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理想論とリアリスト

先日『Happyend』という映画を観ました。これが中々の良作だったのでもしかしたらレビュー記事を書くかもしれませんが、ひとまず今回はこの映画のテーマにも通じる「とある考え方」について語りたいと思います。

それは、LGBT界隈にいると一度は目にするであろう

「ゲイだけど今の社会で十分満足」

といったもの。

正直、この手の発言は今まで腐る程見てきたので特に新鮮味はないのだが、選挙も近いことだし、せっかくこのプラットフォームに自分の思いを書き留めることにしたのだから、この辺の話題について少し掘り下げてみたいと思います。
単なる個人の嗜好の話だったらわざわざ気にもとめないし、もちろんそういう価値観を持った人達の人格を否定をするつもりはないです。1つの意見ではある。ただこれは「人権」が関わってくることなので「一個人の気持ち」で片付けられることでもないでしょう。

その発言自体に問題はないように映る。うん、実際のところ問題はありません。他人の幸せの基準にとやかく言うなどお前何様だといった感じなので。
ただ、こういうこと言ってる人を見かける度に僕は身構えます。なぜなら、この手の発言をする人達は「自分は今の社会で幸せだ〜」から入り、「同性婚とかいらない」へと流れ、最終的には「この社会で不満を感じる人とかいるんだ。基本的人権さえあれば良いじゃん」という着地をするきらいがあるからです。
長年ゲイとしてリアル/ネットに入り浸っている自分の肌感覚的には、「性的マイノリティ100人に数人程度の意見」といったレベルではなく割と過半数の支持を得ている気がしています。巷で囁かれている「現代の若者が新自由主義的な価値観に染まり始めている」というものの一例だなと感じざるを得ないですね。
昨今「何事も文句を言わず耐え忍ぶのが美徳」といた昭和的価値観を疑問視する声が多くなってきたとはいうものの、この考え方もやはり根底の部分では深層心理といった感じでちょいちょい顔を覗かせてきます。

こういう時一様に「基本的人権」を持ち出すのも興味深いですよね。
そういった思考プロセスから察するに、LGBTの法整備は基本的人権に直結している話という点をあまり理解していないよう…。

前記事で僕は「数十年前と比べたらLGBTの状況(少なくとも僕みたいな"ゲイ"にとっては)は良くなっている」と、わざわざ強調し"ゲイの自分"と書きました。
それはつまり、ゲイの自分にとってはある程度生きやすい社会になってきてるけど、他のマイノリティ(特にトランスジェンダー)にとっては全然だよね、という意味。ついでに言っておくと、トランスジェンダーに纏わる議論に関してはかなり複雑で慎重に扱うべきことなので、付け焼き刃程度の知識で意見するのはオススメしません。ある程度国内外のコミュニティで議論されている内容に精通しており、差別主義者のレトリック等を頭に入れておかないと、デマに騙されたり単なる手垢まみれのヘイトスピーチを露呈してしまう可能性があります。
話を戻すと、LGBT=ゲイではありません。ゲイがLGBTメディアを支配してしまった結果、他のセクシュアリティやジェンダーが透明化されてしまっているという現状です。

そもそも、LGBTの法整備=同性婚という認識を持っている人が大多数でしょうが、そんな単純な話でもないですよね。例えば日本には性的マイノリティに対する差別を厳しく取り締まる法律がない。LGBT理解促進なんちゃらたる、差別の禁止規定や罰則がない「仲良くしましょうね〜」といった忌まわしき道徳的な理念法のみ。実効性が無い、中途半端、という点では地方自治体に丸投げしている人種に対するヘイトスピーチ法も同じでしょう。
つまり、今の平等ではない法のもと尊厳を持って生きる権利すら保障されていないという状況では、我々性的マイノリティは基本的人権を完全に享受しているとは言えません。

ここまで僕が「同性婚したくてたまらない人」のように映っているかもしれないが、そんなこたぁないです。むしろ、結婚することで特典が増えるよ!という世の中を見てると結婚制度自体が馬鹿らしいと感じることもあります。
ここで指摘していることは、マジョリティのように「結婚したいからする。結婚したくないからしない。」という選択が性的マイノリティには与えられていないのが問題、ということです。
同性婚したいのに出来ず、ヘイトスピーチを受けても法的に裁かれづらいため泣き寝入りするしかない被害者もいる。そういうのが解消されるべきとは思わないのでしょうか。

