松本人志についてのノート

(約27500字) 

(注1)有料記事になる前に、投げ銭を頂いた方で、その後記事が読めなくなってしまった場合、ご連絡下さい。個別にテクストをお送りします。お手数をかけます。[email protected]
(注2)この文章を大幅に加筆修正して、また北野武/ビートたけし論を加え、三本の対談座談を行って、一冊の本として『人志とたけし』(晶文社)を刊行しました。よければ手に取ってみてください。


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 以前、渋谷のシネコンで実写版『ジョジョの奇妙な冒険』を観たあと、何だか晴れ晴れとしない気分のまま、居酒屋で映画プロデューサーのK氏と雑談をしていて、積年の小さな疑念がぱっと晴れた、と感じた瞬間があった。たしか北野武の映画について話し込んでいた流れだったが、かつてお笑い芸人を目指していたというK氏は、こんなことを言ったのだ。「松本人志は天才ではありません、あの人はどこまでも普通の凡人なんですよ、杉田さん、松本が出演している「クレイジージャーニー」を一度観て下さい」。
 その後地元でDVDを借りて、TBS系列の紀行バラエティ「クレイジージャーニー」をみてみた。なるほど。この世には、本当にクレイジーな天才どもがいるのだ。松本は、それに対してほとんど素人のように、絶句し、驚くことができるばかりである。
 その不思議な無残さは、何だろう。
 一九九〇年代以降、お笑い界の頂点に君臨してきた松本人志という人間は、芸能界とメディアが作り出した虚像でしかない、裸の王様に過ぎない、というつまらないメディア論をぶちたいのではない。ダウンタウンは同時代の東京サンシャインボーイズのような(非小劇場的な)演劇の要素をお笑いの世界へと輸入しただけだ、と言いたいのでもない。「天才を詐称し続けねばならない凡人であること」――そこに松本人志という人間の笑いの宿命があり、爬虫類めいたその顔の皮をはぎ取れば、そこには圧倒的にからっぽな空無が拡がっているだけではないか。
 その精神の虚無を、まずは見つめてみたいと思った。
 松本人志のカリスマ性を相対化したいとか、そのシニカルかつ権力的な振舞いを批判したいというのですらない。その空疎と虚無は、僕(ら)にとっても不気味なほど身近で親密なものであり、だからこそ、松本人志の存在とその笑いには、無視できない怖さと感染力があるのではないか。そう言いたい。たとえ近頃の「人志松本のすべらない話」や「IPPONグランプリ」において、若手芸人たちよりも松本の話の方がつまらなくても。つねにすべり気味で一本取れないのに、周りにそれを言わせないという忖度の空気がどんなに寒々しく、痛々しいとしても。
 凡庸で月並で平均的な人間にすぎない僕は、周りの凡庸で月並で平均的な連中と同じように、大学生の頃、「ごっつええかんじ」等のダウンタウンのテレビ番組をそれなりにみていた。ウッチャンナンチャンの優等生的な笑いでは、何かが物足りなかった。特に熱心なお笑い番組ファンではなく、ごく凡庸で月並で平均的な視聴者の一人であるにすぎず、それまでドリフ的なもの(客席と舞台を分けて、コントを中心に行われる演芸的なもの)とひょうきん族的なもの(テレビ局内の内輪ネタを中心にしたポストモダンなもの)くらいしかお笑いのあり方を知らなかった僕にとっては、やはり、ダウンタウンの笑いの衝撃力はそれなりに大きかった、という記憶がある。マンガでいえば、当時の吉田戦車や榎本俊二を読んだ時の衝撃に似ていたろうか。
 笑いとはお茶の間の親密さや日常の喜びを維持強化するものとは限らず、日々の思い込みを打ち砕く驚きであり、精神的なショックでありうる、そういうことを思い知ったのである。
 しかし、その後も「ごっつええ感じ」や「ガキの使いやあらへんで!!」等は人並みに見て来たと思うが、松本人志という人間に対しては、いつもある種の不気味さを感じていた。あの、心の中では何を考えているか全くわからない、爬虫類的な表情。この世の何をも信じていないかに見える空疎な笑い声。非人間的なドヤ顔。
 とくに「ひとりごっつ」という深夜番組が、僕にとっては妙に印象深い。誰にも理解されない孤独な天才が深夜、たったひとり、不気味な仏像やグロテスクな人形を前にして、延々と何かをやっている――というそのポーズ(自己演技)において。しかし今思えば、あれは本当に面白かったのだろうか。
