オリンピック開会式はオタクを行進に巻き込んだ(さて何の行進?)

 オリンピック開会式が賛否両論だ。
 「笑顔を向ける海外のアスリートたちを視ているともう批難する気にならないよ。始まったものはしょうがないじゃないか」「とにかくあの場を成立させるために頑張った人たちがいるんだから」。そんななし崩し的な擁護に傾く人もいれば、北野武のように罵声を浴びせる人もいる。

 わたしといえば24日土曜日の朝から寝込むくらい、超絶に具合が悪くなった。むろん開会式のせいである。

 選手行進に被せられたゲームミュージックメドレー。あれは強烈だった。悪い意味で鳥肌が立った。宮﨑勤事件から33年。わたしは「オタク」ということばが侮蔑と批難以外を意味しない時代を生き延びてきたサバイバーのオタクだ。そのことにさして誇りはないけれど、まさか33年経って自分が愛してきたものたちがこうも容易く政治利用され、自分が権力者側に回るとは思ってもみなかった。

 いつか「水晶の夜」(ユダヤ人居住地が襲撃された迫害事件)がこの国で起こるとき、行進曲に選ばれるのは国産ゲームミュージックだろう。いつか強制収容所がこの国に建つとき、そこに流れているのはアニメとゲームのプレイリストだろう。

 アウシュビッツのユダヤ人収容所にはとてもやさしい綺麗な曲が流れていた。そう喝破したのはカート・ヴォネガット・ジュニア『母なる夜』だ。

「収容所のいたるところに拡声器があって、ほとんど休みなしに音を立てていた。音楽放送もやたらにあった。音楽好きの連中によれば、いろいろいい曲も流してたし、時にはクラシックの名曲も聴かせたらしい(略)音楽は必ず中断され、命令や伝達が放送される。朝から晩まで、音楽とアナウンスばかり」
「えらくモダンだね」とわたし。
 グットマンは目を閉じて、なにかを懸命に思い出そうとした。「ひとつだけきまって、子守歌みたいにやさしい、静かな声の放送があった。一日に何回も繰り返すんだ」
「ほう?」
「ライヒェントレーガー・ツー・ヴァッヒェ」と、グットマンは目をつぶったまま、やさしい静かな声で口ずさんだ。訳せば「死体搬出係は衛兵所まで」だが、何百万人単位で人間を殺すのが唯一の目的である施設だから、それが日常茶飯の呼びかけだったとしても不思議はない。
「拡声器で、音楽の合間に流れるその呼びかけを二年間も聞いたあと」とグットマンは言った。「突然、死体搬出係というものがとてもいい仕事みたいに思えてきたんだ」
         カート・ヴォネガット・ジュニア『母なる夜』

 お前の話はあまりにも大袈裟すぎるよ、と思われるだろうか。
 日本の平和なオリンピックの式典と、ナチスドイツの収容所がイコールで結ばれるはずがない、と。たしかにそうかも知れない。「いま」「ここ」には何の危機もないのかもしれない。サイモンヴィーゼンタールセンターがわたしの話を聞いても歯牙にも掛けないだろう。

 そうだとしても、あの開会式がわたしに見せた思いっきり媚びた微笑は、わたしにはとても気持ち悪く危険に感じられた。あれを聞いて共感しているオタクが信じられない。「ほら、ぼくたちこんな曲をずっと愛していたよね」とあれを聴いて感じられたか? いや、わたしには「若い人はこういうの好きなんでしょう。これでわしらのこと好きになってくれるだろう?」という為政者の歯の抜けた微笑しか見て取れなかった。

 これは明快な搾取だとわたしは思う。ぼくらがゲームやアニメを愛したのは、それがいつか国立競技場のタイルのひとつとして人に踏まれるためじゃなかった。愛国主義への長いレールの一歩として、その道を歩き始めたわけじゃないはずだ。

 サブカルチャーを施政者側に共感の道具として使われることはとても危険だ。わたしはここに最大限の懸念を表明しておく。

(了)

 

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