『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 TV版の問題と劇場版の回答
二回観た。これは必ずしもわたしがその作品を好んでいることを意味しないが(証明:わたしは映画版ホムンクルスを二回観た),今回は純粋に楽しんでいた。急いでアニメと総集編を総さらいした意義はあったと思う。
演出の良さについては今更なにか書くまでもない。足踏み,強いお酒,髪かきあげ,軍服……これだと全部同じキャラクターだが。
細かいネタをあげるのもやめておく。ネクターの桃は再生と不老長寿の象徴であるとか,双葉がわたすバイクのキーは香子の左手薬指にかかるとか,そういうものは円盤になってからじっくり確認すればよい話だ。
例によって長く書いてしまったけれども,要するにTV版が抱えていた問題が劇場版でほとんど解決された,という話だ。だらだらとした批判がうざったいだろうし,それから解釈違いもあるだろうが,ご容赦願いたい。
本記事はTV版,総集編,劇場版のすべてについてネタバレを含む。あまり満足していないので,そのうち書きなおすかもしれない。
デュエルとレヴュー
『少女革命ウテナ』でも『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』でも,キャラクターたちはとつぜん非現実的な空間に投げ込まれ,それぞれの夢と欲望のために武器をぶつけ合う。デュエリストたちは胸のバラを,舞台少女たちは上掛けを落とされたとき,空の星が一歩遠のく。
古川知宏と幾原邦彦の関係を今更述べても仕方ないし,オマージュないしはリスペクトとして両作品の類似性を指摘するのはいかにもたやすい。しかし模倣において重要なのは共通項ではなく相違点であり,そして両作品の差異はあまりにも明白だ。すなわち,デュエリストの求める「力」が本質的に闘争をともなう概念であるのに対し,舞台少女の求める「運命の舞台」はそうでない。たしかにスタァ争いは熾烈で過酷で凄惨で,それは闘争によく似ているかもしれないが,決して剣を振るってぶつけ合って勝敗を決める類のものではない。
「歌って踊って奪い合う」だけなら別に相手の上掛けを落とす必要はないし,ただ文字どおり歌って踊って優劣を競ったっていいわけだ。ならばどうして,オーディションは闘争として描かれたのだろう。オーディションを闘争として描くことで本作はなにを得て,なにを失ったのだろう。
きらめきの優劣
ひとつの答えはこうだ──勝敗がわかりやすい。あなたのため息が聞こえてくる。わかります。しかしショボい頭をひねったところで出てくるのはこんなものだから,ともかく回答の見事さはいちど諦めて,むしろここから始めたい。舞台少女にとって,勝敗とはなにか。
はじめから勝敗の基準が明確ならば話はかんたんだ。将棋なら詰み,野球なら得点の大小,狩猟なら獲物の死──こういうものを闘争と呼ぼう──,その明確な勝利への道筋に沿ってすべての技術は培われる。ではたとえば歌は,踊りは,舞台はどうなるか。今の闘争の定義からして,それらは非−闘争と呼ばれるべきものだ。
闘争における価値が勝利という一次元の軸をもつ一方,非−闘争の価値ははじめから多次元だ。バトル漫画における「最後に立っていたほうが勝ち」という明瞭かつ一元的なことわりに比べて,グルメ漫画の勝敗はどうにもあやふやで不確かだし,あやふやであって当然だろうとも思う。多次元の価値ベクトルをどうやってスカラー値に変換しろというのか? その変換の正しさは誰が保証するのか?
