木下是雄さんの話:ロジカルな文章とは

1999年6月6日(日)のブログから。
http://d.hatena.ne.jp/kogo/19990606/p1


——今日も暑かったみたいだね。大学教育学会はどうだった?

9時半からのプログラムだったんだけど、盛会だった。正確な数はわからないが、見たところ60-70人が参加していた。

——木下先生は来ていた?

来ていましたよ。もう80歳くらいになるはずだけど、元気で、少しもあやふやなところのない確信に満ちた態度だった。木下先生は登壇者3人が話した後に、コメントしたんだけど、なんだかいつまでも聞いていたいようなそんな感じがする話だった。

——登壇者は君の他に、口語表現法の桜美林大学の荒木晶子さんと、日本語技法を必修としている高知大学の吉倉紳一さんだったね。

そう。登壇者の話はいずれ学会誌に掲載されるので、今日は木下先生のコメントを書き留めておきたい。

——どんなコメントをした?

まとめれば、次の3点だ。

1) 学生の表現力が低下していると言うが、それは違う。昔から表現力はダメなのであって、それは今も変わっていない。

2) 書くということは、人に事実を伝えること、人に自分の考えを伝えること、人に自分の気持ちを伝えること、の三つの目的がある。最初の2項目(事実と考えを伝えること)を私は「言語技術」と名づけた。言語技術は昔からダメであり、今もダメだ。

3) 外国人が「日本人の言うことはロジカルではない」と指摘することの意味は何か。ロジカルであるとは何なのか。それを知らなければ、世界に通用する表現はできない。

——うむ、厳しいね。

久々に人の話を聞いて、しびれる体験をした。もう少し詳しく説明するとね:

日本人は、気持ちの表現はすぐれていたし、今もすぐれている。しかし、それは外国には通じにくい。それは仕方のないことだ。気持ちの表現はさておき、事実や考えをうまく伝えることは国際化の時代にあってますます必要性を増している。しかし、この点に関しては日本人は昔から下手だった。事実や考えを伝えるためにはロジカルにものを書き表すという技術が必要だ。それを「言語技術」と名づけた(しかし、この「技術」という言葉はまた余計な抵抗を生んだ)。

ロジカルであるということは、文章を上から下に読んでいったときに、すっと頭にはいってくるということだ。つまり、読んだ所までの内容がすべて理解可能であるような流れになっているということだ。前に戻って読み返さなければならないような文章や、理解できないのでとりあえず保留しておくことを読者に強いるような文章はロジカルではない。また必要以上の推論や想像力を読者に要求するような文章もロジカルではない。ここでいう「ロジカル」とは三段論法などのことを指しているのではない。頭から読んでいってすべて理解できるような文章のことをロジカルと呼ぶ。

ここらへんの話は雑誌『日本語学』(明治書院)の1998年2月号に木下さんが寄稿している。コピーを見せてもらった。バックナンバーを取り寄せるつもりだ。

——ロジカルか。言われてみればそのとおりだな。無理のない論理展開ということはつまり、すっと頭に入ってくることだからね。

日本の教育は「読み方」からはいるのに対して、欧米では「話し方」からはいるということも言っていた。「読み方」からはいる文化の僕らは必要以上に読み方にエネルギーを注いできたのかもしれない。そのことが結果として、理解しにくい文章をのさばらせてきた。つまりわからないのは読者の読み方が悪いのだと。それが行きすぎると難解であることをありがたがったりするという倒錯した状況になる。しかし、冷静に考えれば、難解な文章は、書き手が努力を怠っているにすぎない。

——なるほど。で、サインはもらった?

うん、もらった!

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向後千春
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