なぜ人権活動家は差別主義者ばかりになってしまうのか
なんともうんざりする話なのだが、「業界」に近い位置にいれば自ずと理解してしまうある傾向がある。
人権活動家には、差別主義者が多いのだ。
心に傷を負った人々をケアするメンタルヘルス領域の専門職や、貧困や性暴力被害などの当事者をサポートする支援団体。そういった感覚的には「差別」と縁遠い「人権」を謳う人々が集っているような場所が、実は差別主義者の巣窟になっているのである。
つい先日も、子どもの貧困や虐待防止などの分野で活動するNPO法人の理事長が男性の殺人被害者は殺されて当然のDV常習犯が多いといった趣旨の発言をして大炎上した。この人物は内閣府の有識者会議の構成員でもあり、幅広い分野で活動する人権活動家だが、こういったヘイトスピーチになんの痛痒も感じていないらしい。
同様の事例はいくらでもある。離婚した父親は子供に嫌がらせをするので親権を与えるべきではないと主張する子育て支援NPOの代表理事や、女性のDV加害者にはケアが必要だが男性のDV加害者は甘えてると主張する著名な臨床心理士、男性が弱者性を主張することは女性に対する差別であり許されないと主張する人権派学生団体など、彼らの差別発言をまとめればそれだけで分厚い大辞典が作れそうなほどだ。
「ケア」「福祉」「人権」「多様性」といった領域で活動する人権活動家たちの間で、あからさまな差別主義が蔓延している。一体、これは何を意味しているのだろう。本稿は「なぜ人権活動家は差別主義者ばかりになってしまうのか」と題して、「人権派」の人々が差別主義者に転落していく構造について綴っていく。
「ケアの現場」の認知バイアス
「人権活動家に差別主義者が多い」などと言われると、「その人権活動家はニセモノなんじゃないか」と考える読者も一定数出てくるかもしれない。
しかし、その点についてははっきり否定させていただこう。上で具体例として紹介した人物の多くは、いずれも支援者やアクティビストとして実際に「現場」で多くの困窮者と触れ合ってきた方々だ。その活動自体は賞賛されて然るべきものが多いし、多くの困窮者にプラスの影響を与えてきたことも事実だろう。あからさまな差別発言には嫌悪感を抱くが、彼・彼女らはみな「本物」の人権活動家なのだ。
それではなぜ、そのような立派な人権活動家が、あからさまな差別主義者へと変貌してしまうのだろう。実はこれが因果が逆で、「現場」で多くの困窮者と接しているからこそ、彼・彼女らは差別主義者へと変貌してしまうのである。
なぜ「支援者」は「差別主義者」に堕してしまうのか。その構造はこうだ、
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