けれども料理,小説,音楽,絵画,それらに順序づけをおこなう機会は山ほどあるし,わたしたちはおそらくそうせざるをえない欲望をもっている。結局玉置浩二とMISIAってどっちが歌うまいの。結局アインシュタインとダ・ヴィンチってどっちがすごいの。スタンドに「強い」「弱い」の概念はないと言われても,わたしたちは「スタローンとバンダムはどっちが強い? そのレベルでいいよ」と質問をつづけてしまうのだ。子供の遊びのように。
舞台少女も同じだ。そもそも彼女たちは,入学試験においてすでに歌や踊りといった非−闘争の中で優劣をつけられ,順位をつけられているし,入学以後も配役決めの争いはつづく。その意味で彼女たちはランク付けに慣れてしまっている。けれども舞台少女を,上にあげたような単純な例,すなわち非−闘争における順序付けは大変であるという程度の話に回収できるだろうか。
ここで重要なのは,トップスタァ概念が完全にオブセッションと化している点だ。シェフが時おりコンテストに参加するのとはわけが違う。少女が舞台に立つときには必ず配役争いを伴うし,そこで勝ちつづけることでしかトップスタァの称号は得られない。そしてトップスタァという概念は舞台少女と分かちがたく結びついている。彼女たちが問うのはどんなスタァになるか,どうやってスタァになるかであって,なぜスタァを目指すのか,などと問うことはない。そうして彼女たちがトップスタァを自動機械的に目指すかぎり,非−闘争であるはずの歌や踊り,あるいはきらめきは,その優劣の基準はあいまいなままに,二値的な勝敗という軸に閉じ込められざるをえない。
それに,そもそもトップスタァとはなんなのか? これは誰もわからない。少なくともそれはひとつの演目に収まる概念ではないから,彼女たちが焦がれる塔=東京タワーは無数のポジション・ゼロから構築されることになる。舞台少女たちに見えているのは塔や星の実態ではなく──そんなものは初めから存在しない──,ただT型のバミリを積み上げつづけねばならないという強迫観念と,その無限の労苦の果てにしか天上の星は掴みえないという物語だけだ。空の星はどうしようもなく曖昧で,そのくせ目を焦がすほどまぶしい。星への想いを断ち切らないかぎり,彼女たちは塔に,ひたすら上へ上へと伸びる装置に,呪縛されつづける。星は時おりキリキリと音を立てて虚構めかしく降りてきたかと思えば,彼女たちの積み上げた塔を打ち砕いてしまう。
したがって舞台少女の争いは,安易に他の非−闘争の延長に並べることはできない。序列化が困難なはずの世界で彼女たちはつねに序列化されつづけるし,そうまでして彼女たちが追い求める空の星はどうにも不確かな存在だからだ。
では,彼女たちを呪縛する曖昧模糊な争いを「上掛けを落とす」という確かなルールのある闘争として描いたとき,なにが起こるのか。これは重要な問題だが,その前にまずTV版における演劇性について見ておきたい。
希薄な演劇性
TV版を観終えたとき,これは演劇の話ではないと思った。たしかに彼女たちは歌や踊りの練習をするし,脚本や大道具を担うキャラクターもいる。なるほど舞台らしい一点透視の構図も頻出する。けれども肝心の「別のだれかになる」という要素はほとんど描かれないのだ。
愛城華恋は愛城華恋として歌をうたい,神楽ひかりは神楽ひかりとして踊りをおどる。くわえてTV版の主な舞台であるレヴューの場には裏方がいっさい存在せず,衣装でさえも機械による自動製作だ。華恋が「ここには裏方も共演者もいない,舞台はひとりじゃ作れないのに」と口にするとおり,レヴューの場は舞台という外に開かれた空間ではなく,彼女たちの内面で閉じた精神世界にすぎない。だからTV版の舞台少女たちの闘争は,「別のだれかになる」という段階ではなくそのひとつ前,すなわち「そもそも自分はだれであるか」というアイデンティティの問いに帰着されていく。いくども自分を再生産したり,夢と現実の距離に恐れおののいたり,依存や嫉妬からみずからを解き放とうともがいたり。すこしメタ的に言えば,TV版はまずキャラをキャラとして固めるための物語なのだ。それはまだキャラを別のキャラへ変身させる段階に達していない(注)。
