母校にて
母校での講演が終わったあと、俺はしばらく放心状態だった。
いや、我ながら頭おかしいとしか言いようがないが、これ以外に母校で話したいことは特になかった。特に、俺の母校、新潟大学教育学部附属長岡中学校は、教員から校長から全員新潟大学の人なので、新潟大学こそが至高の学校であり、新潟大学を愛する愛大学教育みたいなのを受ける。だから俺だって「新潟大学ってまあまあイケてる大学なのかな」と思って育ったのだが、俺より成績がいい奴らがどんどこ新潟大学にブラックホールのように吸い込まれていって、その後どうなったかわからなくなってしまう。というか、全く中央で活躍しない。
俺が、せいいっぱいの覚悟で、故郷の後輩たちに言えることが、俺の考える、俺の同級生がもっと輝けたはずの事実を指摘することだった。それが
(附属長岡の生徒は)新潟大学に行ってはいけない。
(附属長岡の生徒は)教育学部に行ってはいけない。
ということだ。
でも、附属の教員はほとんどが新潟大学教育学部の出身で、こんなことを言われたらメンツが潰れてしまう。それは申し訳ないと思ってる。
だが、附属の成績上位者は、ほとんどが新潟大学に行くし、多くが教育学部を目指す。なぜか?親と先生の言うことをきく「いい子」ばっかりだからだ。
でも、実際には附属長岡の子供達、ひいては、ルールを知らないまま純粋培養された子供たちが新潟大学教育学部に行き、再び附属に教師として戻ってくるケースは、決して教師が劣っていることを意味しない。
なぜなら、附属長岡の試験は、少なくとも俺が知る限り、東京や関西の難関私立と同じ試験問題を使っているからだ。
俺が東京に来て、見えない壁と戦っている時、そいつらが麻布だ筑駒だ灘だラサールだと呻いてる時に、小学五年生の時の補習授業を思い出した。
附属長岡小学校は五年生から6限と7限で補習授業を行う。
その補習授業では、東京や関西や九州の有名私立大学の過去問を解く訓練をする。最初は絶望的に難しく感じても、六年生の二学期くらいには余裕で解けるようになっている。
つまり、附属長岡の人間は、全員、有名私立中学の問題を解けるように訓練されている。それは新潟大学教育学部に行った先輩たちも同じ。能力的には誰も劣っていない。ただ、誰も教えてくれないだけだ。多分、全国の同じような大学附属の学校で同じことが起きている。
ところで附属長岡は幼稚園、小学校、中学校を持つ学園である。
その全員が、紺碧と若き血を歌うことができる。
いうまでもなく、紺碧は早稲田、若き血は慶應の応援歌だ。
でも、子供達はそれを知らずに育つ。
想像力を膨らませてみよう。
きっとこれは、俺たちの先輩が、東京に行き、東京の現実を知った。
俺みたいにたくさんの言葉でそれを説明したとしても、そう長くは残らないだろう。
だから、先輩たち、その中でもとびきりに頭のいい先輩たちが子供達に真実を教える方法を考えた。それが紺碧と若き血を運動会の赤組と白組の応援歌として残すことだ。
幼稚園の頃から慶應と早稲田の応援歌を教え込むことで、おそらく附属長岡のOB/OGは早稲田のOBより紺碧が上手いはずだ(慶應は幼稚舎からあるので同じくらいか)。4年か、13年かの差だ。俺は今も紺碧と若き血はソラで歌える。
だから先輩たちはずっと俺たちに応援歌を送っていたのだ。
新潟大学に行くなと。せめて慶應、早稲田を目指してくれと。
とはいえ、そんなことを俺が吠えてるのは新潟大学教育学部附属である。
いわば敵の中枢部。ショッカーの戦闘員養成所だ。そこで新潟大学の権威を腐してタダで帰れるわけがない。袋叩きにされてもおかしくはない。
逃げるように長岡を離れ、新幹線で都内に戻り、秋葉原の鰻屋でロボカップ日本理事局の岡田さんと、愛三電気の河合社長との会食に参加した。
帰りの新幹線の中、ずっと心にあったのは、講演の最後、生徒たちからされた質問のことだった。
