「キモチワルイ」 シン・エヴァンゲリオン感想・考察
一応断っておきますが、ネタバレ全開です。
「庵野の回復ストーリー」としてのシンエヴァ
シン・エヴァンゲリオンとは一言で表すとどういう話だったのか。
「シン・エヴァンゲリオン」とは、ニアサードインパクト(エヴァQ)を起こしてうつ病になったシンジ(庵野)が、周りの人々に支えられて回復し、ゲンドウ率いるネルフ(旧エヴァ)と対決するお話である。
つまり、極めて個人的な庵野秀明自身の「回復の物語」が紡がれている。旧エヴァにあったような普遍的なテーマはどこにもない。ひたすらに、庵野秀明個人がみんなに支えられてうつ病から回復し、エヴァの完結編を創ってエヴァの呪縛から逃れられるようになった。それだけの話が延々と展開されている。
極言すれば、本作には「エヴァンゲリオン」のキャラクターはほとんど登場しないとも言える。エヴァのキャラクターの口を借りて、庵野秀明が自分の話をつらつらと語っている。そういう作品だ。
エヴァQを作ってうつ病になった庵野がシンジ、うつ病になった自分を責める庵野が式波アスカ、旧エヴァを作っていた時期の庵野がゲンドウ、カラー社長としての庵野がミサトだ。キャラクターたちはキャラクターとしての自律性や物語性を失い、庵野秀明に存在そのものを乗っ取られている。
第三村の人々はひたすらにシンジに優しい。「Q」ではあれだけ酷い扱いを受けていたにも関わらず。この変化の理由は作中では全く説明されない。
シンジ:なんでみんな、こんなに優しいんだ…!
アヤナミ(黒):みんな、碇くんのことが好きだから。
という一節があるが、なぜみんなが碇くん(庵野)のことが好きなのか、物語だけ読んでも理解は不可能だ。現実の人間関係の投影としてしか説明できないだろう。
また、もうひとつ象徴的なのはラストシーンだ。プラットフォームの奥側にキャラクターの多くが勢揃いし、別離の刻を迎える。マリに「目隠し」されたシンジは、マリと手を取り合いつつ現実世界(宇部新川。庵野秀明の出身地)に帰っていく。
そう、碇シンジはこのとき庵野秀明の完全な分身として表現されるのだ。つまり「碇シンジ」というキャラクターは、ある意味で本作には1秒も登場していないと言える。庵野秀明に完全に存在を乗っ取られているからだ。
その隣でシンジの手を取るマリは、現実世界の人間であり、かつシンジ(庵野)を導く女性、つまり妻の安野モヨコさんだろう。
こういうと妄想だのなんだの言われるかもしれないが、シンエヴァは現実のメタファとして解さないとそもそも物語が成立しない部分が多くある。シンジとマリの関係はその筆頭だ。
シンジとマリは作中で4回しか顔を合わせたことがなく(「破」における屋上のシーンと破壊された弐号機のシーン、「シン」における隔離室とマイナス宇宙に向かうシーン)、ほとんど突っ込んだ会話もない。つまり強い信頼関係など結びようがないのだが、なぜか唯一無二の強い絆で結ばれていることになっている。現実の人間関係の投影としてしかこの関係性を読み解くことは不可能だろう。
旧エヴァとの対決
ゲンドウ率いるネルフは、テレビシリーズから旧劇場版に至る、「旧エヴァ」という概念そのものである。
だからゲンドウの駆る13号機は初号機とよく似た形をしているし、初号機と13号機の戦いは映画のセットのような場所で行われる。あれは物語の世界なのだ。よく見ると各所に東映のロゴが刻まれていたりする。物語の世界(舞台裏の世界)で、旧エヴァという概念に新エヴァという概念が打ち勝とうとする。
それにしてもなぜ、新エヴァは旧エヴァを打ち負かさなければならないのだろう?
