逆説の光、アイドルの条件 「トラペジウム」について

予想以上に面白い映画だった。
画面は綺麗だったし、演出も気がきいていたし、何より星街すいせいのOPが良かった。
94分という時間にコンパクトに収めた構成も綺麗だったように思う。
一方で、相当に不愉快な話でもあり、とりわけ冷酷なラストシーンには最悪の後味が残った。この作品を猛烈に嫌う人がいるのも理解できる。ただ、映画自体はこの残酷さにある程度自覚的だったようにも思う。おそらく、この残酷さこそがアイドルの条件なのだ。

アイドルというイデオロギー

 本作の主人公は、東ゆうというアイドル志望の少女である。彼女に対する評価は現在、真っ二つに割れている。擁護のしようがないサイコパスか、あるいは行動力にあふれた等身大の主人公か?
 このように評価が分かれる原因の一つは、本作の語りの構造にある。この映画では、「東ゆうが意図していること」「東ゆうが実際に行ったこと」「東ゆうの行動がもたらした結果」がそれぞれ別のものとして、少しずつずらされた形で観客に提示される。そして、そのずれこそが、本作のストーリーを成立させているのである。
 「意図していること」のレベルでは、東ゆうはどうしようもないクズである。アイドルになるという夢を叶えるためだけに他人に近づき、あらゆる嘘を駆使して取り入り、友人が増えるたびに一つずつ指を折る。他人を(車椅子に乗ったアイドル志望の少女でさえ)道具としてしか見ておらず、不要と感じれば切り捨てる。自分のせいで他人が傷つこうがお構いなしの、きわめて身勝手で冷酷な人間である。
 一方、「行ったこと」のレベルでは、東ゆうは年相応の凡庸な少女である。実際の行動のレベルでは、彼女はあまり大したことをしていない。知らない学校に行って友達を作り、(意図はどうあれ)他人の夢に手を貸す一方で、自分の夢が絡むと身勝手に振る舞うこともある。作中人物の目から見た彼女は、気分屋だがそれなりに親切で行動力があり、多分アイドルに憧れていて、「たまたま」転がり込んできたチャンスに夢中になって周囲の友人を蔑ろにしてしまったが、後にそれをきちんと謝れる人物なのであり、要するに「普通」の十五歳なのだ。
 そして「行動がもたらした結果」のレベルにおいては、彼女は(東西南北のメンバーにとっての)救世主である。大河くるみの初めての友人で、内向的だった彼女の世界を広げてくれた恩人である。何一つ他人の役に立てないと思っていた華鳥蘭子を救い、自信を与え、世界へ羽ばたくきっかけを与えた恩人である。いじめに遭っていた亀井美嘉にただ一人声をかけ、希望を与えた恩人である。そして工藤真司が写す世界を肯定し、彼が写真家として大成するきっかけを与えた恩人でもある。
 もちろん、これらの全ては東ゆうが意図したことでは全くない。また、東ゆうは自身の「行為」のレベルにおいては謝罪している(例えば亀井美嘉に対する暴言や、アイドルデビューをきっかけに仲間の気持ちを次第に蔑ろにしてしまったことなど)が、「意図」のレベルにおいては最後まで真実を明かすことなく終わっている。本作のグロテスクさは、東ゆうの極めて身勝手な意図から生まれた行動が、結果的に他者に救いを与えていること、救われた他者がそれによって東ゆうに恩義を感じていること、それによって大団円のハッピーエンドが強制的にもたらされていることにある。
 意図に反したハッピーエンドほど、居心地の悪いものはない。実際、物語の終盤で西南北の三人が東ゆうに一人ずつ感謝の言葉を述べるシーンは、TV版エヴァ最終回の「おめでとう」にも似た不気味さがあった。だが、東ゆうはこのハッピーエンドをベタに享受し、10年後の未来で「夢を叶えた私」を讃えて物語を終える。こうした彼女の態度を不愉快に感じた観客は少なくないだろう。「意図」のレベルでは冷酷で身勝手なはずの人間が、「結果」としては他者に救いをもたらす善人として描かれることの矛盾。その気持ち悪さに対して、東ゆうという語り手はあまりにも鈍感だ。なぜだろうか?
 「東ゆうがアイドルだから」が、おそらくはその答えである。アイドルは他人を救おうとして救うのではない。アイドルの輝きに触れたファンの側が勝手に救われるのでなければならない。アイドルというイデオロギーにおいて、「意図」と「結果」が食い違うことはむしろ当然なのだ。アイドルは自分の夢のためだけに歌い、踊るからこそ光る。そして、その輝きは本人の意図とはまったく関係ないところで、他者に救いをもたらすのである。

