目指してた場所はそうでもなかったー国連を辞めた話
いつからだろう、国連職員になりたいと思ったのは。
たぶん、スーダンに駐在していたときだと思う。25歳だった。国連職員になった同期は子どもの頃からなりたかったという人も多く聞くので、比較的遅い方だと思う。
当時、NGO職員としてスーダンに駐在していたのだが、そこで一緒に仕事をしたのがとある国連機関だった。決して大きくはない日本のNGOで働いていた自分からすると、国連は資金力もありダイナミックな活動ができ、こんな組織で自分も働いてみたいとそのときに思うようになった。今思うと、隣の芝生は青く見えたのだと思う・・・いや、スーダンに芝生なんてないので、隣の砂漠には水があるように見えたというのが正解か。
そこからは国連職員になるためのキャリアだった。国連で働くには大学院へ行く必要があったので、まずは大学院へ行こう。国連では英語を中心に仕事をすることになるから、大学院に行くなら海外の大学院にしよう。大学院を出た後も、途上国での現場経験が積める仕事に就こう。国連では英語以外の言語もできた方がいいから、フランス語もちょっと使えそうな西アフリカに関われる仕事を選んでみたり。最終的には、国連で働きたいなら国連で働いたことがあった方がいいだろうと思い、国連でボランティアとして働けるJICA海外協力隊のポジションを狙い撃ちして受験し、某国連機関のマラウイ事務所で働く経験も積ませてもらった。
国連職員になるためのキャリアは、こうやって逆算をしていくことがすごく重要で、いつもどんな時もこのレールから外れないキャリアを選ぶことが最重要事項だった。ときにはプライベートも犠牲にしてきたし、すべてが順風満帆だったわけではないけれど、レールを真っ直ぐ進むことを戦略的にやってきたので、目指していたJPO試験には一発で合格できた。30歳のときだった。
ラオス事務所での勤務が始まった初日、何もかもにワクワクと興奮をしていた。初日からデスクやパソコンが用意されていたことには驚いたし(マラウイ事務所ではデスクとパソコンを手に入れるのに2週間かかったのだ…)、JPOとはいえボランティアではなくプロフェッショナルな職員の一人として扱われることになるので、この事務所のために貢献したいという想いに満ち溢れていた。国連職員は最初の100日間が大事!なんて言われたりもしたので、始めのうちはどんなことも何でもこなしていったし、着任して最初の3か月で自分がリードして作成したプロポーザルからファンドを獲得して新規案件形成ができたのは大きな成果だった。まさに最初の100日間で目に見える成果が出せたことが、次のモチベーションにも繋がった。
国連で働いて半年くらい経った頃、徐々に変化が訪れる。大きなきっかけは、新しい上司が着任したことだったが、その上司の影響もあってチームの雰囲気がどんどん悪くなっていった。ついには仕事を辞めるチームメンバーまで出てきて、チームは崩壊状態だった。またこの頃には事務所のいろんな人たちと関わるようになっていたが、みんなが常に組織の悪口を言っていることに気づいた。志があってこの仕事をしているみたいな人はほとんどおらず、不満ばかりが募っているが、給料が良いからとりあえず働いているみたいな人が多かった。なにより自分は、ネガティブな言葉が飛び交ったり、組織の悪口ばかりを言っているような環境が大嫌いだ。このnoteも悪口のような話ばかりが並ぶのは嫌なので、国連で働くなかで出会った嫌な出来事の詳細については触れないでおこうと思う。一言でいうと、よく聞くような国連の悪いところは実際にめちゃくちゃ存在していたなと自分は感じた。
尊敬できる上司にも出会えなかった。人の足の引っ張り合いばかりの世界を見てきた。新しいことをやろうとすればするほど「出る杭」は打たれる状態で、自分の職責のなかで大人しく仕事をすることが”あるべき姿”と言わんばかりの環境だった。自分の得意なことをずっとギュッと締め付けられている感じ。その中で最大限やれることを頑張ってきたつもりではあるが。
ラオスには「放鳥」という、仏教の功徳を積むために鳥を逃す行いがあり、そのためのスズメが道端で売られているのだが、まさに自分はこの籠に入れられたスズメのようだなと思ったりした。早く解き放たれたい。国連という旧態依然の狭い世界の中に閉じこもっている場合じゃないなと。ぶっちゃけてしまえば、国連は憧れていたほどの組織ではなかったなと。
初めの頃は、何か目に見える成果を出したい、この組織に貢献したいと思い、常に頭と足を動かしていた。でも、この組織での”あるべき姿”に気付いてからは、もっとこうした方が良いと思うアイデアが思い浮かんでも、どうせこうなる、こういうプロセスを経ないといけない、だったら動いても何もメリットはない。そんなことばかりが頭に浮かび、腰はどんどん重くなるばかり。初めの頃は行けるフィールド出張にはどんどん手を上げて行っていたけど、いつしか自分の腰は椅子から離れることもなく、ただただ大人しく最低限の仕事をこなすようになった。自分の力の10%くらいしか使えていない、日々そんな感覚だった。
このままこの組織にいたら腐ってしまう。自分自身の成長も見えない。国連での生き残り方はなんとなく見えてきたけど、そもそも「生き残る」ってなんだ。周りのインターナショナルスタッフはみんな「自分の国連でのサバイブ」の話ばかりをしている。僕らが考えるのは「今を生きることに苦しむ人たちのサバイブじゃないのか?」いつか学生時代に読んだ『世界は貧困を食いものにしている』という本のタイトルが思い出された。生き残るための仕事って何?そんなものに何の意味がある?
