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統合失調症と関係の哲学

 こんにちは。Kamo Caféの店長です。今回は私の統合失調症が具体的にどういう物かとそれに対する私の考え方の話をしようと思います。私は17歳の頃に統合失調症を発症し、今はもう14年目のベテランです。14年間で様々な経験をしましたが、統合失調症に対する考えも蓄積し、ある程度まとまったので、ここではそれを比較的小さくまとめて書き記すことにしました。私は統合失調症を一言で言うと何かと問われれば、それは「自分と他者の関係の謎」だと答えます。

1.他者からは見えない障害
(1)体感幻覚と自我の防衛
①皮膚の下を蛆虫みたいな物が這っている幻覚
②他者の貧乏揺すりの足で脳を踏み潰される幻覚
③他者のペン回しのペンの回転で脳を掻き回される幻覚
④電車の中の隣の席の人の指の動きで脳を触られる幻覚
(2)聴覚過敏と自我の性質
(3)妄想障害と現象学
(4)幻視と語りかける他者
(5)思考鈍麻と無の存在
(6)脳のバグの発見
①幻覚同士の相殺
②目の動きと脳のバグ
③焦点の緊張と体感幻覚
2.関係の中で生じる障害
(1)自分の障害性はどういう条件関係に依存しているかを考える
(2)制度の論理と障害の論理~障害者と法の下の平等~
(3)スマホの例とガンダムF91
(4)自分と他者の関係の哲学
(5)統合失調症から社会科学への入口
(6)人類の最初の哲学
3.治療と予後
(1)治療の成功と予後
(2)微分回路と積分回路
(3)人間とは何か



1.他者からは見えない障害

 片腕が一本無いとか、車椅子に乗っているとか、皮膚が爛れているとか、そのような身体的外形的に目に見える障害や病気とは違い、統合失調症は目に見えません。明らかに言動が破綻していたり暴れたり家もゴミ屋敷になっている、という分かり易い人もいますが、多くの場合は一見見た目は普通でその症状や苦しみが目に見えず、本人の身体の内側で苦しんでいます。
 よく見られるのが、聴覚の過敏、幻聴、妄想、体感幻覚、思考鈍麻などです。一般的な意味でも、普通に暮らしていたらどれもあまり聞きなれない言葉かもしれませんね。ここでは私の体験から、それらが具体的にどのような物かを第一人称の視点で書こうと思います。一般論的な記述ではないので、その点は留意してください。

 
(1)体感幻覚と自我の防衛

 まずは体感幻覚について説明します。私はこの体感幻覚というものに一番苦しみました。体感幻覚とは何かというと、触覚の幻覚です。人間の感覚は味覚、嗅覚、聴覚など五感がありますが、その内の触角の幻覚です。

①皮膚の下を蛆虫みたいな物が這っている幻覚

 これは統合失調症に時々ある幻覚らしく、皮膚の一ミリ下くらいを小さいウネウネした蟲みたいな物が這っているのを感じる触覚の幻覚です。可愛さと気持ち悪さがありましたね。頑張って仕事をしている時など、脳を使い過ぎて頭が熱くなっている時によく皮膚の下に現れましたが、ゆっくりと頭を休められる時は現れなくなりました。
 一般に、統合失調症で意味不明な事をやったり言ったりしている人は、陽性症状という物に苦しんでいます。陽性症状とは、頭にエネルギーがあって、思考し過ぎるというイメージです。脳が風船だとすると、思考のエネルギーで風船が膨らみ切った状態です。そのため、意味不明なことを考えたり言ったり、意味不明な行動をしたり、幻覚など通常はあり得ない感覚を経験したりします。

② 他者の貧乏揺すりの足で脳を踏み潰される幻覚

 私は、私の近くで貧乏揺すりをされると、その足の動きで脳をぐちゃぐちゃ踏みつぶされる体感幻覚を覚えます。大学入試で一番困ったことの一つがこれでした。18歳当時の私は病識、即ち自分自身が統合失調症であることの認識を持っていなかったので、幻覚等が起きてもそれを幻覚だとは認識できず、何だか自分は頭がおかしいが何がどうなっているか全然分からない、という状態でした。しかし大学入試は突破せねばならず、授業や模擬試験を受けたり入試会場で問題を解いたりするわけですが、その時、隣の席の人が貧乏揺すりをやっていると、その足で脳を直接ぐちゃぐちゃ踏みつけられる体感幻覚がするのです。これには困りました。というのも、試験会場は固定席制だからです。
 私が大学受験をやったのは13年前ですが、当時も診断書等を出せば別室受験等の配慮はあったと思います。しかし私に私自身が精神病であるという認識が無かったため、精神科に行っておらず、診断書はありませんでした。また、仮に精神科にかかっていたとしても、基本的に精神科医も、この診断書を発行するから君は別室受験の配慮を申請しなさいなどと動的にアドバイスすることは通常はあまり無いと思います。そこまで精神科医は患者の内部の痛みが具体的にどういうレベルなのかを察する能力を持っていませんし、患者の社会生活に関して積極的な介入はしません。基本的に、精神障害者は自分の身は自分で守らねばならないし、自分の人生は自分で切り開いていかねばなりません。一見普通の人間なので他者に痛みを分かってもらえないのが辛いですね。
 他者の足で脳をぐちゃぐちゃに踏みつぶされる幻覚の痛みに耐えながら、そのぐちゃぐちゃに踏みつぶされて液状化した脳を固形物へと再構成し、同時に入試問題を解く。あるいは貧乏揺すりがしていない時にめちゃくちゃ頑張って速く問題を解いて、貧乏揺すりが始まったら目を閉じてそれまで読んだ問題について頭の中で考え、そして貧乏揺すりが終わったらまためちゃくちゃ早く解答を書く。このような入学試験の現場を、18.19歳の2月は繰り返しました。それは尋常じゃない体力消費で、毎日しんどくて泥の様に眠ったのを覚えています。