星見純奈はしばしばシェイクスピアを引用するが,どれも演劇論というよりは単なる人生訓である。演劇の話というからには,『マクベス』の
人生は歩きまわる影法師,哀れな役者 (a poor player) だ,
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる物語 (a tale told by an idiot) だ,
わめきたてる響きと怒りはすさまじいが,
意味はなに一つありはしない (Signifying nothing) 。
──『マクベス』第五幕第五場(小田島雄志訳)
このトゥモロー・スピーチとか,『お気に召すまま』のジェイクィズの "All the world's a stage, and all the men and women merely players" とか,『ハムレット』の ”to hold the mirror up to nature" とか,あるいは世界劇場 (Teatrum Mundi) とか,演劇の本質にふれる要素はもっと別にあるはずなのだ。
とはいえ純那がいきなり「人間,生まれてくるとき泣くのはな,この阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ」とか言い出しても困るし,彼女に必要なのはエリザベス朝演劇のうんちくではなく自らを鼓舞する言葉──殿下,なにをお読みで? 言葉,言葉,言葉──だから仕方ないのだが,ともあれこれも演劇描写の弱さの一端を示していると言える。
あわせて,この希薄な演劇性は,観客という存在をすべてキリンに委ねてしまったことにも由来するだろう。観客の総体として,またTV版においては唯一の男性的な存在として描写されるキリンは,その網目模様と形状からして東京タワーの象徴としても機能する。舞台は役者と観客がいてはじめて成立する──とはいうものの,レヴューの場で舞台少女たちがキリンに向けて演技を披露する瞬間は一切なく,彼女たちはただ互いを観客とし,互いを役者とした閉じた空間で競い合う。したがってTV版において,最終回のメタフィクション的な言及を持ち出すまでもなく,すでに観客は彼女たちを呪縛する檻であり,また檻でしかない。
キリン以外の観客を登場させると話がぼやけるので仕方ないとはいえ,しかしやはりTV版の観客描写はオタクの自省を強いるのにやや力を入れすぎたように映る。観客が舞台少女らの檻であるのは間違いないが,同時に塔であることも否定しがたい事実なのだ。その功罪のバランスはともかくとして,観客なくして舞台はないのだから。
したがって観客が事実上ただのキモい檻として排斥され,また「別のだれかになる」こともまだ描く段階になかったTV版では,演劇的な要素はただ口上や殺陣に残るのみとなった。トップスタァへの強迫観念,同一性の解体ではなく保持の欲求,序列化され順位づけられた個々のきらめき──これらが入り混じった結果,彼女たちが接近するのは舞台女優ではなくアイドル,競争原理のなかで燃えるように生きる聖女の偶像である。
呪縛の隠蔽
話を舞台の闘争化に戻そう。
はっきり言ってしまえば,それは問題を隠蔽する。レヴューのバトルではルールが勝敗を肯定し,序列化を肯定し,彼女たちがもっていた多次元の価値はすべて一次元の軸に射影される。きらめきの多様さは不可視化され,本来なら勝敗のなかにあるはずの微妙なグラデーションはどこかに消え去ってしまう。これはふつうの闘争よりも深刻だ。独歩と渋川の差がほんのわずかな経験値の違いであったり,克己と花山の差が技術と格闘スタイルのかみ合わせであったりするように,格闘漫画でさえ勝敗のなかに潜ませているさまざまな多様さが,レヴューの儀式的な闘争の中にはもはや存在できないからだ。そして大場ななという「強キャラ」の表象は,こうした単純で二値的な勝敗のシステムに支えられている。
