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なぜ、ゴンは見ず知らずの船員を助けるために嵐の海へ跳んだのか?

 数日前、年末のコミックマーケット(C105)で頒布する同人誌を完成させ、入稿しました。タイトルは『山本弘論』。亡くなった小説家・山本弘さんの「思想」や「行動」について論じた本です。なかなかの自信作。面白いですよ。ぜひ買って読んでみてください。

 それは良いのですが、全七章で書き終えた端から新しい資料を見つけ、新しい着想が生まれて困っています。これはブログで記事を書くときにも起こる現象なのですが、何かをひとつの形にまとめるということは必ずそこに収まり切らない「余剰」を生み出すことでもあるのですね。

 で、この場合、その「余り」とは主にフランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』や山竹伸二『共感の正体』、若松英輔『はじめての利他学』、近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』、小田亮『利他学』、ジェシー・マーソン『アダム・スミス 共感の経済学』といった本から来ています。

 これは同人誌の「まえがき」にちらりと書いたことですが、何げなくこれらの本を読んでぼくは自分が書いたことの主題が、倫理学の歴史においてはカント的な「義務論」とヒューム由来の「感情倫理学」の対立という構図に関わっていることを初めて知ったのでした。

 で、この議論がとても面白い。しかし、『山本弘論』には締め切りと紙幅の関係で入れることができなかったので、ここにいわば「第七・五章」として書いておこうと思います。

 もちろん、同人誌を読んでいなくてもまったく問題ありません。何だったら、第一章が始まるまえの「予告編」だと思ってもらってもかまわない。まあ、ちょっと読んでみてください。

 ぼくはべつだん、哲学の学生でも何でもないので、カントやヒュームやニーチェの理解はつたないものですが、当然、ほんとうに語りたいのは山本弘のことなので問題ないでしょう(たぶん)。

 さて、ことし亡くなった山本さんという作家は、「論理」に強い拘りを見せた人でした。一方で「倫理」もまた大切にし、「論理」と「倫理」をどうにか結びつけようと生涯にわたって努力していた印象です。

 あるいは、かれにとっては「論理」と「倫理」が一致するのは自明のことだったのかもしれない。もう真実を知るすべはありませんが、もし機会があったならいちど訊いてみたかったものです。

 ちなみに、ここでいう「論理」とは「自身の利益を最大化すること」を意味します。だから「露論理的な人」とは、経済学でいう「ホモ・エコノミクス」の概念が近いかもしれません。常に自分の利益を最大化するために「合理的に」行動する存在としての人間。

 山本さんは人たるものはそういうふうに「論理的」に行動するべきだと考えていた節があり、現実にそうできない人間たちを「愚か」な存在と見ていました。

 換言するなら、「論理的」に行動するなら、必ず「倫理的」な行動にも至るはずだと確信していたとも思えます。で、その「確信」が、ぼくから見るととても欺瞞的に思えるのです。

 たとえば、『アイの物語』文庫版の豊崎由美さんによる解説では、山本さんの代表作のひとつ『詩羽のいる街』の一節が引かれています。「人間の愚かしさ」に悩む作家・坂城とヒロイン・詩羽の会話です(ちなみに詩羽と書いて「しいは」と読む)。

「あたしが言いたいのは、今はまだどうしようもないってことです。世界が一夜にして魔法みたいに変わるなんて、それこそありえないですよ。あたしや坂城さんがいくら努力したって、変わるのは何十年も先ですよ」
「でも――」
「でも、何も努力しなかったら、何百年経っても変わらないでしょうね」
 そう言う詩羽の表情は自信に満ちあふれていた。
「その楽観主義ってどこから来るの? というか、そもそもあなたを動かしているものって何? 愛? 正義? 良心?」
「うーん、どれも違いますね。強いて言えば論理ですね」

 ぼくから見るとまさに山本弘の「思想」がきわめて如実に表れた箇所なのだけれど、つまり、ここには「愛」や「正義」や「良心」のような不たしかなものではなく、「論理」に従えば必然的にこの社会をより良くしていけるはずだという「思想」が表現されているわけです。