でも、そう思ってもこのレールから抜け出せない自分がいた。自分は自他共に認める「フッ軽」人間だが、そんな僕でも地から足が離れなかった。なぜなら、目指してた道があまりにも遠く、ここに辿り着くまでにたくさんの犠牲や投資を払ってきたから。コンコルド効果というやつか。社会人になってから貯めたお金を全部注ぎ込んで大学院にも行った。たくさんの飛行機に乗って大陸を跨ぎ”現場経験”を積んだ。英語だって学生時代は赤点しか取ったことないくらい苦手だったのに、必要に迫られて社会人になってから中学英語から必死で復習した。恥ずかしかったけど、社会人になってから「中学英語から復習!」みたいな英語本がすり減るまで勉強したし(すり減ったのは単にスーダンの過酷な環境のせいかもしれない)、さらには英語どころじゃなく、スペイン語やフランス語だってコツコツ勉強してきた。
投資だけじゃない。国連職員になるには正直犠牲も多い。仲の良い友人の結婚式に行けなかったり、親族の葬式にも間に合わなかったときもあった。こうした投資や犠牲のことを思うと、デモチベーションされ続けた環境の中でもなかなか国連を辞めるという決心がつかず、とりあえず国連職員としての”あるべき姿”を演じて、新しい仕事はなるべく作らず、与えられた職責の最低限のことだけこなしていこうとした。この頃には、大勢の前で英語でプレゼンするのも、英語資料の作成も難なくこなせるようになっていたし、こなすだけなら何も難しい仕事のない国連の仕事で、年収にしたら1,000万円以上(円安様のおかげです)、これだけの給料がもらえるのだったら、アドレナリンはまったく出ないけれど、そんな生活も別に悪くはないかなと思ったりもした。そう思うと、とりあえず日々の仕事をそこそこにこなしながら、どうやったら契約が延長できるか、次のポストに向けてひたすらアプライを続けた期間もあった。まさに”サバイブ”しようとしていたのだ。
でも、ある大きなきっかけがあった。地元の新潟に帰省したとき。「国連職員ってすごいですね」なんて言われることも多かったし、飲み会とかで「何か国語話せるんですか?」とかそんな質問に対して「そうでもないです」って答える自分に酔ってた部分もあったと思う。でも、田舎に帰って友達と話したときに思ったのだ。国連職員だろうがNGO職員だろうがボランティアだろうが関係ない。田才諒哉という人間は、「ただ海外で肌の黒い人たちと一緒に何か社会のために良いことをしている人で、たぶん井戸を掘ったりしていると」地元の友達からはそう思われている。そこに「国連職員」かどうかのステータスなんて関係ない。地元の友達は、飛行機に乗ったことすらなかった昔から今も変わらずに「田才諒哉」という人間に接してくれた。
そのとき気づいたのだ。国連職員というステータスが離せなかったんだなと。たぶんそれ以外の理由は、強いていうなら給料が良いのは確かだし、上司でも同僚でもなく、円安だけが自分のモチベーションを高めてくれる存在だけども。「国連職員」というステータスにこだわっている人間は、国連職員というキャリアのレールに乗り始めたり、隣の車線を走る同じような車両に乗っている人や、同じようなレールに乗り続けている人間だけが気にしているものなのだと。
ああ、なんでステータスがこんなにも尊いものだと勝手に思い込んでいたんだろう。きっと、この道に進んだからなんだなって。辿り着くまでが果てしなく遠かったからこそ、その道のりで無意識に尊いものになっていったのかもしれない。でも、そんなステータス、マジでどうでもいいな。そう思ったとき、自分の中でこのレールから脱線するという選択肢しか浮かばなくなった。
目指してる場所にたどり着いたが、その世界はそうでもなかったということは、実はいっぱいある。学生時代に行ったマチュピチュは、実際に自分の目で見てみると「なんだ写真と一緒じゃん」と思ってそんなに興奮しなかった。「マチュピチュが良かった!」という人の横でわざわざそんなことを言う必要もないと思ったのもあるけど、みんなが憧れるものほど否定しにくかったりするもので、今までマチュピチュを否定したことはない。
