『シン・ゴジラ』と『君の名は。』2016年の二つの大災害について〜あるいは打ち合わせとすれ違いの話〜
日本にとって2016年は、2つの国家的大災害に向き合った一年として記憶されるだろう。
『シン・ゴジラ』と『君の名は。』この二つのファッキンアメイジングな映画についての話だ。
両方とも素晴らしすぎて、見ているだけで企画したり創作したりするのがちょっとバカらしくなりかけるんだけど作品のなかに、それでも、明日も仕事とか通勤とか通学とかちゃんとしようぜ!!っていうメッセージがハッキリとこめられていて、T−PABLOWばりに『決してつかねぇ膝と嘘』って思っちゃう。
圧倒的に感動して、嫉妬して、そのクオリティにくじけそうになって、それでもこの作品の凄さがわかって語ることができるだけ、おれはまだマシだぜって思うクリエイターは島本和彦先生だけではないはずだ。
もうすでにあちこちで語られているとおり、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』どちらも、東日本大震災がモチーフにつくられている。2つの作品を並べて見ること、語ることが、2016年に生きているぼくたちに許された特権的幸福だと思うから、この文章を書いている。バラバラに見るよりも、見比べて、語り合うことで、この二つの作品体験は豊かになる。もっというとちょっとだけ明日からの毎日が豊かになるかもしれない。こんな三連休最終日の過ごし方も悪くないだろう?
まず、シン・ゴジラの話からしよう。この映画は、下手したらオールタイムベストになるんじゃないかと思うくらいぼくは感動したのだけど、
なんで、そんなに好きかっていうと、この作品の中で、世界を救うのが『打ち合わせ』だからなんだ。
ぼくやあなたが毎日毎日オフィスでやっている打ち合わせ。会議。ミーティング。
ゴジラという圧倒的な災害に直面して、政府がどう対処するか、当然のように打ち合わせで決めていく。誰も向き合ったことのない絶望的な問題に対して、徹底的に議論し、対処の方針を立てていく。そして自衛隊やJRといった、日本の誇るべきすぐれた現場が対応することで問題が少しずつ解決していく。もちろん最初は慣例や目先の保身、小さな常識に縛られているからこその滑稽な空論が飛び交う。その会議の空回りぶりは三谷幸喜の作品や、踊る大捜査線のようで笑いを誘う会社員コメディとして描かれている。
徐々に政治家や官僚が自分のするべきことを見出していく。中枢組織のはぐれものたちが打ち合わせと調査と根回しを重ねて、日本を動かし、日本の危機に立ち向かう。
その誠実なプロセスに感動したのだ。
誰もが知っている通り、打ち合わせは当事者にとってはだいたい退屈なものだ。そして、第三者から見たらだいたい滑稽なものだ。ぼくがふだんやっているようなCMやプロモーションの打ち合わせだって同じだ。
『最後のセリフは“それは海のダイヤモンド”でいこう、、、いや“イノシン酸、それは乙姫からの贈り物”くらいひらいたほうが通じるかな』とか『絶対広瀬すず!!これだけはゆずれない・・・いや、ここはあえての深田恭子か?』なんて議論をたまに朝の5時までやっていたりするのだ。やってる方は真剣そのものだけど、見ている方からしたらタチの悪いジョークでしかない。
この映画で描かれているとおり、日本にゴジラが上陸したとしても、きっと打ち合わせは必要なんだ。最新装備で武装したスーパー金持ちも、どこかの星からやってきた最強の空飛ぶマッチョマンも現れない。
サイズのいまいち合わないスーツを着たふつうのおっさんやおねーさんたちが、打ち合わせの積み重ねで救うしかないのが日本なんだ。素晴らしいじゃないか。
