在宅ライターとお金、「書く」ことと「読む」こと
いわゆる「1円ライター」について
フリーランスになってからというもの、月末はたいていお金のことしか考えていない。というか、お金のことしか考えられないというような生活をしている。
生々しい数字を挙げる気はないのだけれど、会社員を辞めて育児をしながら文章を書く仕事をはじめ、さいしょにおもったのがぼく自身がただ生きているだけでかかるお金が月に10万円ほどあるということだった。国保、年金、市民税、医療生命保険、奨学金の返済など、その支払いだけでもそれくらい必要で、ぼくはこれを「呼吸費」と呼ぶことにした。
コネもなく受賞歴もない状態でライターをはじめると、なんとかもらえる仕事というのはいわゆる「1円ライター」という、文字単価1円の仕事がいいところで、実際には0.7円、0.5円の仕事がほとんどだった。この報酬では「呼吸費」だけを稼ぐにしてもかなり骨が折れる。呼吸費にプラスしてなんとか社会人たるメンツ(?)を保つには、逆算すると1日1万字のペースで書いて納品しなければならないのだが、それはなにもせずとも仕事が無制限にもらえるという条件下の話であって、実際には営業をしなくちゃならない。履歴書・職務経歴書、ポートフォリオをライター募集しているメディアに毎日送り、そこで運良く返信をもらえたところのテストライティングを受け、そこで採用の可否が決まるのだが、最初の1年は文字単価が1円を超えることはほとんどなかったようにおもう。
文字単価が2円や3円という案件をありがたく貰えたとしても、その原稿本数は決して多くなく、いいところ2000字程度の記事が5本程度といったところで、けっきょく経済的になんとかやっていこうとすると単価1円以下の仕事を大量にこなしていく必要があった。
いまでは単価はあがって、文字単価1円以下の仕事を受けなくてもなんとかやっていける程度にはなった。Twitterをみると「文字単価1円とか搾取じゃん」みたいな言説をよく見るのだが、ぼくとしてはこうした単価の案件にたくさん助けてもらった経験があるので、ぶっちゃけ無下にすることはできない。
しかしながら、この単価の仕事を大量にこなしていくのは(向き不向きもあるだろうが)体力よりもまず精神的な余裕からなくなってくる。案件はだいたい所属ライターの挙手制で取り合いになるのだけど、とにかく日々の生活を成り立たせるために1本でも多く仕事を確保するために、新規案件が上がっていないか常にチェックしておかなくてはならない。特に締め日や諸々の引き落としが近づいてくる月末になると、ほんとうに納品本数のことしか考えられなくなった。
この仕事に限界を感じるまでは早かった。
ギリギリのところでなんとか経済的に成り立たせてくれるこれらの仕事はやっぱりありがたいのだけれど、1番キツいのは「じぶんの名前の仕事じゃない」ということだ。言い換えれば「キャリアとしてカウントされない」ということで、どれだけたくさんこれらの仕事をこなそうとも、それをサンプル記事として別のメディアの商談材料としてもっていくことができない。ライターとして営業するには当然「このひとはどんな文章を書けるのか」を示すものがなければならないのだが、それがない。
ノンクレジットライターのキツさは、このように「名刺なしで営業する」みたいなところにあって、単価交渉はおろか、新規の契約をとるにも積み重ねられるものがないことにあった。
「記名記事」の寄稿とブログ
そういうわけで、なんとかじぶんのクレジットの出る仕事を獲得しようというふうに方向転換したのだが、もちろんそれをやりはじめると収入が減った。記名ライターの募集はネットで検索をかければいくらでも見つかるのだけれど、やはり「ピンキリ」といわざるを得ず、生活を考慮したときに納得できる原稿料で、かつじぶんのブログよりもPVが期待できるメディアというのはそこまで多くなかった。
記名記事の寄稿の最大の目的は「じぶんの名前を知ってもらう」ことで、今後の交渉でサンプル記事として出せるものを積み上げていくことにある。ぼくは時間があればじぶんのブログを更新していて、いちばん頑張っていた時期で月10万PVほどあったけれど、よくある「ブロガーやライターがブログ経由で仕事のオファーをもらう」ということはぼくにはなかった。