言ってしまえば、僕らゲイは性的マイノリティの中では「マジョリティ」の部類に入る。その影に隠れてより酷い被害を被っている人達もいるんだよ、と。それに、同じゲイでも、僕より恵まれた/幸せな人もいれば、僕には想像もつかないほど酷い待遇を受け、中には自死を選択した人もいます。
直近だって「特定生殖補助医療法案」という法律婚以外のカップルに差別的な法案が国会に提出される〜みたいな話が飛び込んできている始末です。
自分が直接的な影響を受けていない事柄に対して無関心になるのは人間として至って普通なことではあるでしょう。
とはいえ、「ゲイだけど幸せ。だから法整備いらない」ということは所詮「自分さえ良ければいい」でしかないですよね。そこで「社会運動をする人」を冷笑してしまうのは不誠実と言わざるを得ません。興味無いのは勝手だが茶化して邪魔するなんて言語道断。

法整備を進めて同性婚が認められ、ヘイトスピーチをより厳しく取り締まる法律が可決された瞬間から社会から偏見や差別がなくなり格段に生きやすくなる…なんて1ミリも思っていません。
だからそんなユートピアは世界一のLGBTフレンドリー国家と言われているオランダや北欧諸国でも実現できていないんですよ。
寧ろ僕は、同性婚が認められることで「これでもうLGBTに対する差別は無くなった!」という恐ろしく誤った認知の広がりが加速するのではないかと既に危惧しています。社会に存在するスティグマというものはそう簡単になくならないのにね。その点は僕もリアリストかもしれない。

だからって、「声を上げたって変わらない」「選挙行ったって変わらない」という態度は幼稚すぎやしませんかと思います。民主主義国家に住んでいる身なら、選挙はもちろん人権や平等を求めるのも責任の1つです。個人間の営みが積み重なり、社会というもっと大きな枠組みへの変化に繋がるので。それが民主主義社会の本来あるべき姿ではないでしょうか。

LGBTの話題に限ったことではないが、「正しくあり続けようとする姿勢」を失ってはもう我々に何が残るのでしょう。安全圏から「意識高い」「正義の暴走だ」と揶揄することが、リアリストでカッコいいとなってしまってはもう色々おしまいだと思います。「悪の暴走」が野放しになるほうがヤバい。
そもそも最近は「正義」という言葉が独り歩きしすぎて本質を失っている感じがしてしまっている状況にも違和感。「いけ好かない意見=正義の暴走」とまで成り下がっていますし。

現代の我々にとって「女性に参政権がある」というのは常識だが、100年ほど前は"異質な考え"として認知されていた、ってのは周知の事実でしょう。長い時間を掛けて社会認識というものは変わります。
基本的人権だって、一要因として遠い昔にフランス人が騒ぎまくってくれたから「人権」という概念が広がったんだよっていう。
故に、法律上認めるというのは地位向上の第一歩で、ある種スタートラインに立つようなものではないでしょうか。そのような理想論を掲げて積極的に行動してきてくれた人達のおかげで「比較的生きやすい今がある」ということを理解するのってそんな難しい?と思います。その背景には不断の努力があるのです。

「自分は十分幸せだ」と感じているなら、とても素晴らしいことだと思います。そこに僕みたいな他人があれやこれやと口を挟む権利ありません。
ただ、もちろんそれは裏を返せば「現状に満足していない人、苦労している人」そして「それを打破しようとしている人」を冷笑したり否定する資格も当然無いということです。そんな行為、公正世界仮説以外の何物でもないので。典型的な誤謬。
苦労している人の気持ちをinvalidateする(無効にする)というのは"ガスライティング"という心理学的にも大変マズイ行為です。ましてやそれが社会構造によって生じているならば余計そうですね。

最初の記事でも再三申しているように、「社会に異議を唱える人を冷笑したくなる心理」というのは、この社会に浸透した風潮がそうさせるのであってマイノリティ側の問題とは言い切れないから難しい話ではあります。そこが厄介。
「マイノリティが社会の不満を言って、社会運動に繋げる」というのが"当然の権利"と認識される世の中なら、そもそもこんなふうにマイノリティ内の対立など起きないでしょうから。