特に最後の作戦のときが秀逸だ。どうしても作戦の準備が間に合わない状況・・・ハリウッド映画なら確実に天才がすごい核融合のアイディアを発見しているはずだ。日本ではそんな都合のいい奇跡は起きない。
ただただ先方に頭を下げて愚直に納期の引き伸ばしを提案するのである。
こうして、ふつうの、だけど、とんでもなく優秀な人たちの必死の交渉と打ち合わせで日本は救われる。
そう、ここまで、あえて『ふつうの人たち』という言葉をつかってきたけど、忘れてはいけないのは、政治家も官僚も自衛隊もみんなものすごく優秀な人たちだ。そういえば、社会人ラップ選手権で、出場者の『シン・ゴジラ』マニアの経済産業省現役官僚が対戦相手のローソンの店員に『お前ゴジラやってきたら裸で逃げるだけ、おれら立ちはだかっていけるだけいく』とかましていた。
漫画ベルセルクの最も秀逸な一言に『祈るな!手がふさがる!』というのがあるんだけど、まさにそのことばのとおり、本当に危機的な状況で、エリートは祈らない。
神に祈る余裕があるならば、少しでも情報を集めて、議論を前に進めて、問題解決にあたるのだ。その意味で実はこの映画は突出したスーパーヒーローは出てこないが、一方で登場人物のほとんどがスーパーエリートたちという特殊な映画でもある。
全国のお父さんやお母さんはこの映画を子供に見せた方がいい。日本社会では世界を救うのはヒーローではなくて、エリートだってわかったら、東大目指してみんな勉強するかもしれない。シンガポールに移住したりゴールドマンサックスに就職したりしないでほしいなぁ。
話が傍にそれたけど
『シン・ゴジラ』は普通のエリートたちが必死に打ち合わせして、各所に頭を下げて、納期を伸ばして、世界を救う物語だ。
だからこそ、この映画は僕たちを奮い立てる。明日の仕事で打ち合わせをがんばるエネルギーになる。ぼくたちは得てして、そんなエリートでもないけれど、立ち向かう危機もまたゴジラほど深刻じゃないだろうから。
そろそろ『君の名は。』の話をしよう。そこで描かれているのは危機に瀕したときの一般人だ。国家の危機と個人の恋愛の物語だ。
二人の高校生の男女の精神と肉体の入れ替わりがきっかけとなって起きる恋愛の物語を縦軸に、好きな人の暮らす町が、あるいは自分の暮らす町が災害で滅びようとしているとき、人がどうするかという物語が横軸で展開されていく。
かつてフジテレビの恋愛ドラマの一時代を築いたプロデューサー、大多亮氏が『恋愛ドラマはすれ違いから生まれる。携帯電話が普及してすれ違わなくなってから恋愛ドラマはつまらなくなった』という趣旨の発言をされていた。
その意味で『君の名は。』は究極の恋愛ドラマと言える。だって、時空レベルですれ違うんだもん。会えないよそりゃあ。
この時空の歪みのなかですれ違いまくる二人にやきもきし、中身が男だからこそ無邪気に振る舞う女子にぼくたちは勃起し、中身が女だからこそ友人の男子に複雑な気持ちを感じさせるイケメン高校生に婦女子たちは湿り気を覚えるのだ。
一部では、二人の恋が生まれる過程に納得がいかない、っていう批判を散見する。でも、この物語の恋愛が生まれる構造はけっこうよくできているとぼくは思っていて。
入れ替わることで、二人の高校生の男女は相手の人生を追体験する。そこで、自分のパートナーがどれだけ周りの人に愛されているか、慕われているのかを文字通り体験することになる。それだけ愛されている人ならば・・・という感情が好意に発展することは容易に納得できるだろう。
もちろん『ただしイケメン(美人)に限る』という世界の大前提はそこでも厳しくぼくらの行く手を遮るわけだが。
他にも、青春目線の女子キャラにエロティックな躍動感とか、自然風景の描き方とか、楽曲のエモさとか、『君の名は。』を褒めるところはたくさんある。現時点での日本映画の到達点として評価されてしかるべき作品だと思う。
