GRAPEVINEのすゝめ

 今日はちょっとGRAPEVINEを勧めてみたい、みたいな書き出しでは、なかなか容易に勧めにくいロックバンド。それがGRAPEVINEだというのはファン内外の一致するところではないかと思う。なので、「すゝめ」と言ってみたけれども、きわめて個人的な内容になっているので、そこはご容赦いただきたい。
 振り返ってみるに、彼らのデビューした当初からしてじつはそうだったのだ。たしかに20世紀末、『Lifetime』というアルバムはオリコンチャートで3位を記録したし、そういう意味で一度彼らはブレイクしたには違いない。 
 だが、当時学生で、同時代の若者とも音楽トークをよくしていた身としては、浸透の仕方がその頃から一風変わっていたように思う。
 それより遡ること数年前にMr.childrenというバンドがデビューしていたことも、その当時の彼らの実像が正しくはリスナーに受け取られなかった一因にもなったように思う。メロディラインが似ていたかというとそんなことは全然なかったのだけれど、おそらくボーカル田中和将の声質が、同時期デビューのトライセラトップスの和田唱とともに、ポスト桜井和寿と思われるようなそれだったというのが大きかったのではないかと思う。
 当時から自分はGRAPEVINEを高く評価していたのだが、ではボーカル田中の描く歌詞の世界が理解できたかというと、ぜんぜんそうではなかったし、西川のギターの音に痺れられるほどギターの音色にうるさいリスナーでもなかった。いわば、当時はぼんやりと聴き、ぼんやりといいなと思っていただけだったのだ。
 それがいつ頃から自分にとって特別になっていったのか。はっきり覚えているのは、彼らの4thアルバム『Circulator』で打ち出された実験性だった。その実験とともに、自分のぼんやりとしたリスナー姿勢にピリオドが打たれたのを覚えている。素直に「いい」と簡単に人に勧められないけれど、確かな「良さ」がそこにあった。当時は周囲が就職活動で慌ただしく、まじめに就活をしない自分に「おまえ何やってんの」的な目を向ける者も少なくない時期だった。
 この記事を書こうとしているあいだ、ずっと気になっていたことがある。人はいつから決まった音楽しか聴かなくなってしまうものなんだろう? もちろんはじめから音楽を聴かないという人もいるだろうが、かつては聴いていたけれど徐々に聴く回数が減り、たまに聴くにしてもある時代の決まりきった音楽だけ聴く、という人は案外多いのではないだろうか。
 当時はそんな心理はまったくわからなかった。次々浴びるようにいい音楽を聴きたかった。でも、その頃から同世代にもすでに「決まった音楽だけ聴く」という傾向はみられたように思う。それから数年して結婚式だとか何だとか、そういう場で当時の面々に出逢うと、カラオケの選曲で愕然とすることが多かった。彼らは、「あの頃」の中でもじつは思い出に残す曲を厳選していたのだ。そして、GRAPEVINEのようなバンドの楽曲はその中に入れられていなかったのを目の当たりにした。
 当時は「バインいいよな」などと言っていた人間が、「あったねえ、そんなバンド」と遠い目をしながら、一方では嬉々としてB'zやミスチルの曲を歌う。単に「王道」ということなのかもしれないが、その頃感じたのは、人は「こうと割り切れないもの」は時と共に忘れ去って行くものなのかも知れない、ということだった。
 一方で、自分にとっては「こうと割り切れないもの」のほうこそが重要で、結論としては、まあだから就職もせずに研究なんかしてたんだな、と考えるわけだけれど、そんな自分にとって最大の衝撃となったのが、『イデアの水槽』だった。当時はレディオヘッドにドハマりしている時期でもあり、かなりエッジの立った一曲目の「豚の皿」に頭をガツンと殴られた感があった。日本でレディオヘッドを抜き去ろうと走り続けているバンドがある、と勝手に熱くなったのだ。
 また当時は研究以外にもいろいろと思い悩むことが多く、「深い深い絶望こそが暖炉である」というよくわからぬモットーを胸に生きていたせいか「ぼくらなら」という楽曲の歌詞が非常に胸に染み入ったものだった。このアルバムの頃から、亀井亨の丁寧なドラム、田中和将の楽曲によって適切に使い分けられたヴォ―カリズムなど細かく見ていくほど面白いバンドだな、と「ぼんやり」ではない聴き方が徐々にできてきたように思う。中でも、西川弘剛のギターの音色の豊かなことに驚かされた。
 西川弘剛のギターの特色について、自分もギターを一時期やっていたとはいえそれほど詳しくはないので専門的なことは言いたくないのだが、たとえて言うなら、彼のギターの音はアルコール度数の強いウィスキーをストレートで一人で暗闇で飲んでいる感じなのである。音がアルコールってわけわかんないたとえだな、と自分でも思うのだが、ほかに表しようがない。彼のギターの音はたった一人で酒を飲む者が、自分の胸の奥に向けてだけ弾いているような音なのだ。