③他者のペン回しのペンの回転で脳を掻き回される幻覚

 これも授業や入試の現場で困ったことで、隣の席の人の行うペン回しのペンの回転で、脳をぐるぐるグチャグチャ掻き回される体感幻覚が起こるのです。入試問題を頑張って解くわけですが、隣の人がペン回しをする度にその回転で脳がぐちゃぐちゃ掻き回され、文字を書いている私の手が勝手にガッとずれて、その度に文字が歪んでしまって書き直しました。
 貧乏揺すりとペン回しによる体感幻覚は18.19歳当時の私にとっては本当に悩みの種で、それが起こってしまうと思考力が落ち、脳に痛みを抱えますが、しかし入試問題を解くことをやって行かねばなりません。センター試験は絶対に失敗できないので、私はセンター試験の日の試験の当日の試験直前、前後左右斜めの席の人たち全員に、貧乏揺すりとペン回しを試験中やらないでくださいとお願いして回りました。
 また、入試を突破しても大学で授業を受けねばなりませんが、その時は、必ず一番前の一番角の席に座って、自分の視界にできるだけ他の受講生が入ってこないようにし、何とか幻覚を引き起こす条件を排除して行きました。どうしても幻覚がした時は、その時だけレコーダーを起動し、レジュメに何時何分何秒と書いておいて、授業が終わった後にそこの部分だけ聴き直すという工夫をしていました。

④電車の中の隣の席の人の指の動きで脳を触られる

 これも不思議なのですが、電車の中で座っていて、隣に座っている人が腕を組んでいて、その腕を組んでいる手の指をトントンと動かすと、その指の先で私の脳をプニプニと触られている体感幻覚があります。他者の指の先の自我が私の身体自我の内側に侵入し、私の脳をプニプニと触ります。通常の人間の身体感覚にこのようなことは起こらないと思いますが、統合失調症(精神分裂病)の私は自我が分裂したりその壁が破れたりしており、その裂け目から他者の自我が侵入してきます。例えて言うならば、コンピューターでいうファイヤーウォールが溶解していて、外部ウイルスの侵入や外部からのアクセスをブロックできないわけです(新世紀エヴァンゲリオンのATフィールドみたいですね)。
 これは今もあって、そのため私は電車の中では基本的に座りません。新幹線の中でも車両のドアの所に立っているくらいです。電車の中で腕を組んで指を動かす様な動きをする人を視認したら、くるっと体の向きを変えたり車両を変えたりして、視界に入らないようにします。電車内では私は常に私の身体を自由に動かせられるようにしたり、車内の他者から距離を置いて乗車しています。私に体感幻覚を与える原因となる他者との物理的関係を常に調整できるよう私側の身体を自由にしておくように意識するわけです。大学入試で私が困ったのはこれができないことでした。即ち、大学入試などの入試では原則的に、画一的な教室の中で席が決まっており、他の受験生と一緒に試験を受けなければならない制度だからです。統合失調症を持つ私の脳と身体自我は固定席制という制度に適応できませんでした。しかし電車では通常固定席制ではなく、私に私の身体を動かせる裁量があるので、私は身体が動く限り痛みを回避できるわけです。このように身体的にfixされないということは今でも私の生活と仕事の基本になっています。身体的な裁量があることは、私が私自身の安全保障を実現する上で最も基本的な条件です。

