IT関連の技術を「気軽にアウトプット」する危うさ

ちょっとIT関連の技術系のコミュニティで「気楽に教える」ことが流行っているのを見ていて、諫言というか、注意喚起を。
良い面もあるけど、危うい面もあって、それは発信者も受信者も傷つけることになるので。

少し長くなりますが、順を追って書くので、最後まで読んでいただけると。

前提

前提1. 人は能力の100%は出せない、教えるのは猶更だ

能力を100%出して何かをやり続けることは難しい。
瞬発的にはできても、持続的にはできない。やったら人間は壊れる。それは常識の範疇だと思う。つまり、ある程度、能力をセーブするのは、当たり前のことだ。それが生活のかかった仕事でなければ、猶更である。

また、「自分の知ることのすべて(100%)」を他人に教えることは、これまた、きわめて難しい。
「難しい」というのを更に掘り下げると、伝承芸能の師事のように、一定の期間をおいて、相互の理解度を確認しながら行えば、可能ではある。
ただ、逆説的に言えば、それくらいしないと、知識や技能の100%を伝えることは不可能ということになる。
1対1でも一朝一夕には100%の伝授は不可能で、ましてや1対多(不特定多数を含む)の発信で、知識や技能、理解の100%を伝えることは、現実的ではない、と言って差し支えないだろう。

更に、オンラインでの発信は、それがどのような形態であれ、発信者の意図が100%すべて伝わることはない。文章にしろ動画にしろ音声にしろ、対面でのコミュニケーションと比較すれば、多かれ少なかれ情報の欠落が発生するからだ。

つまり、オンラインで情報を発信する、誰かに何かを教えるという行為において。
適切に教えられる物事の質・量は、教える側の実力に比べて、かなり少なくなる。これは、非常に重要なこととして認識されるべきというのが、本稿のスタート地点になる。


前提2. 君はクソSEOサイトを見たことがあるか

ネットで(たいていはGoogle等で)検索して、

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~が気になりませんか?
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~について調べてみました。
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~ところで~は~~です。
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結局~はわかりませんでした。
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よければこちらの情報もどうぞ
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どこかのSEOサイトにありそうなやつ

こんな感じのWebサイトにぶち当たったことはないだろうか。
そして貴方はこの情報を見てHappyになっただろうか。残念ながら私はそういう経験はないし、Happyになった、という人に出会ったこともない。
まあ、世の中広いから、探せば、少しぐらいはそういう人もいるかもしれないし、その感性を否定するつもりはない。

でもまあ、総じて大半の人にとって、こういう経験はHappyではない。もっと言えばUnhappyだろう。
それが「どうでもいい」寄りのニュートラルに近いネガティブか、「ふざけんなこの(放送禁止用語)め!」という強いネガティブかはともかく。

なぜUnhappyなのか。
答えは簡単、求めていた情報が得られないからだ。情報を得るために検索したのであって、クソみたいな広告ばかりで価値のないモノを見るために検索したわけではないのだ。


前提3. 怖さを知らないことの怖さ

失敗を経験したことがない人は、失敗の原因や、その影響を知らないことが多い。
もちろん直接の失敗でなくても、誰かの失敗を間近で見たり、きちんと事例を学ぶことで、失敗による損失や影響を知ることはできる。
だが、裏を返せば、これを怠ると、自身がやろうとしていること、あるいは自身が他者に教えている物事が失敗したときの怖さに無頓着な人間が出来上がることを意味する。

更に、失敗の内容や方向性によっては、ある種の生存者バイアスが影響する場合もある。
すなわち、致命的な失敗をした者は淘汰された結果、残っているのが

  • 致命的ではない失敗だけを経験した者

  • 幸運にも失敗を経験したことがない者(あるいは失敗を失敗と認識しないまま進んできた者)