親の言うことは聞かなくていいとか、新潟大学は東京ではほとんど認知されてないとか、とにかく新潟大学には行かないでくれとか、MITの歳入は7兆円、東大は2880億円しかないとか。どうせ君たちが大人になる頃には就職というシステムは崩壊してるから、今この瞬間からAIを使って世界で戦え、好きに生きろとか、まあ言いたい放題言ってやった。何せ学校始まって以来のクズだから。
ここまで好き放題言ったのは久しぶりだ。どうも溜まっていたのかもしれない。ゲンロンカフェだってここまで思っていることを言ったことはない。この日は言ってはいけないこと、みんなが普段忘れたふりをしていること、そして田舎の中学生は絶対に知らないことを話した。
そうして質問タイムに入るのだが、俺の講演は普通、質問が発生しない。
俺の講演は一種の映画のようなもので、起承転結があってストンと終わるようになっている。なので、映画を観た後で映画に質問をする人がいないのと同じように、質問が出ないのが普通なのだ。
ところが次々と手が上がった。彼ら、彼女らがした質問の全てが、ことごとく、素晴らしいものだった。これは彼ら、彼女らが心の底から聞きたかったことだったに違いない。
中でも印象に残っているのは、「他のすべてを捨てても身につけておくべきスキルはありますか?」というものだった。
この質問をされた時、俺は全身の血液が泡立つような感覚を覚えた。
俺の戦闘本能が、そして俺が今まで見てきた全ての素晴らしい人たちのことが瞬時に頭の中を駆けて抜けていった。
まるで俺は、そのまま死んでしまうかもしれないと思った。人間の脳は死ぬ直前にフルパワーで動くというが、俺はこの質問に答えようと頭を働かせるよりも前に、心がこの質問に答えようとしていた。
意識するよりも前に、俺は人生で最も力強くこの言葉を発していた。
「ある!」
俺が最初の会社を作ることになったきっかけは、アメリカのドワンゴで副社長をやっていた頃、あまりに会社の上司がちゃんと働いてくれないので怒って意見を言ったらその場でクビになったからだ。
アメリカというのはそういう社会なので、普通は上司をヨイショし続けるものだ。贈り物を送り、誕生日を祝い、家に招いて歓待する。ちなみにその元上司とは今でも仲が良い。退職後、俺をNASAのレベル9ツアーに連れて行ってくれたのはその上司だ。親父のようなものだ。
日本ではそういうことは起きない。犯罪でもしない限り、即日解雇は違法行為だからだ。
日本に帰ることになった日、俺は住んでもいないアメリカの家の家賃を毎月何十万円も払わなくてはならなかった。
起業する資金もあるわけがなく、マイナスの状態から会社を始めることになった。
とりあえず実家に戻って暮らすことで家賃を浮かせようと考えた。すると、いろいろな人たちが心配して連絡をくれた。
「大丈夫か?何があった?」という人もいれば、「お前はしくじった、俺が拾ってやる」と言ってくる人もいた。
結局この時は、仕事を発注してもらって、前払いで何百万円か払ってくれる人や、出資金を払ってくれる人たちがいて、あっという間に一千万近いお金が集まった。27歳の頃のことだ。
長いこと「いい人たちに囲まれた。運が良かった」と思ったのだが、最近、それは俺の勘違いだったということに気がつき始めてきていた。
俺は決して運が良かったわけではない。これは必然的に起きたことだ。
思えば、アメリカでオーナーと喧嘩して、その場で会社をクビになった時、いち早く手を差し伸べてくれたのは、かつての取引先やライバル企業の人たちだった。
「清水、お前は必ず復活できる。俺のヘソクリを使ってくれ。うちのカミさんには言うなよ」
「清水、お前は生意気だし、手強いライバルだった。だけど、だからこそ今度はうちのゲーム、作ってくれよ」
金をくれた人もいたが、くれなかった人も同じだった。
