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世界一愛おしい君のもとを去って2ヶ月

※ここ2カ月半の全方面に対するただの愚痴です。悪しからず。

掘り起こすにはまだ早すぎるかもしれないが、2月24日のことを思い出してみる。

前日の2月23日は日本と同じく祝日だった。「祖国防衛の日」と呼ばれるその日は、第一次世界大戦でソ連赤軍がドイツ軍に勝利したことを祝う日だという。一言でいうと、男性に靴下を贈る日。
国を守った軍人や男性達を祝うというその祝日、そしてその前日22日の国営放送での大統領演説と二つの共和国の独立承認というただならぬ緊張感の中、ただ、何も起こらないでほしいと切に願いながら目を覚ましたことを覚えている。
その日がペテルブルクのアパートで迎えた最後の平和な朝になった。
何もなくてよかった。ほ~ら、バイデンがちょっと早とちりしただけだったじゃん、なんて考えていた。昼は劇場に行ってバレエを観て、夜は友人達とホームパーティー。よく食べ、よく飲み、よく笑った。

翌日、だいぶ日は長くなってきていたがまだ冬の名残のある2月末、暗いうちに目を覚ました。飲んだ翌日に特有の身体の重さは、昨晩の楽しかった記憶を思い起こさせる。
ベッドの上でツイッターを開く。いつものように。でもそこに「いつもどおり」はなかった。
ついに始まってしまったのだ。独立承認の時点でかなりきな臭いことはわかっていたが、1日何もなかったことで、どこかで安心していたのだ。昨日の朝何も起こらなかったのだから、今日だって大丈夫。昨日と同じ今日が来るかどうかなんて誰にも分らないというのに。

どうにか支度をして出勤した。前日騒ぎすぎて、初めて鉢合わせた隣人(多分)にエレベーターの中じゅう怒られた。言い訳する気力も謝る気力もなかった。
会社に着き、開口一番口にした台詞は「SWIFT止まったらどうしよう」。悲しいとか、つらいとか、怖いとか、そんな感情すらも出てこない衝撃。人間、想像だにしない事態に直面すると、逆に冷静になれるらしい。
この世の終わりのような顔をした同僚の"Ужас…"(「最悪…」といったところだろうか)という一言に目が覚めた。
あんなにどんよりとした雰囲気のオフィスは初めてだった。ある者はどこかほかの国に逃げようかと話し、ある者はすすり泣く。15分おきに誰かが最悪なニュースを読み上げる。キエフ郊外で空爆があったとか…もはや覚えてすらいない。

ペテルブルクに住むのが夢だった。留学から帰って以来、また彼の地を踏むことはあったとしても「生活」をすることはないのだと諦めていた。また住めるかもしれないとわかったとき、どんなものでも差し出したい、悪魔に(ピョートル大帝に)魂を売ってもいいと思ったし、何なら実際に大切なもののいくつかを差し出してきた。
そこまでして来た場所だったはずなのに、あの朝以来何かが変わってしまった。

いつもご機嫌斜めのペテルブルクは、24日からの数日間、皮肉みたいに晴れ渡っていた。でもそんな美しい街並みを見ても、湧いてくる感情は幸福感ではなかった。変わらず美しくあり続ける運河を、以前と同じように見ることができない自分が悲しくて仕方がなかった。変わったのは自分のほうだった。

1日のうち何時間を泣いて過ごしただろうか。放心状態でパソコンの前に座り、気付くと夕方になっていた。
結局、侵攻が始まってから3週間後には逃げるように帰国していた。

私にとっての一番の脅威とは何だったのか。

それは2000km南で起きていた惨劇でも、ZARAやH&Mが閉店したことでも、通貨の価値が2週間で半額になったことでも、突然大家さんから家賃の値上げを切り出されたことでもなかった。
たとえ外国人としてでも、自分が住んでいる国が戦争の当事国になるということには、形容しがたいどうしようもない感情がつきまとう。悲しみとも恐怖とも絶望とも少しずつ違う、それらすべてをぐちゃぐちゃにした何か。
どこかでありえないと安心しきっていたことが起きてしまった今、当たり前だと思っていたこと、いちいち考えるまでもないと信じていたことのすべてが揺らぎ始めたのだった。Think the unthinkable.
色々な人が発するの何気ないifの話、「ロシアが核を使ったら」「NATOがもし参戦したら」、そういうすべてが、平常時なら冷静に「そんなこと起こるはずないでしょう」と言えるはずのことが、全てあり得る話であるかのように思えてしまう。
ネガティブな感情の感度が以上に高まり、他人のネガティブな感情に振り回される。とにかく感情を表に出さないで皮肉を言って笑って乗り切らなければならない毎日。

それだけではない。ロシアに住み、ロシアの人々や文化を愛していること、この期に及んで愛し続けていることに気付けば後ろめたさを感じていた。
ロシアと関わりのある多くの人は、そうあるべきではない、後ろ指を指される謂われはない、という理由から否定するかもしれないが、実際に多くの在露邦人のもとには心無い言葉が投げつけられた。
すべてのロシア人とロシアと関わりのある人は、反戦デモに参加したり、SNSで声高に反戦を表明しない限り人ではないと思われる、ヘイトのはけ口にして構わないという風潮はたしかにあった。もちろんすべての人がではない。でも、知的で洗練された分別のある人達だと思っていた人達からも、表立ってではなくとも言葉の端々から軽蔑を読み取れてしまう。
「ロシア」に関係するあらゆる物事を、世界中の全員が各々裁き始める。各々の物差しと倫理観によって。そしてあらゆる場所で倫理観の踏み絵が行われる。無数の「べき」は、弱った心をみるみる侵食し、自分が最も大切にしていた信条さえをも揺さぶっていく。劇場に行きたいとすら思えなくなってしまった、そこは真っ先に裁きの対象にされた場所だったから。

私は何を信じて生きていけばいいの?
その答えは未だにわからない。何を信じて、何を一番大切にして、何を守ればいいのか。一度壊れてしまった価値基準は、そう簡単にもとには戻らない。それでも残酷に時間は過ぎ去っていき、何も考えられない頭で決断を強いられる。どれを選んでも間違いとしか思えない選択肢の中から、一番マシなものを選ばなければいけない。きっとたくさん間違った。それが正解か間違いかすらまだわからないけれど。

変わらぬ日常を過ごすとき、わたしたちは、今日と同じ明日が来るとは限らない、という至極当然のことをまるっと忘れている。それを思い出すのは、或いは災害や疫病かもしれないし、或いは近しい人の突然の死かもしれない。あらゆる先人たちによって語り尽くされ、言葉の上ではわかりきっていると思っていたそれらは、実際に自分の身に降り掛かってくると、想像と比べ物にならないほど暴力的で強烈なものだった。わたしたちが思っているよりこの世界はずっと脆い。それに気付くきっかけが、たまたま、私の場合は戦争だった。それだけの話だ。

それでも、生きていかなければならないのよ、ワーニャ伯父さん。

この先の人生で、今回のように信じるものが壊れてしまう日が来たとき、きっと私は同じように、同じだけ、混乱して、泣きわめいて、壊れるだろう。今ここでどんなに苦しんだとて、そんなものは何の役にも立たない。一度やったから二度目は軽いなんて、そんなインフルエンザみたいなことはないのだ。

どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。

あの楽しかった23日の夜に戻りたい。映画みたいに巻き戻してやり直して、侵攻が始まらない朝を迎えたい。そんなことができっこないことはわかっているのに、でも、始まらなかった世界の想像をやめることができない。

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