の二者というパターンで、後者は、傍目に初心者だろうが上級者だろうが、存在しうることになる。


本題

情報発信の現状について

昨今、IT系の技術コミュニティにおいて、「情報発信」「アウトプット」と称して、知識の共有を推奨する風潮がある。
それ自体を否定することはできないし、私も否定するつもりはない。
繰り返す。技術の発信や共有、それ自体を否定することは、本稿の意図ではない。
そもそも知識や技術の共有は、大上段に言えば、人類が文明を築き上げてきた手段そのものであり、それを否定しては、文明や文化、あるいは技術の発展は立ち行かなくなるのだから。

ただし、現状を手放しに肯定するべきか?という点において、自分は疑問を感じている。

前提条件に記したように、人は己の知識・技術、言い換えれば実力とも言うべき要素の、100%を教えることは簡単ではない。現実的に、オンラインのコミュニティに付随する活動で、それを行うことは不可能だろう。

問題は、教える側がそのことを認識しているかどうか、である。
認識せずに教えようとすれば、本来、伝えるべき前提条件が欠落したり、伝え方の齟齬による誤解が生じる可能性が少なからずある。

否、人間のコミュニケーションに100%の精度はないので、前提1に記載したような、オンラインで短期間に教えることによる、いわば伝達量の減衰を差し引いても、想定している範囲すら伝わらない可能性はある。
ただし、少なくともそのことに意識的であれば、複数の表現を使って同じことを伝える、より誤解の発生しにくい表現を用いる等で、リスクを軽減することはできる。
重要なのは、これを「自分の知識分野のすべてにおいて行う」ことは、前述したように100%の実力を出し続けてあたることを己に課すことになり、現実的ではないことだ。

つまり、端的な言い方をすれば、「自分が理解している(と思っている)範囲を全部教えようと思っても、間違いなく伝わらない」のだ。
教える側がこれを意識し続けない限り、教えられた側に伝わる情報に、何かしらの誤情報や、誤ったメッセージが伝わることになる。

自分が懸念し、本稿で問題にしようと思っているのは、この点である。
すなわち、教える側の問題として、

  • 十全な理解がない部分まで教えようとする

  • 受け手側の能力や、共有されるべき前提条件の欠落に無頓着である

  • 広範囲に情報を広げることによる精度の低下に無頓着である

  • 情報を受け取った側が試行する場合に、想定されるリスクに無頓着である

これらの要素が複合的に絡み合った結果、受け手側にとって有益でない(あるいは有害な)情報を発信してしまう事例が散見される、ということだ。


発信した情報の訂正は難しい

一度発信した情報を、訂正することは非常に難しい。
特に1対1のコミュニケーションであればまだしも、1対多のコミュニケーションの場合で、きちんと全員に対しての情報のアップデートを行えないケースは多々ある。
すなわち、間違って教えた情報というのは、だいたい多かれ少なかれ、悪影響を残すのだ。

ハッキリ言ってしまえば、間違った情報発信は、本稿の前提部分に書いた、クソSEOサイトの、それよりも更に、悪い影響を残す。
何故なら、リアルタイムで受信した人には間違った刷り込みを与え、後から検索等で正しい情報に行き着く可能性を下げてしまうからだ。
挙句の果てに訂正がなされていなければ、検索等で後からその情報にたどり着いた人にも被害を与え続けるので、ハッキリ言ってしまえばクソSEOサイトよりはるかに悪質なモノとなる。

こう書くと「アウトプットは良いことなのに、萎縮させるとは何事か」と怒る人もいるだろう。
だが考えてみてほしい。あなたが携わっている、あるいは広めようとしている技術に関して、冒頭に書いたようなクソSEOサイトが増えて、それで誰が幸せになるのか?
よしんば、それよりタチの悪いものが拡散されて、本当に、その技術を学ぼうとしている、あるいは使おうとしているユーザーが幸せになるのか?
それでもYesというなら、なぜそうなるのか、教えてもらいたいものである。私には思いつかないので。

