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英語 vs 私の4年間。

最近ついに親友の真里が本気で英語の勉強を始めた。よく苦しんでいて、泣き言がLINEで送られてくるのだけど、4年前の私みたいだなぁと思う。励ますために話せなかった頃からこれまでの道のりを振り返ってみたら、色々思い出してどうしようもなくなったので、全部書き出すことにした。英語の勉強法などではなく、私の英語との闘いの記録である。

21歳

4年前、私は当時働いていた職場でインターンしていたOくんと夜のカフェでご飯を食べながらだらだらしていた。「2〜3年後は何をしようかなぁ」と将来の話をしていた時、彼はものすごくさっぱりした感じで、「留学すれば?」と言った。その一言が妙にピンときて、私はそうだ留学しようと決めたのだった。たぶん彼はあの時のことを一切覚えていないだろうけど、それが私の人生を思いっきり変えていった。

不思議なことに、それまでそれはもうびっくりするくらい海外に興味がなかった。海外旅行に行くお金があるならそのお金で本を買いたいと思っていたし、日本語が大好きでずっと日本に生きて日本語を話して読んで書いて生きていくんだと本気で思っていた。高校生の時、親に何度もお金を出してあげるから短期留学しておいでと言われても、一切興味が湧かなくて断り続けてきた。友達とカラオケに行ってサイゼでだらだらすることの方が当時の私にはよっぽど価値があったのである。


22歳

その後に仕事を逃げ出して辞め、行き場のなくなった私は大学を卒業したらすぐに留学することにした。留学するなら英語を勉強しなくちゃと思って、勉強法を調べ参考書を買い漁った。それまで毎日寝てばっかりで外に出るとびくびくして落ち着かなかったあの頃、没頭出来る何かがあるのは有難かった。受験生に戻ったみたいに、夢中になって勉強した。

当時の私がどれだけ英語が出来なかったというと、ギャラリーで受付をしていた時に外国人のお客さんに今何時?と聞かれて、「今何時って聞きました?」と日本語で返し、結局iPhoneで時間を示したり、アーティストが私に気を遣ってせっかく話しかけてくれたのに、名前を聞かれても答えられずに「ゆかですって言ってください!」と先輩に日本語でお願いするくらい出来なかった。

勉強し始めて1ヶ月くらい経った頃、私は初めてTOEFLを受けてみることにした。TOEFL対策の参考書も買って勉強して、張り切って受けたテストは散々だった。周りの人たちはコンピュータに向かって何かしら話しているのに、私は何も話せなかった。 無言でいるのが辛くて恥ずかしくて、なんとか口を開けて単語を並べて、でもただそれだけだった。その日、私は本当に英語を話せるようになるんだろうかと半泣きになりながら家に帰った。点数は確か40点を超えたくらいだったと思う。

悔しくてひたすら勉強した。地元のタバコ臭いドトールで、一番安い200円の紅茶を飲みながら文法を勉強した。家では部屋にこもってひたすら英語を音読した。お風呂で瞬間英作文をやってよくのぼせた。これで話せるようになるのかわからなかったけど、それしかないのでやるしかなかった。

半年後、私はいよいよロンドンへ3ヶ月の留学へ行くことになった。生まれて初めての一人での海外。空港のトイレの鏡で見たあの不安そうな私の顔が本当に忘れられない。思わず笑って、自分で自分に大丈夫だよと話しかけてしまうくらいに、私の顔は強ばっていた。帰ってくる頃には違う自分になるんだ。そう思って私はロンドンへ飛んだ。

最初は何もかもが新鮮で楽しかった。学校で知り合った友達と一緒に観光へ行ったり、飲みに行ったり。だけど生活にも慣れて落ち着いてきた頃、だんだんと違和感を感じるようになった。毎日同じような話、昨日何を食べただとか、何を買っただとかを繰り返しているだけで、もうそういう話にはすっかり飽きてしまった。何より私の英語力にそんなに変化がないことにすごく焦っていた。

周りの友達はみんな大企業に就職して良いお給料をもらっている中、私は学生期間を延長して親に借金して留学に来ている。ただ楽しかったじゃ帰れないし、なんとしてでも英語を話せるようにならなきゃと思って、また部屋にこもって必死に勉強するようになった。観光がてら留学に来ている他の若い子たちからしたら理解不能みたいで、なんとなく私は浮いていた。でもそんなことはどうでもよいと思うくらいに、とにかく切羽詰まっていた。楽しい思い出なんていらないから、英語が話せるようになって帰りたかった。