(2)聴覚過敏と自我の性質

 私と統合失調症との出会いは聴覚過敏でした。単純に聴覚過敏とだけ言うと、音が沢山聞こえるのかなと思われるかもしれませんが、実際はちょっと違います。脳があるカテゴリーの音によく反応し、そのカテゴリーの音を聞くと、脳がキュウッと握りつぶされて締まる体験幻覚を覚えるのです。
 私の場合は他者の口から出る音に反応します。痰を切る音とか、舌打ちする音とか、クシャミとか咳の音とかです。それらの音を聞くと、脳がキュウッと握り潰される体感幻覚に襲われます。それらの音を聞いた時は大変に苦しいのですが、しかし通常の言葉による会話は普通にできます。
 新約聖書「マタイによる福音書」15章に、「口に入る物は人を汚さず、口から出て来る物が人を汚すのである」とありますが、私が感じるのは、私の脳は痰を切る音や舌打ちなど、人の口から吐き捨てられる自我の汚い部分の様なものに反応しているように感じます。こういう体験幻覚の痛みをどういう物に対して感じるかという統合失調症の傾向性を見て行く事で、私は私の脳と自我の性質や機嫌みたいなものが反射的に見えるようになりました。
 また不思議な事ですが、初めはその人の出す音に不快感と幻覚を感じていても、その人と段々仲良くなっていけば、幻覚を感じなくなるのです。厳密な原理関係は分かりませんが、やはり私の自我と潜在意識が他者の自我や人格をどう感じているか、それに自分と他者の関係性がどのような影響関係にあるか、という事が、私の体感幻覚の見えない背景構造にある気がします。

(3)妄想障害と現象学

 妄想も統合失調症にはよくあります。隣の住人が電磁波で攻撃してきているとか、巨大宗教団体から監視されているとか、そんな妄想ですね。私の場合はCIAに追われているという妄想に憑依されました。私は18歳の時に河合塾大阪校に通っていたのですが、勉強に疲れた時、近くのコンビニに行って週刊誌を開いたのですが、その開いたページには政治家のスキャンダルが載っていて、それを見た瞬間、「私は政治家の重大な秘密を知ってしまったから、CIAに追われることになる」と思い、その思念が頭から離れなくなりました。家に帰ったら部屋にCIAによって盗聴器が仕掛けられていると感じ始め、何度考えてもそれは現実的に正しいとしか思えませんでした。常識的に考えれば18歳の浪人生にCIAが監視をつけるなんてことはあり得ないのですが、「私は東大法学部に行って日本を背負っていくのだから今の時点からCIAに追われていてもさして不思議ではない」と思いました。
 通常人間は、「AならばB」という事が正しいかどうかを判断するとき、常識を使います。「日本人ならば神社に行く」というのは常識から判断して大体正しいと言えるわけです。しかし、①「浪人生が週刊誌を見て政治家のスキャンダルを見た」ならば②「CIAに追われる」というのは、常識から判断しておかしいですよね。しかし統合失調症の人間は①と②の間に主観的な因果関係の橋を架けてしまいます。常識とは「妥当である」という事ですが、妥当というものは本来的に人と人との間にあるものであって(これを現象学では間主観性と言います)、自我、即ち自分と他者の線引きに問題がある統合失調症の人間は、人と人の間において何が妥当なのか、その妥当が集積した世間という物はどういう相場感覚で動くのか、という事が分からなくなります。これが統合失調症の妄想障害の正体です。
 しかし、本当に自分がCIAに追われていると思っていたら、私はプレッシャーに耐えかねて自殺していたと思います。75%くらいは信じているのですが、25%くらいは、そんなことないんじゃない?と思っている自分もいるわけです。しかし、先に述べたように、人と人の間の常識の相場感覚も分かりかねています。言ってしまえば、どこにも所属できない浮遊霊みたいなものです。自分自身を信じられず、かと言って世間のフレームにも適合できない。仏にも召されず、フラフラと娑婆を彷徨います。

(4)幻視と語りかける他者

 勉強をしていると、部屋のタンスの扉の木の木目の丸いところが人の目に見えて、それにより監視されているという幻覚がありました。また、自分の机も木でできていて、そこにも丸い木目があったのですが、やはりそれが目に見えて監視されているように感じて、机にシートを敷いても視線がシートを貫通して私に目線で語りかけているような幻覚が残りました。その木目を白い修正液で塗りつぶしてもやはり視線を感じ、彫刻刀で掘って目玉のように木目をくりぬいてみても、くりぬいた穴からやはり視線により監視されている幻覚に悩みました。この時期は司法試験の勉強をしていたので、かなり困りましたね。
 一般に勉強する時には人間は意識を集中させて自分だけの世界に入って行くと思いますが、この時の私は集中しようと頑張っても、机に張り付いた目で見られているという、他者からの目線を感じてしまうのです。統合失調症は昔は精神分裂病と呼ばれていましたが、分裂した自我の裂け目から他者の目線が入ってくる様なイメージです。一人で個室で勉強しているので実際にはそこに他者はいませんが、「観念される他者」の目線でさえ私の内側に入って来て、私は集中が困難になります。