TV版において下位四名はもはや順位が明かされることすらなく,最後には観客席に叩き込まれる。代わって敗者に与えられるのは残酷な微温的救済──たとえば花柳香子が日舞の経験を活かして衣装をすこし改善するといった生ぬるい救済──のみである。これには「お前……」と声が出てしまった。
そもそも演劇は役者のもつ多次元の価値をそのまま多次元に活かせるものだし,その時々によって主役と脇役の関係はかんたんに反転するものだ。たとえば吉田鋼太郎は日本シェイクスピア界のスターとして『オセロー』などいくつもの大役を演じてきたが,『ヘンリー八世』など主役の圧倒的な威厳が問われる戯曲では,主役の座を阿部寛にわたして自分は脇役となったりする。体躯が小さいからと『リア王』を断る橋爪功も,しかし体躯の小ささゆえに『Le Père』のような戯曲では主役として完璧な振る舞いをみせる。王には王の,料理人には料理人の居場所があるように,役者は人間の数と同じだけ舞台をもつのだから,「そもそもトップスタァとはなんなのか,そんなものは存在するのか」という問いが立つのはきわめて自然なことだ。
けれども,舞台少女たちをレヴューの闘争に閉じ込めることで,彼女たちには勝敗以外の世界が目に入らなくなる。上位に立つことが最優先される。きらめきのあり方は単純化され,演劇は多様性をうしない,舞台少女はアイドル化する。トップスタァという概念の不確かさは隠蔽され,果ての見えない無限の闘争に彼女たちは引きずりこまれる。このからくり──舞台が闘争の皮をかぶり,勝利が舞台の内在的な目的であるかのようなふりをするシステム──は,そもそもなぜ勝ちを目指すのか,この場における勝ちとはなんなのか,こうした問いが立ち上がる可能性を未然に封じてしまう。そのうえ負けたらすべてを失うのだ。観客が彼女たちの序列化を自明視するかぎり,このからくりが崩壊することはない。その意味でやはり,観客は彼女たちの檻である。
ついでに言えば,敗北によって失うものもまた不可思議だ。オーディションの勝者はきらめきを敗者から奪うわけだが,このとき失われるのは華恋がまひるに与えていたような外に開かれたきらめき=舞台少女の客観的な輝きではなく,個々の少女の内側で閉じたきらめき=舞台に立つ実存的なよろこびなのだ。それが「舞台少女にとってもっとも大切なもの」であることは否定しないけれども,当然ながら二つのきらめきは同一視できない。冷めた表情のまま天堂真矢を切り伏せる大場ななはこの二つがもっとも乖離した実例だし,露崎まひるはきちんと開かれたきらめきを持ち合わせていたが,本人はそれに気づいておらず,実存的なきらめきを見失っていた。反対に純那は舞台への情熱に身を焦がしてはいるものの──これはオブセッションと呼ぶべきだろうが──,主役の座に届かないという客観的なきらめきの欠如に苦しんでいる。
したがって「失われた実存的なきらめきを取り戻す」というプロットは,そのままでは問題をはらむ。それ自体は必ずしもトップスタァへの強迫観念を解消しないからだ。闘争と序列化のサイクルで彼女たちが擦り切られるというシステムになんらかの穴を穿たないかぎり,それは彼女たちが高速回転する歯車に笑顔で飛び込んでいく物語となりかねない。少女の実存の問題と,システムに内在する問題とをすりかえてはならない。
TV版では,この問題をおもにキリンの罪として告発したり,レヴューが非−舞台的であることを華恋の口から語らせたりすることで解決しようとしていた。悲劇を生んでいるのはキモい観客だ,それに本当の舞台はここにはないのだ,と。いずれもまっとうなアプローチと思うが,前述した敗者の微温的な救済とこの作品の希薄な演劇性とが相まって,根本的な解決とまでは至っていない印象を受けた。それは彼女たちが新しいきらめきの場を見出したというより,単に自分たちが敗者であると受け入れさせられただけのように映った。とりわけ香子と純那にとって。
劇場版での転換
そろそろTV版から劇場版への接続を考えるべきだろう。あなたの苛立ちが伝わってくる。
総集編『ロンド・ロンド・ロンド』で先んじて示された舞台少女の死というイメージは,その車輪を模したロゴと合わせて,きれいに劇場版で回収された。列車は必ず次の駅へ──では舞台は? あなたたちは?