ご都合主義のディストピア

 ところが、東ゆうはアイドルではない。本作の語り手である(ことがラストでわかる)25歳の東ゆうはアイドルだが、15歳の時点では彼女はただの凡庸な女子高生である。そのため、この物語はおそろしくご都合主義的な設定・展開の鶴瓶打ちとならざるを得ない。
 初めてアイドルの世界に足を踏み入れたとき、彼女は次のような台詞を口にする。「何もかもがあらかじめ用意されていて、全てがそれに沿って進んでいった」と。これは「トラペジウム」という作品世界そのものである。ここでは、何もかもが東ゆうのために用意されている。あまりに現実離れした華鳥蘭子や大河くるみのキャラクターも、亀井美嘉の悲痛な過去も、どこまでも優しく理解に溢れた母親も、彼女にアイドル衣装を手渡すためだけに(アイドルになりたいという彼女の夢を正当化する道具として)存在する車椅子の少女も、知り合ったばかりの素人に番組を任せる崖っぷちADも、全てが彼女のために用意された、ご都合主義的な舞台装置である。
 この世界においては、失敗すらも成功の前振りに過ぎない。ほど良い挫折は成長のスパイスである。東西南北の解散でさえ、東ゆうが真のアイドルになるための踏み台に過ぎない。彼女が真の意味で取り返しのつかない挫折を経験することはない。西南北の三人は、東ゆうを赦すことをはじめから運命づけられている。なぜなら、そのように設計され、用意されたキャラクターだからである。
 もちろん、東ゆうは何も悪くない。大河くるみに友達がいないのは彼女のせいではないし、部活で最弱の華鳥蘭子と試合をすることになったのは全くの偶然である。彼女が亀井美嘉をいじめていたわけではないし、車椅子の少女の両足を切り落としたわけでもない。TVデビューの話は崖っぷちADが偶然持ち込んできただけで彼女が頼み込んだわけではなく、アイドルデビューに際して乗り気でなかったくるみを説得したのは彼女ではなく蘭子だ。美嘉に彼氏と別れるよう命じたのも、彼女ではなく事務所のPである。「トラぺジウム」という作品は、東ゆうを黒幕として一見露悪的に描きながらも、彼女が実際の責任を負うことがないように細心の注意を払っている。だから、東ゆうは悪くない。なぜなら、全てはそのように準備されていたのであり、それに沿って物事が進んだだけなのだから。
 東ゆうは決して常識外れのサイコパスなどではなく、幼稚で平凡でエゴイスティックな等身大の15歳である。問題は、誰もが都合の良いキャラクターとして存在せざるを得ない世界の中で、唯一彼女だけが等身大の「人間」であることを許されている、という点にある。それが「トラぺジウム」という作品が東ゆうに与えている特権性なのだ。
 言うなれば、これは裏返った「トゥルーマン・ショー」の世界だと言える。トゥルーマン・ショーが限りなく現実に近い舞台装置の物語であるとするなら、「トラぺジウム」は現実の世界を舞台装置化する。その中心で「人間」として存在することを許されているのは、東ゆうただ一人である。
 オープニング映像の終盤に、彼女がアイドルを目指すきっかけになった「輝いている」アイドルのシルエットが登場するのだが、この人物は映画の終盤に登場する25歳の(アイドル になった)東ゆうに酷似している。本作はつまり、アイドルである東ゆうが少女時代の東ゆうにアイドルを目指させる(あるいは少女時代の東ゆうが未来の自分の姿に憧れてそれを目指す)という、極めて自己完結的な性格を有している。作中ではアイドル業界のメタファーとして何度も列車が登場するが、この「トラぺジウム」という作品世界自体が、巨大な一つの列車なのだ。全てが終着駅に向かうためだけに用意され、誰もそこから降りることはできない。列車の向かう先はただ一つ、本作の語り手であるアイドル、「夢を叶えた東ゆう」の元なのである。