自分はゲイだからって日常的に酷い扱いを受けているわけでもないし、結婚したい気持ちもないし、カミングアウトしてopenly gayとして生活したいという気持ちすら別にないです。
ただ、性的マイノリティが所以で結婚したいのに出来なかったり、不当な扱いを受けている人は現実世界に存在します。そういう人達のためにも基本的な法整備を求めているのです。人権が絡む問題は「自分は幸せだから」という個人の裁量で判断することではないです。人権を道徳の延長線上にあるものと考えていてはダメだと思います。
そもそも同性婚の話に限っては、多くの人間が反対しているわけではないのに、それを実現しようとしている人たちに対して冷ややかな目を向けるのが意味不明。その権利は静かにしてれば突如として空から降ってくるんだったら話は別だが、実際はそうじゃないですから。
それに、僕のこの「カミングアウトして生活したいという気持ちはない」というのだって、本当は自分のアイデンティティ隠さないでいるほうが生活の質はあがるかもしれないのに「カミングアウト=大変」と脳内に刷り込まれているから無意識で「カミングアウトしなくたって生きていける」と強がっているだけかもしれないですし。だって、「変な目で見られることは100%無いという理想的な世界」なら何も考えず「あ、僕ゲイなんだ〜」と言ってるでしょうから。

要するに性的マイノリティには同性婚が認められたとしても根深い偏見の問題だったり、カミングアウトの問題だったり、身なりの問題だったり、マジョリティには無縁の問題がまだまだ多いのです。
渋谷スクランブル交差点以上に激混みしている横浜のクリスマスマーケットに行って軽く1000組ぐらいカップルとすれ違ったのに一組も同性カップルらしきカップルに出くわさなかった…みたいな現状だが(体験談)、100年後、「昔は男同士で手を繋いで歩いていると変な目で見られたんだって〜ヤバイよね〜」と言われるようになることを目指そうとするのは「意識高い」「非現実的で理想論」と冷笑に値してしまうのでしょうか?
「まずは法が存在を認めてスタートラインに立とうぜ、話はそこからだ」ということです。大前提の法律が認めてくれないようでは話は一向に進みません。それゆえ、法整備は第一のステップとして大事だ、としつこいぐらい主張していく必要があります。

先述したように、今月には衆院選も控えていますね。一体当記事で取り上げたような価値観を持っている人達の何割が有権者としての自覚を持ち、各政党や自分の選挙区の立候補者を調べ、自分たちの存在を否定する人達にNOと突きつけるのでしょうか。
僕自身、日常的に社会問題や政治に対して発信/活動しているのかと言われたらそうではありません。ただ、選挙は当然行きますし、社会意識は持つようにしています。「難しいこと考えずのほほ〜んと生活するほうが幸せ」となり、自分達が生きている社会に対して思考放棄したり学ぼうとする姿勢を捨ててしまうどころか、理想を目指す人達に対し冷笑的な態度をとることだけは避けたいのです。
むしろ僕的には「自分がゲイだから」というより、「無関心な人の多さ」に対してやるせなさというか、疲労感を覚えます。無関心だけならまだしも、その矛先はこちらに向かうことが往々にしてあるので。
こういうこと言うと「違う意見を認めるのも多様性」とかいう声が聞こえてきそうですが、これは多様性以前に個人の尊厳の話。そもそも多様性は人権なしには語れないことです。その辺りを正しく認識する必要があります。
このように社会の在り方や我々の責任をいくら説いても「個人の趣味嗜好の話」「押し付けるな」と思ってしまうなら、もう説得なぞ到底不可能だと感じます。今からでも『虎に翼』を学校教材に取り入れて欲しい。

長々と語りましたが、締めとして以前見かけたとある人の言葉を拝借させてもらうと、

Historically, in-your-face activism was the only thing that ever worked for marginalized groups.
=歴史上、しつこく目障りな社会運動こそが社会的に排除されてきた人達にとって最も効果があった。

その通り過ぎて顔面にこのフレーズの入れ墨でも彫っておきたいぐらい。


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