電車は放っておいても新たな駅へたどり着くが,舞台少女は,あるいはわたしたちはそうでない。三度目のスタァライトが終わっても,舞台少女は舞台少女であるかぎり,自分の足でつぎの舞台を探して歩みはじめねばならない。舞台はたしかにおそろしい。視線は刺さるように近く,照明は身を焦がすほど熱い。けれども,飢えも乾きも失って単なる誰かのファンに堕ちてしまったら,舞台少女は死んでしまう。だから乾いた砂漠でトマト=観客がもたらす禁断の果実をむさぼり,それがたとえ血を流すにも似た仕草だとしても,野性的に次の舞台を追い求めること。荒野に自らの線路を引き直すこと。ワイルドスクリーンバロックをぶちかますこと。大筋はそんなところである。
古川知宏じしんが劇場版を「ヤンキーマンガ」と評しているとおり,たしかに劇場版はハジケた演出で観客の脳ミソをブン殴って快楽物質を強制放出させるような作品だ。しかし一方,造り手はTV版が抱えていた問題に対して自覚的であり,そのド派手さに反して回答はかなりていねいであったように思われる。
演劇性の変化
まず,演劇描写の厚みがずっと増した。
オーディションを闘争化したTV版では,数すくない現実の演技パートもただ日常描写と同列に配置されるばかりで,せいぜい滞空時間の長さや体の柔らかさといった記号的表現にとどまっていた。しかし劇場版では短いながらも『遥かなるエルドラド』などの劇中劇が差しはさまれ,そこでは自らとふかく重なる役を演じる華恋と,むしろ対極にある役を演じる純那との対比が示されている。華恋の名演は一種のメソッド演技であるから,華恋は内的なきらめきを見失っているにもかかわらず観客を涙させるほどの熱演ができる──という状況にも矛盾が起こらない。一方の純那が華恋に押し負けるのは,じぶんの大学進学という選択に実のところ自信がないこと,そこに大海原があるとほんとうは思っていないことを示しているわけだ。
くわえて,観客の描写も豊かになった。TV版ではすべての男性性がキリンに押し込められていたが,劇場版ではごくふつうに男性キャラが登場する。キリンというキモい観客だけでなく,「あの子の可能性が広がるなら」と華恋の演劇人生を応援する母親や,純粋に「舞台の華恋ってすごいんだよ」と褒めそやす同級生たちなど,きわめて素朴な観客の存在が描かれるようになったのだ。さらには現実のビルのなかにキリンを配置することで相対的なちいささが強調され,舞台少女が観客の欲望による支配からすこしずつ自由になっていることがわかる。
そういえば,キリンがアルチンボルドを模しているのは,ルネサンス的なTV版とバロック的な劇場版をつなぐマニエリスムの象徴だから,という解釈があるらしい。わたしは美術史を知らないのでTV版がルネサンスと言われてもよくわからないのだが,たしかに現実を「神の喜劇」とみなすダンテ以来の中世的な輪郭が退行し,代わって誕生した「阿呆の大舞台」的な世界のなかで人生という役を演じるのがルネサンスの世界劇場観だから,学園の地下で悲劇的なロンドを踊りつづける彼女たちはその意味でもルネサンス的だったのかもしれない。もっと突っ込めば,純朴に未来と運命を信じていた過去のひかりと華恋は中世的な世界観に生きていたと言える,のかもしれない。
二値的な勝敗からの脱却
システムの問題が明らかになったとき,取りうる選択肢は複数ある。
システムを修復する。システムを破壊する。システムから脱出する。システムの中で,なんとか生きる術を探す。なお,弱い人間はたいてい最後の選択肢を選ぶ。
くりかえし述べたとおり,TV版におけるレヴューの闘争化はあきらかに問題を抱えていた。それは舞台少女たちを観客の欲望にドライブされる歯車に引きずり込んで限界まで擦り切るようなシステムだった。
劇場版も一見すると,闘争の枠組みは変わらず保持されているよう思えるかもしれない。しかしまずはじめに,「上掛けを落とす」というルールは劇場版において完全に無化されているのだ。まひるがひかりの上掛けを落としてもオリンピックはつづくし,天堂真矢が西條クロディーヌのボタンを弾いてもファウストは終わらない。もちろん裏方も共演者もいない点でレヴューは相変わらず非−舞台的なのだが,劇場版ではもはや既存のルールが支配する勝敗の軸は崩壊している。真矢は「ねじ曲げるのか,舞台のことわりを」とクロディーヌに叫ぶけれども,ことわりはねじ曲がったのではなく,初めから存在しなかったというほうが正しい。石動双葉と香子,および純那とななのレヴューは上掛けを落とすところで閉幕するが,あれを双葉や純那の勝利,あるいは香子やななの敗北と単純に解釈する人はいないだろう。なにより幕はキリンによって降ろされるのではなく,彼女たちがみずから降ろし,そして次の舞台へと歩みをすすめていく。
