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花は枯れてしまうから

 リアリティ番組に出演していた女の子が死んでしまった。
 SNS上ではSNS批判が盛り上がり、誰かを匿名で誹謗中傷することはいけないことだと改めて叫ばれている。そんなことは猿でもわかっていなきゃいけない当たり前のことなので、今更主張するのも胃がねじ切れるような違和感に苛まれるのだけれど、人間はどんなに大切なことも、反吐が出るほど当たり前のことでさえ、忘れたり忘れたふりをしてしまったりする愚かな生き物なのだと思うので、誰もが再確認すればいいなと思っています。(SNSの使い方に対する私の感情は何度かnoteにも書いています。)

ただSNSに限らず、「言葉のナイフは人を殺す」とか、そんなのはSNSができる前からずっとある話なんですよ。携帯を持つ前から子供たちはなんとなく気に食わないクラスメイトを無視したり菌扱いしたりするし、親や親戚に直に言われた言葉で自殺する子だっています。死んでしまった一人の女の子の話を、「SNSでの誹謗中傷はやめよう」、と言う論点に終わるのは、あまりに事態を矮小化しているのではないだろうか?と思うんです。

 そして、いじめをする子供に「いじめは、相手が傷つくからやめよう」
 匿名での誹謗中傷をする大人に「誹謗中傷は相手が傷づくからやめよう」
といくら言ったって、その通りにするはずないんですよ。だって、誰かに嫌な言葉を投げる人は、その相手に嫌な気持ちになって欲しくてやっているのだから。「相手が嫌がってるからやめよう」なんて言われるのも、本人から「私はこんなに傷ついています」と言われるのも、誹謗中傷している側からすれば、願ったり叶ったりなんだと思いますよ。本当に胸糞悪いけれど。

 私は嫌な言葉を言われた時になるべく速やかにそっとミュートをしてこのSNS社会を生きのびてきたわけですが、(それでも無理だと思ったので昨年ツイッターはやめてます)それは逃げているのでも相手のことを軽んじているのでもなく、ただ、「私が傷ついている」と予想ができるような事象を相手に露ほども感じさせたくなかったのです。みんながみんな、他人の不幸に胸を痛める優しい人ばかりだったらこの世界はもっと素敵なところになっているはずです。この世界がクソなのは、他人の不幸を暇つぶしに楽しむ人間がいくらでも、いくらでもいるからです。その事実は、ネット上で何十万人フォロワーがいる有名人が呼びかけようと、たいして変わりません。
 他人の不幸を喜ぶ人たちが、その卑しくみすぼらしい感情を本人にぶつけようとするとか、嫌な思いをさせることで全能感を得ようとするか、単なる暇つぶしに道端の小石を蹴飛ばす感覚で無感情に批判を送るとか、そういう行動を「醜い行為」だと認知した上で、心の外に出さないように自制するだけの自己抑止能力、それを発揮するための生活的、心理的余裕を手に入れられるまでは、同じようなことが大なり小なり繰り返されるのだと思っています。世界は鶴の一声では変わりません。志村けんさんが新型肺炎で亡くなっても外出を自粛しようだなんて思いもしない人がいくらでも居たように、本来真摯に受け止めらければならない事実さえ、トピックスの一つとして世間話に溶け込んで、4,5日もすれば忘れられてしまうことも多い。だからこそ、一つの大きな悲しい出来事から、その出来事固有の悲しみを超えて、常に、丁寧に意識しておかなければいけない約束や、決め事や、心積りのようなものを、一輪の花を摘み取って、そして胸に刺すように、私たちは受け止めなければならない。
その花は枯れてしまうから、毎日丁寧に確認しなければならない。
その花は枯れてしまうとき、本当に黙って勝手に枯れてしまうから、毎日ちゃんと思い出して、朽ちてしまうより少し前にまた新しい花を胸の奥に見つけなければならない。
学びや、悟りは、発見した時が終わりではない。
自分という命の上で受け継いで行かなければならない。
大事なことを、忘れてはならない。
忘れることを知っているのだから、何度でも理解しなければならない。
私たちはいつか学ばないといけない。
何度も学ばないといけない。
誰にも、「自分は大丈夫だ」なんて思う資格はない。