でも、これからは自分の本心に素直でいたいと思う。これからもたくさん夢や目指す場所が出てくると思うが(そうでありたいが)、目指した場所に幻滅したのであれば、正直に幻滅したっていいのだ。そういえば、当時は貧乏学生だったので高価な電車には乗れず、マチュピチュ村までは線路をひたすら4,5時間レールに沿って歩いていたことを思い出す。あの時、50リットルのバックパックを背負いながら無我夢中で目的地を目指して歩いた記憶が、国連職員までの道のりと重なる。
目指してたからこその執着があったが、その執着から抜け出してみたら自分のやりたいことがはっきりした。キャリアの敷かれたレールのしがらみからようやく解放され、籠から大空に飛び出せた気分だ。
とはいえ、このキャリアにチャレンジしたことが無駄ではなかったのは間違いない。国際機関ってもっともっとプライベートセクターやNGOが活用できる知られざるファンドが存在しているし、国連、民間、NGO、JICA、IFIなどのプロジェクトマネジメントを経験したことで、セクター連携のビッグピクチャーを描けるのは自分の最大の強みだと思うので、ここで自分の本領を自由気ままに発揮していこうと思っています。自分は「出る杭」のような人間なので、出る杭が打たれる場所ではなく、自分のような曲がって出てしまった杭を正しい方向に導いてくれるような、そんな環境で働きたいと思っています。
国連の仕事が好きというより、心のどこかで「国連職員である自分が好きだった」というのもあったと思います。別にそれでも良いとは思うんです。そういう考え方もあるかなと。でも、自分はやっぱり意味のある仕事をやれてるかが大事だなと思うので、変なプライドは捨てていこうと。
振り返るとこれまでのキャリアは「国連職員になるための」キャリアだったなあと思います。でも国連職員になるためのキャリアのなかでいろんなことが得られたので、そこには満足しています。マチュピチュには全然興奮しなかったけど、マチュピチュまでの線路を仲間と一緒に歩いたあの時間は今でも良い思い出だったりするものです。なので、国連職員になるためのキャリアを歩むことも決して悪くはないというのも本音です。
でも、これからは自分のサバイブなんて関係ない、人生を懸けて「意味のある国際協力を果たすための」キャリア、もっといえば、国連職員というすでに存在する場所へのレールに乗るのではなく、まだこの世に存在もしないような場所を目指して、自分でレールを敷きながら歩いていきたいと思います。国連職員という駅は、目指していた目的地だったのではなく、自分にとっては途中下車だったのだと。
誤解しないでほしいのは、あくまでも僕が輝ける場所ではないなと思っただけであって、国連という場で輝ける方もいらっしゃると思います。マチュピチュに感動した人もいるでしょう。素晴らしい環境で働けている国連職員の方ももちろんいらっしゃるでしょうし、一方でこの話に少なからず共感できるという国連職員の方もいるかもしれません。
とにかく今、自分はとても解放された気分です。国連職員というステータスが自分を縛り付けて苦しめていたのだなあと抜け出してみてはっきり分かった気がします。今なら何にでもなれる気分。今日はラオスの街中で鳥を買って逃してやりたいと思います。
これからの話も決まりつつあるのですが、その話はまた次回。一度、ザ・国際協力の世界からは離れてみようと思っています。最近、話題のドラクエ3のリメイク版をプレイしたのですが、転職システムって素晴らしいですね。戦士って普通は魔法が使えないのに、魔法使いから戦士に転職することで、なんと魔法が使える戦士になれちゃうという。自分も一回国際協力の世界から少し離れたところに転職することで、「魔法が使えちゃう戦士」になりたいと思っています。
僕のモットーは常にポジティブであることなのですが、このnoteではネガティブなこともたくさん並べてしまってごめんなさい。Xなど日々の発信ではポジティブを装っていましたが、国連での仕事は、ひたすらデモチベートされ続け、国際協力なんて辞めてしまおうと思うくらい、正直めちゃくちゃしんどい時間でした。暗い話は今日までにして、明日からは新しい人生を切り拓いていきます。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。