(5)思考鈍麻と無の存在

 最初に統合失調症は陽性症状と陰性症状があると書きましたが、思考鈍麻は陰性症状に分類されます。本稿の一番最初で陽性症状については、思考のエネルギーがあり過ぎて脳の風船が膨張しきった状態だと説明しましたが、陰性症状は反対に思考のエネルギーが無くて風船がしぼみ切った状態です。
 陰性症状になると頭が殆ど働かず、世界がぼんやりで、どろっとしていて、毎日寝てるだけ、というような生活しかできませんでした。抗精神病薬は陽性症状に対しては比較的効いている感があるのですが(幻覚などの陽性症状は症状自体が痛みを伴うため、それがなくなって来たらぐ分かる)、この陰性症状に対しては効いている感覚が殆どありません。そのため陰性症状期は一番忍耐力が試されます。思考力が減退しているため会話する能力も無くなってきます。会話ができないので人と上手く繋がれず、寂しさを抱えながら人生をひたすら無の存在として生きて行きます。長くて暗いトンネルです。
 妄想障害について説明した所で、私は統合失調症の人間を浮遊霊に例えましたが、この陰性症状に入ると、完全に無の存在になります。会話もできない、思考もできない、生活もできない。完全なる無として一秒一秒を孤独に過ごして行きます。

(6)脳のバグの発見

①幻覚同士の相殺

 幻覚同士を相殺できるという事が分かった時がありました。ある大学の入試で、左の人が貧乏揺すりをしていつものように脳がグチャグチャと踏みつぶされるのに耐えながら問題を解いていたのですが、右の人がペン回しをし始めた時、ふと体感幻覚が止みました。なるほどと思って、左目の視界の端に貧乏ゆすりを、右目の視界の端にペン回しを、それぞれ同時に視認しながら入試問題を解くと、不思議と脳に体感幻覚が発生しないのです。やったー!と思いました。脳のバグを利用した裏技でしたね。
 統合失調症は脳レベルと精神レベルの二つで見て行くのは基本ですが、脳レベルのおかしさと精神レベルのおかしさは100%連動しているわけではありません。この時の入試中でも、脳は明らかにバグっていますが、私の精神は冷静に自分の脳のバグの中の裏技を発見して状況を乗り切って行っているわけです。脳というコンピューター(ハードウェア)の瑕疵を、精神の理知性(ソフトウェア)でカバーして行きます。

②目の動きと脳のバグ

 これも脳のバグの例として面白かったのですが、私は5年前、阪大病院の統合失調症研究室で被験者をやっていたのですが、その時、目の動きの検査があって、四角い画面の四隅を一つ一つ両目で見て行くのですが、他の三つの角だけはうまく焦点を併せて視認できるのに、左上の角だけは目が勝手にぶれるのです。何度やってもそうなりました。そしてその左上の角を見ようと頑張っている時の私の脳は、脳がむにゅむにゅっと動く体感幻覚を覚えていました。
 人が会話中や考え事をしている時などに視線を左上に合わすのは、自らの記憶の中を探るモーションらしいのですが、私が左角をうまく見れないのも、恐らく脳の記憶野と関係した脳の何らかのバグです。

③焦点の緊張と体感幻覚

 今はあまり感じないのですが、人と目を合わせて話すと脳がキュッっと委縮する体感幻覚がありました。目と目が合う緊張感に耐えられず、脳が頭蓋骨から飛んでいくような感覚になります。
人と人が目を合わせて会話する時、自分の自我と相手の自我は一方通行ではなく相互関係としてコミュニケートしますが、その中で、相手の目を見ながら会話するというのは、自分の自我の統合性が失われないように保ちながら相手の自我のペースにも合わせて会話するということです。人の目は多くを語りますし、会話の当事者が一番印象を評価するのも相手の目ですから、私の眼が会話の相手に変な印象を与えないかと、不安でした。
 通常の人はこういうことは意識しないでもできてしまう訳ですが、統合失調症で自我と自他境界が部分的に壊れている私は、そういうことをオートマチックに行う機能がなくなっており、マニュアルでやらねばならなかったのです。目と目を合わせて視認し合ったら、私の自我と相手の自我が関係し合う訳ですが、その相互関係の中で私側が私の自我を普通の状態に保ちながら会話の内容を考えて発話します。このように自我の防衛とコミュニケートをマニュアルで同時に行うのは、かなり脳に負担をかけました。実際、私は結構失敗して、対話中に脳が幻覚を起こして、相手方に、「すみません、こうこうこういう事情で、私は会話しながら人の眼を見ると幻覚が起きるので、今幻覚が起きていて、目を見れません。」と言って、何とかその場をしのいでいました。
 電車の中で横の人の指の動きが私の身体自我の内側に侵入して脳を触ってくるという話を先に書きましたが、この目の動きと自我の統合性の話も、それと似たような話です。私の自我の輪郭が部分的に壊れていて、他者と関係する際に、その穴から入ってくる他者の自我などに対して、私は幻覚を覚えます。