トラぺジウム

 一方で、東ゆうと行動を共にしているにもかかわらず、一度も列車に乗ることのない人物が存在する。写真好きの男子高校生、工藤真司である。彼はこの物語において特異な立ち位置を与えられており、東ゆうの「意図」を知りながら協力している、いわば共犯者である。(例えば、彼は同級生の大河くるみを売ることで、東ゆうと繋がるきっかけを手に入れる)。
 実のところ、プロットのレベルにおいては、彼はほとんど物語に貢献しない。せいぜいが、くるみとゆうが知り合うきっかけを作ったこと、くるみの写真を彼女に提供したことくらいである。にもかかわらず、彼だけが東ゆうの「意図」を知り、隣を歩くことを許されている。これはなぜか。
 彼は星空の美しさに魅せられた写真家である。言うまでもなく、ここでは星の光がアイドルの輝き(人間って光るんだ)に重ねられている。二人は星の美しさについて触れながら「光っているものはなぜ綺麗なのか」と問う。
 ここで重要なのは、あくまで二人が「星の光」について語っているということだ。星々よりも遥かに強く輝き、世界を照らす太陽について、それが「綺麗」と言及されることはない。
 星の光が綺麗なのは、夜空が暗いからである。太陽が全てを照らす昼の世界で、星が輝くことはない。星の光は夜空を決して照らさない。地上に生きる我々
に光を与えることはしない。自分以外の何ものも照らすことがないからこそ、その冷酷さゆえに、星の光は美しいのだ。工藤真司は、東ゆうの冷酷さがその美しさと不可分であることを理解しているただ一人の人間であり、それゆえにこの作品において特権的な立ち位置を与えられている。
 彼はカメラマンという設定でありながら、「東西南北(仮)」の写真を撮るわけではない。東ゆうのプロデュース計画をそのカメラでサポートするわけではない。(登山ボランティアのカメラマンを買って出る彼に対して、東ゆうはすでに別のプロがいることを冷たく告げる)。代わりに彼が撮るのは、くるみの文化祭を訪れた4人の写真、「10年後のあなたたち」と題された写真である。
 重要なのは、この写真が四人の準備が整う前に撮られた、不意打ちの写真であるということだ。ここに写っているのは、カメラを意識していない東ゆうの姿であり、その友人たちである。楽しそうに、自然な表情ではしゃぐ少女たちの笑顔……、そこには一つの真実が宿っている。(東ゆうの意図に反して)この四人が本当の親友であるという真実である。東ゆう自身は(少なくともこの時点において)三人に友情を感じていないし、親友だとも思っていない。にもかかわらず、“本当は“親友なのである。真実はときに主観ではなく、客観の形で与えられる。そして、工藤真司のカメラはその真実をとらえることができる。だからこそ、この物語は彼が撮った「10年後のあなたたち」を提示し、「トラぺジウム=四重星」というタイトルを繰り返すことで終わるのだ。わたしたちは本当に親友だった、わたしは本当に輝いていたのだ、と噛み締めながら。
 だが、これで全てではない。
 この写真には四人ではなく五人の少女が写っている。東ゆう、華鳥蘭子、大河くるみ、亀井美嘉、そして水野サチ。アイドルになる夢を諦め、ゆうにその衣装を手渡した車椅子の少女である。東ゆうが着ているアイドル衣装は、本来彼女が着るはずだったものだ。だが、映画のラストシーンにサチの姿はない。彼女たちは、五人が写った写真を四人で見ている。その場にいない五人目について、彼女たちは不自然なほどに何も言わない。そして、東ゆうは最後のモノローグを口にする。「夢を叶えることの喜びは、叶えた人にしかわからない」。アイドルになる夢を諦めた少女、その夢を他人に託さざるを得なかった少女の姿を見ながらこの台詞を口にするとき、東ゆうという人物の冷酷さは頂点に達する。
 列車に乗ること/降りることの意味を強調し、自分の足で歩くことの重要性に着地する(映画のラストで、インタビュー会場から写真展までの道のりを駆け抜けていく東ゆうの姿が、これをよく物語っている)物語の中で、けっして降りることのできない車椅子がどのような意味を持つのか。その小さな義足にどのような意味を与えてしまっているのか。そこにあったはずの哀しみに、悔しさに、絶望に、東ゆうは最後まで目を向けない。工藤真司のカメラは、彼女の本当の輝きを伝えるのと同時に、その冷酷さを告発してもいる。だが、この作品において、両者は決して矛盾せず、むしろ不可分なものである。冷酷さゆえに輝くこと。それこそが、アイドルの条件だからである。

逆説の光

 東ゆう以外の三人は、それぞれの理由でアイドルに向いておらず、ゆえに「東西南北(仮)」は道半ばで解散する。三人はアイドルにとって最も重要な条件を満たしていなかったのだ。これはつまり、彼女たちを抜擢した東ゆう自身にも、その条件がわかっていなかったことを意味している。

 大河くるみはアイドルに向いていない。なぜなら、彼女は自分の存在が他者に影響を及ぼすことを恐れている人物だからである。

 亀井美嘉はアイドルに向いていない。なぜなら、彼女は自分の身近な人間に特別な愛情を向けてしまう人物だからである。

 華鳥蘭子はアイドルに向いていない。なぜなら、彼女は世界中の人間に平等な愛を注いでしまう人物だからである。

 東ゆうは、三人の誰とも違っている。亀井美嘉のように特別な相手を持つことはなく、華鳥蘭子のように全ての人間を愛しているわけではない。その反対に、彼女は誰のことも愛せないし、愛さない。自分の夢だけを追い続けている、どこまでも身勝手な人間だ。だが一方で、大河くるみのように自分の存在が他者に影響を与えることに恐怖を感じたりはせず、むしろ影響を与えたいと積極的に願っている。「アイドルは大勢の人を笑顔にできるんだよ」という台詞は彼女の本心だ。けれど、重要なのは「笑顔にできる」というところであって、「笑顔にしたい」とは一言も言っていない。彼女は他人を笑顔にしたいなどとは欠片も思っていないが、けれど他人が笑顔になることを信じている。これこそが、アイドルの条件である。

 「トラぺジウム」が提示するアイドルとは、だから究極のエゴイストである。映画の最後で、東ゆうはアイドルとして完成する。自分を含めた全ての人間を愛せなかった少女は、けれど物語を通じて成長し、ただ一人自分だけは愛せるようになる。映画を締めくくる最後の台詞「ありがとう、昔のわたし」はそのようなものとして読まれるべきだろう。
 誰のことも愛さず、ただ自分の夢だけを追い求めるエゴイストが、にもかかわらず、だからこそ輝き、他者の救いになること。アイドルとは、その逆説が放つ孤独な光なのである。



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