テラハ、見はじめていたんですよ、最近。コロナ禍でNetflixを見る機会が増えて、ずっとなんとなく苦手な気がして見ていなかったジャンルのものも見てみようかな、と思って。

 どこまでがドキュメントで、コントロールされているのかがわからない緊張感に、ドラマやフィクションではなかなかお目にかかれない人間のリアルな感情、言動。普通に生きていたら知り合うことも友達になることもない、どこか少し離れたコミュニティを生きている他人の、本来は仲良くならないと見ることのできなかったはずの本音や怒り、嫉妬、気遣い、優しさ、もどかしさ、ままならなさに触れること。
映像系の子にファンが多いのも納得するような出来栄え。これは、「趣味は人間観察」の超贅沢版だなあ、と思って、結構面白く見ていたんです。まだ初めの10話くらいまでしか見ていない所でした。

 この人は知り合いのあの子にちょっと似ているな、とか、中学のクラスに行為うポジションの子いたな、とか、ドラマや映画よりももっと身近に、まるで知り合いの知り合いくらいの関係の人たちの人間模様を見ているようで、なんとなく引き込まれていましたが、どこかそのぶん、ちりちりとした罪悪感がありました。
 彼ら彼女らは本人としてそれぞれ活動をしていて、SNSアカウントもあって、そして番組を卒業してもそのままの姿と名前で、それぞれ生きていきます。
この番組はどこまでが制作側にコントロールされているのだろう?「台本は一切ありません」と謳っているからには、この中で放送された印象が、そのまま出演者の印象になります。そして映像の怖いところは、編集の仕方によって、出演者の印象をいくらでも、いくらでも変えることができるという所です。そのことを、視聴者はどれほど理解しているでしょうか?
人は、信じたいものを信じます。こうであったほうが都合がいい、こうであったほうが私は面白く感じる、そういうことを信じます。ほとんど自然に、無自覚に、心がわざと選ぶのです。(確証バイアスというやつですね)
 番組ではこういう印象だけど、本当は違うのではないか?
 見ていると腹が立ったけれど、友達だったら許しちゃうくらいのことかもしれない。
 そういう、ごく普通の他者に対する寛容さや気遣いを、なぜかテレビや携帯の画面を通すだけで、まるで無くしてしまう人がたくさんいます。
 

 番組内の印象によって、嫌な気持ちになったとして、もしもSNSがなかったら、わざわざ面識のないその人の職場や事務所に電話をかけ、「死ね」なんて言っただろうか。
 行き過ぎるとこういう行動をする人もいるかもしれないのですが、今回気楽に誹謗中傷を書き込んでいた人のほとんどは、わざわざ電話するくらいならやらない、というくらいの気持ちだったのではないかと思います。
 インターネットの発達によって人と人との距離が近くなったように感じるのは、錯覚です。思い込みです。あなたが進歩したのではなく、テクノロジーが進歩した恩恵をあなたが享受しているというだけのことです。あなたが芸能人や有名人に近づいたのではなく、ただ同じ形式のプラットフォームを扱っているだけです。それを勘違いして、道端の石ころのように蹴飛ばそうと思うことは、とてもみっともないことです。相手が誰であれ、人がたくさんいる街中で、他人に暴力を振るおうとしたら、あなたが100%悪いのだと思います。そういうことです。


 そして、こんなことをいくら言っても、大衆心理は移ろいやすく、周囲の影響を常に強く受けます。コロナ禍でメディアの報道の仕方によって生まれた混乱がいくつもあったように、今一度メディアのあり方がきちんと問いただされるべきなのだと思っています。
 大いなる力には大いなる責任が伴う、という当たり前のことを、「責任」の部分を放棄し、大いなる力をただ使っている。週刊誌、テレビ、そして動画配信サービス、不特定多数の人たちに大きな影響を与え得るメディアに対して、そういう印象を受けます。
 前述したとおり、いくら「変わらなければ」と叫んでも、変わらない人は変わりません。誰かを貶めて快楽を感じる人には、その人がそうなるに至ったあらゆる細かな理由があるからです。(だからと言って、そういう行為を肯定するわけではありません。やめられる人は今すぐにやめて、目の前の自分の人生に集中してほしいと切に思います。)