2.関係の中で生じる障害

 統合失調症生活をやっていて感じたのは、自分のあり方とは条件関係に依存する現象だという事です。私はある条件下では健常者として生きていて、ある条件下では障害者になります。普段は普通に生活していますが、教室が固定席制かどうかとか、電車の隣に誰が座るかとか、近くにいる人が男性か女性かとか(女性は痰を切ったり舌打ちするような音はあまり出さない)、自分がサングラスをかけているかどうかとか(サングラスなら他者と目を合わせないで良い)、そういう現実と自分の関わる条件次第で、私は幻覚を感じたり感じなかったりするわけです。私という存在のあり方は決して固定的なものではなく、私が普通に生きられているのならば、それを実現する条件が成就しているからそうなっており、私が痛みに苦しむ障害者になっているならば、私は障害を惹起する条件下に入っているということです。車椅子の人は階段との関係では障害がありますが、スロープとの関係では障害はありません。統合失調症は見えない障害ですが、それと同じです。

(1)自分の障害性はどういう条件関係に依存しているのかを考える

 ならば、統合失調症の個人の生存戦略としては、自分がどういう条件関係下では障害者になってしまうのかを分析し、それを回避する行動や仕組みを作ればいいという事になります。
 私が統合失調症で体験して来た苦しみや痛みは上記に書いた通りですが、概観してみると、大抵の場合、私が幻覚を感じる時のトリガーになるのは他者の行動と場の性質です。不快な音を出す人、不快な動き、その様なことが許されている場、それを回避できる場かどうか、その人との親密度、などの条件関係によって、障害を感じたり感じなかったりします。
 ここで有名な「自立とは複数の依存先を持つこと」という智恵が生きてきます。この考えを障害者支援の文脈で日本に広めたのは熊谷晋一郎東京大学准教授ですが、車椅子に乗っている熊谷准教授はエレベーターが動かなかったため東日本大震災発生時に逃げ遅れ、一方で自分の大学の同僚たちは階段を使って逃げることができていたのを観察し、健常者はエレベーターにも階段にも依存できているが、車椅子の自分はエレベーターにしか依存できておらず、その一つだけの依存先が潰れたから逃げることができなかったのだと分析しました。 
 統合失調症の障害を惹起する条件を回避するのにも、この基本知性が使えます。ある集団の中で自分の自我が保てない場合が出て来るのは仕方なくて、その集団だけに自分を帰属させるのではなく、他の複数の集団にも自分を係属させたり、あるいは時限的にどこにも帰属しない自分を作ったりします。主治医との関係が煮詰まってきたら別の医者にも並行してかかっておいて、安心の回路を別に作っておくのも心理的なマネージメントとして有効です。また、ある人や集団が私に幻覚を引き起こすような行動を取っていても、時間や状況が変わればそのような行動をしなくなったり、構成員が変わったりと、色々別の変化をすることも多いので、その人や集団との関係は切らずに取り敢えずの避難先として別の所に行ったりと、色々な行動が考えられます。また、依存先の分散の例ではないですが、回避という例では、私が大学在学中は必ず教室の一番前の角に座るようにしたのも、上手くいった回避行動(自分の障害が発生する条件を限定して行った)の一つです。
 また、回避だけでなく、自分が変えられるものは変える勇気を持つことも大事です。先に挙げた私の体験の例では、センター試験当日の試験直前に、前後左右斜めの人達全員に、貧乏揺すりとペン回しはしないでくださいとお願いしてみたら、周りの人達は試験中はそういう行動を控えてくれました。これは私側から働きかけて、他者の行動を任意に制限した例です。