 この俺の面白さがわからない奴らは、本物のお笑いがわからないうんこちゃんだ、という神々のように傲岸不遜な松本の嘲弄にひたすら耐え続ける深夜のあの時間帯とは、一体何だったのか。
   *
 松本人志は「ワイドナショー」に出るようになってから、その政治的な発言によって、数々の炎上と論戦を定期的に巻き起こしてきた。しかもそれは、現にある政治的な問題に対して、本当は無関心であるにもかかわらずそれを嘲弄し、逆張りし、全てをなし崩しにしていく、という意味での非政治的な政治性であり、つまりは最悪の意味でのつまらない「イデオロギー」である。
 たとえば松本は、いわゆる共謀罪(テロ等準備罪)についてこう言った。「正直言うといいんじゃないかと思ってるんですけどね」「冤罪も多少はあるかもしれないけれど、未然に防ぐことのプラスの方が僕には多い気もするし」。あるいは安全保障関連法案に対する反対派のデモを侮蔑するように、こう言った。「安倍さんがやろうとしていることに対して反対だっていう意見って、意見じゃないじゃないですか。対案が出てこないんで」「このままでいいと思っているとしたら、完全に平和ボケですよね」。ちなみにダウンタウンは同番組を含む幾つかの場で、橋下徹や松井一郎を後押しするためのアクションを行ったりしているし、同番組では安倍晋三現総理大臣をゲストとして呼んで明らかに応援する空気を作ったりもしていた。
 お笑い芸人が政治的な発言や主張を行うことが悪いというのではもちろんない。芸能活動と政治的発言は無関係でありうる、というのは甘すぎる。世の中に対する圧倒的な影響力にも関わらず、松本が自らの政治性や党派性にあまりにも無自覚である、ということ。のみならず、おそらくはそれをわかってやっている、ということ。
 その悪魔的無邪気さこそが、やはり不気味に思えるのである。
 そこには権力や大衆に対する肝の据わった批判精神があるわけではないし、巧みなイロニーやユーモアがあるわけでもないし、何より、芸能というものの根源にあるはずの自由の手触りが全く見られない。
 それに対し、「週刊金曜日」(二〇一七年七月二一日号)が「松本人志と共謀罪」という特集を組み、話題になった。脳科学者の茂木健一郎や若い頃のダウンタウンを知るプロデューサーの田中文夫、吉本興行の幹部だった竹中功などの人々が原稿やコメントを寄せている。ちなみに茂木は「(日本のお笑いは)上下関係や空気を読んだ笑いに終始し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無」「本当に「終わっている」」というツイートをめぐって松本と「論争」(茂木の言葉を擁護し、先輩にあたる松本を公然と批判したオリエンタルラジオの中田敦彦をも巻き込んで)を展開していた。
 「週刊金曜日」のはっきりとした党派性もあるだろうが、それらの記事や発言の多くは、近年の松本の政治的発言や無自覚さを厳しく批判するもの、立場的に批判は出来ずとも強い違和感を表明するものであり、もはや松本は裸の王様になってしまった、変節してしまった、昔の純粋なお笑い芸人としての松本に戻ってくれ、という方向性のものが多かった。
 だが、はっきりいえば、「週刊金曜日」のそれらの松本批判の殆どは、批評としては弱い、現象としての松本に対する上っ面の批判ではあっても、松本の存在的な必然性をその急所において突き放す、という意味での批評にはなっていない。そう感じた。つまり、松本人志という人間の存在と笑いの質に、批判の言葉が匹敵していない、という気がしたのも確かである。
 松本という存在を(芸能界の・メディアの・政治的状況の)「権力者」の側に位置づけ、それを一方的に罵倒し批判し違和感を語る、という「権力批判者たち」の花園=安全圏から物を言っているにすぎない。そう見える。松本の「ワイドナショー」の発言が暗黙の権力構造と空気と忖度に守られているとすれば、「週刊金曜日」に寄せ集められた発言達もまた、別のタイプの権力構造と空気と忖度に守られている。空気と空気批判の相補的構造こそが日本的な〈空気〉の怖さであるのに。
