母と打越さんの思い出──『ヤンキーと地元』を読んで
宗利風也(95年生まれ、東京都出身)
今週、改めて『ヤンキーと地元』を読み直した。
初読は、2019年に刊行されてすぐの頃だ。県外に生まれ育ち、首里生まれのパートナーから聞く沖縄しか知らなかった私は、“ヤンキー”の生きる世界に衝撃を受けた。
この本に登場するヤンキーたちには、仕事の選択肢がほとんどない。生きていくためには、暴力に満ちた地元の関係に頼るしかなかった。仕事や遊びの場で先輩の理不尽をかわす方法。違法性のある風俗店を持続的に経営する地元の情報網……。自分の知らないヤンキーの世界に、ただただ驚くことしかできなかった。
読み終わってすぐパートナーにも感想を聞いた。彼女は、ヤンキーの存在は感じていたがこんな沖縄がすぐ隣にあったと意識したことがあまりなかった、と話す。「きっと中学にいたあの子とかがこういう世界で生きてたのかもしれない」。地元の中学が荒れていて大嫌いだったといつも話す彼女が、はじめて同級生のことを真剣に考えていた。
久しぶりに読み直すと、別の議論が印象に残る。30歳に近くなり、将来の差し迫り方が変化したからだろう。少子化や経済の低迷で、地元の関係性が機能しなくなっていることに関心が向いた。
特に印象的だったのは、第4章の勝也のエピソードだ。勝也の地元には建設会社のような受け皿がなく、先輩を頼って就職することが難しい。そうした中で勝也は、苦労しながらも、数年をかけて鳶として生きていく道を開いた。月給は30万近くあったそうだ。しかし、勝也は親方から独立を勧められたさいに、県外で法律的にグレーなIT関連の仕事に就くことを選ぶ。「上に立つ」ことにこだわりの強かった勝也は、建築業界が下火になる中で親方として若手を育てる道に魅力を感じなかったのだ。
自分のやりたいことができて、好きな人たちと幸せに暮らせる、そんな“場”が社会にあってほしい。色々な背景を抱えた全ての人のための場をつくることはできなくとも、少なくとも自分の身の回りの人たちが心地よいと感じられる場を用意したい。読みながら、そんなことを考えた。
ただ、それはすごく大変なことだ。あなたの沖縄の運営を手伝っていて、強く思う。イベントを一つ開催するだけでも、会場を抑え、ゲストをブッキングして、周りの人たちにこんな場があって良かったと安心してもらえるトークテーマを考えるなど、やるべきことがたくさんある。
場を持続させるのは容易なことではない。何年何十年と場を維持している人々のことを、私は心の底から尊敬している。
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『ヤンキーと地元』の著者である打越正行さんは、そうした素敵な場をつくる才能に長けている人でもあった。社会学の専門でない私にとって、打越さんは社会学者としてよりも、教育者としての方が印象深い。これ以上の先生はいないんじゃないか、と個人的には思う。
こう書くと私が打越さんの門下生のようだが、私自身は打越さんの授業に出たことはない。打越さんの門下生だったのは、私の母だ。
『ヤンキーと地元』を読んで以来、母は打越さんのファンだった。ある日、その打越さんが「社会人も歓迎します」とSNSで投稿していると母が見つける。「行ってみたら」と後押しすると、母は打越さんに連絡を取り、モグリでゼミに参加することになった。2021年のことだ。
打越さんは懐の深い人なんだなと思いつつ、本当に大丈夫だったのだろうかと少し心配もしていた。あなたの沖縄の読書会に打越さんがきてくれた時にそんな話をしてみると、「多様な立場の人に参加してほしかったし、それが若い学生たちの刺激になるから、あなたのお母さんがゼミにきてくれたことはすごい嬉しかったんですよ」と言ってくれた。自分のことではないのに誇らしく感じた。
打越さんは、人をポジティブな気持ちにさせるのが上手だったのだと思う。ゼミに参加するようになってから、母は明らかに元気になっていった。ゼミから帰ってくるたびに打越さんの話を楽しそうに話すし、以前は職場の愚痴が多かったのに、前向きな話題が増えた。
決定的に変わったのは、ゼミに参加して1年半が経ったころ、卒論を書き始めてからだ。モグリなので、厳密には卒論ではないが、打越ゼミは3年生から始まり、2年間で卒論を書くから、それに合わせて母も卒論を書くことを決めたのだった。
母の卒論は、働いていた介護の現場で出会った、高齢者の尊厳が尊重されていない場面を分析したものだった。社会学ではないが人文系の院生だった私も、参考文献の使い方や議論の進め方に関して手伝った。母は、自分の仕事と改めて向き合うことで、仕事へのもやもやを言語化できるようになった、と喜んでいた。
どんな議論だったっけなと久しぶりに母の卒論のファイルを開いたら、なんと5万字もある。しかも、論証もしっかりしていると思う。働きながら、単位に関係のない文章を5万字書いた。途方もないことだ。
こんな凄技を成し遂げられたのは、間違いなく打越さんのお陰だ。母は、卒論を書きながら、「こんなに良くしてくれた打越先生にお礼がしたいから最後まで頑張る」と何度も口にした。そこまで言わせる打越さんは、素晴らしい教育者だったのだと思う。今の日本の大学で、どこに出すわけでもない卒論を書くパッションを与えられる人がいるだろうか。
母は、打越ゼミで卒論を書いたことは人生で最良の時間だったとよく話す。打越ゼミがあったから、仕事に前向きになれたし、自分の人生が広がった。実際に、母は卒論を書いてから職場を変え、数十年ぶりに正規雇用の職を得た。母は、打越さんを先生として尊敬し、言葉では表しきれないほど感謝している。それは私も同様だ。卒論の執筆を手伝う中で、思春期からうっすら残っていた母とのわだかまりが解消された感じがしている。
この話を人に伝わる形で残しておきたくて書き始めたが、どうにも長くなってしまった。私自身は打越さんと3回しか会っておらず、魅力を言葉にできていないと思う。でも、それでも、どうしても、打越さんへ感謝を残しておきたかった。本当にありがとうございました。
打越さんからパッションを受け取った人は、母以外にもたくさんいるだろう。誰かに熱を与え、受け取った人が幸せになる。そんな素敵な場を、打越さんとは別の方法であなたの沖縄でもできたらと思う。
打越さんが安らかに眠られますよう、心よりお祈りいたします。