彼女たちは卒業したあとも配役争いを繰り返すだろうから,その意味で闘争と序列化のサイクルからは逃れられない。舞台がおそろしい場所であることに変わりはないし,トマトを食らって走りつづけなければ舞台少女としての生を保てないのも同じだ。けれども彼女たちは,もう自分の戦いの場を自分で決めることができる。観客の欲望に一方的に支配されていた狭い地下の一回こっきりのオーディションではなく,無限に広がる現実の舞台に立つことができる。劇場版で真矢がクロディーヌに宣言したように,あるいはTV版で双葉が香子に忠告したように,いちど負けたらもう一度挑めばよい。そのサイクルは他者の欲望が回す破滅的な歯車ではなく,彼女たちどうしが燃やしあい,高めあうための動的なプロセスである。
だから闘争そのものが失われることは決してないけれども,舞台少女たちが勝敗のなかの連続的なグラデーションを取り戻したいま,天上の星も当然ひとつきりではなくなるのだ。ひとつの舞台にスタァはひとつしかないとしても,ほんらい舞台は無数にあるのだから。
もうひとつのオブセッション
ここまでトップスタァ=オブセッションと単純化して述べてきたが,実際に彼女たちを縛るものはもう少し複雑だ。オタクの内省を強いすぎているとかなんとか言いながら,実はわたしが一番オタクの内省を強調していたらしい。
まひるを除く八人は二人ずつペアを成しており,基本的に一方はトップスタァに,他方はペア相手にそれぞれ強い執着を抱いている。ふたりは共依存的にもつれあっているが,結局のところ対等でない関係に沈んでいく。ふたりのうち一方は強くきらめき,もう一方のきらめきは,ほんの少しだけ小さい。トップスタァが天上でもっとも輝く大きな星のことなら,そのすぐとなりで輝く小さな星はなんの比喩だろう? キリンのオーディションによってトップスタァという強迫観念が植え付けられたのは間違いないとしても,彼女たちに課せられた呪縛はそれですべてだろうか。天上の星ではなくて,いま目の前にいるだれかとの関係こそが呪縛として機能しているのではないのか。
今さら言うまでもないが,劇場版のレヴューはどれも壮大な痴話喧嘩であり,彼女たちの不均衡を解消して対等な関係を再構築するために演じられる。双葉と香子は別々の道を歩むし,ななは純那への身勝手な期待をうち捨てるし,クロディーヌと真矢は対等なライバルとして宣言しあう。そうして最後に,華恋が「ひかりに負けたくない」と闘争心を呼び捨てで吐露したとき,はじめて互いの星々が等しく輝き出す。だから東京タワーは分解されるし,一方が他方の上に乗っかる構図は崩壊するし,かつて塔の上部だった半分はもう半分とおなじく地に根を下ろすし,エンドロールで両者はふたつの星に──今度は同じ大きさの星に──変形するのだ。
こういう話になると,唯一TV版ですでに強迫観念を解消していた露崎まひるの造形はほんとうに素晴らしい。あちこちで指摘があるとおり彼女の──「大切な人たちを笑顔にするスタァになる」と明確に他者志向を公言する彼女の口上だけが,「夢咲く舞台に輝け,私」と他のだれでもない自分の実存的なきらめきを謳っている。このとき初めて,TV版で暗にすりかえられていた内的なきらめきと外的なきらめきの統一が実現される,とさえ思える。その他のレヴューがどれも夜の檻や暗い屋内,塔の呪縛のなかで行われるところ,まひるのレヴューだけは明るい屋外で行われるのもよいポイントだ。空が真昼のように明るければ,星に思いを奪われることなどないのだから。
おわりに
ライバル関係を安易に肯定するだけでは,今後彼女たちに立ちはだかるいくつもの序列化は不可視化されるかもしれない。トップスタァへの強迫観念はそう簡単に解消されないかもしれない。対等な人間関係とはあまり長く持続しないものなのかもしれない。それは結局,微温的で暫時的な解決にすぎないのかもしれない。
けれどもここは,「舞台少女にとって最も大切なもの」が内的なきらめきであったこと,劇場版で心折れていた舞台少女たちを蘇らせたのは舞台装置のかがやきであったことを思い出して,生ぬるくてもいいじゃないと主張しておこう。彼女たちはもう物語の呪縛を飛び出した。観客の手でふたたび闘争の場に引きずり込むのは,無粋というものだ。
