発信するということ
#検察庁法改正法案に抗議します ときゃりーぱみゅぱみゅさんが発言し、たくさんの人が「よくぞ言った!!芸能人が同調圧力に耐えて素晴らしい」と称賛した。
しかしそうではない考えの人たちは「何も知らない芸能人が発言するな!勉強してから言え!」と反発していた。それに対してよくぞ言った、と称賛した側は「歌手も市民だ、自由に発言する権利はある!」と怒ってた。おれは知ってる。
芸能人が発言しにくい理由のひとつにこいつらの存在だ。それは例えばきゃりーぱみゅぱみゅが #検察庁法改正法案に賛成します とツイートしてたら「勉強してから言え」と反発してた側は「よくぞ言った!!芸能人が同調圧力に耐えて素晴らしい!」と言い、素晴らしいと言ってた側は「何も知らない芸能人が発言するな!勉強してから言え」と言い出す。
彼らが守りたいのは言論の自由ではない、彼らが守りたいのは自分の側からみた正義だ。今回もだからみんな発言したがらない。 今回も #検察庁法改正法案に抗議します とツイートした芸能人に対して「バカのくせに」「何も知らないくせに」「影響力の強いやつが無責任なことを言うな」と大バッシングが飛んできた。
リストを作った人がいたらしい。「政権に反対する芸能人をチェックしましたよ」という脅しみたいなことだろう。
ただそれで発言しないのは民主主義の放棄だ。もちろん民主主義は発言だけじゃない。
おれの好きな男に西部邁という社会学者のじいさんがいた。彼とは対談で一度飲ませてもらった。彼は著名な学者だが選挙に一度も行ったことがないと言う。
そのせいで選挙に行ってないやつが発言するなと言われるらしい。だけど彼は言う、僕は常に発言してる。と。
発言をするだけでも政治参加してるんだと。おれは政治参加という言葉は日本では少しパンチが強いので「民主主義参加」と言う。世界には民主主義が欲しくても手に入らない国が多い。発言すらできない国もある。
国民は自分で選べない。「民主主義の木」を育てるにはまず土である空気を作ることだと思う。いまの日本は発言するとバカはしゃべるな勉強してからしゃべれ、と罵声が飛んでくる。
おれも過去に一度、それでしゃべらない方がいいのかな、と思ったことがあるけど、その時、有名な専門家と言われてる人たちを調べたら全員が「勉強してから言え」と罵られていた。
だから知ってる人などいない。「知らないから黙ろう」は民主主義の放棄だ。
黙る空気は民主主義の木を枯れさせる。放棄した民主主義は放置され腐らし取り上げられて、独裁政権が完成する。 黙れというやつもそれで黙るやつも、腐らせることに参加している。独裁国家がお似合いだ。
この国に足りないもの。それは自分の意見の主張だ。発言することから考えが始まる。調べることが始まる。選ぶことが始まる。
ローラさんが沖縄の辺野古の自然に発言した時、オーストラリアの火災について発言した時、きゃりーぱみゅぱみゅさんが今回の検察庁法に発言した時、水原希子さんが在日について発言した時、それは多くの若者達に届き、関心を持ち、考えるということをさせる。
その時は考えなくても、テレビで辺野古のニュース、オーストラリアの火災のニュース、検察庁法のニュース、在日朝鮮のヘイトスピーチのニュースをみた若者達がそれまではチャンネルを変えていたところを、彼女達が言っていたな、と手を止める。そこからその若い子達は考え始める。
おれの好きなウッディアレンの映画「女と男の観覧車」の中で言葉でこんな言葉がある。「無知は罪ではない、たまたま縁がなかっただけさ」と。ある若い女の子がエリートの大学生と恋に落ち彼から紹介してもらった本を手に取り、授業で読んだけど、わたしはバカだから読めなかった、と言う。そこでその大学生が言った一言だ。
その本を授業で先生から薦められてても読めなかった。でも好きな人から渡されたら知ろうとする。雑誌の表紙を飾るような彼女たちは沢山の同世代から愛されてる。若い彼女たちにも「知らないから黙っとこう」て人はいる。そんな時、大好きなスターの彼女たちが発言してることは知りたくなる、スターの彼女たちが発信すると言うことはそういうことだ。
雑誌の表紙になぜ、そんなスターを起用するのか。それはその雑誌を手に取らせるためだ。車の雑誌にも週刊誌、表紙は美女のグラビアだ。車に興味がなくてもそれらを手に取る。彼女達はきっかけだ。環境問題、差別問題などの社会問題も彼女達が発信するということはその問題の表紙になってるということ。
この前、おれが定期的にやってる「zoomの独演会」で青森県六ヶ所村の話をした。この村には日本中の原発で出た核のゴミが集まる。それをzoom独演会でネタにた。「あの村は核のゴミが受け取ることによって国からお金をもらい潤ってる」とだけしゃべった。大して調べずニュースで見たものをただイメージで発信した。いまで言うところの「知らないくせに知ったかぶりして発信した」
するとおれのその独演会をニューヨークから見てくれてた音楽家の坂本龍一さんからライブ終わりにメールが届き『六ヶ所村になぜ核のゴミが集められるか、地元の住人がどんな思いで反対運動をしてきたか』を説明された。そしてこれもいいきっかけだからこの本を読んだ方がいいと「六ヶ所村の記憶」という当時のことを書いた本を紹介された。
おれは無責任に発言したことがすこし恥ずかった。でも発言したおかげで坂本さんが教えてくれた。そしてその本を買った。ちゃんと読めるかはわからないけど六ヶ所村のことを前よりも少しでもわかるかもしれない。
もちろん坂本さんは、「勉強してからしゃべれ」なんて言葉は使わず丁寧にメールをくれた、これが知との縁だ。無知は縁がなかっただけ。それだけでしかない。
「恥ずかしい」なんて思わなくていい。間違えは次、知るきっかけを作ってくれる。そして恥ずかしいと思ってしまうと何も発せなくなってしまう。「こんなことも知らないのか」とバカにされるから話すのやめよう、その話題は避けよう」となってしまう。
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