「清水、俺はお前に金は一円も出資しない。そうすれば必ずいつかお前は俺を恨むようになるからだ。俺の助けがなくても、お前ならやれる。金は払わないが、お前のために毎年、1000万円かけてパーティを開いてやる」
あれから20年が経った。
俺は貯金というものをしない。今も金はない。
常に自分に全張り。自分が信じるというものに金を注ぎ込み続けてきた。
財産なんてものはいらないんだ。金の問題じゃないんだ。
どれだけ自分がやりたいことに集中できるか。
それしか問題じゃない。
俺は自分のことを全く理解していなかった。
自分が本当は何をしてきて、なぜ多くの人が俺を助けてくれたのか、それを理解していなかった。
頭が良くても、周りから見放される人はいくらでもいる。
利口に立ち回っているように見えて、実はみんなから信用されてない人は大勢いる。
顧客を騙して金を儲けていたような人は、その瞬間は自分が賢いと思っているかもしれないが、嘘は必ずバレるという大前提を無視している。その人にとって人生が軽いのである。自分の人生を自分で無価値なものにしている。そういう人はくだらない。
俺は自分が正しくないと思ったことは絶対にやらない。俺にとって、俺はもっと価値のあるべき人間だからだ。価値のある人間は、歴史に名前が残った時、自分がカッコ悪いと思われるようなことはしないものだ。俺は宗教は信じていないが、「誰も見てなかったとしても、神様は見てる」と考えている。神様とは俺にとって、俺の心の中にいるもう一人の自分だ。
俺は電車で空き缶が転がっていたら、その場に俺しかいなくても空き缶を拾ってゴミ箱に入れる。そういう人間でありたいと思っているし、そういう人間であろうとしているからだ。
俺に貯金は必要なかった。
もしも万が一ピンチになっても、必ず誰かが助けてくれた。
では、なぜいつも俺は誰かに助けてもらえたのか。
昔、高校の後輩が世界トップの外資系コンサルティングファームを辞めて友達と会社を作ると言ってきた。本当は俺の会社で働いて欲しかったが、そういうことなら応援するかと思って、その会社に数百万円を出資した。
一年後、後輩が「やっぱりやめる」と言ってきた。
俺は怒った。おかしいだろ。
一年やそこらで、自分がついていくと決めた男を見限るんじゃねえよ。
「いくら言われても僕の意思は変わりません」
彼は、高校時代、「清水さんはなんで救いようのない馬鹿に本当のことを教えちゃうんですか。知識がない人は放っておけば、競争から外れてくれて楽じゃないですか」と俺に言ってきた。
こいつは俺よりプログラミングができた。
信じないと思うが、本当のことだ。こいつはプログラミングの天才だった。俺が嫉妬するレベルの。しかしこいつは自分を利口だと思って生きているやつだった。
「金欲しいじゃないですか。競争社会ですよ。競争相手に真実を開示するなんて、清水さん損しかいないじゃないですか」
そういう自分を「賢い」と思ってるやつだった。
だが俺はそれは絶対に違うと思っていた。
「自分以外の他人を輝かせることができる人間こそが、一流の人間だ。お前はただ、情報の格差、自分の頭の良さを利用して弱者から搾取しようとしているだけだ。そんな奴は、たとえ金を稼いでも、たいした人間にはなれない」
でも彼には最後まで俺の考えは受け入れてもらえなかった。
しばらくして後輩と仲違いした会社の社長が挨拶に来た。
「ちょっとやっぱり会社を畳もうと思いますので売却することにしました」
「そうか。残念だが仕方がないな」
「それで、株主の皆さんには少しでも上乗せで返せるよう調整したいと思います」
「そんなことができるのか?」
「はい。僕は自分の分は一円も受けとらないんで、買収していただいた金額を外部から入れてくれた方にそのまま上乗せしてお返しします」
なんて男だ、と舌を巻いた。
こいつは、自分がピンチの時、自分が一番苦しい時、自分にとって一番辛い選択ができる人間なのだ。そんな男が実在するのか。俺は目を疑った。