故に。
アウトプットを行うのであれば、相応の能力、すなわち「アウトプットを行おうとしている部分に対して、十分に深い知識と認識」があることを旨としないのであれば。
そのアウトプットは、有害なものになり得る。たとえアウトプットを行う側にとっての幾許かの「学び」になるとしても、それは数多の他人を傷つけて自分が成長することになる。そのことをここに明記したい。

私は道徳の教師でも閻魔様でもないので、「他人を傷つけても構わない、自分の学びになれば」という人を、どうこうするつもりはないが。


コミュニティ運営との短期的な利害衝突

さて、少し視点を変える。
コミュニティを運営する場合、そのコミュニティが盛んになってほしいと誰も考えるだろう。少なくとも寂れさせるためにコミュニティを運営している人はいないはずだ。

情報発信が多ければ、それだけコミュニティは活発になる・・・と言い切れるかどうかはやや疑問だが、少なくとも活発であるようには見える。

すなわち、コミュニティの運営や維持によって利益を得る立場、もっと直接的に言えば、仕事や、あるいは己のブランディング等のためにコミュニティを運営している側からすると、情報発信が増えることは歓迎すべきことになる。
だからこそ、多くのコミュニティ運営者は、それを推奨し、あるいは自身も情報発信を行うわけだ。

ゆえに、前述したような「品質の低い発信は有害である」という論は、少なくとも短期的には、コミュニティ運営者には煙たがられるだろう。

長期的な視点として、その技術が栄えることを第一に考えてくれるコミュニティ運営者なら、そこまでは気にしないだろうけれども。
残念ながら、仕事として運営する側には、コミュニティを運営していく上でのKPI等もある。ゆえに、粗悪で、長期的には有害な情報であっても、多く発信されることを望むケースはある。それが合理的な行動だからだ。

だからといって参加者が、それに迎合する必要はない。
その技術や製品を広めて、それによってHappyになる人を増やしたければ、品質の低いアウトプットはしない、という自制心もまた、コミュニティへの貢献になるはずだ。


総括

とにかくだ、Bad Practiceを広めるな

最後に少しだけ、本稿で書いた「品質の低い情報」の、より具体的な要素に踏み込んでおこうと思う。流石に実例を挙げようとは思わないけれども。

たとえば、プログラミングやソフトウェアの使い方で、

  • 別の製品や方式を使うことで、簡単に実現できること

  • 使い方によってトラブルを起こす危険性のある使い方

  • 特定の言語や製品等でできることを「できない」と表記する、あるいはその逆

  • 学習題材としての技術と、業務で使うべき技術の混同

これらの誤った情報は、教えられた側に間違った認識を与え、ともすれば学習者が、将来的にその技術を扱う上での、悪い枷になったり、問題を起こすことになる。

このリスクを「受け取る側の自己責任」として処理してしまうなら、そのコミュニティはそれまでだろう。
とある匿名掲示板を作った人物は「嘘を嘘と見抜ける人でなければインターネットを使うのは難しい」と嘯いた。
だが、技術コミュニティにその論を持ち込めば、被害を受けるのは初心者であり、結局行き着く先は、間違った情報の拡散による、その技術を扱う者へのダメージ源になるだけだ。

ハッキリ書こう。

貴方は、貴方がかかわっているコミュニティを、そんな冷笑的なスタンスで染め上げたいのか?
そうでないなら、気軽にアウトプット、気軽に教える、なんて姿勢は捨ててるべきだ。

アウトプットによりコミュニティに貢献したければ、まず、きちんと自身を鍛えあげる。
そして、自身が教える内容を大局的・客観的に見て、それでも価値があると説明できるぐらいになってからでも良いのではないか?

自身の成長のためと称して、ほかの初心者の足を引っ張るような行為をして平気でいられるのか?胸に手を当てて考えたか?

コミュニティの長期的な利益でなく、己の短期的な利益のために、気軽な発信クソをまき散らすことを推奨する人に、踊らされてはいないか?


過度に委縮する必要はないけど、もうちょっと自重したほうが良い人やコミュニティ、いっぱいあると思うよ?

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