梅が咲いてきた / J-POPの未来
酒屋にいったおりに「そういえば昨日、梅についての日記を書こうと思ったのだった」と思い出した。梅酒王を見ている時だったか。
今年の冬はまだあったかくて紅葉がまだ残ってる 。むしろいま見頃といえるのと対照するように、寒い2月が時季な印象の梅が咲こうとしている。あるいは、まだあったかいがゆえに例年より早く梅が色づいたのか。鉢植えの梅はこの時期からつぼみが色づいて来るけれど街路樹の梅が咲くのは2月頃の印象で。まあそれも種類に依るのか。
例年梅の鉢植えを買い求めるようにしている。今年も買おうかと思っているのだけれど、去年に買ってベランダで世話してきた梅の蕾が意外と色づいてきてるのでどうしようか少し迷っている。剪定もせずてけとーに水だけやってきたので半ば諦めてたのだけど。
酒屋には雪中梅の本醸造を買いに行った。店に入る前は720mlでいいかと思っていたのに酒瓶をみてるうちに「熱燗にするならけっこう飲むだろ」→「一升瓶のほうがよい」ように思って次の機会にすることにした。自転車で行ってたので。代わりに大雪渓の酒粕1kgを買って帰る。600円。
この時期、というか梅の時期にかけては梅酒王を一升瓶で購入してるのだけどけっこう余るし、今年は雪中梅のほうを一升瓶で購入するなら梅酒王は720mlでよいかもしれない。ちなみに梅酒王は梅酒のなかでもかなりおいしく、あらごしな梅な感じが楽しめるのでおすすめ。
あとは靴買って帰った。バイトでボロボロになってゴム底がやぶけて直接靴下に触れる穴まで開いてたので。そこまで履きつぶすことも珍しいのだけど、あらためてあのバイトは靴が減るなあ、とか。
そんなにきっちりとしたものでもなければ2,3千円で買えるものだなあとか思いつつ。
クリスマスが近い+祝日ということもあってケーキ屋とかケンタッキーとかがけっこう行列。ダイソーなんかもけっこう混んでる。クリスマス飾りを購入するためらしい。
そんなこんなで買い物とか図書館いってるうちに午前は過ぎ、午後もあっという間に過ぎていた。「なんでこんなになにもしてないのに時間経つの早かったんだろ?特にダラダラしたわけでもないのに」と振り返るに午前と午後にちょっと寝てた。まあ疲れが溜まってる → 休日はそれを解消するためにあるのだから良いのだけど。図書館本も今回は10冊、積ん読や積ん録、アマゾンプライムビデオで無料なものとかコンテンツもいろいろ溜まってるのでどんどん消化して行きたく。。
朝に見た記事で気になったもの2つ。
前者について、自分がKindle経由で昨日購入した99円の川瀬巴水ももしかしたらこういうものだったのかなあ、とか。そういやKindleブラウズしてるときにそういった「かわいい女子画像集」みたいなのみかけて「(´・ω`・)こんなのいつも『ガールズ百景』← Tumblr でやってる程度のものじゃん」て想ったのだけど、まあ慣れてない人、チャンネルが見つけにくい - tuneしにくいひとには便利なのだろうこんな感じでセットされてると。
自分のそれもなんだったらそういうことできるのだろうなあとか思うも、特にあれでお金儲けしようという気もなく、たんにTumblrでリブログしたものの代謝的に排出 → シェアしてるだけなので。まあでもあれも「編集してる」という点は少しはあるのか。大部分は他人の著作人格権や肖像権だけど。
バーサ・ラムのKindleはないのでナンダッタラそういうのでシェアできる / 有益 / お金もらって然るべき、かもしれないけど権利交渉とかめんどくさそうなのでこれもスルーで。
そいや、こういう「他人の著作物を無断で使用してうんたら」関連で石花さんもなんかなってたなあとか、ついったの仲の良い人も勝手に使用されてうんたらなってたなあ。ああいうのはお金の問題というのもあるけど実際にやられてみると「勝手にみょーな文脈で使われて気分が悪い」というのが大きいのかもしれない。そうすると自分なんかもそういうので不快に思われる場面もあるのかなあとか想ったりする。まああまり派手にやらなければ良いかな。
そういえば2つ目の記事、日本のポップミュージックの音景関連も「複製コストゼロ」時代な影響つながりといえるかもしれない。
違法ダウンロードとコピーの問題は以前から言われてきたけど、リミックスや受容の自由度が高まることでユーザーの体験、コンテンツの選び方が以前とは変わってきてる、という話。
2000年より以前には生じていた。
「誰がエロを殺すのか」自体は「誰が音楽を殺すのか」からの本歌取り的タイトルなので共通した話にはなるだろうけど。
この本はそのうち読もうとおもいつつ。
全体の現象としては「複製コストゼロ」→「複製、あるいはそれに連なる編集技術の簡易化」があり、それが配給や販路方面でもスマート化が進んだということなのだろう。
基本的には「従来のコンテンツ製作者、あるいは、中継ぎ的なものは弱まり、ディストリビューターがより強くなる」という10年前の未来予想図に従っている。
そこにマルチチュード的なプロシューマーがもうすこし絡んできた、程度だろうか。
構図全体を捉える視点としては、全体の構造、それに関わるキー要素になるようなコマの性格・機能自体はそんなに変わらない / ただ、みょーに速くなってる、て感じで「機械化がすすみ電撃戦になっていった」て戦術・戦術論のあれと似てるぽい。「点や線から面へ」というところでも。そういった文脈からアナロジーして考察するとちょうどよいのかもしれない。
ユーザーエクスペリエンス的には「こんな感じでストリーミングですべての曲を簡易に聴けるようになるとをプレイリストをつくってうp / シェアしたくなる」というのがあるみたい。
それが簡易な自己表現として機能してる(自身の編集センスを「表現する」)ところもあるのだろうけど、なんとなくデータベース化(コジェーヴ → 東)と近代的なまなざしの内面化(cf.フーコー)的な文脈も想ったり。
まあこのへんも現時点で結論するには拙速にすぎるのだろう。