ここまで褒めておきながら、ぼくはこの作品に完全に乗り切れなかった部分がある。それは、リアリティだ。一部では、作品世界のリアリティについての批判が見受けられる。
いわく、入れ替わりの理由が・・・とか。いわく、隕石の軌道が・・・とか。
でもね、上に書いた様な作品内の設定としての超自然現象のリアリティについてはどうでもいいんです。
作品世界のなかで 巨大怪獣が襲いかかってきたって、耳のない猫型ロボットが押入れからでてきたって、海賊王を目指したってなんでもいい。
ぼくがここで問題にしたいのは、作品世界における人間たちの感情のリアリティだ。『シン・ゴジラ』の直後に公開されて観たからだ、というのも大きい。『シン・ゴジラ』はリアルなのだ。
ぼくは、作品の価値は、その作品の世界に生きる人間の切実さの解像度で決まるとおもっている。どれくらい必死にもがき、感情を振り乱し、生きたか。その切実に生きる姿のリアリティ。
『君の名は。』についていうと、隕石接近と男女の入れ替わりという大きな嘘の世界で、その世界における人間の心理と、そこから生まれる行動をもっともっと丁寧に描いて欲しかった。
ド文系人間のぼくは超ヒモ理論もタイムホール理論も全然わかんないから、時空の歪みという嘘は簡単に丸呑みできる。だからこそ、その先の世界で家族や地域が滅びるかもしれないという危機に瀕した絶望や、そこから希望を見出す過程をもっともっと見たかった。苦痛にあえぎ、とりみだす女子高生の表情をあのクオリティの作画で見たかった。
作品のなかでは、危機の前後で好きな人に会えないかも、名前を思い出せないかも。という危機に対する焦燥感はそこそこ切実に描けてたような気もするけど、その分、地元の危機に対する切実さがちょっとばかりというかかなり大幅にないがしろにされていた。だから結果としては、隕石落下も時空の歪みも、90年代フジテレビ的な男女のすれ違いを究極的に絶望的なものとして描くための舞台装置にしか見えてこない。
『シン・ゴジラ』では、組織の体制という困難に阻まれながらも、なんとかしてゴジラという危機をどう乗り越えるかという局面における切実さが徹底的に真摯に描かれていた。切実だからこそ、打ち合わせが国家的危機に対する武器になりうるし、観客に対してのエンターティメント(コメデイ)になりうるのだ。切実さが、解像度高く描かれているからこそ、ぼくは感動したし、人の生き方に影響を与える力がある。
『君の名は。』は見ているときは最高に気持ちいいし、楽しいし、ちょっと泣けるんだけど、次の日の人間の行動を変えたりはたぶんしないだろう。つまり、世界をちょっと変えたりするような力はないということだ。
もちろん対処療法的なマッサージが都会で働く人のためにはとっても大事なように、『君の名は。』はもちろん素晴らしい作品で世の中に必要な存在だ。ぼくにとって、好みじゃないなんてことは、本当にどうでもいいことなんだよね。
まぁ、まとめると、幼稚園から高校まで男子校だったぼくには、あんな青い春は訪れなかったし、全然感情移入できなかったってことだけなのかもしれない。
切実さの解像度の違い、エリートと一般人の違い、それぞれあるけれども。どちらの作品も、国家的大災害と当事者として向き合ったとき、人はどうするのか、ということを丁寧に、最高の技術で描いた話だ。
311を経験した日本だからこそ獲得できた想像力の産物。
あの悲劇、災害、混乱から5年、いろんな葛藤・苦闘の末に日本社会がこの二つの作品を生み出し、大ヒットした、
つまり多くの人々が喜んで受け入れたということは素直に祝っていいことだと思う。この国は強い。
ちょっと長くなりすぎた。週末だからといって調子に乗りすぎた。そろそろ寝よう。