスタッフスカーフを巻いているのが特徴だ。
ネモとアンナは二人で座席に並んで座り、空の上から周囲の様子を見渡した。雨上がりの空は空気が澄んでおり、瞬く星がくっきりと見えた。
そらとぶタクシーのすぐ隣では、〈おとしものポケモン〉のオトシドリが優雅に翼を羽ばたかせている。
アンナが座席から身を乗り出した。
「あ、ハッコウシティだ!」
アンナが指差した先に、玩具のジオラマのようなサイズのハッコウシティが見えてきた。水色、黄色、緑色。カラフルな色合いのレーザーライトが、高層ビル群の隙間から四方八方を照らしている。ビルから生み出される光たちは、地面に生まれた銀河みたいだ。
「やーっと着くね! 会場でポケモン勝負ってできるのかな」
ネモが言ったそのとき、海の方角からドオオンとけたたましい音が鳴り響いた。その直後、夜空に満開の花火が咲く。金色に輝く光の粒は、やがて線を描きながら地上へと落ちていく。どうやら花火大会が始まったらしい。
オトシドリが進路を変え、別方向へと滑空を始める。真下に見える鉱山地帯では、音に反応した〈ミミズポケモン〉のミミズズたちが驚いたように地面から顔を出していた。
「あ、そういえばこれ」
膝に載せていたリュックをゴソゴソと探ってアンナがなかから取り出したのは、シンプルな見た目をしたサンドウィッチだった。
「アンナのお母さまのお手製?」
「これは私の手作りなんだよ! ネモちゃんと食べようと思ってジムバトル前に作っておいたんだ。食べて食べて」
はい、と手渡され、ネモはサンドウィッチを受け取った。膝の上にハンカチを敷き、サンドウィッチをかじる。具にはバナナスライスとピーナッツバターが使われているようで、舌の上に香ばしい甘みが広がる。
ネモが舌鼓を打っているあいだ、アンナは少し緊張した面持ちでその場に固まっていた。
「すっごくおいしい! アンナ、ありがとう」
そう告げると、アンナはホッとした様子で肩の力を抜いた。「よかった!」と照れたように笑い、彼女は自分のサンドウィッチをリュックから取り出し頬張った。
「なんだか、最初に会ったときのこと思い出すね」
アンナが微笑みながら言う。その瞬間、ネモの脳裏にアンナとのこれまでの記憶がよみがえった。
初めてポケモン勝負をしたときのこと。一緒にポケモンを捕まえたこと。灯台に登って二人でサンドウィッチを食べたこと。学校で一緒に授業を受けたこと。いつかポケモンリーグに挑戦したいと語ってくれたときのこと。
そのどれもが、ネモにとって大切な思い出だ。
「あのときに比べて私、パルデアのことが大好きになったよ。ネモちゃんのおかげかも」
「やったー! そうならうれしいよ」
アンナとネモは互いに見つめ合い、どちらからともなく笑い合った。その声をかき消すように、ドーンと花火の音が鳴り響く。
「あ、また打ち上がった!」
手すりにつかまったまま、アンナが目を輝かせる。その瞳に映り込んだ景色を、ネモはそっと横目でのぞいた。
世界はきれいだった。きみと出会う前よりも、ずっと。
四
〈チャンピオン ネモ、アンナさんがハッサクさんに勝利しましたよ〉
その報告は、ポケモンリーグのトップチャンピオンであるオモダカによって通話越しになされた。スマホロトムから聞こえるオモダカの声に、テーブルシティを歩いていたネモは無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
アンナがポケモンリーグに挑戦するという話は本人から聞いていた。
花火大会に行ったあの日のあと、アンナはアオキに再挑戦し、見事にチャンプルジムで勝利した。それからのアンナの活躍は飛ぶカイデンを落とす勢いで、あっという間に八個すべてのジムバッジを手に入れたのだった。
「ということは、次はトップと……?」
〈ええ、そうなります。きっと素敵な試合になるでしょう〉
その言葉を聞いた途端、ネモの心臓は激しく高鳴った。
〈それでは、私はこれから準備がありますので〉
「はい。教えてくれてありがとうございます!」
ネモが礼を言い、通話は終わった。スマホロトムから声が聞こえなくなってからも、ネモの脳内では先ほどのオモダカの言葉がぐるぐると回っている。
アンナがトップチャンピオンであるオモダカと戦う。その結果がどうなるか、ネモはひとつの確信を持っていた。
いてもたってもいられなくなり、スマホロトムを握り締めたままネモは駆け出す。行き先はポケモンリーグ、アンナのいる場所だった。
ネモがポケモンリーグへとたどり着いたのと、アンナが入り口から姿を現したタイミングは運よく同じだった。四天王、そしてオモダカとの戦いを経験したアンナは、前よりもどこか精悍な顔つきをしている。その傍らにいるゲンガーもどことなく表情が誇らしげに見えた。
「アンナ!」
ネモは呼びかけながら、アンナのもとへと駆け寄る。突然声をかけられたアンナは驚いたように目を丸くしていたが、すぐにネモの存在に気がついた。その口元が徐々に笑みの形を作り、彼女はくすぐったそうに白い歯を見せて笑った。