(2)制度の論理と障害の論理~障害者と法の下の平等~

 自分が何を変えられて何を変えられないかについては、私が体験したことで二つ印象に残っている事があります。
 一つ目は、法科大学院の適性試験です。私は26歳の時に弁護士になろうと思って司法試験の勉強をしていました。しかし先に書いたように私の感覚器は人の出す音や動きなどを拾ってしまって、体感幻覚を引き起こします。そのため、法科大学院受験における適性試験について、別室受験の配慮申請をしました。正式な申請をする前に、適性試験を主催する日弁連法務研究財団に何回か問い合わせてみたのですが、身体障害者や視覚障害者には別室受験を配慮しているが、精神障害者には前例がなく、認められない可能性が高いとの事でした。実際に私は正式に配慮申請をしましたが、その請求は認められず、別室受験の配慮はされなくて、同じ教室の中で他の受験生から少し離されての受験になりました。
 振り返ってみれば、正にこれが制度の論理です。制度とは人間の集団をどう扱うべきかという規範ですが、規範には原則か例外かの二つの選択肢があり、私は自分は障害者だから例外的に別室受験をさせて欲しいと主張した訳ですね。しかし、制度の管理側は原則を守るのが仕事です。例外が増えたら管理コストがかかるし、原則を守るからこそ制度の公平性は一般人に対して維持されます。
 原則的に制度を運用しようとする側は、制度に関わってくる人間を「同じ」カテゴリーのものとして扱います。試験で言えば、受験生を皆んな「同じ」教室に入れて「同じ」ような基準で管理する訳です。しかし障害者は、自分は「異なる」カテゴリーに入れられるべき存在なのだと主張します。自分はその障害による弱点から、別室という「異なる」カテゴリーに振り分けられないと他の受験生と平等ではないと主張する訳ですね。
 このように、原則か例外か、他者と自分は同じなのか異なるのかで、制度の論理と障害の論理は峻厳に対立します。私は頑張って立論して制度の例外を導こうとしましたが、原則か例外かを決定する相手方の裁量を現実的に切り崩せず、それはできませんでした。
 多くの場合、社会制度とは融通が効かないものです。本稿では障害者を巡る制度的な提案はしませんが、社会の原則が変わって来ているのは感じます。しかし、融通が効かないのは一般人に対して公平であることの証であることもあるため、簡単に社会的な原則を変えてはいけません。
 もう一つの体験は京都大学法科大学院への出願でした。私は前述の適性試験の後に、京都大学の法科大学院を受験しようと思い、出願の情報を集めました。そこで一つだけ気になる制度がありました。2015年当時の京都大学大学法科大学院の入学選考においては、「大学学部を卒業して2年以上職歴に空白期間のある者は減点対象として扱う」(以下、本件ルールと言います)という制度があったのです。私は2012年に大学学部を卒業し、基本的に2015年までは闘病していて、職歴等はないため、事実としては空白期間がありました。しかし、その空白期間があったのは私が積極的に選んだものではなく、統合失調症が原因で仕方なくそうなってしまったものです。説明会等に参加して教務主任に聞いてみたのですが、私の職歴の空白期間が必然であったことの証明をしてほしいと言われ(これを法律学では立証責任と言います)、主治医に確認したら、それは医学的には証明はできない、と言われました。この時も、私は困りました。
 適性試験における日弁連法務研究財団と私のやり取りでは、日弁連法務研究財団側は私と他の受験生を「同じ」ものとして扱い、全ての受験生は「同じ」教室で受験させるという原則を守ろうとしました。そこで私は他の受験生と私は「異なる」のだと主張し、例外的に私は別の部屋で受験すべきことを主張しました。一方、京都大学と私の関係ではこの論理が反転します。京都大学側は二年以上職歴に空白期間がある者を他の受験生と「異なる」ものとして扱い、例外的に減点しようとします。その「異なる」ものに当てはまる恐れがあり、減点が不平等だと感じる私は、他の受験生と私は「同じ」であり、減点のされない原則的な受験を求めて行く事になります。
 この様な問題を法律学では「法の下の平等」と言います。法の下の平等とは、「同じカテゴリーの物は同じ物として扱う」という論理です。制度とは人間の集団をどう扱うべきかという規範であり、規範には原則と例外の二つの選択肢がありますが、その原則と例外どちらが適用されるかは、上記の二つのケースにおいては私が他の受験生と同じなのか異なるのか、という評価に依存します。日弁連法務研究財団は私に「同じ」であることと「原則」を当て嵌めてきて、私は「異なる」ということと「例外」を主張しましたが、京都大学は私に「異なる」ということと「例外」を当て嵌めてきて、私は「同じ」であることと「原則」を主張します。法の下の平等とは関係当事者を(異/同)(原則/例外)どちらのカテゴリーに振り分ければ実質的に平等なのか、という天秤の様な論理の問題なのです。
 結局、京都大学との関係では、私の主張はある程度認められ、減点ルールは課されない方向に進みました(が、私は結局受験しませんでした)。