ある日、同じクラスのブラジル人の女の子に、「日本人と韓国人は発音が下手で何を言っているかわからないから話したくない」と言われた。実際彼女は私と話すとよく嫌そうな顔をしながら聞き返してきた。でも彼女の英語は私なんかよりずっと上手くて、「自分より下手な韓国人と日本人がたくさんいるクラスにいても意味ない」と言って、上のクラスに変更してもらっていた。それが本当に悔しくて、絶対あの子より英語が上手くなるんだと誓った。

留学の最後に受けたIELTSで、私のスコアは6.5(L 6.5 / R 7.0 / W 6.0 / S 6.5)だった。最初に受けたTOEFLのスコアは換算すると4.0くらいだから、その成績は決して悪くないものだったと思う。それでも自分の実感として、ものすごく聴き取れるようになったとも話せるようになったとも思えなかった。もっともっと上手くなりたいと思った。

その思いをどうしても無視することが出来ず、私は親不孝を延長してさらに9ヶ月ロンドンへ留学することにした。今度は大学付属の語学学校で、大学・大学院で必要なアカデミック英語を学べるコースを選んだ。そこでも私はまた勉強した。IELTSのスコアも先生からの評価もそんなに悪くないはずなのに、相変わらず私の英語は通じなくて、スピーキングのクラスは本当に胃がきりきりするくらい嫌だった。

23歳

「ある日突然ぱっと聴き取れるようになった」なんて話をよく聞くけれど、私にはそんな瞬間が全然訪れなかった。いつもちょっとずつ、なんとなく前より聴き取りやすくなったような…?というくらいに曖昧で、どれだけ英語が上手くなっているのか全然わからなかった。

進歩が感じられずに落ち込んでいるのに、ロンドンのあの暗い冬の天気は私をますます落ち込ませて、よく部屋で鬱々としていた。もがいてももがいても前に進めなかった。そんな私の後ろ向きな姿勢を変えたのは、プレゼンの授業での先生のこんな言葉だった。

「みんなにとって英語でプレゼンをするということは、泳げないままプールに飛び込むようなものかもしれない。飛び込む前は怖いだろう。水をたくさん飲んで苦しい思いをしたらどうしよう?溺れてみっともない姿を晒したらどうしよう?そして実際に飛び込んでみたら、悲しいことにそれはきっと現実になる。だけど、プールへ飛び込まずにどうやって泳ぎ方を学べると思う?どんなに陸で泳ぎのフォームを勉強したとしても、いくら理論を学んでも、飛び込むことなしに泳ぎ方を学ぶことは出来ないんだよ。英語もそれと同じ。上手く発音できなくて笑われるだろう。意味不明なことを言って恥をかくだろう。それでも話すことなしに、恥をかくことなしに、英語を話せるようには決してならないんだよ。」

水の中でもがき続けて9ヶ月、最後に受けたIELTSの結果は7.0(L 7.0 / R 8.0 / W 6.5 / S 6.5)だった。スコアが0.5上がったのはReadingの8.0があったからだし、Speakingは変わっていなかった。掛けたお金と時間を考えるとあまりいい成績だとも思えなかったし、実感として私の英語は相変わらず下手だった。

それでも8.0あったくらいだから、ハリーポッターは英語ですらすら読めた。いつか一巻から読み直したい、原書でも読んでみたいという子供の頃からのぼんやりとした夢が思いがけず同時に叶って、それは素直に嬉しかった。大学受験が終わってすぐ、偏差値70くらいの英語力があれば洋書は読めますという言葉を信じて、ハリーポッターを買ってみたけどさっぱり読めなかったので、ちょっとは出来るようになっているんだと初めて実感した。この頃になると一般向けの小説はだいたい読めるようになっていて、Kazuo Ishiguroを読みまくったり、Dickensに挑戦して挫折したりしていた。読書は失敗しても恥を掻かないから好きだった。

周りのみんなが大学院に進む中、これ以上さすがに延長出来ない私は日本に帰った。

24歳

海外で働きたくて、とにかく最短ルートで働きたくて、でも寿司職人にはなれそうになくて、私は手に職をつけようと思ってWebの勉強をしはじめた。バイトしながら学校に通って、その後Webの会社に就職した。面接の時、さすがにすぐにでも海外で働きたいと言ったら雇ってもらえないと思って、27、28歳になったら海外に行きたいですと言っておいた。