そりゃこんなやつが、自分のことしか考えてないあいつとウマが合うわけがない。
実際、彼は僕らが出資した金額に数十パーセント上乗せして返してくれた。
彼はなぜ、そんなことをしたのか。
それは「真心」だ。
自分ではなく、相手にとって何が一番幸せか、何をすれば、一番相手の期待を裏切らないか。自分の誠意を理解してもらえるか。
「真心」を表現するのに、彼は自分の最大のピンチを最大のチャンスと捉えた。その時、一時的にお金を失うということを我慢すれば、会社を潰してしまった責任を取り、自分の誠意を示すことができる。そっちの方が、目先の数百万円よりも遥かに価値が高いと、彼は考えたのだ。
2年で10%以上の利回りであれば、投資としては大成功である。
彼はそれよりはるかに多くの上乗せをしてくれたので、会社を説得して彼の会社に投資した俺の面目を立ててくれた。
「真心」を武器にする人間を、俺はもう一人知っている。
落合陽一だ(今日はファンではなく一人の偉大な人物として書くのでこう呼ぶ)。
昔、落合くんがあちこちのテレビに出始めた頃だ。
俺は秋葉原プログラミング教室という小さな教室を開いていた。この教室は今も持続していて場所を湯島に移している。
「保護者や子どもたちのために何かしてあげられるサービスはないか?」
そんな話をしていると、誰か女子社員が言った。
「清水さん落合陽一さんとか知り合いじゃないんですか?」
「ええ?んーまあ何回かパーティで挨拶したことはあるけど」
「凄い!落合陽一さんの話を子供に聞かせてあげたら、すごくいいんじゃないかと思います」
「ええ?でも、落合くん忙しいし高いと思うよ」
「高くてもその価値はあります」
「まーダメ元で聞いてみるか」
俺は落合くんにはなぜか「パイセン」と呼ばれている。彼と知り合ったのはマイクロソフト株式会社の初代社長、会長を歴任した古川享さんの誕生会で、僕は一応彼からすると「マイクロソフトのパイセン」ということになっているらしい。(まあ僕は一度もマイクロソフト株式会社に所属したことはないのだが。その話はややこしいので詳しく知りたい人はこの本を読んでくれ https://amzn.to/48Bjxyx)
「ちょっと忙しいところ申し訳ないんだけど、うちの教室の子供たちと保護者に話をしてあげてくれないかなー」
「いいっすよ」
「え、いいの?」
「いつがいいですか?」
「それとあのー言いにくいんだけど、教室が小さいからあんまりギャラ出せないよ」
「大丈夫っす。清水パイセンの頼みっすから」
それでまあ僕は落合くんのギャラが噂されている金額を知っていたんだけど、もう正直ベースで「これしか出せない」という金額を提示した。
ちなみに今、俺が同じ金額を提示されたら絶対に断る。そんな金額だ。
「金の問題じゃないから大丈夫っす」
なんていい男なんだ。
そして当日、俺は落合陽一を舐めていたことに気付かされた。
多分それが最初に落合陽一を決して舐めてはいけないと気付かされた事件だった。
「僕のライバルは、トーマス・エジソンというメディアアーティストです!」
壇上で落合はいきなりそうブチかました。
その時点で度肝を抜かれたのだが、子供達も保護者も、彼の話にグイグイ引き込まれていくのがわかった。
「それで今日は、科学のことについて知って欲しくて、おもちゃを持ってきました。どうぞ、人数分あると思うので回してください」
落合陽一はそう言って、袋からいろいろなオモチャをとりだし、それを次々に配って行った。
「こんなおもちゃもあるんですよ。これも皆さんに差し上げますね。光にかざしてみてください。面白いでしょう?」
落合はどんどん新しいおもちゃを出して、それをつど、全部の子供に行き渡るように配った。
見ていた俺はだんだんと自分の顔が青ざめていくのを感じた。
なんてこった、落合くん!そんなにオモチャを配ったら、君にあげた僅かなギャラは無くなってしまうじゃないか!!