 この「論理」と「倫理」を一致させる考え方は山本さんの作品にほんとうにひんぱんに出てきます。「論理的であるのなら、必然的に倫理的にもなる」、逆にいえば「人間がしばしば倫理的に振る舞わないのは、論理的でないからだ」というリクツ。

 瞬時に「そうか?」と思ってしまうわけですが、表現は違えど、このような考え方をする人は現代の学者にもいるらしく、小田亮さんは『利他学』のなかで、内藤淳さんの名前を出して、道徳的な行動を取る人は「セイレーンの歌声に抗うために自分を鎖で縛りつけたオデュッセウスのようなものである」と語っています。

 つまり、海の魔女セイレーンの甘美な歌に誘われるような短期的欲望に応じて行動することは結局は長期的利益を損なうことになる。だから、人間はオデュッセウスが自分を鎖で縛りつけたように倫理や道徳で心を縛るのだ、ということだと思います。

 なるほど。それなりに納得のいく話ではある。ですが、どうでしょう、人間の道徳心はしんじつ「オデュッセウスの鎖」のようなものだといえるでしょうか。

 思うに、この喩えは人間の倫理のあり方を「ある程度までは」説明できることでしょう。じっさい、たとえば岡田斗司夫さんが『いいひと戦略』で書いているように、「いいひと」として振る舞うことは実利に叶う一面がある(そう書いている本人がまったく「いいひと」に見えないことが面白いですが、その話はここでは措きましょう)。

 けれど、ただそれだけで、たとえば、「性善説」で有名な孟子が人間の善性の例に挙げる「井戸に落ちそうになっている子供を見かけたら、だれだって即座に助ける」という行動を説明し切れるでしょうか。

 いいえ、ここでは仮にいままさに井戸の底へ落ちて行こうとしている幼子を助けることが「論理的に(つまり、実利的に)」正しいとしましょう。たとえば、その子を助けることで周囲からの評判が上がり、その辺りで生活しやすくなる、だから助けるのだとか、そういう判断が成り立つとしましょう。

 しかし、たとえば荒れ狂う海原に落ちてしまった子供を助けることはどうでしょうか? そのような子を救いだすことは、あきらかに命の危険を冒すことになるはず。その結果として、後からどれほど褒め称えられるとしても、自分自身が死んでしまってはわりに合わないこともまた明白です。

 つまり、単純に実利のみを考えるのならこのような行動は非合理というしかないことになる。しかし、ぼくたち人間はじっさいにそのような「自己犠牲的」ともいうべき行動に出ることがありえます。

 それも、自分とは何の利害関係もない見ず知らずの子供を助けるためにすら、そのような行動に出るこさえもある。ぼくがここで思い浮かべるのはマンガ『HUNTER×HUNTER』の主人公ゴンです。

 物語の序盤で、ゴンはある見ず知らずの船員を助けるために船の甲板から飛び出してその体を掴みます。結局、いっしょにいたクラピカとレオリオがその足を握ったためにかれは助かるのですが、そうでなければ死んでいたことでしょう。

 ろくに名前も知らないかもしれない人間を救うために、命を賭ける――まさに少年マンガの主人公ここにあり!といいたいような英雄的行動ですが、しかし実利という点で見ると、どう考えても利益(ベネフィット)と危険(リスク)が見合っていない。非合理的というしかない行動です。

 むしろ非合理的だからこそぼくたち読者は一瞬にしてゴンのことを好きになり、また「かれはすごい!」と感じるわけですが、先述の山本弘作品的な発想でこれを見るとどうなるでしょうか。

 山本弘において、「倫理的であること」と「論理的であること」は等分(イコール、あるいは少なくともニアリーイコール)で結べるものでした。ということは、つまり、あくまで理屈で考えるなら「論理的でないこと」は「倫理的でもない」ことになる。

 したがって、このときのゴンのような「英雄的な」行動は「倫理的とはいえない」ことになってしまうでしょう。ゴンの自分の命すら危険にさらすジャンプは「倫理的に良くないこと」なのです。