作中で「絶望」という言葉で説明されていたように、旧エヴァは「絶望」を基底にした世界だからだ。
不安なの。
不安なの。
みんなに嫌われるのが、恐い。
自分が傷つくのが、恐い。
でも、ヒトを傷つけるのが、もっと恐い。
でも、傷つけてしまう。
好きな人を傷つけてしまう。
だから、ヒトを好きになれない。
だから、自分を傷つけるの。
嫌いだから。
だいっキライだから。
好きになっては、いけないの。
だから、自分を傷つける。
優しさはとても残酷
心を委ねたら、私は壊れてしまう
心が触れ合えば、あの人は傷つく
だから、私は壊れるしかない
無へと還るしかない
(引用:「Komm,susser Tod/甘き死よ、来たれ」 庵野秀明による日本語原詞より)
「心が触れ合えば人と人は傷つく」という「絶望」の世界観が旧エヴァの世界であり、新エヴァはその世界観を否定し超克しようとした。シンエヴァの言葉で言えば「希望」を示そうとしたわけだ。
ゲンドウが語る「他人が怖い」という独白は、旧エヴァの世界では誰もが抱いていた根本的な世界観でもある。そして新劇場版の世界はそうした「他人が怖い」という世界観が否定された世界だ。
しかし初号機(新エヴァ)は13号機(旧エヴァ)に打ち勝つことができない。なにをやっても通じず、同じ動きで弾き返されてしまう。当然だ。なぜならシンエヴァは、旧エヴァの世界観を覆すほどの強いメッセージ見出せていないからだ。
旧エヴァの世界観に挑む絶望的な戦いは、ヴィレメンバーの努力とミサトによるヴンダーの特攻によって決着する。希望の槍が届けられ、絶望の旧エヴァは斃される。
これはどういうことなのかと言えば、ヴィレ(株式会社カラー)のスタッフたちに支えられたミサト(社長としての庵野)による
「そうは言っても完結させへんとアカンやんけ!!!!」
という実存的理由を超えた特攻である。
ヴィレ(Wille)とはドイツ語で「意志」を指す言葉だが、好意的に見れば「エヴァを終わらせる」という意志を結集させたのかもしれない。
こうして旧エヴァは葬られる。それを上回る価値観や世界観を示すことなく、「シリーズを終わらせる必要がある」という会社の都合によって…。
「大人になれ」というメッセージ
冒頭の第三村のシーンは本作の大きな特色のひとつだろう。
第三村はスタジオジブリのアニメに出てくるような原始共産制的社会で、みんなが物資を分け合い、互いに手を動かして働きながら、平和に楽しく暮らしている。
そんな幸福な世界の中で、うつ病になったシンジ(庵野)は少しずつ癒されていく。なんというか、うつ病になった庵野秀明がジブリの「風立ちぬ」の声優としてアニメ制作への情熱を取り戻した話を連想するのは自分だけではないだろう。
2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
(中略)
その間、様々な方々に迷惑をかけました。
が、妻や友人らの御蔭で、この世に留まる事が出来、宮崎駿氏に頼まれた声の仕事がアニメ制作へのしがみつき行為として機能した事や、友人らが僕のアニメファンの源になっていた作品の新作をその時期に作っていてくれた御蔭で、アニメーションから心が離れずにすみました。
(引用:『シン・エヴァンゲリオン劇場版』及びゴジラ新作映画に関する庵野秀明のコメント)
ご存知の通り、スタジオジブリは保育園が併設され子供が多く、緑の多い環境で住人みなが働く、まさに第三村そのままのような場所だ。ジブリでの生活は庵野秀明に大きな影響を与えたのかもしれない。
自然と共生し、手を動かして働き、男と女はつがい、子供をつくり、地域共同体に居場所を求め、おはようおやすみと元気に挨拶しようーー。そんなメッセージが随所から伝わってくる。ここら辺から庵野秀明の「オタク!大人になれ!!!」というメッセージを読み取った方は多いようだ。
病んだ自分を回復させてくれた場所に理想郷を幻視するのはメンヘラあるあるだが、全くもって、陳腐なメッセージと言う他ない。