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アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』 ☆7
映画『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』 ☆8
映画『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』☆9
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(注)
本筋ではないので注に載せるが,わたしはそもそも虚構の登場人物が別のだれかを演じるとはどういうことなのか考えていた。記号の集合として作られるキャラクターは,その感情や意図もしばしば記号で語られる(例:照れるとほほが赤らみ,線が数本引かれる)。わたしたち視聴者は記号の意味をすでに文化の中で学習しているし,キャラの心情の読解はまずそうした記号の意味を全面的に信頼することから始まる(例:特別な演出がないかぎり,ほほが赤らんで線が入る=キャラは照れている,と解釈される)。その意味で虚構のキャラクターたちは,既にわたしたちにとってとてもすぐれた役者であり,またそうあらざるをえないのだ。彼女が照れたければただ頬を赤らめて線を数本引けばよいし,そこに疑わしさは存在しないのだから。
しかし,キャラクターたちがなにか役を演じる場合は話が変わってくる。彼女たちはわたしたち視聴者にとってではなく,同じ虚構内のキャラクターに対して演技をしなければならないからだ。けれども,わたしたちにとって照れを意味するほほの変化が,ほかのキャラにとっても照れを意味するかどうかはわからない(たとえばハーレム漫画の超鈍感主人公はそうした読者とキャラの「読み」の違いによって成立している)。くわえて,泉信行が『漫画をめくる冒険』で『スクールランブル』を例にとって論じたように,漫画(と,わたしは詳しくないがたぶんアニメ)というのは場面ごとに「どのキャラ視点で描かれているか」がコロコロと変わるメディアだ。だからキャラが別のなにかを演じるとき,それは普通の漫画アニメのように読者の記号解釈に依存することはもはやできず,作品内でだれがどのように記号を解釈するか,そして今この瞬間にこの記号を読んでいるのはだれなのか,という問題をていねいに考えねばならなくなる。要するに,すでにわたしたちにとってすぐれた役者であり,またそうあらざるをえないキャラクターたちが,どうやって他のキャラにとってすぐれた(あるいはすぐれていない)役者でありえるか,という問題だ。
これはキャラクターの同一性という観点からも論じることができると思う。虚構のキャラクターたちは,わたしたちのように物理的な肉体を根拠にアイデンティティを主張することはできないし,逆にいうと多少手足が伸びたり身長が変わったり作画が崩壊したりしても同じキャラクターとして存在──正確に言えば,わたしたちがそう認識──できる。このテクストを超えて存在できる能力がキャラの強さであって,たとえばマリオはキャラの強度が高いために帽子とヒゲを適当に書くだけでじゅうぶんマリオたりえるが,サマーウォーズの主人公を書けといわれると結構むずかしい。それは名前も知らないあいつの外見がキャラとして弱いからだ。そして足立加勇が『日本のアニメ・マンガにおける「戦い」の表象』で論じたように,舞台少女たちも他の多くの美少女アニメと同様,その記号的な同一性のほとんどを髪型や髪色,目の書き分け,そして声色に頼っている(反対に,真っ先に捨象されるのが顔の輪郭の形状)。だから劇場版で香子が壺振り師を演じて髪型を変えたときは一瞬だれだかわからないし,真矢の化粧と髪型がめくるめく変わるあの演出はとてもうまく機能する。クロディーヌは真矢を「あんたは空っぽの器なんかじゃない」と否定するが,実のところ舞台少女たちはみんな(すくなくとも見た目上は)容易に他の役に変身できる見事な「神の器」であって,むしろ同一性を保つほうがむずかしいくらいなのだ。せっかくなのであの真矢の演出はもう少し活用してほしかったが,現時点ではこれ以上語ることもなさそうなのでここで終わる。