 いや、そうではないかもしれません。山本さんが想定していたのはあくまで「論理的→倫理的」という因果の関係に過ぎないのであって、「論理的=論理的」ではないのかも。

 少し都合が良いようにも感じられますが、そう考えるのなら「論理的であるなら倫理的にもなるが、逆は必ずしもそうではない」といえなくもない。

 ただ、純粋に「倫理的」に考えて見ても、ゴンの行動を「そうするべきではない」と説明できることはいくつでも考えられます。

 たとえば、この後、かれはハンター試験を受けてハンターライセンスを取得するのだから、そのライセンスを売って得た多額の金銭を寄付したほうがひとりの人間を助けるために命を投げ打つよりよりたくさんの人間を救えるとか。

 たとえばピーター・シンガーがいうような「効果的な利他主義」の文脈で考えるなら、ここはあえてひとりの命は見捨てたほうが良い、ともいえるかもしれません。つまり、論理的にも倫理的にもゴンは飛ぶべきではないという説明はいくらでも成り立つ。

 ですが。

 そのようないかにももっともらしい理屈をはるかに超えてゴンは飛んだのだし、そのゴンの行動にぼくたちは感動する。これが、人間の「倫理」の根幹にある「道徳感情」なのではないでしょうか。

 その感情のことを孟子は「仁」と呼び、その発露(あるいは拡充)を「義」と定めたのだとか。仁義。中国哲学における最大の倫理です。

 カントはその「義務論」の哲学のなかで、「感情にもとづいて行動すること」を否定しているといいます。

 ほんとうにそうなのかどうかはまだカントの著作を読んでいないし、読んでもおそらく理解し切れないので知りませんが、ある意味では倫理を純粋に学問的な「論理」で完結させようとしているわけです(この場合の「論理」は山本弘的な意味とは異なっていることに注意)。

 しかし、もしそうだとするなら、ジュリアンが書いているように、その潔癖なまでに整えられたロジックは、「そもそもなぜそうしなければならないのか?」を説明できない、そういう面はあるのではないかと。

 少なくとも、人を助けるため、嵐の海へ飛び込むような勇気はどのような「論理」で考えても「愚行」であるはず。

 けれど、その「愚行」にこそ、人間の素晴らしさがあるのではないか。山本弘的な「論理」と「倫理」を結ぶ発想はここで「人間的なるもの」を捉え損ねているのではないか。ぼくはそう思うのです。

 近内悠太さんは『利他・ケア・傷の倫理学』のなかで、有名な『楢山節考』のクライマックスを引用しつつ書いています。

 彼は道徳ではなく倫理に思いがけず従ってしまった。だからひとはそれを愚行と見る。
 利他は愚行でなければならない。そうでなければ、道徳になってしまう。利他が消えてしまう。

 この場合の「道徳」とは何らかの外的な強制力をともなうモラルのことで、「倫理」とはそういった規範を超えて自分自身で判断し行動する精神を指します。

 つまり、ここでかれは「利他(的な行動)」とは、常識をも規則をも利益をも論理をも度外視して自分の良心にのみ従う行為だと語っているわけです。ゴンの嵐の海への跳躍も、この意味で「倫理的」な行為であり、だからこそ、とても「人間的」でもあるともいえるでしょう。

 山本弘的な倫理観、人間観はこのような意味での「人間らしさ」を捉え損ねている。ぼくはそう批判します。読んでいただければわかるかと思いますが、『山本弘論』の最大の焦点は実にここにあります。

 それでは、なぜ、山本さんはそのような考え方に至ったのか。そして、その結果としてどのような境地にたどり着いたのか、そのことはまあ、ここには書き切れないので、冬コミで本を買って読んでいただければわかるかと思います。

 122ページ、1500円です。12月30日、「ウ」ブロックの36bで売っています(宣伝)。

 先にも書いたように面白く書けたつもりなので(少なくともこの記事が面白かった人にとっては面白いはず)、どうか冬コミに来られる予定のある方はご購入をよろしくお願いします。通販もしますが、具体的にいつになるかはわかりません。

 コミケまでにまた何か思いついたら書くので、それも読んでいただけると嬉しいです。でわでわ。

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