庵野秀明には昔から欠点がある。組織やコミュニティや派閥というものを彼は描けないのだ。それは大学入学早々に「DAICON FILM」で頭角を現して時代の寵児となり、同人サークルを会社化し大ヒットさせ、また独立して社長業をこなし、人生で一度たりとも「末端として組織に属する」という経験を積んだことのない彼だからなのかもしれない。どうやっても、彼が描く組織やコミュニティは、どこか同人サークル的なのだ。
ここら辺は新卒としてプロダクションに入社した経験がある富野由悠季や押井守と違うところだろう。彼らは上層部の腐敗や組織の中で自由に動けないジレンマというモチーフを多用するが、「末端」としての人生経験がそのような描写を可能にするのではないか。庵野秀明は幸か不幸か、「末端」であった経験が人生で一度もない。
だからか第三村にはリアリティが全く無い。僅かな物資の配給に頼る以上、その分配を調整する権力機構が絶対に必要だが、そのようなものは一切出てこない。また村社会特有の部外者へのアレルギーも見られない。相当に異常なまれびとであるアヤナミ(黒)もすんなりと受け入れられてしまう。
何もかもが理想的な村落共同体ーーー。
当たり前だが、そんなものは幻想だ。「お客様」として滞在したジブリでの生活からそんな幻想を抱いたのだとすれば、断片を理想化しようとするあまりに幼稚な態度としか言いようがないだろう。
なんというか、精神病の人間あるあるなのだが、自己否定をリフレインさせるあまり、自分と真逆の存在を理想化してしまうところがある。
子供がおらず、自然物よりも人工物が好きで、コミュニケーションに苦手意識を持つ庵野がジブリ的なコミュニティを理想化するのは、メンヘラあるあるの自己否定の果ての鏡像の理想化としか筆者には思えなかった。
重ねて言えば、「大人になる」ということは子供を作ることや働くことだけが重要なわけではない。何よりも重要なのは自分の役割を果たすことだ。母親ならば子供を育て、兵士ならば戦いに赴き、アニメ監督ならば自分の作品に向き合う。それが大人になるということだ。
シン・エヴァンゲリオンを作った庵野秀明は、自分の役割を果たしていると言えるのだろうか。確かに完結はさせた。カラーの社長としての役割はおおかた果たした。しかし「序」や「破」で目論んでいた、「旧エヴァの価値観を超克する」という目論見は完全に失敗に終わっているし、作品そのものを自分の回復ストーリーに仕立て上げてしまっている。果たしてエヴァンゲリオンの生みの親として、作品に対し、キャラクターに対し、ファンに対し、自分の責務を十全に果たせたと言えるのか。
筆者は、言えないと思う。無理のないことではあるし、それをあえて強く非難したいとも思わないが、旧いエヴァを否定し、新しいエヴァを創り出すという試みは、やはり失敗しているのだ。
であれば、なぜ「大人になれ」などと視聴者に向けて言えるのかと思う。役割を果たせと言う資格があるのは、自らの役割を果たしている者だけだ。
これも昔からの悪癖だが、庵野は自分に対する自己批判を視聴者に投げかけてしまう癖がある。旧劇場版で提示された「フィクションを通じてしか現実を認識できないオタク!現実に戻れ!!!」というメッセージも、エヴァQで提示された「エヴァに呪縛されたオタク!現実に戻れ!!!」というメッセージも、本当の意味で刺さるのは庵野秀明ただひとりだけである。
「うつ病のオタク!子供を作り自然と触れあい他者とコミュニケーションしろ!!!」というシン・エヴァのお説教も、やはりというかいつもの自己批判であって、自分に対して向けるべきメッセージを他人様に向ける癖は治らないのかお前と言いたくなる。
「支えてくれる彼くん」としてのマリ(モヨコ)
ゲンドウ(旧エヴァ)との対決のあと、シンジ(庵野)はキャラクターに別れを告げる旅に出る。アスカを送り出し、カヲルを送り出し、レイを送り出す。
そして「エヴァに乗らなくていい世界(≒エヴァの新作を作らなくて良い世界)」に移行することを宣言する。ネオンジェネシス!さよなら、エヴァンゲリオン!
