障害としてのジェンダーロール
この記事について
すももさんの以下の記事を興味深く読んで、思ったところを書きます。
男性の構造的なつらさ
すももさんの記事では、女性が男性に比して結婚相手の「職業」と「経済力」を重視していることが指摘されています。その一方で、バブルの崩壊以降、男性の所定内給与額の推移は伸び悩んでおり、男性が女性の期待する水準の「経済力」を獲得することは難しくなっている現状がしめされています。以上のことから、得られるソーシャルサポートの面で弱い立場にある男性が「男性は稼げる職業に就くべし」という性役割を降りることは一層困難なものになっていると述べられていました。
そのうえで、すももさんの記事では、男性がこの構造的な〈つらさ〉から解放されるための方策のひとつとして、女性が男性に対して経済力を求める意識が改革される必要があるとされています。しかし、これはやや不思議にも見える論で、ようするに、男性が「女性も稼げる職業に就くべし」という性役割を求めるようになれば、男性の〈つらさ〉は相対的には改善されるという話にすぎないようにも思われます。つまり、男性の側が、女性に対して高望みするなと求めるのではなく、男性に対して女性にもっと高望みしてもよいのではないかと訴えるのでもよいはずなのです。
しかしそれでいてこの論がそういう運びにならなかったのは、基本的に男性にも〈つらさ〉があることを訴える内容に傾いたものであるとともに、結婚という儀礼がある種のジェンダー的ないびつさをはらんでいるためだと思います。
異性から選ばれるということ
結婚や恋愛をするうえでは、多くのケースで男性の側が女性によって選ばれるものであるという非対称な構造が存在することがしばしば指摘されます。その学術的なソースについては、私の不勉強のためしめすことができませんが、たとえばこのブログ記事では、女性のほうが男性とマッチングしやすいことについて次のように書かれています。
『性欲・性選択』に関しては男性と女性はかなり『非対称的な力関係』にあり、ある程度若くて平均的な魅力を持つ女性であれば、選り好みしなければ殆ど苦労をせずに性の相手を捕まえることができる一方で、男性は外見的魅力にもよりますが、基本的にはある程度女性から選ばれるために苦労して努力しなければ(あるいは気を遣ったりお金を使わなければ)、性的な関係を持つことが難しくなっています。
こうした指摘は、一般に男性よりも女性の方が交際経験のない者の割合が低いことからも一定程度の説得力があると考えられます。実際、たとえばこの調査の報告によると、男性で交際経験が一度もない者の割合は38.5%であるのに対して、女性で交際経験が一度もない者の割合は27.2%であり、両者には有意差がみとめられます(p <= .01。以下に掲載の図表は同調査のレポートPDFから抜粋した)。
選ばれないことの〈つらさ〉
もちろん、女性であっても4人に1人程度は一度も交際経験がないと回答しているということで、これは決して少なくない割合でしょう。他方で、裏を返せば、女性のほうが異性と付き合うことがいわば当たり前のこととされているということで、女性は男性とマッチングできない(=選ばれない)ことについてより強いプレッシャーを感じている可能性もあります。
実際のところ、先の調査において恋人のいない未婚者に対して「恋人がいる友人をうらやましく思うか」を尋ねた項目では、男性の57.6%がどちらかと言えばあてはまると回答したのに対して、女性では69.5%がそのように回答しており、ここにも有意差がみとめられます(p <= .01)。
しかしながら、異性から選ばれないことの〈つらさ〉についていうと、すももさんの記事が指摘するように両性のあいだには結婚や恋愛以外のソーシャルサポートの面で差があり、その〈つらさ〉のもつ意味あいが質的に異なっていると予想されます。つまり、男性においては、女性に比べて他者と親密な関係を築くことが困難であるため、そうした関係のひとつである婚姻・恋愛関係を築けるかどうかが相対的に重い意味を持ちがちであるということです。
また、もうひとつ変わった切り口を提示するならば、男性においては性交経験がないことが相対的に強いプレッシャーになりやすいという事情がありえます。この報告はやや古い調査で母集団も上の調査とは異なるものですが、大学生においては、男性では80.8%(n = 215)が性交経験があると回答しているのに対し、女性では60.2%(n = 298)にとどまっています。すなわち、ある年代では性交経験のない男性は文字通りマイノリティであり、童貞であることがしばしば揶揄の対象になることも手伝って、社会文化的に肩身の狭い集団になりうるのです。このことが、男性の異性から選ばれない〈つらさ〉を女性のそれとは質的に異なる(もしかすると「より深刻な」)ものにしている可能性はあります。
ただし、重ねてことわっておきますが、女性においても結婚や恋愛に縁がないことの〈つらさ〉が確かにあるものでしょう。すももさんの記事から受けとるべき主張は、男性の場合には結婚という儀礼を通じて築くべき関係に代替不可能性のようなものを感じとってしまうところに〈つらさ〉があるという話で、異性から選ばれないことの〈つらさ〉だけについて言えば、両性のあいだに大きな違いはないように思われます。
たとえば、先ほどのこの調査には、交際したいと思う異性がいるが告白していないという未婚者に対して「なぜ自分から告白しないのか」と尋ねた項目があります。この回答から作成された下図によると、「ふられるのが目に見えている」「告白することで今の関係が壊れることが怖い」といった主な回答項目の傾向には、両性のあいだであまり違いが見られないことがわかります。もちろんこの結果だけからでは断定できませんが、おそらく、異性から受け入れられないことへの不安傾向は男女間で大きな差がないのではないでしょうか。
ジェンダーロールを降りるということ
私がTwitterなどで眺めているかぎりでの話ですが、フェミニズム(あるいはいわゆる「ツイフェミ」)の言説を批判的に検討する人たちは、しばしば既存のジェンダーロールを「降りる」ということについて疑義を投げかけます(たまたま青識さんのツイートを引用しますが、とくにこれを批判したいという意図はありません)。
これは多分に微妙な問題を含んでいると思うので、あくまで個人的な想像なのですが、既存のジェンダーロールを「降りる」ことは少なくとも多くの男性にとって、まったくメリットがありません。これはジェンダーを取り巻く問題が、よく語られるような「女性差別」である以前に、社会によって構築された障害(disorder)であるためです。障害を解消するための合理的配慮とは、あくまで社会の一部の成員の訴える困難を解消するためのものにすぎず、その他の多くの成員にとっては痛みをともなう負担でしかありません。このことはたとえば、車いすを使う人のためにエレベーターを設置することが、エレベーターをとくに必要としない人しかいなかったとしたら余計な負担になるという事実からも推し量られます。
ある集団の訴える障害が、社会の多くの成員に負担を強いてまで是正されるべき差別であるかという判断は、慎重に検討しなければならない問題です。もし困難が社会的に構築されたものであるという理由だけで直ちに「差別」とみなされるとしたら、たとえば、琉球新報が報じる知的障害者が普通科高校に入学できずにいるといった話は、それによって社会が負担を被るとしても是正されるのでなければなりません。
上で確認した資料などから、おそらくは男女を問わず、いわゆる「非モテ」と呼ばれるような人たちが既存のジェンダーロールのなかで困難を抱えているらしいことが素描できました。また、もしかすると男性であるということが、「非モテ」であることの困難をより一層深刻なものにするかもしれないということも示唆されました。そうした事実を踏まえたうえで、では、私たちはどこかの誰かにジェンダーロールを降りることを迫りうるのか、また、そうすることができるとして、それはどこの誰に迫るべきなのかを慎重に検討する必要があると思います。