何かを言おうと口を開いたアンナを、ネモはパッと手のひらを向けて制した。
「待って! 言わなくてもわかるよ。……アンナ、チャンピオンになったんでしょ!」
ネモの言葉に、アンナは笑顔でうなずいた。それを見た途端、ネモは自分の胸の奥底から喜びの感情が込み上げてくるのを感じた。血が沸騰したかのように、歓喜と興奮が身体中を駆け巡っている。
「わたしはチャンピオン。アンナもチャンピオン! いまのわたしたちは同じチャンピオンランク。つまり、対等な関係なんだよ!」
「うん。やっと……やっと対等になれた」
優しい風が二人のあいだを吹き抜ける。まっすぐにアンナを見つめるネモの両目は、涙の膜で静かに揺らめいていた。その頬は赤く、唇がかすかに震えている。
無意識のうちに、ネモは喉をグッと鳴らして唾を飲み込んだ。手のひらに、勝手に汗がにじむ。半端に上げた腕を一度下ろし、ネモは大きく深呼吸した。
「アンナ、あらためてのお願いなんだけど……」
そこで言葉を切り、ネモは汗のかいた手のひらを制服にこすりつけた。一歩前に歩み出た勢いで頭を下げ、ネモはアンナに向かって手を差し出す。
「わたしの……わたしのライバルになってください!」
うつむいているせいで、ネモの視界には自身のスニーカーばかりが映った。心臓がバクバクしてやけにうるさい。呼吸が震えないように、ネモはそっと唇をかむ。
アンナはすぐには何も言わなかった。ブラウンの革靴の靴底が地面を蹴る音がして、彼女がこちらへと近づいてきているのが伝わってくる。ネモは同じ体勢のまま、彼女の返事を待っている。
「ネモちゃん……ううん、ネモ!」
近づいてきたアンナが、ネモの手を強く握った。とっさに顔を上げたネモの目に映ったものは、アンナのはにかむような笑顔だった。
「私もね、ずっと心に決めてたの。もし私がチャンピオンランクになれたら……いちばんの友達に、ライバルになってってお願いするんだって!」
「えっ! ってことは……」
「私たち、これで正真正銘のライバルだね」
ネモに先を越されちゃった、といたずらっぽく笑って言うアンナに、ネモは思わず抱きついた。うれしすぎて、なんだかすべてが夢みたいな気がする。その体勢のまま自身の頬を引っ張ったネモに、「何してるの」とアンナはおかしそうに笑った。
「だってうれしくって! わたしとアンナはライバル同士ってことは、これで心置きなく勝負できるってことだよね!」
「うん、そうだよ」
「それじゃあすぐ戦ろう。いますぐ戦ろう。何度だって戦ろう!」
詰め寄るネモに、アンナは「ちょっと待って」と慌てたように言う。
「さっきチャンピオンテストを受けたばっかりだから、一度ポケモンたちを休ませなきゃ」
「あっ、そうだった。テンションが上がっちゃって忘れてた。ごめんね、ゲンガー」
気がはやっていたことに気づき、ネモはアンナから身体を離した。すぐそばにいるゲンガーに向かって謝ると、ゲンガーは大きな口を三日月形にゆがめて笑った。
アンナがネモの腕を軽く引っ張る。
「でも、ポケモン勝負したいって気持ちは私も同じだよ。ちょっと休んだら勝負しよ!」
やる気に満ちあふれた台詞に、ネモは「うん!」と元気よくうなずいた。
*
オレンジアカデミーのあるテーブルシティはパルデア地方最大の都市で、夜になっても活気があってにぎわっている。その中央の広場にあるバトルコートで、ネモとアンナは正面から対峙していた。
チャンピオン同士の勝負ということで、バトルコートの周囲には多くの見物人が集まっていた。そのなかには四天王やトップチャンピオンのオモダカ、さらには校長のクラベルの姿もある。
だが、いまのネモの両目はアンナだけを捉えていた。
束ねた黒髪の毛先を払い、ネモは姿勢を正す。深呼吸をすると、緊張と興奮で吐息が震えた。
「ここに来るとさ、アンナが学校に来たばっかりのときを思い出すね」
ネモの言葉に、アンナは懐かしむように目を細める。
「あのときはまだ、私はポケモン勝負を始めたばかりだったね。連れてるポケモンも少なかったし」
「でもいまはすっごく強くなった!」
ネモは手持ちのモンスターボールをひとつずつ眺めた。つるりとした赤い表面に、ネモの顔がぼんやりと映り込んでいる。そのうちのひとつを手に取り、ネモは強く握り締める。
ようやくだ、とネモは思った。ようやく、このときが来た。
ずっと、ずーっと待っていた。全力を尽くせる相手、本気をぶつけてもいい相手。そんな相手が、いつか自分の前に現れることを。
「ここにいる全員、みーんなのなかでわたしがいちばん楽しみなんだよ」
まっすぐに前を向くと、視線の先にはネモの宝物と言える存在が対峙している。
彼女はその口元に笑みをたたえていた。いまという瞬間が楽しくて仕方がない。そういう顔だ。
そしてきっといま、ネモも同じような顔をしている。
「舞台は整った! わたしの本気の力と実ったアンナの力。どっちが強いか勝負しよっ!」
モンスターボールを構え、ネモは不敵に笑った。
「最高の勝負、始めるよ!」