(3)スマホの例とガンダムF91

 私が人と目を合わせて会話したときに、オートマチックではなくマニュアルで目線と自我と会話を同時にコントロールすることに苦労したという話は先に書きました。ここでは、似たようなことでふと思ったことがあったので、書いておきます。
 皆さんは、道を歩いていて、対面から歩いてくる人がスマートフォンをいじっていて、自分も歩いて行って、ぶつからずに避けようとしても、うまく避けられなかったり、ぶつかったりしてしまったことはありませんか?私は何回かあるのですが、それを体験したとき、ふとあるアニメのシーンを思い出しました。富野由悠季作「機動戦士ガンダムF91」というアニメがあるのですが、その作中で、主人公が初めてガンダムを戦艦から出発させるとき、壁にかかったビームライフルを取ろうとしてガンダムを操作しますが、ガンダムの手はビームライフルのすぐそばまで行くのですが、主人公のマニュアルによる操作が下手でふいっと空を掴んでしまいます。その時管制塔から、「なーにやってんの、直前になったらオートでやるんだよ!」と指示が飛びました。
 私はロボット工学は詳しくありませんが、これは示唆に富んでいるなあと感じました。人間が自由に(=障害がなく)身体を動かす時、その所作は殆どオートマチックにやっていると思います。四肢が健康な人が街中で歩道を歩いている時、行き交う人々の中で、頑張って意識して身体を操作しながら人や障害物を避けて歩く、という事はあまりありません。歩道を普通に歩いていて、殆ど意識せず普通に対面から来る人を避けて、障害なく歩きます。
 一方先程のスマホの例では、私側は相手がどう動くか予測しますが、相手側はスマホをいじっていて全く私を見ずに歩いていて、相互に相互の動きを予測し合う関係にないのです。すると対面歩行が上手くいかなくなり、うまく避けられなかったりぶつかったりします。一般にこういう予測を人間はオートマチックに行っていて、相互が相互の障害にならないように関係し合っているのだと思います。人間は歩いている時、歩いている事自体がどうなって行くかを監視する自分を用意していませんが、身体と脳は、こけないようにとか、ぶつからないようにとか、身体と、道路や置いてある物や人との関係を自動で制御する機能を働かせています。先のスマホの例は、障害とは関係する人間相互の予測機能が上手く働かないことから生じることを示唆する例だと私は思いました。
 この文脈から、見えない障害を持つ統合失調症の人は、自分の障害がどういう場合に引き起こされるのかということを自分と関わる他者に適宜かつ必要十分に開示して行くことが、自分を守ることに繋がるという考えに至ります。即ち、相手方がこちら側の障害がどういう時に起こるのかを予測できるように、こちらから情報を開示して、相互関係の中で障害が惹起されない道に導いていくという事です。その導きに応対してくれる人とは、良い関係が築けると思います。一方、情報を提供しても導きに反する行動を取る人とは、できるだけ距離を取って相互が傷つけ合わないようにします。多くの場合その導きは、「このような行動はしないでね」というお願いの禁止規範の形を取ると思います。その自分と他者の間の越えるべきではない線引きを同意して共有できる関係は、友達ですね。このことはそんなに簡単な話ではなく、上手くいかないことの方が多いと思います。しかし、色々やってみる価値はあります。このような議論からは、自分を守っていったり円滑に社会参加することを促す規範や仕組みを作っていくという考えが出てくると思いますが、確かにその通りなのですが、現実はそんなに簡単にはいきません。何度も失敗すると思います。しかし、やってみる価値はあります。できれば、それを仲間と共にやって行ってみてください。

(4)自分と他者の関係の哲学

 このように、私は統合失調症と向き合うにあたって、自分と他者の関係の哲学を培ってきました。自分と他者の関係性を何が決めているか。どういう関係性の下では、自分は痛みを感じるのか。どういうルールが自分と他者の関係を規律しているのか。どういうルールがあれば(あるいはなければ)障害の惹起を回避しつつ自分と他者の関係性を安全にして行けるか。私と他者の裁量の広狭が、その関係におけるルール作りにどういう影響関係があるか。自分に裁量のある関係と無い関係で、どのように障害の回避に違いが出るか。自分の身体の性質や能力はその裁量やルール作りにどういう影響を与えているか。そのような事を考えていました。これが、本稿の「統合失調症と関係の哲学」というタイトルの意味です。

(5)統合失調症から社会科学への入り口

 以上の様な発想を持って私は統合失調症生活をやってきた訳ですが、それがどこから出て来たかというと、私が19歳の時に大学に入って以来ずっと勉強して来た法律学と政治学がヒントでした。一般に、政治学は人間関係を、法学は規範(ルール)を扱います。
 20代の私の現実のテーマは、体感幻覚など、他者からは見えない痛みや障害を抱えた片手落ちの私が、如何に自分の安全保障を図りながらポジティヴに社会参画するか、ということでした。他者との関係において、ある条件下では障害者になってしまい、ある条件下では健常者になる分裂性と多面性がある自分。政治学が人間関係を担当し、法学が規範を担当するならば、①この人間関係にはどういう規範が必要なのか(あるいは必要でないのか)②この規範があれば(あるいはなければ)どういう人間関係になるか という二つの次元からの問いの複合が、現実を生きて行く上での私が問うべきテーマだったのです。即ち、自我と自他境界が壊れた私は、自分と他者の線引きのあり方を問い続けることが生きるために必要だったのです。これをもう少し展開すると、③この人間関係から自由を得るにはどうしたらよいか(自由論) ④この人間関係をうまくマネージするにはどうしたらよいか(統治論) という一般的な自由論と統治論に行きつきます。そして、自由と統治の緊張関係を扱うのが、所謂、⑤正義論です。
 統合失調症はこのようにして社会科学一般への入口を持ち、その先には古典的な自由論、統治論、正義論の問いかけが待っています。