いや、そうじゃないんだ。
落合陽一という男は。
「ギャラを全部おもちゃに変えて子供に与えてるってことか!科学について興味を持ったら、この日のことを忘れないように」
落合陽一は心底すごい。
確かに金の問題じゃない。
脱帽である。
こんなすごい授業をうちの小さい教室の生徒だけに見せるのは贅沢すぎる。
俺はもっと宣伝しておくべきだったと後悔した。
俺にこんなことを言わせているのは、落合陽一もまた「真心」を武器にした人間だからだ。落合がギャラの金額で手を抜くような人間ではなく、それどころか子供達のために本当に役立つ授業をやってくれたからこそ、俺はそれから十年以上、本気で彼と向き合っている。勝ち組十戒、「人脈をファン脈に変えられたら大化けできる」だ。
つまり俺の周りには、そもそも誠実な人しかいないのだ。
彼らを突き動かしているのは自分の欲望ではなく真心である。
「力なき人たちを救いたい」「困ってる人を助けたい」「未来をもっと良くしたい」そういう気持ちで生きている人が成功するのは必然的なことなのだ。
「真心」から事業を作れば、必ずそれに共感する人が出てくる。
当たり前のことだが、誰もこの当たり前のことを理解していない。
「真心」を磨くこと。「真心」を表現すること。
それやり遂げれば、人は誰でも成功できる。
これが現時点での俺の持つ結論である。
そういえば思い出した。
数年前、ゲンロンカフェで人工知能のトークイベントをやった時、こういう質問をされたことがある。
「思考能力の大半がAIに負けるようになってしまった時代が来るとして、人間にとって一番重要な能力ってなんですか?」
この時も俺はつい口の方が先に動いてしまった。
「真心と思いやり・・・・・かな・・・・・いや、俺は何を言ってるんだ」
その時は自分の口から、一番自分らしくない言葉が出たと思った。
学校始まって以来のクズだぞ。
学校の屋上で焚き火して消防車を呼ばれ、全国偏差値で2という記録的成績を全校朝会で発表されるような人間だぞ。
よりにもよってそんな恥ずかしいことを、なぜ口にしたのか。
だがそれから十年経って、どう考えてもそれ以外の答えは見つからない。
とすればこれは多分、本当のことなのだ。
人間の能力は、狩猟民族時代には、腕力や脚力、視力といったものが重要だった。そうしないと獲物を捕まえることができないからだ。
狩猟時代にはおそらくその重要性を見過ごされていた能力がある。それが計画性と忍耐力だ。
農耕民族の時代に移行すると、計画性が何より重要になった。人々をまとめ、今日の獲物ではなく来年の作物を育てることに集中させること。それが知能革命と呼ばれる人類にとって最も重要な進歩だ。
つまり、何らかの革命的な変化が起きる時、それまで重要だと考えられてなかった能力が、ある日突然重要になる。
知能革命の終着点は、AIの発明にある。
俺はとっくに、ChatGPTの出すような答えを答えられないと感じている。つまり俺個人にとってのシンギュラリティは、もう始まっている。
今まで、俺は自分で言いながら、「真心と思いやり」が一体全体どのような価値を持つかよく考えてこなかった。
10年前の時点で既に予想できていたことだが、今やAIは、プログラムも書けるし、動画も生成できるし、物語も、論文も、メールも音楽もDNAさえも全て生成できる。
今こそ「真心」という、それまで経済的には全く価値や合理性がないと思われていたものに真の価値が見出されるだろう。AIがあれば、人は誰でも嘘を見抜くことができるようになる。
つまり、真心を持っているかどうか、真心の表現が豊かな人間の方が、嘘をつく人間よりも価値を高めることができる。
真心が俺たちの武器だ。
そしてそれは、君の武器でもある。