 しかし批判の言葉がもしもその段階にとどまるならば、それは、誰よりも周りの空気を読むセンサーを磨き抜き、それゆえ大衆的な「空気」に茶々を入れ、傲慢と嘲弄の毒を浴びせることができた――そのような仕方において「空気」を支配してきた――松本的な暴力性の、似姿であるにすぎないし、劣化コピーであるにすぎない。本来の意味での「政治」とは、そうした大衆迎合と大衆嫌悪が相補的に織りなす空気=世論に対し、はっきりとした対立軸と敵対性を導入し、真の意味での輿論(論争と論戦の気風)を爽やかに導きいれることではないのか。
 「週刊金曜日」の記事の中では、僕が読み得た限り(本当は中田敦彦にさらに公然と、自由かつ「政治的」な松本批判を行う場を与えてほしかった)、唯一、『安倍でもわかる保守思想入門』等の著作のある適菜収の記事だけが、松本人志の核心にある何事かを突こうとしているかに見えた(「「何となく安倍支持」の筆頭 その凡庸さは犯罪に近い」)。
 お笑い芸人とは端的に空気を読む職種であり、松本はその能力に誰よりも長けているが(というか松本こそがまさしくそうした「お笑い=空気を読むこと」という場を作り出したと言えるのだが)、そもそも、空気によって政治を動かすことは危険である、と適菜は言う。「私は松本は無知なだけで、本質的には悪意のある人間ではないと思っている。しかし、自分の置かれている状況にあまりにも無自覚だ」。
 たとえば立川談志であれ、北野武であれ、上岡龍太郎であれ、世間とは全く違う切り口から芸人たちが政治や社会について発言する時、そこには「ためらいや一呼吸のようなもの」があったはずである。しかし「松本は、子どもでも言わないような凡庸な意見をドヤ顔で言う。芸人としてどうかと思うが、問題は凡庸な人間が無害ではないことだ」。
 その上で適菜は、哲学者のハンナ・アレントの『イェルサレムのアイヒマン』を引く。ナチスの親衛隊中佐だったアイヒマンは、極悪人や絶対悪などではなく、凡庸な人間であり、バナールな悪だった。そう考えるアレントは、同書に「悪の陳腐さについての報告」という副題を付けたのだった。近代社会においては、思考停止した「陳腐な悪」たちが大挙して「わかりやすい」世界観に飛びつくことによって、非政治的で排他的な全体主義が醸成されていく。
 適菜はいわば、松本人志こそが陳腐な悪であり、無知で凡庸な「悪」である、という批判を突きつけているのだ。この批判はおそらく松本に対するある種の核心を突いている。
 だが、それはまだどこか「政治的な凡庸さ」と「お笑い芸人としての天才性」という二元論的な区別を許し、それを温存させるような甘さがあり――それによって松本人志の存在を免罪してしまうところがあり――、批評としては依然として弱い、足りないように思える。
 むしろ必要なのは、政治/お笑いという二元論を超えて、松本のお笑いと芸の核心にあるその凡庸さ、陳腐さ、空疎さを――しかもその可能性の中心において――えぐりだし、あばきたてて、それを公然と批判することではないか。
 だがそれは当然、近代社会を生きる僕らの内なる凡庸さ、陳腐さ、空疎さを見つめることでもある。すなわち「右」や「左」、あるいは「ネトウヨ」や「パヨク」等の概念が対立的に区別されていくその手前にあり、どちらの立場の人間たちをも侵食している圧倒的な虚無、そうした虚無への対峙を個々人が強いられることでもあるだろう。
 適菜は松本に「悪意」は感じない、と書くが、僕の考えでは、松本に「悪意」はある。そう感じる。だがそれは、政治的なものとしての悪意とは微妙に異なる。松本的な悪意とは、善悪や真偽などの区別自体を無意味化していく悪意であり、この世には様々な価値観を持つ人間たちが多事総論によって新しい価値をたえまなく生み出していく、というアレント的な「政治=公共性」の意味を根こそぎに嘲弄し、虚無のアビスへと引きずり込んでいくような「悪意」としての「笑い」であるからだ。
 前置きがすでにだいぶ長くなった。僕はこれから、松本人志が監督した四本の映画を論じる。彼の映画を批評することによって迫りたいのは、述べてきたような圧倒的な虚無としての笑いの正体であり、その全てをうんこちゃんの中に引きずり込んでいく悪意と空疎の先に、はたして何があるのか/ありえないのか、ということである。

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