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わたし、勉強できません。

 「勉強」という言葉の意味が今よりずっと狭かったころ、私は勉強が嫌いでした。義務教育の授業についていけないほどで、勉強が嫌いだったから授業についていけなかったのか、授業についていけないから勉強が嫌いになったのか、今でもよくわかりません。そんな子どもの世界に、本という窓があったという話をしようと思います。

 勉強も、学校それ自体も苦手で、中学校を卒業してからはフリーターとなって勉強と離れた場所に身を置いていました。一般的な15歳の多くが高校へ進学するなか、学校に行かないという選択をすると、学歴が途絶えるのはもちろんのこと、自分で手に入れようとした情報しか手に入らなくなります。16歳フリーターが何も学んでいなかったのかといえば、それなりに見える範囲で社会を学んでいたと思いますが、得られる情報は高校に通っていた同世代よりも格段に少なかったはずです。私の場合、小説や漫画、インターネットが情報を得るための窓になっていたように思います。

 小川洋子さんの小説「博士の愛した数式」は、そんな子どもの世界を少し変えました。大嫌いな「数学」が、美しい文体で、やさしく、魅力的に描かれていて、それを扱うことがとても格好よく思えたのです。数学の事をもっと知りたい、でも教科書に書いてあることはわからないし、面白くない。どうやって数学に歩み寄ればいいのかわからない……。あてもなく、興味の向くまま書店の数学のコーナーに行ってみると、そこにあるのは問題集だけではありませんでした。

 ジョン・タバク著「はじめからの数学」。今にして思えば、当時の身の丈に合っていない本でしたが、それまでの「数学」に対する思い込みを打ち壊すには十分でした。シリーズもので、第一巻のテーマは幾何学となっており、はじめのうちは計算式はおろか数字すら出てこなかったので、なんとか読めるのではないかと挑戦したのを覚えています。数学史というものに初めて触れたのが、この本でした。

 それまでの数学に対する思い込みとは何だったのでしょうか。中学生までのことを思い返してみると、数学を「計算問題を解くもの。 計算にはルールがあり、それを覚えないと答えが出せないもの」として理解していた気がします。数学史の入り口に立ってみてはじめて、私は「数学とは人間が集団で生きる上で必要に迫られて生まれたもので、数字も人間の発明した道具のひとつ」なのだという事を理解することができたのでした。

 結城浩著「プログラマの数学」は、さらに数学と私の距離を縮めてくれました。結城浩さんといえば、「数学ガール」シリーズの著者としてご存じの方も多いかと思います。問題集でも参考書でもない数学の話を求めていた私は、当時まだWEB版だった「数学ガール」にも出会っています。しかしそこでは「これは数学ができる人に向けた話だなあ」と感じてしまい(結城浩さんのWEBサイトによると高校数学がわかる人向けの話であるようです)、「数学ガール」を読むことができませんでした。そのかわり購入したのが「プログラマの数学」です。題名の通りプログラマに向けた書籍ということらしいのですが、冒頭に「読み飛ばしたくなる数式をなるべく取り除きました」とあり、実際その通りで、何より第一章が「0(ゼロ)の物語」というところが気に入りました。そのときはなんでも《はじまり》から知りたかったのです。この本に出会えたのは幸運でした。なにせプログラミングは「数学的な考え方」をして取り組むものであり、この本はその「数学的な考え方」を教えてくれる本で、私が義務教育中に習得できなかったものこそ「数学的な考え方」に他ならなかったからです。

 10代のフリーター生活の中で、どうしても将来への不安がぬぐえなかったので、紆余曲折ありながらも18歳の時に高校卒業程度認定試験(高認)を受験し、合格しました。それによって、私の持つ選択肢は広がりを見せることになります。この高認ですが、少なくとも、周りの大人は誰もこの制度の事を教えてくれませんでした。知らなかったのかもしれません。私がこの制度の事を知ったのは漫画です。タイトルは忘れてしまいましたが、古い漫画だったので「大検」と言われていました。高校を卒業していなくても大学受験ができる制度がある事を思い出し、「大検」というキーワードをインターネットで検索して、文部科学省のページにたどり着き、高認の資料を請求した時のことを今でも覚えています。私はこの経験もあって、漫画は自分をとりまく世界の事を教えてくれる窓になりうると信じています。

 学校に行かなくても、学ぶことや知ることを諦めることはありません。図書館ならお金を払わなくても本を読むことができるし、誰に制限されることなく、自分の興味の向くままに歩いていけます。しかし、ここで思い出して欲しいのは「自分で手に入れようとした情報しか手に入らなくなる」ということです。手に入るのは図書館や書店や、インターネットで手に入る情報だけ。それも自分が手を伸ばそうとしない限り手に入らない。しかも手に入れたその情報は古いかもしれないし、間違っているかもしれません。情報の選び方、捨て方も考える必要があります。これらの問題は信用できる人の選択を真似することで少し楽ができるのですが(例えば、専門家が薦める本を選ぶとか)、自分が何かを専門に研究したり、最先端で研究している人に会ったり、教えを乞うことは、難しいかと思います。できないとまでは言いませんが、少なくとも私には難しいことのように思えています。学校という場所はやはり、必要なのでしょう。興味の向くままに歩いてきた私の知識は穴だらけで「こんなことも知らないの!」ということばかりです。今は少しでもそれを埋めていきたいなと思っています。

 ひとつ不思議だなあと思った話をします。知識の穴を埋めるために、中高生向けの参考書を開くことがあるのですが、義務教育中には理解できなかったであろう文章問題や説明文が、大人になってからすっと理解できるようになっていました。頭に入ってくる情報も整理しやすくなっていて、勉強が苦痛でなくなったのです。本を読んだり、仕事をしたり、人と話したり、自分で考えたりするうちに、そういった回路ができあがっていったのでしょうか?かなり遅いスタートでしたが、20代の半ばを超えたころからようやく、勉強することそれ自体を楽しいと感じるようになりました。今理解できないことも、理解しようと思えば理解できるかもしれない。それは、私にとって希望です。

 日々の生活の中でも、政治のことや税金のことで難しくて頭が痛くなる事がありますが、それだって人や本の力を借りて、きっと理解への一歩を踏み出すことができるでしょう。「わからないこと」はいやなことに思えてきます。「いやなこと」は避けたくなってしまいます。そうやって避けていたものも「知ろうとすること」で怖くなくなっていけば、今よりもっと生きていきやすくなるような気がしています。

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藤の よう
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