批評:エル・マルジャ・エイラ監督「トナカイは殺されて」2024
24.11.28宮台真司
荒野塾資料
この映画を勧善懲悪の物語として、被差別民の憤怒に寄り添って差別民を告発する物語として、みてはならない。誰に寄り添うかで、リアルな物語はどうとでもありうる。そうした物語(を支える視座)の恣意性を超えて、明確な構造が描かれる。まず最初に、定住民・対・定住を拒否するがゆえに差別される非定住民(遊牧民)、という対立図式がある。
非定住民が定住を拒否するのは、「言葉で語られた法に罰が怖いという損得で従うことで安全・便利・快適を得る」定住がつまらないからだ。この対立図式を前提として、定住民が「つまらない毎日で奪われた力を回復(リ・クリエーション)」するための週末のサウナとしての「狩りや釣りやスノーモービルの利用」・対・非定住民の日々の生活形式としての「狩りや釣りやスノーモービルの利用」という対立図式が描かれる。
力を奪われた定住民の娯楽としての「狩りや釣り…」・対・力が溢れる非定住民の生業としての「狩りや釣り…」という対立図式を前提として、「非定住民の生活形式」を保全するための「定住民のリ・クリエーションとしての狩りや釣りやスノーモービルの禁止」に、腹を立てた定住民の男達の「違法なトナカイ虐殺や放火」があり、男たちの怒りに寄り添ってそれらを見て見ぬ振りをする警察官を含む行政官たちがいる。
定住民の男達の怒りと、その気持ちが分かる警察官による放置の背後には、「定住民のつまらない生活形式(力が奪われる毎日)」・対・「非定住民のわくわくする生活形式(力が湧き上がる毎日)」があり、それゆえの、「つまらなさを生きる定住民」による「力が溢れる非定住民」への嫉妬がある。要は、定住民による差別の背後に、単に偏見に留まらない、自分に出来ないことが出来る人たちへの嫉妬があるということだ。
いま示した二項図式の重ね焼きは、定住の法生活によって失われた「法生活の外(言外・法外・損得外)」を回復しようと企図する「体験デザイン研究所 風の谷」の、未来に待ち受ける困難を指し示しているだろう。そう。「出来ないことが出来る人たちへの、出来ない人たちの嫉妬」の普遍性である。それをどうハンドリングするかという普遍的な問題を考えなければならない。この「切りくず問題」は普遍的な課題である。
さらに掘ろう。全てが遊動民だったのが約1万年前から定住化した。定住を知りつつ(場合によって一旦定住した後に)定住を拒否したのが非定住民(遊牧民を含む)。だから、非定住民(遊牧民)は、遊動民ではなく、定住民を「つまらない法生活を送るつまらない連中」として憫れむ人々だ。これはカテゴリにステレオタイプを紐付ける「差別」とは違い、身体・感情的根拠がある。僕がクソフェミを憫れむのと全く同じだ。
「サーミの血」「トナカイは殺される」に共通して定住民がサーミ人の女を「ビッチ」と呼ぶ。彼女らが自由だからだ。伏線として「トナカイ〜」は誰が自由かについての会話を描く。内から湧く力である「内発性」に駆動される営みを自由だとする者が、内発性を失って損得で選択肢を選ぶ「自発性」を自由だとする者の不自由さを憫れむのは当然だが、憫れまれる屈辱ゆえに定住民は非定住民を「カテゴリ」で差別する訳だ。
参照:「トナカイは殺される」
「サーミの血」