そこでセルフブランディングというものを考えてみた。基本は「すでに多くの需要のあるフィールドのなかでじぶんのできることを探し出す」ということで、ぼくは国内外の現代文学作品を実作の観点から批評的に読むということをいまも一貫してやっている。しかしながら、やってみてわかったけれど、これはかなりマーケットの規模が小さい。ぼくが好んで読んでいる本、これをやるために文章を仕事にしよう!とおもった本の刷数がそもそもかなり少なかったりすでに絶版してたりするのもあるのだけれど、ぼくのモチベーションとしてはそういう本がもっと読まれて欲しいというのがあった。
「書きたい!」と「伝える」
そこでふと気になったのが、純文学系文芸誌の刷数だった。
見てみるとだいたい毎号5000〜10000部といったところなのだけれど、各雑誌の新人賞の応募作品数は毎回約2000作ある。刷数に対してやたら応募者が多い!ということをそのとき感じて、これから世の中には「小説を読むよりも書きたいひとがたくさんいる」という可能性をおもった。
そもそも「新人賞に応募する」というのは、それなりにまとまった尺のものを書き上げなければならないという、それなりに高いハードルをこえたものだ。そのことを考慮すると、世の中の「書きたい!」という衝動はこの数の何倍、何十倍もあるだろう。そう考えるとインターネットにブログがたくさんあることもなんとなく合点がいった。
ぼく自身もまさに「書きたい!」の人間だ。書きたいことなんていくらでもあるけれど、しかしぼくの場合は伝えたいという気持ちが根本的に欠如している。「わかってくれる」ということに越したことはないけれど、ぼく自身の思考や感情をわかって欲しいという気持ちはほとんどない。文章を仕事にしようとおもう前は、数少ない友だちに書いたものを読み合ってあーだこーだをお互いに言い合うのがたのしかっただけに過ぎなくて、それ以上を求めてこなかった。だけど、文章でお金をもらおうとおもうなら、(好きなことばではないが)「とくべつな才能」を持ち合わせていない限り、「伝える」という側面が重視される。
文章の2つの機能
ぼくはたびたび文章には「伝える」と「表現する」という2つの機能があるということを言い続けている。一見、「表現する」は「伝える」ための手段だという従属関係があるように思われるが、ぼくはこの2つは独立した概念なのではないかといまもずっと考えている。
ことばの機能の本質は「伝達」にあることは疑う余地はないだろう。ある固有の情報を他者から他者へと肉体を越えて、そして文章にすることによって場所や時間を越えて届けることができるようになった。だから固有の情報を高い精度で「伝える」ということは、文章技術において極めて重要なのは否定しようがない。
しかし、文芸表現としてことばを考えるならば固有の情報がAからBに伝達されるまでのプロセスについての問題意識が浮上する。そのプロセスについての創意こそぼくが「表現する」と呼ぶものであるのだけれど、これが「伝える」と異なっているのは、ことばと想起されるものの対応関係にある。
「伝える」という機能を考えたとき、そこで重視されるべきものはA→Bへ伝達される情報が1対1対応しているという厳密さだ。一方で、「表現する」という機能ではA→Bに投射されたことば(情報)の受け取り方が複数に存在しうる曖昧さにある。この曖昧さによってBがAのことばを「読む」という行為の創意が刺激され、「伝える」とは異なる次元の示唆を生むことになる。
批評がなぜ重要か
文芸批評は「読む」を起点とした「書く」という表現行為であり、必ずしも対象作品がもつ固有の意味を「伝える」ことを目的としていないとぼくは考える。いうまでもなく「表現する」だけの文章では批評は成り立たないけれど、批評というのは単なる作品情報をまとめたものではない。「表現する」という行為の仕組みについての思考を何重にも重ね合わせて、「読む」ことによって想起された可能性についての厳密さに近づこうとする行為だとぼくはおもう。どちらかといえば「伝える」の意味合いが強いのだけれど、批評は「表現する」という行為を土台にしていて、それゆえにことばと解釈を1対1対応させようとし過ぎると失敗する。批評はある意味でそうした「不可能」を運命付けられたものであるのだけれど、その不可能に向かってことばを尽くす。果敢にも不可能へ向かおうとする批評は、「伝える」ことの徹底によって「表現する」というものに変貌し、ことばの枠組みを越えた巨大さを獲得するに至ると思う。ぼくはこうした感覚を「批評のロマンティシズム」だと、先日呼んでもらったトークイベントで話した。