(6)人類の最初の哲学

 以上はやはりいずれも自分と他者の関係における線引きの問題ですが、それを一般式で表すと、(自分/他者)→自分 の弁証法 の様な表現になるかもしれません。この弁証法的自他境界を巡る問いの中で「自分」というものに焦点を当てると、それは人間世界における自分自身の輪郭性の問題になります。即ち、統合失調症を巡る緒問題は「自分自身とは何者なのか」という問いに集約されます。それはつまり、「汝自身を知れ」という人類の最初の哲学者、ソクラテスの命題に還って来ることになります。

3.治療と予後

(1)治療の成功と予後

 結果論から言うと、私の治療は成功しました。一つには、医師の指示をきちんと守って毎日決められた量の抗精神病薬を服薬したこと。もう一つは自分と他者の関係のあり方を研究したこと。この二つが私の統合失調症の治癒に大きく役立ちました。
 副産物もあって、私は本格的な発病前よりもかなり思考力が上がりました。通常は統合失調症になったら認知の力は衰えることが多いと思ますが、私の場合は逆でした。
 しかし一方で、やはり社会に適応するのには苦労していて、環境に適応できないという意味では知性が無くなったとも思っています。適応こそが生物にとっての知性だと思うからです。生物は生きねばならず、適応した生物は生き残ります。私は本格的な発病前よりも社会的な力が衰えており、進化生物学の観点からは、私は知性が無くなってしまいました。先のオートマチックとマニュアルに関する議論で言えば、私が社会と関わる上での私側のオートマチックな可動域が減って来ているという事です。今では強化された思考の力(それは極めて意識的でまさにマニュアルの力ですよね)だけが残っています。これについては、どう分析できるでしょうか。

(2)微分回路と積分回路

 統合失調症を持ちながら社会生活をしていて感じるのは、人間の脳の社会性の部分には、「微分回路」と「積分回路」があるということです。微分回路というのは予測機能です。人間は社会で(=他者との関係で)生きて行くにおいて、どんなトラブルがありそうだとか、どういう展開になりそうだとか、どういう貢献ができそうだとか、そういう自分への負荷や利得を計算し、できるだけトラブルを回避しながら立場と行動を決定して行きます。私の様な自我が分裂して幻覚の痛みとリスクに晒され続けながら社会生活をせねばならない統合失調症当事者は、このリスク計算の微分回路が発達する傾向にあります。統合失調症の痛みや幻覚のトリガーは他者から見えないことが多く、私の側から積極的にリスクを回避して行かねばなりません。統合失調症が悪化したら苦しみが尋常ではないし、他者にも結局迷惑をかけてしまいます。そのリスクとの格闘を説明したのが、本稿の前半部分「1.他者からは見えない障害」でした。
 一方、積分回路とは社会関係を事後的にマネージして行く力です。いくら分析と予測をしても現実は予想外の動き方をするわけで、事後的に物事の帳尻を合わせて行く力は極めて重要です。
 私は2019年の半年間だけ、西宮市でコーヒーのお店をやっていたのですが、経営にはこの積分回路の能力が多く求められます。お店をやるにおいては計画や予測を立てますが、やってみると分かるのですが、お店の経営は本当に予想もしないことや細かいズレが頻繁に起きるので、現場現場で、あるいは事後的に、物事の帳尻を合わせて行くことを頻繁に行います。裏を返せば、経営のためには微分回路をある程度制限する必要があります。リスクや予測のハズレを気にしないで、ある程度大まかな尺度で日々を生きて行くという事です。
 人間にとっての社会性とは、脳と精神の微分回路と積分回路のバランスがとれている事なのでしょう。「2(3)スマホの例とガンダムF91」のところで私は、障害とは関係する人間相互の予測機能が上手く働かないことから生じると書きましたが、実際の人間社会においては、どんな相手でも、予測が上手くいかないことが当たり前です。事前の予測と事後的な帳尻合わせ。二つの機能のバランスが大事です。

(3)人間とは何か

 私は本稿の前に「分裂と統合のNARUTO物語」という稿を書いたのですが、そこの結論と本稿の結論は同じで、私は、人間とは関係する生き物だと思います。統合失調症や他の障害や色んな困難を持つ人、色んな背景や色んな考え、本当に色んな人がいます。自分と同じ人間ですが、やはり確かに自分とは異なる他者と関係しながら我々は生きていきます。その関係の中では色んなトラブルや苦しみや喜びやドラマがあります。その悲喜交交が、我々人間が人間をやってて楽しいのだと思います。
 関係する者達に幸あれ。

参考文献

かもカフェ「分裂と統合のNARUTO物語」

https://note.com/kamocafe/n/n8dff63b0495

綾屋紗月・熊谷晋一郎『つながりの作法』(NHK出版)
綾屋紗月編著『ソーシャル・マジョリティ研究』(金子書房)
綾屋紗月『発達障害当事者研究』(医学書院)
石原孝二『当事者研究の研究』(医学書院)
中井久夫 他 『分裂病の精神病理』(東京大学出版会)



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