その会社で海外の有名なソフトウェアの会社や優秀なデザイナーの話をたくさん聞いて、聞けば聞くほど面白くて、片っ端からTwitterでフォローした。日本に来ると聞けばオフィスに遊びに来て!ガイドします遊びましょう!とリプライを飛ばしてミーハーっぷりを発揮していたら、フォローしてくれる人が現れた。日本語でツイートするのが申し訳なくなり、英語と日本語アカウントを分けるようにした。この業界は日本好きな人が多いので、何でもないけどとりあえず英語は話せる日本人のTechオタクな私を面白がってくれる人がたまにフォローしてくれるようになった。みんな実際にサンフランシスコや日本で会ったけれど、話していて本当に楽しくて、初対面だとは思えないくらい誰と会っても楽しかった。私にとってのスーパースターのような人たちと働いたことがあって、その頃の話を聞くのはとても楽しかったし、それぞれが今作っているものはいつも私を興奮させた。なんでこんなにすごい人たちがぺーぺーの私と仲良くしてくれるんだろうと不思議だったけど、みんなもみんなで日本の話を楽しそうに聞いてくれた。いつかこの人たちと働けるようになりたい。ファンでもなく、友達でもなく、仕事仲間になりたいと、私は無謀にもそう思うようになって、ますます海外で働きたいという気持ちが大きくなった。

それでも海外で働きたいなんて、一体何をどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。現状に全然満足できないのに、自分の夢はものすごく遠いところにあって、その遠さに絶望してこの頃よく泣いていた。

25歳

忘れもしない25歳の誕生日3時間前、彼氏からフランスの旅行系スタートアップのWebサイトが送られてきて、ここに応募してみたら?と提案された。確かに私に出来ることがありそうだと思って、そこから生まれて初めてのレジュメを書き始めた。誕生日当日はスタバでずっとレジュメとカバーレターを書いて過ごした。自分の25歳の1年を象徴しているようだと思って、こんなブログを書いている。この時に25歳は絶対に海外で働くと決めた。

結局その会社からはポジティブな返事をもらったけれど、まだ立ち上げたばかりだから難しいですと言って断られた。それでも感触は悪くなかったので、そこから私は本格的に仕事を探し始めた。お昼休みはカフェでひたすら求人情報を見て、週末はスタバに行ってカバーレターを書いて、の繰り返し。とにかく一分一秒でも早く海外に出たかった。

ところがなかなか上手く行かなかった。このポジションには私しかいない、カバーレターにも良い文章が書けたと思ったのに、返事が一切ないということもよくあった。一度ドイツのスタートアップに採用されそうだったけど、最終面接の5分前に「ごめんなさいアジア進出やっぱり止めたのでこの話はなかったことに」と言われて、また最初からやり直しになった。ヨーロッパの会社ばかり受けていたので、返事はだいたい夜中に来る。返事が来ているか気になって夜中に起きる癖がついてしまって、毎日3、4時に目が覚めた。返事がないか、来ても不採用の連絡ばかり。とても海外で働けるようになるなんて思えなくて、過呼吸になりそうなくらい泣いて、彼氏まで泣かせてしまった。

それでも半年後、やっとオファーをもらえた。一番大好きな会社だったので信じられなかった。今、私はシンガポールで働いていて、来月26歳になる。


大学卒業前、「留学しようと思っているんだ。」と友達に話したとき、「それでいつか海外で働きたい。」と私は無意識に言った。見栄を張っていたのか何なのか、それまでそんなこと考えたこともなかったのに、私はぽろっとそう言った。それで、それもいいなぁと思った。でも当時の私には、そんなの夢のまた夢だった。だけど4年後それは実現できてしまった。

ものすごく遠くに来たと思う。それでもまだ私は水の中でもがいている。まだまだ知らない単語がたくさんある。書いても書いても自分の理想とは程遠い。自分だけ冗談が聴き取れないこともある。時々いつになったら不自由しなくなるんだろうと考えて気が遠くなる。4年間これだけやって、ここまで来てもそんなものなんだから、今の真里が英語が出来ないのは当たり前。大事なのは諦めずに勉強し続けること。それしかないと思う。

何度だって言うけど、不可能なんかじゃない。辛くても惨めでも悔しくても、投げ出さないで進み続けて見える景色は、たぶん今の真里が想像出来ないくらい、素晴らしい眺めだよ。