「腹芸」の重要性について。
「腹芸」というものについて考えてみる。
いわゆる「ヨイショ」のことである。たとえば音楽の現場などにおいてよく見られるようだ。
A「センパイ! 今日のステージ、マジサイコーでした! マジヤバかったッスヨー、あの曲のブレイクのトコとか泣きそうでしタ!」
B「マジサンキュー。でも、キミのあのつなぎも上手かったよネ! また一緒になんかヤローゼ!ガシッ(握手)」
このようなコミュニケーションが音楽の現場においてはよく観察される。そして「音楽」と一口に言ってもクラシックなどより、ヒップホップやパンクロックのような、世間的には粗野と思われているジャンルにおいて顕著なようである。このようなコミュニケーションをどう捉えるべきか。実のところ、彼らはお互いになにも要件を伝達してはいない。Aは場合によってはBのステージを観ていない可能性もある。キチンとステージを観ていいなくても成立してしまうやり取りなのだ。つまり、彼らはこの対話によってなにもメッセージをお互いにしていない。いわば、言葉が宙を舞っているだけである。
では無意味な言葉の応酬なのだろうか? そうではないところにこの「腹芸」の底知れぬコミュニケーションポテンシャルがある。このような「腹芸」には大きく二つの効果があるのだ。
一つ、そこに確かに上下関係はあるのだが、それほど同じ時間を過ごしたわけでもなく、決して「親しい」と呼べるほどの関係ではない状態。かといって同業者でもあるため、ややもすると諍いが起こってもおかしくない状態。このような前提において、「私はあなたに敵意をもっていませんよ、あなたの仕事を評価している者です」というメッセージを言外にふくめるという効果がある。
そしてもう一つ、周囲にそれを知らしめる、という効果。むしろこちらのほうが重大かもしれない。周囲のスタッフやファンなどに、「オレたち、こんな感じだよ、決して腹にイチモツ持っていないのだよ」と周知する。だからこそ「腹芸」は声が大きくなる。逆に周囲に人がいない場において「腹芸」はそれほどの効果を持たなくなる。このヨイショ的言説は、暴力的な雰囲気を持つ者が少なくないラッパー業界においてひとつの業界生存テクとして重要なスキルとなってくるのである。
つまりBのパフォーマンスが「マジヤバかった」、「サイコー」だったかの検証はほぼ意味がない。
ところで昨年、ネットフリックスに加入して以来、まったくTSUTAYAに足を運ばなくなってしまった。映像といえばネットフリックスばかり観ている。不思議と映画とかアニメよりネットフリックス製作のドキュメンタリー番組に目がいってしまうのだった。その中で最近面白かったのは「アグリー・デリシャス 極上の食物語」である。番組の紹介文ではこうある。
妥協を許さないスターシェフ、デイヴィッド・チャンが友人たちとともに、世界中で愛されている定番メニューの数々に舌鼓を打ちながら、食と文化を掘り下げていく。
見るからに「食いしん坊」といった容貌の韓国系アメリカ人、デイヴィッド・チャンであるが、彼はアメリカにおけるヌードル・バーの経営者としてひとかどの人物のようだ。そんな彼が友人たちとともにピザやフライドチキンやタコスのようなソウルフードから高級中華までを縦横無尽に食べ尽くし、料理人にインタビューしていく。これが、従来的なグルメ番組的な料理の話のみに飽き足らず、料理人の生い立ちや民族的、人種的、地域的な属性までを料理に絡めて掘り下げる。30年遅れのロッキングオン思想グルメ番組なのだ。また、ブルックリンの有名ピザ店「ルカリ」、日本の柿沼進シェフに話を聞く、といった一流志向と同時に「ボクはドミノピザも好きなんだ」と、ドミノピザの宅配にも同行するなど現代の「食」全体を捉えようとする姿勢が面白い。それは日本におけるラズウェル細木のグルメ漫画の思想とも呼応する、現代的な感性である。なにしろ「フライドチキン」の回ではアメリカ南部の伝統的なものから日本のローソンのからあげクンまでを「フライドチキン料理」として紹介するのだ。
で、このチャンのインタビュー手法が実に「腹芸」的なのだ。ブルックリンのピザ店、ルカリのシェフ、マークに「このピザはボクの大好物だ、「世界の名店50」にも選んだ!」といった、とにかくデリシャス!とかインクレディブル!の連発の「明るい食いしん坊」なのである。同時に「問題はこれが本物のピザかどうかってことだ、ナポリの人はどう言うか?」といったロックのインタビューのような踏み込んだ姿勢で突っ込む。ただし、チャンの発言は全体的に「腹芸」なのだ。これはチャン自身、韓国系アメリカ人、というマイノリティの属性から料理業界に入っていったことと無関係ではないだろう。この第一回目のピザの回でチャンは料理の世界に飛び込んだ理由をこう述べる。