そうしてエヴァの呪縛にケリをつけたシンジ(庵野)は、マリの手によって現実の世界に引き戻される。そう、シンジと4回しか会ったことがないマリが、なぜかシンジ(庵野)にとっての救い手であり運命の女神であることが示唆されるのだ。
繰り返すが、碇シンジと真希波マリは序・破・Q・シンの四部作で4回しか顔を合わせたことがなく、会話をしたこともほとんどない。深い縁を結ぶに至るエピソードは皆無である。
にも関わらず、シンジをマイナス宇宙(旧エヴァの世界)から引き上げるのはマリなのである。これははっきり言って、物語だけ読めば意味不明としか言いようがない。
冒頭にも書いたように、これは現実の人間関係を作中で再演されているのだろう。旧エヴァ制作時の酷い精神状態から庵野を救ってくれた女神、安野モヨコが真希波マリとして碇シンジとなった庵野を救い出すのである。
個人的に、本作における最も陳腐な構図であると感じた。
いやもちろん愛の力で立ち直ったことは喜ばしいことだし、それに庵野秀明が救われたのも本当なのだろう。真実の愛があるのだろう。わかる。よくわかる。
しかしそれは単純に、「そんな私にも支えてくれる彼くんが…」漫画と、全く同レベルのお話でしかないのではないか?と思うのだ。
「シンエヴァ」を画像一枚で表せと言われたら、筆者は上の画像を選ぶ。若い頃(旧エヴァを作ってた頃)は漠然と死にたかったけど、支えてくれる彼くんを得て回復しました。絶望とかしなくて良いと思う。終わり。
一言だけ言いたい。
そんなクソどうでもいい話で映画を4本も作るな!!!!!!!!!!!
実存的な悩みもあったけど支えてくれる彼くんが見つかったから回復しました。わーい。うるせえ死ね!!!!!!それが手にはいりゃ苦労しねえからみんな悩んだり苦しんだり創作に救いを求めてるんだろうが!!!
「支えてくれる彼くん」漫画はなぜ叩かれるのか。
まず第一に、それが運の良い一部の人間にしか与えられない幸運だからだ。支えてくれる彼くんに出会いました。幸せになりました。だから?それはそう語る本人以外には何の関係もない物語だ。
にも関わらず、自分の「支えてくれる彼くん」による回復ストーリーを、他者への希望として描き出してしまう人間がいる。他者に対する想像力の乏しさ、自分が恵まれていることを知らない傲慢さ、その現象がそれほど希少であるかを知らない視野の狭さ。そうした愚かしさが「支えてくれる彼くん」漫画をある種の人間に描かせていてしまう。
当たり前だが「極めて例外的な事象によって自分は救われた」という話は希望の物語にはなりえない。希望の物語とは「自分もきっと救われるんじゃないか」と多くの人に、つまり他者に、希望を抱かせる物語だ。支えてくれる彼くんによって回復しましたという物語は、希望の物語ではなく単なる自慢話である。
公開前の記事で、自分は以下のように予想した。
庵野秀明は、もうエヴァンゲリオンを創れない
庵野秀明はエヴァンゲリオンのセントラルドグマである、「他人の心が怖い」という気持ちを失った
人と人は分かり合えないというむき出しの現実ではなく、希望としての虚構がきっと描かれるだろう。
シン・エヴァは陳腐な大団円を迎えるだろう。
(引用:庵野秀明はもうエヴァンゲリオンを創れない)
予想は全て当たったが、ここまで陳腐なのは予想外だった。ついでに言うと、映画一本丸ごと自分自身の回復ストーリーに仕立て上げてしまうという蛮行も予想外だった。
ありふれた絶望を見事に描いた作家が、個人的な希望を描きそれを答えだと提示する。なんともお粗末な顛末だが、クリエイターが幸福になるとはこういうことなのかもしれない。
お前が女に救われて幸せになったとして、それはお前だけの話で、他人にとっては何の意味もない話なんだよ。
もっと他人に興味を持て。大人になれ。庵野秀明。
結局オナニーじゃねぇか。
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