 仕事でドキュメンタリー調の作品の撮影に出演者として参加している時、「このシーン内の演出で撮った自撮りを実際のInstagramに投稿したら、よりストーリーがリアルになっていいんじゃない?」と監督から提案を受けたことがあります。私もその時は、フィクションと現実の境目が揺らぎそうで面白いな、ファンの人たちはドキドキしてくれるかな?と愉快な気持ちになったのですが、実際に後日その投稿をしようとすると、何だかいけないことをしてしまうような罪悪感があって、結局できませんでした。

リアリティ番組や、アイドルグループのドキュメントなんかもそれに含まれると思いますが、「その役」ではなく「その人自身」をエンタメとして魅せる時、そこには制作側の一層の配慮が必要なのではないかと思います。
ディレクターはその番組を面白いものにさえできればプロとしての仕事は全うできるのかもしれませんが、本人として出演し、演出され、編集され、放送され、民意を浴びたその子は、その子自身としてこれからも生きていきます。誰も、自分自身とは別れることができません。そのことを責任を持って、少なくとも、出演者の精神的な部分に配慮した制作が必要なのではないかと思います。
 リアリティを演出するというのは、ある種、禁じ手のようなものだと思っています。誰かのプライベートな部分を晒すこと、自分の行動や言動を「制作側の意向」として盾にすることは許されず、すべてのことが自己責任になる構造であること、平たく言えば本来商売にしてはいけない部分を使って商売をしている、といった感覚に近いかもしれません。
 そして、その舵取りが失敗した時に悪印象や誹謗中傷を被るのは、多くの場合なぜか番組の製作者ではなく、出演している本人です。その間にはたくさんの大人が介入し、より視聴者が興奮するようにと演出や編集を加えているという事実を、多くの人は想像できないからです。

 もういいかげん、番組が盛り上がればいいとか、グループが注目されればいいとか、批判があっても儲かればいいとか、そういう猥雑な目的のために、一個人を蔑ろにするようなエンタメのあり方は、考え直されるべきなのだと思います。
 
 どんなやり方であっても、人を一人殺してしまった、という事実に、耐え得る人間などいないと思っています。それが平気だと思える人がいるとしたら、その人の感覚が麻痺しているか、罪悪感から逃れるために一時的に変異しているに過ぎません。そして、仮に耐えられるとして、人を殺してしまうことの罪の重さに耐えられるような「強さ」や「鈍さ」なんて、そんなものはこの世界に必要ないと思っています。乱暴な言い方ですが。


 こんなことを何千字も書いたところで、この世界は変わらないということを知っているので、SNSリテラシーの教育を既に義務教育を終えている大人世代を含めて強化する、誹謗中傷された際の対応策をわかりやすく広く認知させる、そしてメディアのリテラシーについて改めて社会全体で考え直してルールを設ける、こういったことが必要なんだろうなと思います。

 考えて、なるべくみんなでまともになりたいし、まともになれない人に対する抑止力も必要。ため息が出るけどまずは考えましょう。そして何度でも思い出してください。思い出すのが嫌でも思い出してください。どんなに軽率な気持ちで書いた誹謗中傷だって、自分は「意見」を言っているつもりのちょっとした批判だって、相手のことを一歩死に近づけていることがあります。どのくらいの辛いことがあれば人は命を絶ってしまうか、なんて基準は存在しません。どんな言葉が、どのくらい人を追い詰めるのか、わかった気にならないでください。どうせ、誰かを死に追いやることの罪の重さになんて耐えられないのだから、初めから無責任なことはしないでください。誰にとっても他人事ではないのだと、せめて知っていてください。

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戸田真琴
ありがとうございます!助かります!