厨房で生まれる仲間意識が好きなんだ。ならず者の集まりみたいな。飲食業界に入った理由の一つが反発心を形にするためだ。
「明るい食いしん坊」なチャンだが、おそらくカタギの道を歩んできた人物ではない。大学卒業後、どこかに留学して料理を学んだような。そういう人物ではない。アメリカの複雑なヒエラルキー競争や人種差別や料理業界の「ならず者」たちの間をかいくぐり、成功を掴んだ人物だろう。つまり、複雑な人間が集まる場において、うまく立ち回るうえで「腹芸」力は欠かせない、の法則がここでも見られるのだ。
私は「腹芸」を批判しているのではない。むしろ、これは現代ほど「腹芸」力を求められる時代もないのではないか、という提言である。話をラップ業界に戻そう。「ラップ」という表現には基本、ルールというものはないのだが、目に見えないコンセンサスのようなものがある。それは韻を踏むとか踏まないといった末節の話ではなく、ラップというものは従来のヴォーカルミュージックでは見られなかった「本音」を表現するもの、ということである。結果、フォーレターワーズのような下品な表現も許容される、というような。これは近年の日本のラップ表現においても本国同様の成熟を見せている。しかし。ここに不思議な事象が見られるようになる。「ラップ」というパフォーマンス上では彼らなりの「本音」をオーディエンスに叩きつけるのだが、一歩、ステージからはけると彼らは一転、「腹芸」コミュニケーションに移るのだ。無論、それは「ならず者」業界であるところ特有のコミュニケーションスキルなのである。
お笑いの世界ではどうか? たとえば明石家さんまというコメディアンについて考えてみる。彼は自身がホストを勤める「さんまのまんま」というトークバラエティ番組を持っていた。ゲストはコメディアンばかりではない。若手俳優やデビュー仕立てのアイドルといった、トーク自体が苦手な者もいる。そんな彼らは大して面白くないエピソードを披露する。(例、イケメンで知られる若手俳優。これでも学生時代は男子校で丸坊主だったので全然モテなかった、など)そしてこの話にさんまは大げさに手を叩きながら「ヒャーヒャッヒャヒャ、ホンマカイナー」とソファからずり落ちるほどの勢いで大ウケするのである。無論、さんまほどあらゆる笑いに精通した人物が本気で面白がっているわけがない。これは「腹芸」ウケ、ヨイショウケなのである。「ボクはこの芸能界の重鎮だけども、キミの仕事を認めているよ、キミに敵意はないのだよ」と。この系譜でいくととんねるずの石橋貴明もまた、別種の「腹芸」のお笑いであったとわかる。さんまや石橋のような「腹芸」笑いの特徴としては周囲のテレビ局スタッフなどのいわゆる「サラリーマン」をも巻き込んでいくところがある。(サラリーマンの腹芸はもともと仕事の一環である)おそらく80年代後半とはこのバブル経済の高まりと「腹芸」とが相乗効果をあげた、いわば蜜月だったのであろう。しかし90年代初頭、全国区のテレビ業界に「腹芸」が通用しない奇妙なお笑いコンビが登場する。ダウンタウンである。厳密に言うと、腹芸が通じないのは松本人志であり、浜田雅功は典型的な「腹芸」タイプである。もしかするとダウンタウンの爆発力とはこの、「腹芸」と「ノン腹芸」が組んだ時特有のものなのかもしらん。たとえば島田紳助は「ノン腹芸」タイプだが、彼と「キングオブ腹芸」さんまが対談したときの爆発力はこれによるものなのか。
いずれにせよ、私は40歳を超えて、腹芸の重要さに今頃気がついている。SNS社会であればこそ、現実の腹芸力が試されるのだ。ネットに腹芸はない。しかし現実は腹芸で泳がねばならない。この真実。今の若者は先刻承知しているようだ。今年の新入社員を見ていても実に腹芸力が堂に入っている。我々松本信者世代は愚かだった。松本の悪影響で「腹芸」しないことがカッコイイと勘違いしていた、あの90年代。あれは松本のような天才のみに許された態度だというのに・・・。しかし。今からでも遅くはないはずだ。これからは上司であれ、後輩であれ、雑誌の編集者であれ、ヨイショしまくろう。メールには0.2秒で返信しよう。年寄りの面白くないジョークには「サブイ」とか「イタター」とかガキみたいなこと言わずに手をたたいて椅子からズリ落ちよう。コミュニケーション2・0。