 それは、田中和将のあまりに内向的な歌詞の世界とも近いかもしれない。田中和将の書く詞は、十中八九一度聴いても何を言っているのかわからない。場合によっては聞き取れない。「マダカレークッテナイデショー」なんて楽曲はモーパッサンの作品名を羅列しているだけの曲で意味不明もいいところだ。しかもその意味不明ぶりは決して明るい「意味不明!」ではないのだ。何かが奥にひっそりといてじっと見つめている感じの「い…い…いみふめい……」なのである。読書家である彼の文学性が存分に発揮されているため、先行する文学作品を読まなければわからない、という意見もあるが、おそらく先行する文学作品を知っていたところでなかなか理解は難しいだろう。その文学作品を血や肉にして、呼吸するようにその言葉を発する者であれば、あるいは、というところだが、では田中がそのような深読みを欲しているかというとそうでもない。このあたりの田中の詞の世界の深みと軽みについては、ぜひ『ユリイカ』あたりで特集を組んでもらいたいと思う。
 さて、時は経った。かつては尖った音楽体験を求めていた自分も気が付けば広告業界に入り、毎晩終電の寿司詰め電車で帰る毎日に突入していくことになった。不思議なのだが、そうして日々忙しすぎるルーティンに染まっている間、どういうわけか自然とGRAPEVINEを休日にしか聴かないようになっていった。あんなに心を動かされた『イデアの水槽』をたまにしか聴かない。それも、「今日はちょっと小説でも書いてみよっかな」という余裕のある日だけ。いつの間にか自分は「こうと割り切れないもの」にそれとなく蓋をしていたのではないか、という気がする。
 だが、やがてこのままではいけない、と一念発起して自宅で起業するようになる。そうしてその思い付きの起業が失敗の一途をたどっていく中でも、なぜか「いやいいんだ。このまま突き進め」とばかりに広告業すらほとんどせずに小説を書き出す自分。壁にぶち当たる寸前なのにアクセルを踏もうとしている自分がいた。金なんかない。生活苦はほんとうに限界に近づいていった。それなのにこれでいいんだというわけのわからない確信だけがあった。
 そういうなかで、久しぶりに、本当にふと「バインが聴きたい」となった。沙漠で水を欲するように、『真昼のストレンジランド』というアルバムを聴き続けた。かつて聴いていたGRAPEVINEとは何かが決定的に違っている。おや? なんだ、このバンドは。こんなバンドだっただろうか? おそらく、順調にアルバムを追っていれば自然に感じられる変化であったろうが、久々に聴く身としてはそれはあまりに大きすぎる変化であり、同時に長年続けているバンドの新譜にここまで驚かされることがあるということに心底ぎょっとした。ほかにも推しバンドはいるし、毎度買っているわけでもない。でもたまに聞けば、昔の推しは昔の良さを……それがふつうだったのだが、GRAPEVINEというバンドはそれにまったく当てはまらなかったことを改めて知らされた。
 何がどうとはいいがたいのだが、おそらくはジャムセッションで曲をつくる形式に切り替えた結果だろう。以前以上に「なに」と言いようのない、不思議に耳にまとわりつく楽曲ばかりになっている。
 そこから失った時を取り戻すようにして「deracine」から「Twang」までを聴く。それらの一つ一つの実験は、一つ前の作品に1.5を掛けるような程度のものだったかも知れない。だが、その積み重ねの恐ろしさを、「真昼のストレンジランド」を聴いた体験によって知らされてしまった身としては、その時はっきり理解せざるを得なかった。
「このバンドは、このバンドだけは、かならず毎回チェックしなければならない。そうでないと、いつの間にかとんでもないモンスターに変わってしまっている。その変化がどんなに地味に見えたとしても、それはおまえにそう見えるだけにすぎない。そのわずかな変化を見逃せるほど、おまえはおまえの人生に革命をもたらしてはいない」
まとめるなら、そういうことだ。だから、それ以来ひとつも彼らの楽曲は聞き逃さないようにしている。
 近年は、サポートメンバー二人との五人体制で動いてきたバインだが、彼らの一人一人の音の際立ちは、アルバムを追うごとに研ぎ澄まされている。かつて私は彼らの音楽を「焚火のよう」と形容したことがある。一人一人が、流木で、それらを組み合わせて置くことで、その一回こっきりの焚火が生まれる。どこにもない火が、どこにもない揺れ方で存在している。
 また、田中和将の描く歌詞の世界は、さまざまな文学テクストを引用しつつ、いっそう神話的になっていく。先行テクストの世界観を借りながら、心象風景が独特のやり方で語られる。もうこれは上質な酒の味わいとしか言いようがない。乱暴に言ってしまえば、もはや酒だ。歌詞が酒。田中の柔らかな声が酒。西川のギターが酒。亀井の創り出すメロディが酒。その奥で、丁寧なドラムが仏頂面をしたマスターよろしく次の酒を用意している、といった感じだ。
 さて、そんな彼らのニューアルバム『ALL THE LIGHT』が発売となった。まだ十分に聞きこんでいないので多くは語らないが、一聴して思った。
 なあ、あの頃「バインいいよな」って言っていたのに、いま「ああそんなバンドいたねえ」とかたまに会うと言ってしまう君さあ、今回ばっかりは聴いてみなよ。「「光について」ってせつないわよね、名曲」って言ってたあの子もさ、日々の生活はいろいろたいへんだろうし、苦労もたえないと思うけど、まあとりあえずGRAPEVINEは相変わらず斜め上を目指しているよ。そして今度のアルバムは、「あの頃の音楽」だけで満たされている君たちの心のドアをも、きっとノックするよ。そう伝えてあげたいな、と。

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