ぼくが批評を積極的にやることにしているのは、じぶんの文章について適宜見直すためでもあるのだけれど、最近はといえば一種の反動に近い。
批評をやっていると感じるのは、(雑な言い方ではあるが)世間的に「批評」というのは嫌われているということだった。もう何度もnoteで書いた内容なので繰り返すのも憚られるけれど、特にビジネスシーンで活躍する人々は「批評家になるな、プレイヤーになれ!」ということをよくいう。このことばにある背景はおそらく「批評家=口先だけで実際に何も創っていない人間」というものがあるのだろうけれど、批評は果たしてクリエイティブな行為ではないのだろうか?という疑問が残る。
ぼくからしてみれば「冗談じゃない!」といったところだ。
批評は「読む」という行為が持ち合わせる想像力を最大限に活かしてはじめて実現される「表現」だ。対象作品を徹底的に読み込むことで、その作品の重力圏から脱した新たなものを見出せるという可能性を内在していて、それは詩歌や小説を書くことと同レベルの創作だとぼくは思う。
文芸作品の自由さは「どう読んでもいい」というものに担保されているのだとは思うけれど、実際にはすべての可能な読みのなかには「明らかな間違い」も含まれている。批評意識なくして文芸作品を読むことの危険さは、この「明らかな間違い」を無条件に肯定してしまうことにある。無責任な自由とは孤独とほとんど変わらなくて、それが横行することで個々の文芸作品がこれまでに培われてきた文脈から切断されてしまうことをおもうと、ただただ悲しくなる。文脈のない世界で読みうるものは極論をいえば「即物的な感情」以外になくて、ことばが持つ「表現する」という機能が損なわれてしまう。文芸作品が「固有の情報を伝える」というものへと縮退してしまう。
ふたたび「お金」の問題
フリーランスで「ものかき」をはじめた当初から、少しずつではあるけれども環境が変わりはじめた。文学賞をもらったり、小説のオファーをぽつぽつもらえるようにはなってきた。しかしまだこれだけでは到底食べていけないので、いまでもぼくはノンクレジットのライティング案件にお世話になっているし、月末になるとお金のことしか考えられなくなる。
ここ半年くらいは特に文芸関係の仕事を増やそうとしているけれど、現実は甘くなくて、ネットで検索してWEBメディアのライター募集に応募し、そこで日本の現代文学や海外文学や翻訳についての企画を提案するけれど、片っ端から落ちている。せめてもの救いは、noteで公開する記事を毎回丁寧に読んでくれるひとがかなり増えたということだ。
批評をはじめとする「読む」という行為についての文章が「お金になっていない」のは当然ぼくの力不足なのは否定しようがない。しかしながら、ぼくが対象とするような書籍の書評記事を公開してもあまりアクセスが見込めないなどの現実はやっぱりあって、そのことについての記事も書いた。
「本が読まれない」ということばをここ何年、ほんとうに何度も聞いてきた。出版に関しては直接的に関与しているとは言い難い身分ではあるのだけれど、これによる影響は紙で書こうがWEBで書こうが関係なく、すべての書き手が受けているとおもう。
いま日本で読まれている文章の大半はWEBメディアの文章だろう。もちろん、いつでも簡単にアクセスできるWEBの文章だからこそ、迅速に「伝える」という機能に特化したものがあって然るべきで、それはきちんと存在していて欲しい。だけど、それが絶対化されすぎることで、能動的な「読む」という行為がもつ創意が萎縮させてはならないともおもう。
ぼくはネットの有象無象の書き手の1人として、そういう「面倒臭い文章」にこだわり続けたい。いまはまったくお金にならなくてかなりキツいけれど、こうしたスタンスで書き続けた文章が対価を支払うだけの価値があると認められるようになれば、ことばの読まれかたが少し広がるんじゃないか、とぼんやりと思っている。
わずかな希望にすぎないし、いつまでこのスタンスを保てるかわからない。
だけれども、精神の持つ限り、一歩ずつ前に進んでいきたい。
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ながくなりましたが、がんばって文章を書くので今後ともよろしくお願いいたします。